トップページ おしらせ ミサライブ配信とお説教2025年3月の説教

2025年4月 ミサ説教

2025年3月


主の受難

柴田 潔 神父

4/18(金)10:00- 主の受難


 「殺せ、殺せ、十字架につけろ」。受難朗読で私たちはそう叫びました。むごく悲しい、残酷な場面です。私はこの四旬節、バッハの受難曲を繰り返し聴いていました。その中には、聖書にはない創作の部分があります。今日は2箇所からご紹介させていただきます。


2025年4月18日 主の受難

 ピラトの尋問の場面です。アリアがこう歌います。「愛ゆえに、愛ゆえに私の救い主は死のうとされます。罪を知らない清い方でおられるのに、永遠の罰と裁きから私たちの魂を守るために身代わりになられるのです。愛ゆえに、愛ゆえに私の救い主は死のうとされます。罪を知らない清い方でおられますのに」。


 イエスを知らないと3度否んでしまったペトロは、悔やみに悔やみます。アリアが歌います。「憐れみたまえ、憐れみたまえ、私の神よ、滴り落ちる私の涙のゆえに。ご覧ください。心も目もあなたの御前で激しく泣いています。憐れみたまえ、憐れみたまえ、憐れみたまえ、私の神よ、滴り落ちる私の涙のゆえに」。コラール、賛美歌が続きます。「たとえあなたから離れても、きっとまたあなたのもとに立ち返ります。御子が死の苦しみによって私たちを贖ってくださったのですから。私は自分の咎(とが)を拒みません。けれども、あなたの恵みと愛は、私たちの内に宿る罪よりもはるかに大きいのです」。


 受難曲には十字架を止められなかった悔しさ、イエスへの申し訳なさ、かたじけなさが表現されています。受難曲は楽譜を通して音楽家が受難を表現します。では、私たち信徒は受難をどう表現したらいいのでしょうか。「渡される」をキーワードに考えました。


2025年4月18日 主の受難

 イエス様は十字架にその身を渡してくださいました。抵抗するのではなく、渡してくださいました。最後の晩餐では、受難に向かう前に仰せになりました。「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたに渡されるわたしの体である」。ペトロは申し訳なさ、かたじけなさを感じながら最後の晩餐を思い出したことでしょう。私たちもペトロの思いを引き継ぎましょう。申し訳なさ、かたじけなさを感じて、渡される体、聖体を受けましょう。そしてイエス様が身を渡してくださったように、私たちも身を渡していきましょう。


 受難曲では、演奏家は楽譜を頼りに演奏で受難を表現します。信徒の私たちは、聖体を頼りに生涯をかけて受難を表現します。相手の状況に合わせて身を渡す。仕事、人間関係、病気、介護、老いなど、苦しい時に身を渡す。その姿が受難を表現します。イエス様は十字架に身を渡し、そしてご聖体に身を渡し、私たちもその姿に倣っていきましょう。これから十字架の礼拝があります。そして聖体も拝領します。渡される体、そして渡す体になっていきましょう。



主の晩さんの夕べ

佐久間 勤 神父

4/17(木)10:00- 主の晩さんの夕べ


 皆さん、聖なる3日間の歩みが始まりました。最後の晩餐からご復活までの歩みです。私たちは主が歩まれた道、苦難と死、そして神のいのちの中への復活までの道のりを思い起こしながら、主と共に歩み、この神からの最高、最大の恵みを見つめ、感謝し、神を賛美します。キリストに従う私たちに与えられた特別な恵みです。そして、神を求めて叫んでいる全世界の人々を代表して、キリストの恵み、神からの恵みを感謝します。こうして、特にこの聖なる3日間に、私たちはキリスト者としての最高の務めを果たします。


2025年4月17日 主の晩さんの夕べ

 この聖なる3日間の典礼の中で、私たちが誰であるのか、何者であるのかを世に対して、そしてまた私たち自身に対しても見ることになります。私たちは、そして全世界は、神のいのちの中への復活に向かう旅をする者。希望へと向かう巡礼の旅をする者。それが私たちです。人生が旅に例えられることは珍しくはありません。しかし、その旅の目的地を知っている人はどれほどいるでしょうか。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」松尾芭蕉のこの句は、いのちの枯れた荒れ野を果てどなくさまよう寂しさを詠んでいるようです。しかし、復活への旅は、キリストと共に復活するという目的地を持った旅です。


 キリストの復活はご降誕、クリスマスより理解が難しいのでしょうか、死体がゴソゴソと起き上がって歩き回るゾンビのように思い描いている人もいるかもしれません。あるいは生まれ変わり、輪廻転生、終わりなく繰り返されるいのちの輪のように思っているかもしれません。しかし、聖書に書かれたように主の復活を体験した弟子たちは、復活したキリストは神の右に上げられたと言い表します。キリストの生き方、行いや御父との親しい結び、人々に仕え尽くした生き方。これを御父が、これこそ真の生き方、これこそ人間として、また神と一致した特別な存在として承認したこと。これが復活の出来事です。


2025年4月17日 主の晩さんの夕べ

 ですから、私たちが復活するのは、キリストに似たものになるから復活するのです。私たちの中にある、そしてまた世界の中にあるキリストには相応しくない部分、そして人生のあれやこれやのことが過ぎ去っていくことでしょう。しかし、復活したキリストの中に、私たちのいのちも永遠のものとなります。キリストの生き方とは、御父が唯一認める生き方とは、身を低くして仕える者となる生き方です。権力者が力を振るって支配している。しかし、あなた方はそうではない。イエスはご自身の教えの通り、生涯を捧げ、十字架の死を通して復活へと過ぎ越していかれました。


 「あなたたちのために渡されるわたしの体」と言われる聖体の秘跡、そしてこれから行う洗足式、足を洗う儀式もイエスの生き方を今ここに実現することです。そしてミサの後に派遣される私たちの生き方そのものです。御父が私たちにこの恵みを生きる旅路を、キリストの光をもって照らしてくださいますように。


受難の主日(枝の主日)

サトルニノ・オチョア 神父

4/13(日)10:00- 受難の主日(枝の主日)


 四旬節が終わって、私たちはこの1週間の間、ご受難のことをただ読むというだけではなくて、身につける。同情して、イエス・キリストの体の痛み、心の寂しさを共にすること。皆さん、家にお帰りになってまたご自分一人でこのご受難をゆっくりとお読みになる時、自分自身がそこにいて、心の目で見て、体でそのような痛みも感じていると同情する。エンパシー、同情する。そのようなことができたら本当に素晴らしい聖週間になります。


2025年4月13日 受難の主日(枝の主日) 司式のオチョア神父説教

 さて、ご受難を見ると、多分見方は違ってくるんです。信仰の道に入って年を取ると、見方は違います。例えば私自身は、子どもの時教会でご受難を聞いて、鞭に打たれたとか、あるいは衣を取られたということとか、あるいは茨の冠ということなど、それがメインだったんです。私のためにこのような苦しみを受けて、本当にありがたいことです。年をとると、やはり肉体的な苦しみはひどいことですけれども、限界があります。私たちの体は肉体的な痛みがちょっとありすぎる時には意識を失うんです。ここまでです。


 大人になって、体のご受難があれば、心のご受難もあります。イエスの故郷では初めから受け入れられない。村八分になっていること。自分の親戚の方々からさえも理解されない。自分の民のために来たのに受け入れられなかった。その心。一生懸命頑張って、一生懸命宣教して、一生懸命働いていても、特に偉い人たちには受け入れられない。理解されない。かえって迫害される。イエス・キリストを受け入れている人たちは一体誰ですか。罪人や異邦人、貧しい女性の方。イエス様の時は、またもう1つの心の受難があります。自分のために12人を選んで、その12人の中の1人に裏切られる。もう1人は3回も「この人を知らない」という。それでみんな1人も残らず逃げてしまいます。十字架の時は彼だけです。心の寂しさ、心の受難は肉体の受難に勝るのではないかと私は思います。


 けれども、イエス・キリストの時はもう1つの非常に大きな受難があると思います。信仰の受難です。迫害される、それから十字架につけられるということはわからないわけではないんです。ご自分の友達に裏切られるということはひどいことですけれども、人間はこうなんです。けれども、自分の御父から捨てられる。十字架で彼は詩編22編の言葉を借りて「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、どうして私を捨てたのか、どうして私を忘れたのか、とおっしゃる。多分、私たちはみんな遅かれ早かれ、この信仰に入って、神様に忘れられたという意見、それから体験もあるのです。神様はどこにいるのか。イエス・キリストの十字架の時はこれなんです。


2025年4月13日 受難の主日(枝の主日) 枝の祝福をするオチョア神父

 今、私の胸に浮かんでくるのは、ベラスケスの十字架につけられているイエス・キリストです。体の痛みはほとんど見えないんです。けれども、彼の髪の毛は全部こちらに、顔を隠しているんです。多分、ベラスケスの言いたかったのはこれです。友達に裏切られるということは大変ですけれども、自分の御父も見えなくなってしまうということは信仰の受難。それで、その時イエス・キリストはそのような虚しさを乗り越えて、「父よ、御手に私の霊をゆだねます」とおっしゃる。聖アウグスティヌスは、こういうふうに言っているんです。訳が難しいんですけれども、「信頼を持って、信頼のないところに信じる。信頼がなくなっている時に、それに反して信頼して、全てをおまかせする」ということです。御手にお委ねになります。伊万里焼のことです。伊万里陶器、あるいは有田焼のことを見るとですね、造り手にゆだねている。あの素晴らしい御手によって私たちは出来上がった。造られた。アダムのように。


 それで、何にも感じていない時に、何にも信じられることが難しくなる時に、その時、御手に私の命、私の霊をささげます。イエス・キリストのように。イエス・キリストと一緒に頑張りましょう。



四旬節第5主日

ハビエル・ガラルダ 神父

4/6(日)10:00- 四旬節第5主日


2025年4月6日 四旬節第5主日 司式のガラルダ神父

 この美しい箇所はヨハネ福音が書いたものとありますけれども、そうではないらしい。ヨハネではない。多分ルカだったでしょう。しかもこの場所はちょっとおかしい。他のところに入っていたはずです。ところが、これは間違いなく神の言葉として認められています。ここに書いてあるように、このファリサイ派の人々はイエスを訴え、試すためにこのことを言った。多分でっち上げだったでしょう。作り話だったでしょうけれども、証明できないので、そして急いでいたことですから、非常に困った状態です。つまり、イエス様が板挟みになるためにこの質問をするんです。打ち殺しなさいと言えば、ああ、あなたは嘘つきだ、いつも罪人を赦すと言ってるでしょう。人を愛しなさいと言っている。でも今、いざとなると、自分の名誉を守るためにこの人を打ち殺すと言う。あなたは偽善者ですよ。そうかと言って、赦しなさいと言えば、あなたは先生ですか、律法に書いてあることをあなたは否定するじゃないですか、と訴えるんですね。どっちみち困るんです。頭のいい質問ですね。


 ところがイエス様はもっと頭のいい人です。身をかがめて落書き、何かを書いていた。多分落書きだったでしょう。時間稼ぎ。どうしようか、非常に難しい状態。考えながら何かやっていたんです。それで見て、身を起こして「罪を犯したことのない人は、まずこの女に石を投げなさい」と言うと、みんな帰った。すごいですね。ではここで、イエス様の立派な態度を見ましょう。私たちのイエス・キリストを誇りに思うようにしましょう。よく知って、心で知って、好きになって、イエスに従いたくなって、キリストを皆に知らせるような気持ちになるように。Sで始まる4つの動詞ですね。キリストを知る、好きになる、従って、知らせる。このことを求めて、キリストの立派な態度を考えましょう。


2025年4月6日 四旬節第5主日 聖体拝領

 まず、イエス・キリストは気品のある人ですね。本当に貫禄がある。素晴らしいですね。小さくならない、でも威張らない。そして慌てない。全然怖くない。余裕たっぷりで、かっこいいですね。それからこの人、イエス・キリストは頭のいい人ですね。鋭い。イエスともノーとも言わないでみんなを帰す。素晴らしい。「罪のない人は、まず石を投げなさい」と言ってみんな帰ったんです。しかも自分で逃げながら、素晴らしい教えを決めますね。人を裁くな。私たちが人を裁くということは、石を投げることです。あなたは石を投げる前に自分を見て。あなたには罪がないんですか。罪がなければ石を投げてもいいけど、自分の目にある大きな丸太を見ようとしないで、人の目にある小さなおがくずをよく見るんですね。この教えですね。ですからイエス・キリストは気品のある人で、頭のいい人で、そして一番大切なのは憐れみ深い人です。この人の命を救いたい。どうしても命を救いたい。自分の評判はどうでもいい、訴えられても構わない。ただこの人の命を助けたい。


 できるけれども、その後、彼女は家に帰って大変ですよ。家族にすごく怒られたでしょう。主人は黙ってないでしょう。近所とみんながかわいそう。彼女が望んでいたのは、イエス・キリストが私と一緒に来て私の家族に説明してくださるようにということ。でもイエス様はそうしない。しかし、こう言うんです。「わたしもあなたを罪に定めない」。この言葉はいいですね。彼女はその言葉を受け入れて自信が出たでしょう。この方は私を無罪だと言ってくださるので、みんなが認めなくてもこの人が認めてくださったので、すごく心の元気が強くなって、あらゆる問題に打ち勝つことができたでしょう。イエス・キリストは、神様はわたしたちにそういうふうにしますね。


2025年4月6日 四旬節第5主日 桜と十字架

 例えば私たちの人生の道は、山に向かって、てっぺんまで歩かなければならないとしますね。私たちが願うのは、神様、楽な道をお願いします。芝生のある道で、右左に満開の桜の花が咲いていて、そして天気が良くて、気楽に楽しく登れるような道をください。ところが神様はそれをくださらないんですね。時々、冷たい雨で険しい道を、岩だらけの険しい道を登らなければならない時もあります。その時には私たちは怒ります。神様どうですか、これは。全然聞いてくださらないじゃないですか。いや、聞いてますよ。どういうふうに聞いてくださるかというと、神様は楽な道を与えてくださるよりも、私たちの足の筋肉をたくましくしてくださる。心臓を強くしてくださる。肺を強くしてくださる。そうすると私たちは、しんどいしんどいと言いながらも、険しい道を、難しい道を歩き続けることができるように。この女の人にも同じことをしたんですね。「わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい」。彼女はその元気で嬉しくなって、こんな憐み深いイエス・キリストを誇りに思った。キリストのように生きることにしましょう。


 2番目のフィリピの朗読には、3章12節ですけども、パウロが言うんですね。「わたしはイエスに捕らえられている」。私たちもイエスに捕らえられるようにしてみましょう。イエスにはまって、キリストのように、キリストと共に喜んで生きることを願い求めましょう。


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