2025年2月 ミサ説教
2/2(日)10:00- 主の奉献の祝日 サトルニノ・オチョア 神父
2/16(日)10:00- 年間第6主日 ハビエル・ガラルダ 神父
年間第6主日
ハビエル・ガラルダ 神父
2/16(日)10:00- 年間第6主日
今の福音ですが、「貧しい人々、今飢えている人々、泣いている人々は幸いである」。なぜでしょうか。かわいそうでしょう?どうして幸いですか。2つの簡単な返事があります。1つは「天には大きな報いがある」からです。それも22節に書いてありますね。今苦しんでいる人は後で天では挽回する。それは納得がいきます。もう1つの理由があります。キリストに従うために、自由に貧しくなる人は幸いである。たとえばアジジのフランシスコなどですね。それも分かります。その目的のために自由にそれをする。分かります。ただわかりにくいのは、仕方なく貧しい、飢えている、泣いている人がこの世でも幸いであるということです。それはわかりにくい。
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イエス・キリストは貧しさと貧困を祝福しないんですね。だって、自分で朝から晩まで人をいやしていたんじゃないんですか。病気が幸せだったら放っておけばよかったのにいやすんですね。そして施しなさいと言うんですよ。あの青年が来て「永遠の命を得るために何をすればいいのか」と尋ねると、「すべてを売って貧しい人に施しなさい」と言われる。そしてザアカイ。あの徴税人が「私の財産の半分を貧しい人に施します」と言うと、イエス様は喜んだ。「今日、救いがこの家を訪れた」というんです。ですから、貧困と悩み、病気を祝福しないんです。自分でいやすんです。ただ、イエス・キリストの価値観ははっきりしています。不幸は何ですか。不幸は罪によって愛である神から離れること。これは不幸です。幸せは何ですか。みんなで愛し合って、愛である神に近寄る、一緒にいることです。
今日の第一朗読の預言者イザヤの言葉で言えば8節。「水のほとりに植えられた木、川の水のほとりに植えられた木、水路のほとりに根を張る木は、暑い時も葉は青々として実を結ぶ」。これは幸せ。この川に近くなって、その水路のほとりに根を張るということは幸せ。その川は愛の川で、源、泉は神ですね。愛である神がその川の源。その意味で、あなたはその川に近くいると幸せ。それと貧しい人は関係ないんじゃないですか?あります。どういうふうに関係があるかというと、貧しさは人間をその川に近寄らせることができます。人間がその川に近寄ることができるんです。なぜかというと、貧しさと悩みと苦しみは、連帯感と感謝の精神を深めるからです。
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連帯感というと、マザー・テレサのパンの話をいつかしたことがありますが、彼女はカルカッタの最も貧しい家族のところに大きなパンを持って訪れます。お母さんは、8人の子どもがいるのに3日間ほとんど食べていない、あれをいただいてありがとうございますと言って、途中で表情を変えてパンを半分にしてどこかに行くと、パンなしに戻ってきます。「あの、すみません。隣の家族は、私たちよりも困っているから半分をあげちゃった。すみません」と言ったんですね。つまりこの人は苦しみを知っていたので、苦しみを体験していたので苦しんでいる人の気持ちがわかる。それで自分のパンの半分をあげる。これですね。貧しさは連帯感を深める。連帯感は人間を愛に近寄らせる。その愛の川に近寄らせるのです。
もう1つ、感謝の精神。感謝の精神を深めることができます。これは前から思っていたけれども、確認されたのはこの前の水曜日で、死刑の執行を待っている人から教えてもらった言葉です。彼はすごく厳しい状態で、彼より貧しい人は極めて少ない。何もない。話すこともできない。テレビもない。ずっとそこにいて、いつか死刑になる。私は彼と仲がいいから彼に聞きました。「私は日曜日これについて話さなければならないので、ちょっとアイディアを分けて」と。彼が言った。「この苦しみと貧しさは楽しくないんですけど、でも感謝の精神を深めるんです」。えっ?逆じゃないかと思ったんですけど、「何もないので、何かが、ちょっとしたことでいただくと非常に嬉しくなるんです。例えば神父様が毎月来ますね。それですごく嬉しい。大したことないでしょうとみんなが言う。でも私にとってはすごく大切です。そして歩けるでしょう。本を読めるでしょう。だから感謝しながら生きることにしたんです」。この決断は難しい。「私、最初はひどいと思っていた。でも考えて、やっぱり感謝して生きることにしよう」。これに気づくのは難しい。心の目を覚まさないとわからないんですけど、でも本当です。貧しさは感謝の精神を清めるのです。
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では最後に、私たちはどうしましょうか。悩んでいる人が近くにいる時には、人のために、人が助かるために、人に仕える姿勢で生きること。自分のことばかり考えないで、おせっかいにしないで、人が助かるために、人に仕える姿勢で生きることです。そして直すこと、いやすことができない時には一緒に悩むこと、一緒にいること。そしてその人のために深く祈ること。姿勢、一緒に悩む、そして祈る。そして最後に、私たち自身が貧しい時。健康の面でも、仕事の面でも、能力の面でも、友情の面でも、いろんなことで弱い立場に置かれて非常に悩む時もありますね。その時には、連帯感と感謝の精神を深めましょう。自分の悩みを見て、もっと悩んでる人がいっぱいいるんじゃないですか。その人のために祈りましょう。そして感謝の精神。いただいているものに気づいて、いかにいただいているか、いかに赦されているか。そのことに対して素直に感謝の気持ちを起こして、水路のほとりに根を張って実を結ぶことができることを願い求めましょう。
年間第5主日
李 聖一 神父
2/9(日)10:00- 年間第5主日
今日皆さんに、今朗読されたイザヤの預言と、そしてルカの福音書から2つのお話をしたいと思います。
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1つはイザヤの預言のことですけれども、有名なイザヤ自身が神様に呼ばれて、そして自ら「わたしがここにおります。わたしをお遣わしください」という、いわゆるイザヤの召命を描いた場面ですね。極めて個人的な話になりますが、40年前に私はこの古いイグナチオ教会で叙階の秘跡を受けて司祭として歩み始めましたけれども、叙階式の時に必ず記念のカードを作るんですね。そして何か御絵を選んで、その裏に聖書の言葉を1つ選んで記していく。いろいろと聖書の言葉を探しながら、自分自身がこれからどのように司祭としての歩みを続けていくか、それをいろいろ考えた時に、私はこのイザヤの召命の言葉を選んだんです。三位一体を示すイコンの絵。それを使ってその裏に「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」という言葉を記しました。時々、久しぶりに出会った人、あるいは見知らぬ人が「神父様のその時のカードを持っています」という人がいて、もう、えー?!とか、私、1枚も持ってないんですけど、どこ行ったかわからないんですが、持っている人がいるもんだと思ってですね、感心しましたけれども。自分の手元に1枚もなくても、そこに記した言葉っていうのを、私はこの40年間ずっと大事にしてきたつもりです。
イエズス会という修道会に入り、そして誰を遣わすべきかと管区長が悩んだ時に「わたしがここにおります」ということを言うようにしてきました。決してわがままに、私はこんなことしませんと言ったことは一度もありません。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」、こういった根本姿勢というものを持って、自分が自分なりに40年過ごしてきたなという思いもしておりますけれども、その意味でイザヤのこの箇所は私にとっては大きな支え、そして私自身の修道生活、司祭生活というものの大きな大きな方向づけになってきた言葉だというふうに言ってもいいかと思います。おそらく皆さんも、そうした聖書の言葉、自分に最もふさわしく自分が信仰生活をし、自分がその生涯を生きていく上で方向づけてくれる言葉というものを1つお持ちになるといいんじゃないかなと思っています。
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2つ目はこのペトロと、ペトロの体験と言ってもいい、ペトロが召し出されたその場面ですけれども、これも非常に私たちに大きな示唆を与えてくれる物語だと思います。もうすでに古典的な作品となっていて、そして宗教学を学ぶ上で必ず読むというか、あるいはまた宗教学の授業で必ず引用される学者にルドルフ・オットーという方がいますが、彼は宗教体験と言われるものの本質を2つの言葉で表しました。「魅了され、そして畏怖すべきものとの出会い」という言い方をしています。心が全くそのものに惹かれていく。そして恐れおののくというこの2つの言葉。これが宗教体験の根本であるというふうに説明されていて、今では古典的な作品ですので、宗教学で学び、研究する上で必ず触れる言葉です。
そして確かに私たち自身振り返ってみても、宗教体験と言われるもの、あるいはまた回心の体験と言われるものは、その始まりは何かに出会って魅了され、そして恐るべきものに出会ったという体験、それが根本にあるのだろうと思います。とんでもない自然に出会った時、あるいは大聖堂の中でしんとした静寂の中で何かを感じる時、ある出来事にあって、これは一体何なんだろうと思う時、それは様々にあると思いますけれども、必ず心が惹かれ、そして恐るべきもの、それに出会うという、そういう体験というふうにまとめていいのだろうと思います。イザヤのあの召命の場面もそうでした。魅了され、そして恐るべきものに出会うということ。これはイザヤの召命の場面にも出てくるし、ペトロがあの大漁を経験した時に感じたことでした。驚いた、畏怖すべきものを見たということと、そしてそこに心が惹かれていったということ。この2点共通していると思います。
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そして、キリスト教体験というふうに言ってもいいものはそれに1つ加わります。それは自分がいかに小さなものであるかということを知る。これがペトロの「わたしは罪人です。わたしから離れてください」という言葉に表されています。自分の小ささ、自分は本当に取るに足りないものであるということ、これが罪人という言葉によって表現されていることだと理解していいと思います。私たちがキリスト教というものに出会う、そして何かあるものに魅了され、恐るべきものに出会ったということ、そして自分の小ささを知るということ。これがキリスト教の宗教体験、信仰体験の一番根本にあるものだということ。これをおそらく知っておくっていうのは大事なこと。そして皆さん自身の信仰の始まり、そして信仰の深まりっていうものを経験した時にそのことを振り返れば、おそらく共通した点として見出されるだろうと私は思います。
魅了され、恐るべきものに出会い、自分の小ささを知るがゆえに新たな道を歩んでいく。それが「すべてを捨ててイエスに従った」という最後の言葉に結びつくのだろうと思います。皆さんもそうした自分自身の信仰体験を振り返り、そしてこれからの信仰生活においても、こうした点を大事にしていきながら信仰生活を送っていくことができますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。
主の奉献の祝日
サトルニノ・オチョア 神父
皆さん、2月になって最も寒い時期に入っていますので、本当に体を大切にして風邪をひかないように頑張っていきましょう。
今日の福音のこと。非常に説明しにくい3つの部分で少し説明したいと思います。今日の典礼は非常におかしいことがありますので、少し説明します。それからその後で、今日の福音の内容として一番狙っているのは何ですかということと、それから最後に、今の私たちの教会、この物語に出てくる人物を見て、私たちのためにどんな教えがあるか、できるかどうか知らないけれどもやってみます。
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まず第1、典礼としてはおかしいことがあります。ちょうど1月12日、主の洗礼ということがあったんです。その時、主は30歳ぐらいだった。でも今日2月2日になると、なんと主はまだ幼子の時、ご奉献に戻りますね。どうしてだったんですか。昔は今と違って、子どもたちは本当に生き残るかどうか、半分以上5歳にならなかったんです。子どもたちは大きな恵みだったので、特に男性の子どもたちは、イスラエルでは昔からいろんな物語があります。女の人は子どもに恵まれない。それで祈って、恵まれるんだったらこの子どもをあなたに捧げます、というサムエルの物語があります。それで、そのことは今でも、イスラエルではいつも残っていたんです。
ちなみに日本では、子どもが生まれると1か月経ってお宮参りするじゃないですか。似ていることです。この子どもは神様のお恵みですので、神様に捧げますということ。そのことだったんです。イスラエルでは男性に限ることでした。イエス様が生まれて、それからこのご奉献の時はどうして2月2日でしょうか。律法に従って生まれた子どもは、40日経って神様にご奉献するということだったんです。数えてごらんなさい。12月25日から数えたら、ちょうど今日は40日になります。これはもちろん、全部当て字です。けれども、きれいな物語。このような物語を作って、私たちに素晴らしい教えがあります。それで私たちは、子どもに恵まれる時には、この子どもはまず第一に神様の恵みですので、神様にお返ししますということで一生懸命子どもを育てる。子育ては聖なるものとなります。
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第2、ではこの物語を読み直すと、一番繰り返されているものは何だと思いますか。この文章です。「モーセの律法に従って」「神様の定めた律法に従って」、5回出てきます。素晴らしい意味です。イエス・キリストは歴史に生まれる。イエス・キリストは天使ではない。イエス・キリストは幽霊ではない。人間です。神様の子でありながら、受肉された。聖母マリアの子で、人間100%、神100%の人間です。組み合わせではない。だから人間として、特権もない。律法に従って動く、育つ、成長する。素晴らしいことです。
聖パウロは非常に強い言葉で、「イエス・キリストは誰ですか。女から生まれ、律法の下に特権無し、例外もなし、私たちと全く同じ、このような人生の喜びと人生の苦労も感じた。だから私たちの兄弟であり、私たちのことを本当によく理解しながら、体験しながら、私たちの救いとなられた」と。神の子として、私たちも彼によって神の子になります。私たちは祈る時に「父よ」と言うんです。神様に対してですね。奴隷としてではなくて、僕としてではなくて、子として祈る。それで、子として赦されるということですね。
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それから第3のことです。私たちにとっては、昔はそうではなかったんですが、今、私は年をとったんですから、この箇所を読むと非常に慰められます。この箇所の中心はイエス・キリストですけど、イエス・キリストは神様の御言葉でありながらも、1つの言葉さえも言わない。マリア様のことも何も言わない。ヨセフ様のことも。言う人は誰ですか。シメオンとアンナ、おじいちゃん、おばあちゃんです。その人たちはもう全部、その人生はもう終わりです。その人生の終わりに恵まれた。「私の目で本当に救いを見た。この子どもを見て、そうしたら、もう十分です。もう去らせてください」。本当に全部尽くしたということで、今、神様に感謝しながら自分の命を捧げます。
女預言者、素晴らしいアンナもですね、アンナはなんと84歳です。84歳は7の12倍。ご存じのように、12と7は完全、完璧な数です。この教会でも12本柱があります。年には12か月があります。それから1週間には7日あります。それで本当にこの女の人は、もう全部まとめて彼女の人生だった。完璧ですね。12の7倍だった。音楽的に見れば、鍵盤を見てください。ドレミファソラシで7、それから黒の鍵盤を入れて、全部で12になります。完璧です。それで、アンナは自分の命は全部完璧。全部を合わせて、主イエス・キリストのことをみんなに伝えるということです。素晴らしい。
どうしてこれは今、私たちにとって、特に日本で意味がありますか。ご存じのように、人口は、日本の社会はこれ以下になっています。それはすぐ止めることはないです。止まることもない。だから私たちはどういうふうに、穏やかに年をとって神様に全てを捧げることができるのかということは、今日の福音の素晴らしい教えだと思います。