2025年3月 ミサ説教
四旬節第3主日
萱場 基 神父
3/23(日)10:00- 四旬節第3主日

今、私が朗読したルカによる福音。ある人々が、ガリラヤ人とかシロアムの塔が倒れて死んだあの人たちはよっぽど悪いことをしたんでしょうね、その報いがあのような形で彼らに下ったんだ、と言う。それに対してイエス様は、いえいえ、人ごとのように思ってはなりません。あなたたちも悔い改めなければ自らが死へと自らを貶めていきます、とおっしゃいます。御父はいちじくの木を探しに来たあの御主人様のような厳しい方ではなくて、園丁のように徹底的にお世話をします。そういう方なんでしょう。私たちがお世話をしてくださる御父の愛に、まあいいや、どうせ許してくれるだろう、なんてことで軽く考えていると、自らが自らを滅ぼすに至る。これね、人ごとではないんです。一人ひとりが人ごとでないのと同じように、私たちの教会もまた人ごとではない。この後、私は、教会もまた清められていかなければならない、神様の招きと慈しみに応えて、自らを清めていかなければならないという話をしてまいります。
ミサの始めに、この間の金曜日は性虐待、セクシャルアビューズと言われたりしますけれども、性虐待を受けて今も苦しんでいる方々のために皆さんの祈りをお願いしますと申し上げました。フランシスコ教皇様が呼びかけたのに対して全教会が応えようとして、日本の教会では四旬節第二金曜日を、性的虐待を受けた方々のために祈り、償いをする日と定めています。日本カトリック司教協議会の会長でもある菊地枢機卿様は、今年2025年の「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって、「日本のカトリック信者の皆様へ」というお手紙を出されています。その要点を皆さんと分かち合いながら、私たちもまた、教会も清められていかなければならない。イエス様はそのように私たちに望んでいるということに気づいていきたいと思います。

枢機卿様は、フランシスコ教皇様がなぜこのような祈りと償いの日を設けたのかという、その理由からまずお手紙を始めています。こう書いてあります。「教皇フランシスコは、性加害の問題に教会全体が真摯に取り組み、その罪を認め、ゆるしを請い、また被害にあった方々の尊厳の回復のために尽くすよう求め、『性虐待被害者のための祈りと償いの日』を設けられました。(中略)どうぞ、四旬節第二金曜日に、またその近くの主日に、教皇様の意向に合わせ、司教団とともに、祈りをささげてくださいますようにお願いいたします。」こういう前置きから始まります。
枢機卿様は、今年2025年が聖年にあたるということも次に触れられます。このようにお書きになっています。「2025年はカトリック教会にとって、25年に一度の聖年にあたります。教皇フランシスコは大勅書『希望は欺かない』において、この一年を、『ついえることのない希望、神への希望を際立たせる聖なる年』とするように呼びかけ、全体のテーマを『希望の巡礼者』とされました。」
枢機卿様のお手紙はその後、教会もまた自らの罪深さを悔い改める時、それが今の時だということを触れておられます。
「希望をあかしすべき教会にあって、率先して模範を示すべきなのは聖職者や共同体の指導者です。世界において、また日本にあっても、神からの賜物であるいのちに対する暴力を働き、なかでも性虐待という神の似姿としての人間の尊厳をないがしろにする行為を、聖職者や共同体の指導者が働いたという事例が、近年相次いで報告されています。組織内における優位な立場を利用して、人間の尊厳を辱め蹂躙する性虐待や性的暴行を働き、多くの方を深く傷つけた聖職者や指導者が存在します。
信頼していた聖職者から暴力を受け、心に深く消えることのない傷を負われた方々に対して、あたかも被害を受けられた方に責任があるかのような言動で加害者を擁護するなど、二次加害によってさらに被害を受けられた方々を傷つけた事例も、教会内にあります。これらの言動が、人間の尊厳をさらに深く傷つけています。責任は優位な立場を利用した加害者にあるのは当然です。」

その後、枢機卿様は、昨年10月に閉幕したシノドスでこの問題がどのように扱われ、そして文書化されていったかということを紹介してくださっています。そして最後に、枢機卿様はこのように述べて手紙を終えられています。「あらためて、無関心や隠蔽、二次加害も含め、教会の罪を心から謝罪いたします。聖年にあって、わたしたちの希望そのものである神の手によって、被害を受けられた方々の心が包まれますように、祈ります。また聖職者のためにも、その召命を忠実に生きることができるように、どうかお祈りくださいますようお願いいたします。」これが枢機卿様のお手紙の要点です。
では終わりに、この性虐待被害者のための祈りというのが作られておりますので、一緒に祈りたいと思います。皆さんどうぞお立ちください。
「天の父よ、あなたは、すべての子どもたち、とりわけ最も小さく、
弱い立場におかれた子どもたちを愛し、心にかけておられます。
性的虐待によって、信頼と純真な心を傷つけられた多くの子どもたち、
そして弱い立場に置かれた成人の方々を、
あなたの豊かな慈しみによっておまもりください。
私たちが、傷つけられた多くの方の苦痛の叫びに耳を傾け、
責任ある行動をとっていくことができるよう支えてください。
被害を受けた方が、身近な人々や家族からの理解と支えを見出し、
また、あなたの恵みと慈しみによって癒され、
平安のうちに歩むことができますように。
わたしたちの主、イエス・キリストによって。アーメン。」
父と子と、聖霊のみ名によって、アーメン。
【参考】2025年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって 日本カトリック司教協議会会長呼びかけ
四旬節第2主日(子どもとともにささげるミサ)
山内 豊 神父
早速ですが、皆さんに質問したいと思います。皆さん暗いところは好きですか?え?好き?ちょっと思っていたことと違う(笑)嫌いな人は?暗いところ嫌いな人もいるよね。好きな人もいるかもしれないけど。そう、じゃあね、暗いところが嫌いな人って手を挙げた人に質問です。暗いところにいるとどんな気持ちになりますか?気持ち悪くなる。他にいますかね?はい、そうね、不安。なんか言ってほしいことを言ってくれた気がする(笑)他にありますか?死ぬって思ってしまうかもしれない。確かにね、真っ暗だと本当に何も見えないから死ぬって思うかもしれない。まあ、私が答えとして想定していたのは、怖いとか不安だとか、寂しいっていう気持ちになると思います。

今回の福音読んだでしょ?その福音の箇所はイエス様が光になって暗闇を照らしてくれるっていうお話です。イエス様っていつもはね、普通の人間に見えるわけです。私みたいに、まあ、(祭服で)普通の格好してないですけど、普通の格好をして、見た目は人間なんですね。でも、この時はパッと明るくなって、顔まで明るくなって。すごいよね、顔、明るくなったんだって。ピカピカになって、すごい神様の息子として。イエス様って神様の息子?違う?違うの?イエス様はイエス様ね。神さまの息子と言われています。その姿をパッと現した。この紫色の服が真っ白になって、顔まで輝いてピカピカになったんだって。すごくない?すごいよね。弟子たちはみんなびっくりして、ああ、すごい、神様みたいになったと思って。まあ、神様なんですけど、神様みたいになりました。これは弟子たちが暗いところでも安心して過ごせるように、もし暗いところにいてもイエス様がいるんだって思って、安心していられるようにその姿になりました。
私ね、昔、暗いところに行ったことあるんですよ。私、小さい頃ね、ボーイスカウトやってたのね。ボーイスカウトって知ってますか?スカートじゃなくてスカウトです。ボーイスカウト入ってる人、いない?入ってた人。おお、いるね。私はキャンプが好きで入ってたんですね。ボーイスカウトっていうのはなんかいろんなことをやるんだよ。私の記憶に残っているのは、キャンプしか残ってないんだけど、キャンプをやったりするんですね。自分たちでテントをたてたり、火をおこしてご飯作ったりとか、いろんなサバイバルなことを学べます。それで、ナイトウォークやってたの。ナイトウォークっていうのは、森の中を夜中に歩くのね。その時は月も出てないから本当に真っ暗。懐中電灯を消すと真っ暗で周りが本当に見えない。自分の手も見えないくらい真っ暗になる。そうするとすごい不安になってくるんですね。周りの人がギャーギャー言ってるわけですよ。あー、怖い!とか言って。そうすると私まで不安になってきて、えっ?!って言って。どこにいるのか見えない。ちょっと怖かったのね。逃げ出したい気持ちになった。私たちは暗いところにいると、そういう気持ちになります。心が暗い時も同じですね。心が暗い時、私たちは怖くなって、寂しくなって、不安だなって思うわけ。でもイエス様が私たちの心の中にいれば、パッと明るくなって、イエス様は私たちと共にいる。だから不安じゃないんだって思うことができるわけです。

あともう1つ、今日の福音箇所で父なる神、イエス様のお父さんは何て言ってたか、覚えてますか?そうですよね、知らないですよね(笑)こう言いました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と、父なる神はおっしゃいました。「これに聞け」、これって誰ですか?そうね、イエス様のことです。だから、私たちはイエス様の言うことをちゃんと聞かなきゃいけないんですよ。皆さんはいろんな人の言うことを聞いていると思います。誰の言うことを聞く?お母さんとお父さんとお姉ちゃんのいうことを聞く。あと、学校では?そうね、先生のいうことを聞きますね。教会学校では誰のいうことを聞く?そう、リーダーのいうことを聞く。いろんな人のいうことを聞くわけですね。
あとね、いろんな心の声を聞くこともあります。いたずらするの好きな子いますか?ああ、大きな子どもがいたずらするの好きみたいなんですけど。ちょっと心の中でいたずらしちゃおうかなとか、ちょっと人の傷つくことを言っちゃおうかなっていう声も聞こえます。でも神様は、イエス様の言うことを聞けって言ってます。そう。お父さんとかリーダーの言うことも聞かなきゃいけないんだけど、それより大事なのは、イエス様の言うことを聞くことです。分かりました?先生は間違ったことを言うかもしれない。リーダーも時々間違ったことを言うかもしれないけど、イエス様は間違ったことは言いません。お父さんお母さんももしかしたら間違ったことを言うかもしれない。でもイエス様は間違いない。だからイエス様の言うことを聞きましょう。そして暗い気持ちになった時にはイエス様を思い出して、そうすると、私たちの心は少しずつ少しずつ光に満たされるようになります。

ちょっと話を変わるんですけど、今年3月で教会学校を卒業する人、誰ですか?リーダー以外でね。立ってもらっていいですか。卒業する方。じゃあ、この3人にまずおめでとうって拍手しましょう。おめでとうございます。あと、リーダーで卒業するっていう方、ちょっと立ってください。リーダーで卒業する人、結構多いね。5人。本当に長い間、この教会の宝である子どもたちの面倒を見てくれて、多分すごい楽しい時間を過ごせたと思います。本当にありがとうございます。苦労も多かっただろうし、ありがとうございます。みんな拍手してください。
そういうことで、実は教会学校もステップアップして、新しい教会学校にこれからなるということです。土曜学校と日曜学校があったんですけど、統合して1つの教会学校になるって話を聞きました。詳しい話は私、分かんないんですけど、皆さんどうぞこれからも温かい視点で教会学校を見守っていただけるとありがたいと思います。よろしくお願いします。
四旬節第1主日(洗礼志願式)
髙祖 敏明 神父
3/9(日)10:00- 四旬節第1主日(洗礼志願式)
本日洗礼志願式を迎えられた皆様、おめでとうございます。
今一緒に聞きましたけれども、この聖書の中で信仰告白ということが大きなテーマになっています。洗礼志願式の中でも、使徒の時代から伝えられてきています使徒信条を皆様お一人お一人にお渡しいたしまして、ここに集まっている皆で信仰を宣言いたします。申命記の中では、「あなたの神、主の前で次のように告白しなさい」とモーセが言って、そして奴隷状態だったエジプトから脱出したその救いの体験を述べて、神への信仰を告白するという、そういうことが今日聖書で読まれました。ローマ書の中では、先ほどお聞きになった通り「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」、ここでも私たちの信仰告白の要になるところが伝えられています。そういう目で今日のこの福音、今私が読み上げたところを読み返してみても、第一朗読や第二朗読に似たような信仰告白が見当たらないようにも思います。しかし、悪魔からの3つの誘惑に対してイエス様がどのようにお答えになったか、その答えの中に主への信仰告白がばっちりと込められております。

では、どのようにその信仰告白ということを読み取ったらいいんでしょうか。今日のこの3つの誘惑は、私たちの日常の生活体験とも重なることが多いですので、少し追求してみましょう。皆様のお手元の「聖書と典礼」の下の方の注釈にも書いてございますけれども、荒れ野でのイエスの40日間の出来事は、今私たちが迎えている四旬節の原型である。このイエスの40日間の出来事は、エジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民の、シナイ半島から始まった荒れ野での40年にわたる旅。40年を40日ということで集約していますけれども、その中でイスラエルの民に告げられ、養われていった信仰告白を背景にしています。具体的に3つの誘惑を見ていきましょう。
最初の誘惑。ちょっと平たい言葉に言い直して申し上げますけれども、「神の子なら、自分の力を使って目の前の石をパンにして、腹いっぱい食べたらどうだ?」という、そういうふうな誘惑と言えるかと思います。イエス様はそれに対して、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」というふうにお答えになるんですが、その背景の出来事を出エジプト記のとこから見てみますと、主に背景になっているのは40年の旅をしていく中で、荒れ野ですから食べるものが十分あるわけではない。腹が減ってくる。そしてそれが短い期間ではなくて何日も続くとすると、民の方から不満が出る。「我々はエジプトの国で、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたち(モーセとアロン)は我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と指導者モーセとアロンを非難します。
すると主がモーセに言われる。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」。いわゆるマナと言われるパンですね。「民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示通りにするかどうかを試す」ということをおっしゃる。日々与えられるマナを、人間というのはどうしても欲がありますから、備えを取っておこうということで2日分、3日分集める人がいた。神が言われた必要な分以外を取ったもの、それは虫がついて腐っていく。それを申命記の方では少し解説を加えて、「あなたの神、主が導かれた40年の荒れ野の旅…あなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうか知ろうとされた。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」というふうに言っています。
ですから私たちは毎日食事をとる、パンを食べて生きていくんですけれども、それのみではなく、主なる神の言葉、主の神からいただく言葉によって私たちの人生を生きていく。そのことを今日のこの「人はパンだけで生きるものではない」というふうに教えています。私たちも日々の主の祈りを唱える時に、「日ごとの糧を今日も私たちに与えてください」と祈りますけれども、この糧は毎日のパン、お米のレベルだけではなくて、主からいただく糧という意味も込められています。

2つ目の誘惑。これも少しくだけた言い方をしますけれども、「私を拝むなら国々の一切の権力と繁栄を与えるが、どうだ、私の手下にならないか?」という、こんなふうな誘惑に見えるかと思います。イエス様は「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とお答えになる。この背景になっているイスラエルの民の出来事のところを見てみますと、エジプトを脱出した後、モーセはシナイ山に登って主から十戒と言われている掟をいただきます。そして、それを石の板に刻みつけられて山を下ってくるんですけども、その下りてきているところを見ると、モーセがいなかった間、心配になって民は金の子牛の像を作って、これが神様だという形で拝んでいる。そういうふうな状況、それを申命記ではこんなふうに説明しています。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を恐れ、主のみに仕え…他の神々の後に従ってはならない」。
私たち人間は、神様というのは目に見えない、手に触れない、言葉も聞けないというような状況にありますので、すぐ何かいいことがあったり、悪いことがあったりすると、自分の作ったイメージでの神に祈ろうとします。偶像崇拝、神でないものを神としないようにということですが、今日のこの誘惑で見ると、名誉だとか、権力だとか、繁栄だとか、それを神様のように思ってそちらを追求しているという、現代社会でもいろいろと見ることができるようなものがあります。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。

3つ目の誘惑。「神の子なら、エルサレムの神殿の屋根から飛び降りて、奇跡を皆に示して人気を集め、信望を高めたらどうだ?」という、しかもこの誘惑を聖書の言葉を引用しながら言っている。この背景を見てみますと、水がありませんので荒れ野の40年の旅の中で喉が渇いてしまう。その民が不平を述べて「我々に飲み水を与えよ」と神の力を試す。つまり、神を自分に従わせようとする。そういう誘惑ですね。これはマサ、メリバの試みと言われていますけれども、申命記ではこう言われています。「あなたたちがマサにいた時のように、あなたたちの神、主を試してはならない。主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすればあなたは幸いを得る」。主と共にあることの大切さを教えています。私たちが神様を従えるのではなくて、私たちが神様に従って生きていくということ。そのことをここでは私たちに教えていると思います。
今申し上げた3つのことは、時代も場所も遠く離れていますけれども、私たちが日常生活の中でよく体験することでもあります。このイエスの試みは、私たちの体験を読みつつといいますか、重なるものを教えてくださっている。ということは、私たちもイエス様の招きに従って生きるようにという、このメッセージが込められているかと思います。
今日の福音の初めの方に、「イエスは聖霊に満ちて」というふうに書かれています。聖霊に満ちて、この誘惑に対処しておられます。私たちも洗礼を受けることによって罪から清められ、聖霊を注がれてイエスを復活させた神の命に加えられます。今日、洗礼を志願して集まっている方々のために祈るとともに、洗礼を受けて聖霊をいただいている私たちも、さらにこの聖霊を豊かにいただいて、神様の招き、神様のメッセージに従って生きることができる恵みをご一緒にお祈りいたしましょう。私たちが主の祈りの中で、「私たちを誘惑に陥らせず、悪より救ってください」とお祈りしますけれども、それだけ誘惑というのはこの世の中にたくさんあるということでしょう。しかし、聖霊によって、聖霊の導きを受けることによって、聖霊と共にあることによって、その誘惑に打ち勝つことができる。そういうメッセージが今日の福音、聖書の中に込められていると思います。
では、これからご一緒に洗礼志願式の方に移りましょう。
年間第8主日
柴田 潔 神父
今日の福音でイエス様は2つのたとえ話をされましたが、1つ目はイエス様が大工さんということもあり、“おがくず”の例を使って神の国のたとえを話されています。

その1つ目のお話です。「自分の目の中にある丸太」は何なのか考えてみました。それは「当たり前」ということです。今日生きていること、平和であること、健康であること、それらが「当たり前」と思って生きていたら「自分の目の中にある丸太」はどんどん大きくなってしまうように思います。 その逆に、「当たり前」ではなく「奇跡なんだ」と感じている生徒さんの話を紹介します。あるカトリックの学校で周産期医療のドラマ「コウノドリ」を題材に「命の授業」をしました。「コウノドリ」に関心を持ったのは、知り合いの信者さんのお孫さんが18トリソミーという遺伝子の異常で生まれて5日目に天に帰った病院が「コウノドリ」の舞台となった、神奈川子ども医療センターだったからです。女の子は生きて生まれてほしいという願いを込め、結希、「希望を結ぶ」と書いて結希ちゃんと名付けられました。元気に生まれましたが、5日目に天に帰りました。
「命の授業」の感想です。
人が生まれるということはどれだけ奇跡的なのか、どれだけ人の思いが注がれているかを考えさせられた。父や母は、私に対して怒ったり、口うるさく文句を言うことがある。けれども「コウノドリ」を見たら、あれだけ苦労して私を産んでくれたんだから、そりゃ心配もするだろうと考え直した。忙しい日常に埋もれて見えなくなっていた父と母の愛情に気づかされた。生まれて来られなかった命、生きたくてもわずかしか生きられなかった命がある。そんな中で私たちは今日を生きている。どんな人でも、生きていること自体が奇跡なんだと思う。生まれてきたからには、嫌いな人であったとしても、幸せになってほしい、と心から素直な気持ちが湧いてきた。
「生きていることが当たり前」という丸太を取り除く。「生きていることは奇跡」と思えたら、嫌いな人でも人を裁かない。そんな関わりができるように思います。
2つ目のお話は、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出す」のお話です。モニターに映し出されているのは、アメリカ在住で、日本名が竜之介くんです。私が叙階して初めて、挙式の司式をさせていただいたご夫婦の男の子です。2020年4月、コロナの自粛が始まって、ヘアサロンも休業となり、最初はお母様が竜之介くんの髪の毛を切っていました。そのうちに「髪を伸ばして、抗がん剤などの治療で髪を失った人のためにヘアドネーションすることができるんだよ」とお母さんが話したところ、竜之介君は「やってみる!」と言い、髪の毛を伸ばし始めました。8歳の時でした。誕生日ごとの写真が今、映されています。そして、2年半たちました。
学校がお休みの間は良かったのですが、学校が始まると、女の子に間違えられたり、髪を束ねていると「ポニーテールで女の子みたいだ」と言われ、からかわれたり嬉しくないこともありました。公共のトイレに行くと「女の子はあっちだよ」と言われることもあり、その時はフードで頭を隠したりしていました。2年半たってドネーションできる髪の長さになり、日本に戻った時に切ってもらうことにしました。
竜之介君のヘアドネーションの話を受けた、中1の生徒さんのコメントです。
私は女なので、髪の毛の扱いがどれほど面倒なものであるか、きれいに保つのがどれほど難しいかをよく知っています。髪の毛をお風呂上がりにほったらかしにはできないし、不自由もあったでしょうに。それに、竜之介君は冷やかされもした。からかわれた時、「お前に何がわかるんだ」と叫びたくなる時もあったでしょう。それでも竜之介君は、髪を伸ばし続けた。2年半、苦しいことにも耐えた。それを見て「私たちは、人のために何かをする時、人は一番頑張れるのかもしれない」と感じた。

「善い人は良いものを入れた“心の倉”から良いものを出す」。善い人の「心の倉」とは、人のために何かをする気持ちを持っていること、それがあれば人は一番頑張れる。逆に「悪い人の心の倉」とは、人を支配したり、弱い人をいじめたりすること。人と人の関係もそうですが、発展して国と国との間にも起きています。ウクライナの人たちは、自分の国がどうなるか、領土は、生活は、言葉は、文化は、そして命はどうなるのか?国の運命が左右される重大な局面に立たされています。
「命」「平和」が当たり前ではないこと。感謝すること。人を支配するのではなくて、人を助けるために何かをしたい「心の倉」を持てるようにしましょう。
復活祭に洗礼を受ける小学3年生の女の子のお祈りです。
神様、世界にはせんそうや、病気、ひんこんで苦しんでいる方がたくさんいらっしゃいます。その方たちにも平等に、平和な日じょうをおあたえください。私たちにあたえられている幸せにかんしゃしてすごせますように。アーメン。
まもなく始まる四旬節。人の苦しみに共感する心で、また日常に感謝する心で過ごしていきましょう。そして洗礼志願者と共に回心の四旬節を歩んでいきましょう。
2つ目のお話、竜之介くんのヘアドネーションの様子が柴田神父様のホームページに掲載されています。
「年間第8主日」(柴田潔神父のお説教集)