2025年5月 ミサ説教
復活節第3主日
髙祖 敏明 神父
説教の始めに皆様にお礼の言葉を一言申し上げたいと思います。枝の主日の時に、ミャンマーのための募金を皆様にお願いいたしました。1日少しばかりの募金でしたけれども、皆様からのご奉仕が全部で100万円ありました。この100万円を東京教区も送りたいと、イエズス会のルートでも送るということでございますので、喧嘩しないようにちょうど50万50万で分けまして、50万円を東京教区経由でミャンマーに、もう1つの50万円をイエズス会経由で、ミャンマーの今回地震が激しかったあの地域に送るということにしております。皆様方のご協力に改めて感謝を申し上げます。ありがとうございました。
さて、今日の聖書の朗読でありますけれども、福音書の一番最後に「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これで3度目である」というふうに書いてあります。今日は第3主日ですけれども、ご復活の1週目、2週目と同じヨハネ福音書からずっと読まれています。1回目。亡くなられてから3日目の週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていた。その家にイエスがいらっしゃって真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われて、手と脇腹を見せられた。十字架の釘の跡があるこの手と、それから槍で刺された脇腹のその跡ですね。

2回目はその8日後ですけれども、1回目の時に居合わせなかったトマスが疑いを持っている。そんなイエスなんて信じない、と言ったそのトマスの疑いに答える形で、イエス様が再びいらっしゃって、ご自分の手と脇腹をトマスに触らせて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」というふうにおっしゃった。今日の第二朗読の黙示録の中に「屠られた子羊は…誉れ、栄光、賛美を受けるにふさわしい方」と言っていますけれども、そこと呼応していることがこの1回目、2回目で言われています。
今日の3回目のご出現では、イエスの十字架の苦難と死を示す手とか脇腹はもう言及されません。イエスの言葉に従っての魚の大漁の話と、弟子たちが「主だ!」というふうに認めてから、イエスが準備されたパンと魚を弟子たちに振る舞う話が続いています。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた」。この「イエスは来て」、「来て」というところに何か大事なメッセージが入っているようです。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた」。イエスの苦難と栄光の体であるパン、つまりイエスご自身を与えてくださる。
一方、魚ですけれども、ご存知の方も多いでしょう。キリストの象徴として魚がよく使われます。「イエス・キリスト・神の子・救い主」という言葉の連なりをギリシャ語で表現して、それぞれの言葉の頭に来る文字をつないでいくと、ギリシャ語の魚、イクテュス(ICHTHYS)という綴りになる。ですから、魚というのが主キリストを表す印としてよく使われていますけれども、パンと組み合わされるとご聖体の秘跡のことを意味している。魚だけですと水と関わりますので、洗礼を象徴しているとも言われております。
そしてイエス様は「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。ここも「来て」ってありますね。イエス様が来る。弟子たちが来る。そこに何か出会いがあるということを私たちに示そうとしているようにも思います。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。イエスが準備されたパンと魚をいただく。このパンは言うまでもなく、裂かれたパン。ちょうど聖櫃も裂かれたパンの図柄になっていますけれども、その裂かれたパン、イエスご自身を、イエス・キリスト、神の子、救い主との信仰を持っていただく。そのご聖体の秘跡によって、ミサの感謝の祭儀によって主イエスとの交わりを深め、養っていただく。その場合に、「今とってきた魚を持ってきなさい」とイエス様はおっしゃる。イエス様からの恵みなんですけれども、私たちの働きもそこに加えてくださる。

一方、とれた魚が153匹と数が示されていますけれども、この153というのが何を意味しているかというのは今でも論争があってはっきりしないそうです。ただ1つの説にこういう説もあるんだそうです。当時、地中海にいる魚が153種類あった。それを根拠にして、イエス様の救いが全ての魚に及ぶ。つまり、国籍や人種を超えて、性別とか宗教を超えてすべての人に及ぶんだということがここに暗示されているんじゃないか、というふうに言う学者もいるんだそうです。なかなか面白いと言いますか、大事な指摘かなと思います。
こうして1回目、2回目、3回目のご出現を振り返ってみますと、いずれも復活したイエスがまず弟子たちに語りかけています。私たちの努力でイエスを見つけたというんじゃなくて、イエス様の方からいらして、先に言葉をかけておられる。「あなたがたに平和があるように」「子たちよ、何か食べるものがあるか」「ここに来て、朝の食事をしなさい」というふうに、イエス様が絶えず主導権を持っていらっしゃる。私たちの信仰は、主イエス、神様からの恵みが先にあって、そこに私たちが協力していくという、そういう歩みだということがここに言われているようです。
また、1回目の時には、イエス様が「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と派遣をされました。今日のペトロが「わたしは漁に行く」というのを、この宣教の務めというふうに読み替えてみると、この派遣の務めに弟子たちがあたろうとしているということを読み取れるかと思います。そこに他の6人の弟子も加わりますけれども、その日は何もとれなかった。そして明け方、イエス様が「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」という声に従った時に大漁になったという次第が今日述べられています。

私たちが宣教するという時、御言葉を伝えるという時、すべての人を対象にする宣教なんですけれども、これも主イエス・キリストの声に従う。主キリストの声というのは、聖霊の声に聞き従って行うときに実りがつく。第1回目の朗読の派遣に続いて、イエス様は弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を与えられました。「だれの罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というふうにおっしゃって、聖霊を与えておられます。ですから、これらをずっと重ね合わせてこの聖書の御言葉を味わってみますと、主イエスの救いのわざの成果である罪の赦し、救いのわざの実りである罪の赦しによって神と和解し、その和解を得て、父と子と聖霊の三位一体の神様の永遠の命の交わりに私たちが加えていただく。そして、主イエスの復活によるこの和解の恵みを、私たちの周囲の人々に宣べ伝えていく。それが宣教だと。
今日の第一朗読の中にも、「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、このイエスを導き手とし、救い主とし、ご自分の右に上げられました。わたしたちも…聖霊も、このことを証しています」と言っています。それぞれが呼応し合っているというふうに読むことができると思います。これらを集約する言葉が、実は集会祈願のところにあります。それは神様に向かって、「あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたち」というこの短い言葉です。「あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたち」、この短い言葉の中に、今私がずっと申し述べてきたことが、みんなギュッと詰まっています。それを今日このミサの中でよく味わい、そして自分の糧にするようにという招きがあるようです。
今日このミサで御言葉を聴き、パンとぶどう酒の祭儀をささげる中で、感謝をささげるとともに、このミサで主イエスと出会い、私たちがますます神の子となることができるよう育てていただきましょう。そしてその喜びを生活の中で、言葉と行いをもって私たちの周囲の人々に伝えていく。そういう恵みもご一緒にお祈りいたしましょう。