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2025年4月 ミサ説教

2025年3月


復活節第2主日(初聖体)

柴田 潔 神父

4/27(日)10:00- 復活節第2主日(初聖体)


 初聖体。感動する場面がいくつもありますね。女の子と男の子が初聖体の衣装を着て、晴れがましい姿で入堂されました。そして朗読してくださったお2人、素晴らしい朗読でしたね。心がきれいで、声がきれいで、本当に素晴らしいなと思いました。
 ここから私がお説教させていただきます。では、初聖体を受けるお友達に2つの質問をします。無事合格できますように。

2025年4月27日 復活節第2主日(初聖体)

 1つ目。初聖体はお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに言われたから初聖体を受けたいという人いますか?ちょっと手が動きかけた子もいたね。聞きたかったことは、自分から受けたいと思っているのか、あるいはお父さんお母さんが言っているから仕方がないなと思って初聖体を受けるのか。ちょっと考えているお友達もいるかもしれない。少し考える時間をあげましょうか。


 じゃあ、自分から受けるという人。はい、ありがとうございました。じゃあね、質問が難しいんだけど、自分も受けたいし、お父さん、お母さんも応援してくれるから受けるっていう人。はい、ありがとう。残りのお友達の心の中は聞かないことにしておきましょうね、今日はね。みんなが受けたいから初聖体を受けます。


 じゃあ、次。今日は何を拝領しに来たのか。二択、2つのうちの1つで聞いてみます。まず、今日はこの美味しいメロンパンを拝領しに来た、これが欲しかったというお友達はいますか?ちょっと迷う?あ、1人いましたね、会衆席に(笑)このメロンパンか、イエス様の体・ご聖体、どっちを選ぶか。まだ考えてていいよ。1つあるからね、お1人は、今日ご聖体じゃなくてメロンパンがいい、という人はメロンパンでもいいです。でも、そうするとイエス様のように優しい心は育たないかもしれない。食いしん坊になってしまうかもしれないからね。じゃあ、ご聖体を今日拝領しに来たっていう人。はい、ありがとう。みんな手が挙がりましたね。これで合格です。初聖体受けられるね。よかったです。ちょっとリーダーも神父さんも安心しました。


2025年4月27日 復活節第2主日(初聖体)

 続いてのお話は、教皇フランシスコ様がね、天に召されたので、その教皇様がどういうふうにご聖体をお話ししていたか、大人の皆さんとも考えてみたいと思います。教皇様は「イエス様は、良いこともたくさんされたけれど、最後は、私たちの食べ物として、ご自分のいのちを与えました。だから、イエス様の体をいただく私たちは、惜しまない心(もったいないなとか、残念な心じゃなくて、喜びの気持ち)で与えましょう。周りの人たちに自分を与えていきましょう」と言われていました。


 「ちょっとやりたくないなぁ」というお手伝いを頼まれたとき、「どうぞわたしを使ってください」という気持ちで自分を与える。病気の方がいらっしゃったら「大丈夫?一緒に家まで送ろうか」と言って送ってあげる。そんな人にどうかなってください。「与えると減ってしまうから嫌だ」というお友達がいるかもしれません。でも、与えたら不思議と増えていきます。それが愛です。信じてください。惜しまないで与えてください。そうしたら、世界に神様の愛が増えていきます。


 イエス様をいただくと、イエス様に近づいていきます。ご聖体をいただくと、与えられるようになります。自分のいのちを相手の贈り物にしてください。フランシスコ教皇はきっとそう思いながら、みんなの初聖体をお祝いしてくれています。
 そんなフランシスコ教皇様に「自分のいのちを相手の贈り物にしていきます」、そんな明るい気持ちで感謝の気持ちを伝えましょう。大人の私たちも、初聖体の時を思い出して、相手の贈り物になっていく。その気持ちを新たにしていきましょう。


初聖体おめでとうございます


復活の主日

髙祖 敏明 神父

4/20(日)10:00- 復活の主日


 改めて皆様に主のご復活のお喜びを申し上げます。おめでとうございます。そして今日のこのミサの中で、聖体奉仕者に任命されます皆様、おめでとうございます。


 今日のこのご復活のミサの趣旨といいますか願いは、先ほど唱えました集会祈願の中に集約されています。「全能の神よ、あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き、永遠のいのちの門を開いてくださいました。主イエスの復活を記念し、この神秘にあずかるわたしたちを、あなたの霊によって新たにし、永遠のいのちに復活させてください」というこの祈りです。


2025年4月20日 復活の主日 髙祖神父と柴田神父

 今、大阪・関西でEXPO万国博覧会が開催されています。ちょうど1週間前に開かれて、私もイタリア館から招かれて4月15、16日大阪に行っておりました。リングも少し歩いてきたりしました。ご存じのようにこの万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」というものです。この流れにかなう形で、例えばPS細胞を活用して、これまで治療法がない、治らないと言われていた病気や難病の効果的な治療方法を開発し、そのための薬を作っていくという、その方向に歩んでいくとか、空飛ぶクルマの実用化をして、地上を走る車以上に移動が自由になるような、そういう世界、時代が来るように、あるいは二酸化炭素の排出を抑える環境に優しい次世代のエネルギーを導入するという、いろいろな趣向を込めた未来社会を展望するものが並べられ、「いのち輝く未来社会のデザイン」ということをテーマに万博が今行われています。


 それらをちょこちょこ見てはきたんですが、ほとんどは予約がなければ入れないということでしたので入れなかったんですけれども、こういうこの今挙げましたことも大事なんですけれども、私たちのこの信仰からしますと「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という、この言葉にかなり重きを置いています。そうしますと、主イエスの死と復活の神秘に与る永遠のいのち、今日私たちが記念しているこのいのちこそが「輝くいのち」ではないだろうか。そして、そのいのちに満たされ、霊に満たされて生きるそういう社会こそ、「未来社会」を描き出すデザインではないんだろうか、というふうに正直なところ思います。


 私が訪ねたイタリア館ではシンポジウムがあって、そのシンポジウムで私もお話してきたんですけれども、このイタリア館の中にはバチカンの部屋もあります。聖座というふうに書いてありますけれども、そこの目玉になっている作品、カラヴァッジョの「キリストの埋葬」という大きな絵を正面に飾ってあります。画面全体は暗い洞窟を背景にしていますので非常に暗さが目立つんですけれども、絵の一番前、前面のところにはキリストのご遺体が、ちょうどマリア様がピエタでイエス様を抱いておられますよね。それと同じような感じでイエス様のこのご遺体が描かれている。そしてそれを布で包みながら2人の男性が支えています。


 ヨハネの福音書の、今日読んだその少し前のところ、ご受難の最後のところにこういうふうな記述があります。「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラばかり持ってきた。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」。そういう記述があって、今日のこの先ほど読み上げたご復活の朝につながっています。


 ですからイエス様のご遺体を布で包みながら抱えている2人というのは、アリマタヤのヨセフとニコデモのことだということが分かります。そして亜麻布というのが、亡くなった時とご復活のところをつないでいる1つの証拠というか、大事なものになっているようです。もう1人の弟子が早く墓にやってきて「中をのぞくと、亜麻布が置いてあった」。ペトロが墓の中に入ってみると、「亜麻布が置いてあるのを見た」。亜麻布は残っているけれども、イエス様の遺体は見つからない。空の墓ということを強調しているようです。そして、腰をかがめてイエス様のご遺体を抱いている男性が2人いる。


2025年4月20日 復活の主日 10時ミサ

 その背景に2人の女性が描かれています。1人はイエスの遺体を凝視している。もう1人は手を挙げて悲しみ嘆いている。もう想像できますでしょう。ご遺体を凝視していらっしゃるのは聖母マリアです。手を挙げて悲しんでいるのはマグダラのマリアです。それぞれだんだんイエス様のところだけに光が当たっていて、男性も女性も暗くなっていくという、そういうふうな描き方になっています。


 マグダラのマリアの思い。「週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに墓に行った」。それほどイエス様に対する、なんて言うんでしょう、思いというか、これが込められていたことが今日の福音朗読の最初に出てきました。そしておそらくこの「朝早くまだ暗いうちに」というこの言い方の中には、救いの夜明けが始まっているということを表しているでしょう。自然界の現象とともに、マグダラのマリアの中での信仰が、この後、イエス様と出会いますけれども、そこに向けての歩みが始まっているということを暗示しているようです。


 では、マリア様はどうなのか。福音書にマリア様のことは、十字架の下でたたずんでいらしたということは書かれていますが、ご復活のイエス様のこととのつながりでは出てまいりません。でも、私たちのこの教会の名前にいただいているロヨラのイグナチオは「霊操」の中で、主イエスが真っ先に聖母に出現されたことは疑い得ないというふうに書いていまして、イエス様がご復活の後、マリア様のところにご出現なさったところをよく黙想するようにということを勧めています。十字架の傍らに立ってイエス様と一緒に苦しみを耐え忍び、救いのわざを一緒に成し遂げたマリア様。イエスの埋葬を凝視される聖母。お告げ以来「お言葉どおり、この身に成りますように」と、いろんな出来事に出会うたびに繰り返され応え続けられた聖母。それを思いますと、イグナチオが言う通りだなと思います。


 昨日の真夜中の徹夜祭も、今日の福音書も、十字架上でイエス様が亡くなられて3日目の朝の出来事のことに集中して伝えています。でも、今日の典礼全体を見てみますと、第一朗読の使徒言行録の中で、ペトロの行っている宣教にとても大事なメッセージが含まれているようです。聖霊降臨を経て聖霊をいただいたペトロの説教です。「神は聖霊と力によってナザレのイエスを油注がれた者(キリスト)とされた。神が共にいたので、イエスは方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒された。人々はイエスを木にかけて殺したが、神はこのイエスを死者の中から復活させ、前もって選ばれた人々の前に現してくださった。」「そしてイエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになった。また、預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられると、証ししている。」


 ここに、イエスがなぜ主と、キリストと呼ばれるのか、イエスとは私たちにとっていかなる方なのか、なぜ私たちの礼拝の対象になるのかということが短く教えられています。聖体奉仕者は共同体にもちろん仕えるんですが、真っ先に仕える方とはどういう方かということも、このペトロの説教の中に込められています。言い換えますと、聖書の伝える「輝くいのち」が今日のペトロの説教の中で語られており、私たちの人生と社会に確かな希望を開く「未来社会」のデザインもここに描かれている、というふうにも言うこともできるでしょう。そして、そのペトロの言葉を祈願文にまとめたものが、本日の集会祈願になっているというふうに見ることができます。


2025年4月20日 復活の主日 復活のろうそくと聖櫃

 私たちの教会は今年、テーマとして「さあ、出かけよう 心をつないで イエスとともに~ 希望に錨を下ろして~」というものを掲げていて、聖年の巡礼にも合わせた「希望に錨を下ろして」ということも扱っていますけれども、今日ペトロが説教で伝えていることと響き合う内容を持っています。私たちも聖年のさなかにあって、希望の巡礼者として歩んでいる私たちの日々の祈りにこの集会祈願をしたいですし、今日私は皆さんに1つの祈りをもって説教を結びたいと思います。


 この過ぎた1年間、現聖堂が献堂されて25周年のお祝いを祝ってまいりました。その教会の建築がずっと行われている時から、「新教会建設のための祈り」という祈りをミサの終わりにみんなで唱えていました。そしてその祈りを、ミッション2030の委員会の皆さんと25周年の記念行事をずっと担ってきた委員会の皆様が、「この祈りはとてもいい祈りだから、教会の建設ということから、もっと教会全体で祈る祈りにしましょう」ということで、基本形を残しながらこのような祈りを作りました。これからことあるごとに皆様にもこれをご紹介申し上げて、一緒に祈るようにしたいと思っています。今日私はここでゆっくりと読み上げますので、皆様耳で聞きながらご自分の心の祈りとしてご一緒に捧げていただければと思います。


 共に歩む教会の祈り。

 父なる神よ、あなたは慈しみの御心から御子をこの世に遣わし、救いの恵みを与えるため、ここに聖イグナチオ教会を育まれました。

 私たちはこの教会があなたの御心にかなうものとなるよう、心を1つにして祈ります。

 道行く人々が聖堂を仰ぎ見て、心の安らぎと神への招きを感じますように。

 聖堂で祈る人々が御父の愛に包まれ、救い主に出会えますように。

 キリストの食卓を囲む私たちが、インターナショナルな1つの共同体として祈りと賛美を捧げ、光と塩となって社会に仕えることができますように。

 あなたの祝福が全ての人々に、今も、いつも豊かに注がれますように。

 私たちの主、イエス・キリストによって。アーメン。


午後は洗礼式ミサが行われました。
この春、洗礼を受けられた皆さま、ご受洗おめでとうございます!


復活の聖なる徹夜祭

髙祖 敏明 神父

4/19(土)19:00- 復活の聖なる徹夜祭


 皆様、主のご復活おめでとうございます。聖年のさなか、希望の巡礼者として歩んでいる私たちがご復活のろうそくを灯して主の祭壇を囲み、一緒に神のことばを聞き、みことばに養っていただけること、また洗礼と感謝の祭儀によって、受難と十字架を通して死から命へと移られる主キリストの過越の神秘を祝うことができますことを、神様に感謝したいと思います。新しい命の勝利という過越の頂点を祝う今日、洗礼を受けられる皆様、おめでとうございます。教会共同体として皆さんを喜んで迎え入れますし、共に過越の神秘を生きる恵みを願い祈り合いたいと思います。


 本日の聖書朗読。創世記から始まりましたけれども、この神のことばは私たち人類の救いの歴史の展開を教え、いくつかのポイントを示してくれています。創世記の中には「神はご自分にかたどって人を創造された」という言葉がありました。「ご自分にかたどって」ラテン語でイマゴ・デイ(Imago Dei)と言いますけれども、これは過ぎ去った昔の話ではありません。イスラエルの民と人類の歩みを通して、神が私たち人間をご自分の似姿へと高める歴史であること、それが救いの歴史であるということを教えています。たとえ私たちが罪を犯して神から離れ、神から遠ざかったとしても、神様の方から私たちに近寄ってきてくださる。そしてエゼキエルの預言にありましたように「新しい心を与え、新しい霊を置いて」くださる。この長い歩みを実現し、私たちが本当の意味で神の似姿になる道を開いてくださったのが、イエスの十字架上の死と復活であります。今日はその神秘が実現した、その記念を祝う日です。これらのことを思い巡らし、心でじっくりと味わうように招かれています。


2025年4月19日 復活の聖なる徹夜祭 主司式の髙祖神父のお説教

 とはいえ、主のご復活、過越の神秘の意味を理解し、心で味わうのはそれほど簡単なことではありません。ルカ福音書がそのことを私たちに暗示しているようです。今日朗読された、墓に行く婦人たちの話に続いて、ルカはエマオの弟子たちの話を展開します。そしてエマオの弟子たちの話が終わると、11人の使徒たちにイエス様が御出現になる、その話を続けます。そして、この3つの話を通して、イエス様のご受難と復活が持っている意味をだんだんと深めて教えようとしていらっしゃるようです。ルカ福音書はそういうふうな書き方をしています。墓に行く婦人たちも、エマオの弟子たちも、11人の使徒たちも、いずれも死んでしまえばこの世は終わり、死は人生の終わりと思い込んでいる。しかも、イエスのむごい十字架上の死にショックを受け、「主イエスは死んだ」という思い、考え、気持ちに頭も心も支配されています。


 まず、最初の婦人たち。準備しておいた香料を持って墓に行く婦人たち。輝く衣を着た2人の人が現れる。そして他の共観福音書にはない婦人たちの名前がちゃんと書いてあります。マグダラのマリア、ヨハナ、これはヘロデの家令のクザの妻という説明が他の箇所に出てきます。マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアら。この輝く衣を着た2人の人を見て、恐れて地に顔を伏せる。これは聖書の中で、神様に近いようなもの、神的なものに出会った時の人間が自然に感じる感じ、気持ち、表情、態度だそうです。天使は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と言って、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、3日目に復活することになっている、と言われたではないか」と、このイエス様の教えのちょうど真ん中、中心にあることを、短い言葉でこう説明します。しかしこの婦人たちは、自分が出会った出来事を弟子たちに伝えますけれども、復活ということの意味はまだ理解できていないようです。それは弟子たちも同じで、婦人たちの言ったことを「たわごと」ということで片付けてしまいます。


 2つ目のエマオの弟子たち。エルサレムからエマオに行く、つまり弟子の集団から離れ去って、違った方向に自分の人生を切り開いていこうという歩みをしているこの人たちに、イエス様が近寄ってきて一緒に歩んでいく。そして、いろいろ問答があるんですけれども、その説明の中で弟子たちは、「わたしたちはあの方、イエスこそイスラエルを解放してくださると望みをかけていたのに」と失望をあらわにして、エルサレムから遠ざかっていく。そして婦人たちが朝早く墓へ行ったが、遺体を見つけずに戻ってきた。天使が現れて「イエスは生きておられる」と告げたというのです。仲間の者、つまりペトロのことでしょうけども、墓へ行ってみましたけれども、あの方は見当たりませんでした。自分がしたことをずっと話すんですね。


2025年4月19日 復活の聖なる徹夜祭 洗礼式

 それに対してイエス様がおっしゃる。「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。後でこのエマオの2人の弟子は「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と言う。


 3つ目のグループ、11人の使徒たち。エマオの弟子たちが、あれはイエスだったということに気づいてエルサムに帰ってくるんですけども、そして「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話し」ている時に、イエスが彼らの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われた。彼ら、使徒たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったと書いてあります。


 イエス様はそれに対して「どうして心に疑いを起こすのか、わたしの手や足を見なさい」と言って、釘の跡のある手と足を見せ、弟子たちの目の前で焼いた魚を一切れお食べになる。物を食べるというのは、生きているということの聖書的な表現だそうです。「わたしについてモーセと詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。ですからこれは婦人たちに対しても、エマオの弟子に対しても、この使徒たちに対しても同じことを繰り返されて、そして「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」というふうにイエス様はおっしゃる。


 メシアの受けた受難と十字架こそが私たちの解放、罪の赦し、贖いの代価であり、私たちが恵みによって神の似姿にしていただける道が開かれた。そのことを教えようとしておられます。エゼキエルの預言の中で、「あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる」というのと同じようなことが、今のこの言葉で、私たちが本当の意味で似姿になるということと重なっていると思います。


 ただ、ここで聖書の箇所を改めて読み返しながら、やっぱりここが大事なんだなと思いますのは、聖書の言葉を理解し悟るという場合にも、神からの恵みによって心の目が開かれるということが欠かせないということです。エマオの弟子たちは宿屋でイエスと一緒に食事の席に着く。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると2人の目が開け、イエスと分かった」。そして11人の弟子たちは、聖書を悟るために復活したイエス様から「心の目を開いて」いただいて、そのメッセージがようやく心に分かるような状態になっていく。


2025年4月19日 復活の聖なる徹夜祭 会衆に洗礼の約束の更新にあたり潅水をする

 聖書を悟るためには「心の目を開いていただくこと」、またパンを裂く聖体祭儀によってイエスであることに目が開かれていく。これは私たちがミサに与ることの意味を非常に意味深く私たちに伝えようとしています。主のご復活、過越の神秘の意味を理解し、心で味わい、復活の命の交わりに入れていただく際のポイントは、心の目を開いていただくこと。人間の努力も必要ですけれども、神様からそういう恵みをいただくこと。そしてそういう神様からの恵みをいただく機会である、ことばの祭儀と聖体祭儀に与ること。実際にミサの中でパンとぶどう酒を聖別するときに、聖霊が聖別してくださいというふうにお祈りします。ですから、神の霊、聖霊によって照らされ、聖霊によって生かされることによって、私たちが神の似姿へと高められていきます。


 今日、3つの段階で紹介したルカ福音書の結びのところにはこう書いてあります。イエスは弟子たちに「わたしは父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまで都に留まっていなさい」。救いのわざの成果として聖霊を送るということです。これが聖霊降臨という形で私たちに与えられることになります。そういう神の似姿になる。本当の意味で神の似姿になるということを一方に思いながら、今日のパウロの手紙を改めて読んでみますと、洗礼というのは水で汚れを洗い流すものというよりも、水と聖霊の注ぎによってキリストの死と復活に与るものであり、キリストと共に古い自分に死んで罪から解放され、御父によって復活させられたキリストと共に新たな命を生きることにほかならないとパウロは言っています。


 今日、私たちはこうして祝っていますこの徹夜祭のミサ、聖霊をいただいて神の似姿、神の子となることが実現した、その記念を祝うミサであります。これこそ希望の巡礼者として歩みながら持っているこの「希望」の意味であり、その理由です。私たちは心から感謝を捧げるとともに、この恵みが今日洗礼を受ける方々も、また私たちにも与えられて、主キリストが望まれる実りを結ぶように祈り、努めてまいりましょう。


主のご復活おめでとうございます。


主の受難

柴田 潔 神父

4/18(金)10:00- 主の受難


 「殺せ、殺せ、十字架につけろ」。受難朗読で私たちはそう叫びました。むごく悲しい、残酷な場面です。私はこの四旬節、バッハの受難曲を繰り返し聴いていました。その中には、聖書にはない創作の部分があります。今日は2箇所からご紹介させていただきます。


2025年4月18日 主の受難

 ピラトの尋問の場面です。アリアがこう歌います。「愛ゆえに、愛ゆえに私の救い主は死のうとされます。罪を知らない清い方でおられるのに、永遠の罰と裁きから私たちの魂を守るために身代わりになられるのです。愛ゆえに、愛ゆえに私の救い主は死のうとされます。罪を知らない清い方でおられますのに」。


 イエスを知らないと3度否んでしまったペトロは、悔やみに悔やみます。アリアが歌います。「憐れみたまえ、憐れみたまえ、私の神よ、滴り落ちる私の涙のゆえに。ご覧ください。心も目もあなたの御前で激しく泣いています。憐れみたまえ、憐れみたまえ、憐れみたまえ、私の神よ、滴り落ちる私の涙のゆえに」。コラール、賛美歌が続きます。「たとえあなたから離れても、きっとまたあなたのもとに立ち返ります。御子が死の苦しみによって私たちを贖ってくださったのですから。私は自分の咎(とが)を拒みません。けれども、あなたの恵みと愛は、私たちの内に宿る罪よりもはるかに大きいのです」。


 受難曲には十字架を止められなかった悔しさ、イエスへの申し訳なさ、かたじけなさが表現されています。受難曲は楽譜を通して音楽家が受難を表現します。では、私たち信徒は受難をどう表現したらいいのでしょうか。「渡される」をキーワードに考えました。


2025年4月18日 主の受難

 イエス様は十字架にその身を渡してくださいました。抵抗するのではなく、渡してくださいました。最後の晩餐では、受難に向かう前に仰せになりました。「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたに渡されるわたしの体である」。ペトロは申し訳なさ、かたじけなさを感じながら最後の晩餐を思い出したことでしょう。私たちもペトロの思いを引き継ぎましょう。申し訳なさ、かたじけなさを感じて、渡される体、聖体を受けましょう。そしてイエス様が身を渡してくださったように、私たちも身を渡していきましょう。


 受難曲では、演奏家は楽譜を頼りに演奏で受難を表現します。信徒の私たちは、聖体を頼りに生涯をかけて受難を表現します。相手の状況に合わせて身を渡す。仕事、人間関係、病気、介護、老いなど、苦しい時に身を渡す。その姿が受難を表現します。イエス様は十字架に身を渡し、そしてご聖体に身を渡し、私たちもその姿に倣っていきましょう。これから十字架の礼拝があります。そして聖体も拝領します。渡される体、そして渡す体になっていきましょう。



主の晩さんの夕べ

佐久間 勤 神父

4/17(木)10:00- 主の晩さんの夕べ


 皆さん、聖なる3日間の歩みが始まりました。最後の晩餐からご復活までの歩みです。私たちは主が歩まれた道、苦難と死、そして神のいのちの中への復活までの道のりを思い起こしながら、主と共に歩み、この神からの最高、最大の恵みを見つめ、感謝し、神を賛美します。キリストに従う私たちに与えられた特別な恵みです。そして、神を求めて叫んでいる全世界の人々を代表して、キリストの恵み、神からの恵みを感謝します。こうして、特にこの聖なる3日間に、私たちはキリスト者としての最高の務めを果たします。


2025年4月17日 主の晩さんの夕べ

 この聖なる3日間の典礼の中で、私たちが誰であるのか、何者であるのかを世に対して、そしてまた私たち自身に対しても見ることになります。私たちは、そして全世界は、神のいのちの中への復活に向かう旅をする者。希望へと向かう巡礼の旅をする者。それが私たちです。人生が旅に例えられることは珍しくはありません。しかし、その旅の目的地を知っている人はどれほどいるでしょうか。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」松尾芭蕉のこの句は、いのちの枯れた荒れ野を果てどなくさまよう寂しさを詠んでいるようです。しかし、復活への旅は、キリストと共に復活するという目的地を持った旅です。


 キリストの復活はご降誕、クリスマスより理解が難しいのでしょうか、死体がゴソゴソと起き上がって歩き回るゾンビのように思い描いている人もいるかもしれません。あるいは生まれ変わり、輪廻転生、終わりなく繰り返されるいのちの輪のように思っているかもしれません。しかし、聖書に書かれたように主の復活を体験した弟子たちは、復活したキリストは神の右に上げられたと言い表します。キリストの生き方、行いや御父との親しい結び、人々に仕え尽くした生き方。これを御父が、これこそ真の生き方、これこそ人間として、また神と一致した特別な存在として承認したこと。これが復活の出来事です。


2025年4月17日 主の晩さんの夕べ

 ですから、私たちが復活するのは、キリストに似たものになるから復活するのです。私たちの中にある、そしてまた世界の中にあるキリストには相応しくない部分、そして人生のあれやこれやのことが過ぎ去っていくことでしょう。しかし、復活したキリストの中に、私たちのいのちも永遠のものとなります。キリストの生き方とは、御父が唯一認める生き方とは、身を低くして仕える者となる生き方です。権力者が力を振るって支配している。しかし、あなた方はそうではない。イエスはご自身の教えの通り、生涯を捧げ、十字架の死を通して復活へと過ぎ越していかれました。


 「あなたたちのために渡されるわたしの体」と言われる聖体の秘跡、そしてこれから行う洗足式、足を洗う儀式もイエスの生き方を今ここに実現することです。そしてミサの後に派遣される私たちの生き方そのものです。御父が私たちにこの恵みを生きる旅路を、キリストの光をもって照らしてくださいますように。


受難の主日(枝の主日)

サトルニノ・オチョア 神父

4/13(日)10:00- 受難の主日(枝の主日)


 四旬節が終わって、私たちはこの1週間の間、ご受難のことをただ読むというだけではなくて、身につける。同情して、イエス・キリストの体の痛み、心の寂しさを共にすること。皆さん、家にお帰りになってまたご自分一人でこのご受難をゆっくりとお読みになる時、自分自身がそこにいて、心の目で見て、体でそのような痛みも感じていると同情する。エンパシー、同情する。そのようなことができたら本当に素晴らしい聖週間になります。


2025年4月13日 受難の主日(枝の主日) 司式のオチョア神父説教

 さて、ご受難を見ると、多分見方は違ってくるんです。信仰の道に入って年を取ると、見方は違います。例えば私自身は、子どもの時教会でご受難を聞いて、鞭に打たれたとか、あるいは衣を取られたということとか、あるいは茨の冠ということなど、それがメインだったんです。私のためにこのような苦しみを受けて、本当にありがたいことです。年をとると、やはり肉体的な苦しみはひどいことですけれども、限界があります。私たちの体は肉体的な痛みがちょっとありすぎる時には意識を失うんです。ここまでです。


 大人になって、体のご受難があれば、心のご受難もあります。イエスの故郷では初めから受け入れられない。村八分になっていること。自分の親戚の方々からさえも理解されない。自分の民のために来たのに受け入れられなかった。その心。一生懸命頑張って、一生懸命宣教して、一生懸命働いていても、特に偉い人たちには受け入れられない。理解されない。かえって迫害される。イエス・キリストを受け入れている人たちは一体誰ですか。罪人や異邦人、貧しい女性の方。イエス様の時は、またもう1つの心の受難があります。自分のために12人を選んで、その12人の中の1人に裏切られる。もう1人は3回も「この人を知らない」という。それでみんな1人も残らず逃げてしまいます。十字架の時は彼だけです。心の寂しさ、心の受難は肉体の受難に勝るのではないかと私は思います。


 けれども、イエス・キリストの時はもう1つの非常に大きな受難があると思います。信仰の受難です。迫害される、それから十字架につけられるということはわからないわけではないんです。ご自分の友達に裏切られるということはひどいことですけれども、人間はこうなんです。けれども、自分の御父から捨てられる。十字架で彼は詩編22編の言葉を借りて「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、どうして私を捨てたのか、どうして私を忘れたのか、とおっしゃる。多分、私たちはみんな遅かれ早かれ、この信仰に入って、神様に忘れられたという意見、それから体験もあるのです。神様はどこにいるのか。イエス・キリストの十字架の時はこれなんです。


2025年4月13日 受難の主日(枝の主日) 枝の祝福をするオチョア神父

 今、私の胸に浮かんでくるのは、ベラスケスの十字架につけられているイエス・キリストです。体の痛みはほとんど見えないんです。けれども、彼の髪の毛は全部こちらに、顔を隠しているんです。多分、ベラスケスの言いたかったのはこれです。友達に裏切られるということは大変ですけれども、自分の御父も見えなくなってしまうということは信仰の受難。それで、その時イエス・キリストはそのような虚しさを乗り越えて、「父よ、御手に私の霊をゆだねます」とおっしゃる。聖アウグスティヌスは、こういうふうに言っているんです。訳が難しいんですけれども、「信頼を持って、信頼のないところに信じる。信頼がなくなっている時に、それに反して信頼して、全てをおまかせする」ということです。御手にお委ねになります。伊万里焼のことです。伊万里陶器、あるいは有田焼のことを見るとですね、造り手にゆだねている。あの素晴らしい御手によって私たちは出来上がった。造られた。アダムのように。


 それで、何にも感じていない時に、何にも信じられることが難しくなる時に、その時、御手に私の命、私の霊をささげます。イエス・キリストのように。イエス・キリストと一緒に頑張りましょう。



四旬節第5主日

ハビエル・ガラルダ 神父

4/6(日)10:00- 四旬節第5主日


2025年4月6日 四旬節第5主日 司式のガラルダ神父

 この美しい箇所はヨハネ福音が書いたものとありますけれども、そうではないらしい。ヨハネではない。多分ルカだったでしょう。しかもこの場所はちょっとおかしい。他のところに入っていたはずです。ところが、これは間違いなく神の言葉として認められています。ここに書いてあるように、このファリサイ派の人々はイエスを訴え、試すためにこのことを言った。多分でっち上げだったでしょう。作り話だったでしょうけれども、証明できないので、そして急いでいたことですから、非常に困った状態です。つまり、イエス様が板挟みになるためにこの質問をするんです。打ち殺しなさいと言えば、ああ、あなたは嘘つきだ、いつも罪人を赦すと言ってるでしょう。人を愛しなさいと言っている。でも今、いざとなると、自分の名誉を守るためにこの人を打ち殺すと言う。あなたは偽善者ですよ。そうかと言って、赦しなさいと言えば、あなたは先生ですか、律法に書いてあることをあなたは否定するじゃないですか、と訴えるんですね。どっちみち困るんです。頭のいい質問ですね。


 ところがイエス様はもっと頭のいい人です。身をかがめて落書き、何かを書いていた。多分落書きだったでしょう。時間稼ぎ。どうしようか、非常に難しい状態。考えながら何かやっていたんです。それで見て、身を起こして「罪を犯したことのない人は、まずこの女に石を投げなさい」と言うと、みんな帰った。すごいですね。ではここで、イエス様の立派な態度を見ましょう。私たちのイエス・キリストを誇りに思うようにしましょう。よく知って、心で知って、好きになって、イエスに従いたくなって、キリストを皆に知らせるような気持ちになるように。Sで始まる4つの動詞ですね。キリストを知る、好きになる、従って、知らせる。このことを求めて、キリストの立派な態度を考えましょう。


2025年4月6日 四旬節第5主日 聖体拝領

 まず、イエス・キリストは気品のある人ですね。本当に貫禄がある。素晴らしいですね。小さくならない、でも威張らない。そして慌てない。全然怖くない。余裕たっぷりで、かっこいいですね。それからこの人、イエス・キリストは頭のいい人ですね。鋭い。イエスともノーとも言わないでみんなを帰す。素晴らしい。「罪のない人は、まず石を投げなさい」と言ってみんな帰ったんです。しかも自分で逃げながら、素晴らしい教えを決めますね。人を裁くな。私たちが人を裁くということは、石を投げることです。あなたは石を投げる前に自分を見て。あなたには罪がないんですか。罪がなければ石を投げてもいいけど、自分の目にある大きな丸太を見ようとしないで、人の目にある小さなおがくずをよく見るんですね。この教えですね。ですからイエス・キリストは気品のある人で、頭のいい人で、そして一番大切なのは憐れみ深い人です。この人の命を救いたい。どうしても命を救いたい。自分の評判はどうでもいい、訴えられても構わない。ただこの人の命を助けたい。


 できるけれども、その後、彼女は家に帰って大変ですよ。家族にすごく怒られたでしょう。主人は黙ってないでしょう。近所とみんながかわいそう。彼女が望んでいたのは、イエス・キリストが私と一緒に来て私の家族に説明してくださるようにということ。でもイエス様はそうしない。しかし、こう言うんです。「わたしもあなたを罪に定めない」。この言葉はいいですね。彼女はその言葉を受け入れて自信が出たでしょう。この方は私を無罪だと言ってくださるので、みんなが認めなくてもこの人が認めてくださったので、すごく心の元気が強くなって、あらゆる問題に打ち勝つことができたでしょう。イエス・キリストは、神様はわたしたちにそういうふうにしますね。


2025年4月6日 四旬節第5主日 桜と十字架

 例えば私たちの人生の道は、山に向かって、てっぺんまで歩かなければならないとしますね。私たちが願うのは、神様、楽な道をお願いします。芝生のある道で、右左に満開の桜の花が咲いていて、そして天気が良くて、気楽に楽しく登れるような道をください。ところが神様はそれをくださらないんですね。時々、冷たい雨で険しい道を、岩だらけの険しい道を登らなければならない時もあります。その時には私たちは怒ります。神様どうですか、これは。全然聞いてくださらないじゃないですか。いや、聞いてますよ。どういうふうに聞いてくださるかというと、神様は楽な道を与えてくださるよりも、私たちの足の筋肉をたくましくしてくださる。心臓を強くしてくださる。肺を強くしてくださる。そうすると私たちは、しんどいしんどいと言いながらも、険しい道を、難しい道を歩き続けることができるように。この女の人にも同じことをしたんですね。「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい」。彼女はその元気で嬉しくなって、こんな憐み深いイエス・キリストを誇りに思った。キリストのように生きることにしましょう。


 2番目のフィリピの朗読には、3章12節ですけども、パウロが言うんですね。「わたしはイエスに捕らえられている」。私たちもイエスに捕らえられるようにしてみましょう。イエスにはまって、キリストのように、キリストと共に喜んで生きることを願い求めましょう。


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