トップページ おしらせ ミサライブ配信とお説教2025年5月の説教

2025年5月 ミサ説教

2025年4月


復活節第6主日

山内 豊 神父

5/25(日)10:00- 復活節第6主日


2025年5月25日 復活節第6主日 司式の山内神父のお説教

 今日の福音箇所は復活節に読まれるので、復活したイエスの言葉のように感じますが、これは受難の前に弟子たちに話した言葉です。イエスは受難を受け、一時的にこの世から去っていかなければならない状況にあって、弟子たちを力づけるためにこの言葉が語られました。一時的にこの世を去っているイエス様。そして残されている私たちということで、私たちの状況にとても似ているところがあります。


 まず、最初に語られるのは、イエスが教えてくださった掟を守ることによって、父なる神は私たちのことを愛される。そして父なる神とイエスは私たちのところに来て、一緒に住むということが語られています。この箇所では、最初の「掟を守る」というところに注目が行ってしまって、他のところはちょっと注目が行かないというところがあるかもしれませんが、イエス様が私たちに与えた一番重要な掟っていうのは愛ですね。互いに愛し合う、そして神様も愛するということです。


 驚くべきことに、ここに語られていることは、神様が私たちのところに来て一緒に住むというところです。一緒に住む、共におられるということは、私たちにとってよく教会で聞く言葉として慣れっこになってしまっているかもしれませんが、とても驚異的なことであると言えるでしょう。一緒に住むっていうことはどういうことでしょう。私たちはどういう人たちと一緒に住むでしょうか。家族ですよね。これはイエス様たち、神様が私たちと共に住む。私の中、私と共に住むっていうことは、私自身が神様の交わりの中に入るっていうことです。私たちは神様の家族になるわけです。「掟を守るならば」という言葉が入ってますけど、私たちは神様の家族になるわけです。もしかしたら、今ここにも天涯孤独で生きている人がいるかもしれません。そして家族がいたとしても、何となく寄る辺のない孤独を感じている方がこの中にもいるかもしれません。そういう人たちにとってこの言葉は福音であると思います。あなたが神の掟を守るとき、父なる神やイエスはあなたと一緒に住み、家族のような交わりを持たれるということです。


2025年5月25日 復活節第6主日 司式の山内神父のお説教

 そして続いて、イエスは弁護者である聖霊を送ってくださる、とここで言っています。この聖霊は私たちの信仰を弁護してくれて、すべてのことを教えてくれて、イエスが話したことをことごとく思い起こさせてくださるということです。聖霊の働きとして、思い起こさせるっていう言葉はなかなか注目されないところでありますけど、これは非常に重要なところです。イエスや父なる神は、出来事、この歴史的な出来事だったり、私たちの一つ一つの出来事を通してご自分を啓示されてきました。聖書自体が「思い起こす」ということから始まっています。聖書は、事が起こった後、思い起こして、そして神様のことを語る、そして聖書が書かれるということが起きています。思い起こすということは非常に重要なことです。それは今も同じです。啓示は完成されましたけれども、私たちの人生の一つ一つの出来事を通して、神様は私たちに話しかけておられます。そして、そのことを思い起こすことによって、神様は共にいるんだということが分かるわけです。聖霊は、そのようなことを思い起こし、導いてくださいます。


 そして、さらにイエス様はこうおっしゃいます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」とおっしゃいます。私たちはこの世のものが全て満たされていたとしても、不安を感じる時があります。お金も持っている。いい家族もいる。そして全ては順調にいっている。でも、何か心の中に空虚感というか、不安というか、そういうものが残ったりします。何でこんなに満たされているはずなのに、自分の心には隙間があるのかと思ってしまいます。イエスが与える平和というものは、その隙間を埋めるような平和です。それは、この世の平和がなくなったとしても、あり続ける平穏というものです。


2025年5月25日 復活節第6主日 司式の山内神父のお説教

 そして最後に、イエス様はまた戻ってこられるっていうことを言います。どうでしょう、皆さんはイエス様が戻ってこられるっていうことに希望を置いてますかね。「いや、私が生きてる間は戻ってこないでしょう」って思ってる方が結構いると思います。そして私も若干そういうことを思うところがあるんですけれども、皆さん、イエス様に会えるっていうことを希望を持って待ち望んでいるでしょうか。私がイエス様が戻って来られるっていう話をした時に、「そんなこと言っちゃダメです」っていう方が時々いらっしゃいます。まさにイエス様が来られるってことを災厄の一つだと考えている方もいらっしゃいます。しかし、そうではありません。私たちが本当に会いたいと思っている人に会えるとき、私たちはイエス様が共にいらっしゃるんですけど、目の前にするとか、そして触れることができるっていう存在として、イエス様がまた来られます。それは本当に最高の瞬間なんだということです。そして、決してイエスは私たちを見捨てることがない。必ず戻ってきます。そこを私たちの希望の一つとして持ち続けるということは大切なことです。


 「主よ、来てください」という言葉は昔から語られてきました。もう一度その気持ちを新たにして生活していきたいと思います。


復活節第5主日

李 聖一 神父

5/18(日)10:00- 復活節第5主日


 今日は、どうして愛することが掟なのかということについて話さなければならないのですが、ミサの最初に触れましたようにレオ14世の着座ミサが行われるということですので、今日は新しい教皇についてお話ししたいと思います。話が世界史の授業のようなことになるかもしれませんのでお許しください。そして、多分3分ぐらい長くなると思います。


2025年5月18日 復活節第5主日 司式の李神父のお説教

 新しい教皇様が選出された時に、誰もが「一体どんな人だろうか」というふうにも思いますし、どこに個人的に親しみっていうものを感じることができるか、それがまず第一に大切なことだと思うんですね。フランシスコ教皇が選出された時に、最初驚いたのはイエズス会員であるということでした。私は毎日新聞から突然電話があって、「イエズス会員が教皇になられました」っていうのを聞いて、「そんなことはありません。そんなことになったら、もうイグナチオは天国でものすごく怒ってます」なんていうふうに答えたことがあります。イエズス会員であるということ、そしてまた日本に来られて上智大学を訪問なさり、そして一緒に朝ごはんを食べたなんていうことを思えば、本当に個人的な親しさっていうか、そういうものを感じます。


 今回レオ14世が選出されたという時に、初めてのアメリカ人だっていうことで、「ほう」と思ったり、ペルーで長く宣教生活をなさっていたっていうと、「ふーん」と思ったりするんですが、私は個人的な親しみという意味で、近さっていう意味で一番最初に感じたのは彼の生年月日でした。1955年9月14日生まれというのを見て、おお、私の方が40日早く生まれてるっていう、そこがまず第一でしたね。ああ、そうか、私と同じ年で、しかも40日私が先輩かと思うと、なんとなく嬉しかったですね。


 それからアウグスチノ会の総長をなさっていたっていうことでしたが、ちょうどペトロ・カスイ岐部とその同志殉教者が長崎で列福される時に、プレボスト管区長として日本に来られたということもあったようで、その時の写真も見ました。アウグスチノ会には私の大学の1年先輩が入会していて、しかも日本の責任者をしておられたということで、この2人、実はファーストネームで呼び合う仲だなんていうそんな記事を読むと、これもまた何か親しさ、近さっていうのを感じる。ぜひ日本に来ていただきたいなと思いますけれども。


 同時に、レオ14世という名前をつけたっていうことに、私は「うーん」と思ったんですね。なぜかというと、神学を勉強している時代に、その前のレオ13世というこの教皇様について私は多少勉強したこともあってですね、それとどういうつながりがあるのかなと考えたんです。このレオ13世という方は1878年に教皇になられて、1903年まで25年間教皇にあられた方です。そして、そのレオ13世が発表した回勅とか、彼の時代にカトリック教会はどういうふうに進んでいったのかということを考える時に、これからレオ14世はレオ13世がお始めになったこと、それを今日の社会の中で、あるいは今日の世界の中で、引き続きその思いっていうのを押し進めていかれるのかなというふうに思うと、期待っていうのもやはり感じることができたんですね。


2025年5月18日 復活節第5主日 会衆席から祭壇

 レオ13世の時代は、資本主義が非常に行き過ぎた形で世界に広がっていく。そしてその資本主義というのは、ある意味で植民地獲得の帝国主義的な侵略を招いたし、同時に資本というもの、あるいは富というものが資本家に集中してしまって、それを生み出すはずの労働者というものにあまり恩恵が与えられない。そういったことを非常に危惧しておられた方でした。人間が一生懸命働く、そしてそれは全て資本家が搾取していく。そういった時代を見ながら、働く人の権利、働く人が幸せになるその権利というものを大事にしなければならないし、守らなければならないということを語った方でした。


 それは「レールム・ノヴァールム」という回勅によって示されたわけですけれども、それと同時に行き過ぎた資本主義ゆえに、反対に全ての富を共有し、社会主義、共産主義という考え方が非常に大きくなっていき、ある意味で実験国家というような形で共産主義の国が出来上がっていこうとする。そういった時代に個人として、個人が幸せになっていくために、あるいは一人ひとりの人間がその尊厳を保っていくために、私的な所有、つまり個人の富というものを持つことは決して悪いことではない。むしろそれを大切にしなければならないということも、その回勅の中でおっしゃっていたことでした。


 そしてその回勅の非常に大事なポイントは、それまでの時代、レオ13世までの時代は、近代の思想、近代の科学、そういったものが聖書の真理と異なるということで、ある意味でシャットアウトしてしまうような、そういうカトリック教会でした。それに対してレオ13世は、労働者の社会問題ということに目を向けながら、社会に対して対話というもの、それが大事であるという姿勢を示した方でした。そしてその姿勢は、実は第二バチカン公会議に引き継がれていくと私は思っています。今年はいろんな節目の年とよく言われていて、皆さんももう2025年になって何度も耳にしたでしょう。戦後80年だとか、あるいは昭和100年だとか、阪神淡路大震災から30年だとか、そういった節目の年ですというふうによく言うんですが、実はカトリック教会にとって第二バチカン公会議が終わって60年だということを言う人、あんまりいないんですね。


2025年5月18日 復活節第5主日 ご聖体を掲げる李神父

 この60年の間にカトリック教会はどういう歩みをしてきたか。それは教会を刷新すると同時に、現代世界に適応していくということを第一の方針としたわけですけれども、現代世界に対する適応っていうのは、実は現代世界との対話を意味していました。レオ13世は資本主義の行き過ぎ、そしてまた共産主義というものの台頭、そういったことの中からカトリック教会は何を大事にしなければならないか、労働者の一人ひとりの権利、幸せ、これをどのように保障していくのか、そういったことに目を配られた方です。私たちはそれからもう100年以上経って、そしてカトリック教会はその現代の世界と対話していくっていうそういう姿勢の中で、特にバチカン公会議以降60年間、パウロ6世もヨハネ・パウロ1世、2世も、ベネディクト16世も教皇フランシスコもその路線をずっと引き継いでいき、しかもその時代、その時代で対話する。誰と対話していくのかというところで時代の流れというものを感じることができます。


 第二バチカン公会議は1965年に終わりましたが、パウロ6世は特に貧しい者というそのことを最優先すべきという姿勢を示されました。ヨハネ・パウロ2世もそうしたことを強調なさり、教皇フランシスコはそれらを含めてマイノリティ、少数派の人々と対話するという姿勢を示された方でした。よく同性愛者のことであるとか、そういったことがすぐにマスコミやメディアは取り上げて、それに対してどういう姿勢を取ったかということで評価するところがありますが、教皇フランシスコは、マイノリティと言われる人々、その人と対話していき、その人を大切にするという姿勢を貫かれた方。そして環境問題がどれほど大きな問題であるか、このマイノリティを生み出していくのは、実は環境問題とも深い関わりがあるということも示された方です。


 そうした教会の姿勢というものに、このレオ14世はどういうふうに取り組んでいかれるんだろうか。そういったところを実は私たちは見なければならないし、私たちもまたレオ14世の語る言葉、そうしたものに私たちの信仰を照らし合わせていきながら、私たちの信仰そのものを深めていく。そして、この現代社会の中で生きていくということが大事になってくるんだろうと思います。そういう意味でこのレオ14世はこれからどのような言葉を語られるのか、そして私たち自身がそうしたものを通して教皇様との近しさというものをどうやって得ていくか。大事なことだろうと思います。


2025年5月18日 復活節第5主日 聖体拝領

 そして最後にもう1つ。レオ13世の時代に、実はカトリック教会は再び世界への宣教という、そういった熱を高めていった時代だとも言われています。私たちは宣教というと、フランシスコ・ザビエルに見られるように、16世紀ヨーロッパの大航海時代に合わせるかのようにあちらこちらにキリスト教を宣べ伝えた、そういう時代であると知ってますが、同時にレオ13世のあの18世紀後半から、再び宣教熱というのは高まっていきます。ただ、大きな違いは何かというと、その宣教は教育であったり、社会福祉的な事業であったり、医療事業であったり、そういったことを通して宣教していくっていうのが、あの19世紀後半からの宣教の1つの特徴でした。その一環として、日本にも明治の終わり頃からたくさんの修道士、シスター方がこられて病院を作ったり、学校を作ったりしながら、カトリック信仰というものを広めていこうとした。そういった時代とちょうど合わさっている。そういうふうに見てもいいと思います。


 そういったところから、では今日、どういう宣教が大切になっていくか、どういう宣教の方法があるのか、どういった形で宣教していくか、それも1つの課題だろうと思います。そうした中でまた新しいカトリックの時代を迎えるのだということ。それを心しながら、私たちの日々の信仰生活を送り、そして深めていくことができますようにご一緒にお祈りしたいと思います。


復活節第4主日

柴田 潔 神父

5/11(日)10:00- 復活節第4主日


2025年5月11日 復活節第4主日

 神様の心。どんなものなのか、なかなかわかりません。そんな神父さんに神様の心を教えてくれる、あるお姉さんと弟くんの話をします。
「お姉さんが通っている学校に僕も行きたい」と弟くんは思いました。でも、勉強はそんなに好きではなかったみたい。お姉さんはずっと「頑張れ、頑張れ」と心の中で応援していました。試験が近づいて、毎日「合格できますように」とお祈りしました。先生やお友達にも「弟が合格できますようにお祈りしてほしい」とお願いしました。


 弟くんは見事に試験に合格しました。お姉さんは嬉しくて涙が出ました。それから入学式まで、弟と学校に行ける日がとっても楽しみでした。ところが、毎日一緒に学校に行くと、お姉さんは大変でした。弟くんは電車に乗るとすぐ寝るし、電車の中でふざけるし、注意すると文句を言うし、一緒は楽しいと思っていたのに全然違いました。お母さんはお姉さんに「弟をよろしくね」と毎日言います。私は大きなため息をつきながら「しっかり頑張らなきゃ」と思います。弟は大きな赤ちゃんみたい。本当に手がかかって大変。弟くんは、お姉さんが合格できますようにとお祈りしていたこととか、電車の中で周りに迷惑かけないようにと思って注意しているということ、どこまでわかっているのかな。


2025年5月11日 復活節第4主日

 お姉さんの弟くんへの気持ちの続きです。でも、私は弟が世界で一番かっこよくて、かわいいと思ってます。きれいなお花を見つけたり、虹を見つけると「見て、見て、きれい!」と教えてくれます。弟とお母さんがお買い物に行くと、私の好きなお菓子を買ってきてくれます。面白いことを言って笑わせてくれます。私のことを頼ってくれます。泣いていたら慰めてくれます。私のたった一人の弟。ずっとずっと兄弟でいられるので、これからもよろしくね。大好きだよ。
 お姉さんは、弟くんがどこまでわかっているのかわからなくても、かっこよくてかわいい、一人だけの弟、大好き、と思っています。たった一人の弟と思って大事にする。神様の心と同じです。神様はみんなのことを「たった一人」と思って大事にしてくれています。


 次は弟くんのお姉さんへの気持ちです。僕のお姉ちゃんは、今日優しかったり、明日優しくなかったりします。転んだら絆創膏を貼ってくれたり、学校に行く時には手をつないで一緒に行ってくれます。僕が電車で寝てしまうと起こして連れて帰ってくれて、かっこいいです。ご用意が遅い時も待ってくれます。優しくないところは、怒っている時、喧嘩をしている時。ママみたいに「早くしなさい」「いい加減にしなさい」と言うところです。優しくない時もあるけど、お姉ちゃんが僕のお姉ちゃんでよかったです。いつもありがとう。

 弟くんにも神様の心がありました。お姉ちゃん、かっこいい。お姉ちゃんが僕のお姉ちゃんでよかった。いつもありがとう。いつもありがとう、と思えること。神様がみんなに思ってほしいことです。「いつもありがとう」の心。


2025年5月11日 復活節第4主日

 今日はみんな何の日か知ってますか?祭壇の前に何のお花が飾ってありますか?カーネーション。カーネーションのお花は、誰へのありがとうの気持ちのお花かな?そう、お母さんね。今日は母の日です。みんな、お母さんにどういう「ありがとう」の気持ちを言いますか?朝、起こしてくれた。学校がある日はお弁当を作ってくれる。それから、一緒に宿題見てくれる。お風呂に入ってくれる。着替えも用意してくれる。たくさん「ありがとう」の気持ちがあると思います。お母さんに「ありがとう」の気持ちをね、心の中で、また言葉にして伝えましょう。


 いつも共にいてくださるお母さんに感謝して、このミサをお捧げいたしましょう。


復活節第3主日

髙祖 敏明 神父

5/4(日)10:00- 復活節第3主日


 説教の始めに皆様にお礼の言葉を一言申し上げたいと思います。枝の主日の時に、ミャンマーのための募金を皆様にお願いいたしました。1日少しばかりの募金でしたけれども、皆様からのご奉仕が全部で100万円ありました。この100万円を東京教区も送りたいと、イエズス会のルートでも送るということでございますので、喧嘩しないようにちょうど50万50万で分けまして、50万円を東京教区経由でミャンマーに、もう1つの50万円をイエズス会経由で、ミャンマーの今回地震が激しかったあの地域に送るということにしております。皆様方のご協力に改めて感謝を申し上げます。ありがとうございました。


 さて、今日の聖書の朗読でありますけれども、福音書の一番最後に「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これで3度目である」というふうに書いてあります。今日は第3主日ですけれども、ご復活の1週目、2週目と同じヨハネ福音書からずっと読まれています。1回目。亡くなられてから3日目の週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていた。その家にイエスがいらっしゃって真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われて、手と脇腹を見せられた。十字架の釘の跡があるこの手と、それから槍で刺された脇腹のその跡ですね。


2025年5月4日 復活節第3主日

 2回目はその8日後ですけれども、1回目の時に居合わせなかったトマスが疑いを持っている。そんなイエスなんて信じない、と言ったそのトマスの疑いに答える形で、イエス様が再びいらっしゃって、ご自分の手と脇腹をトマスに触らせて「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」というふうにおっしゃった。今日の第二朗読の黙示録の中に「屠られた子羊は…誉れ、栄光、賛美を受けるにふさわしい方」と言っていますけれども、そこと呼応していることがこの1回目、2回目で言われています。


 今日の3回目のご出現では、イエスの十字架の苦難と死を示す手とか脇腹はもう言及されません。イエスの言葉に従っての魚の大漁の話と、弟子たちが「主だ!」というふうに認めてから、イエスが準備されたパンと魚を弟子たちに振る舞う話が続いています。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた」。この「イエスは来て」、「来て」というところに何か大事なメッセージが入っているようです。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた」。イエスの苦難と栄光の体であるパン、つまりイエスご自身を与えてくださる。


 一方、魚ですけれども、ご存知の方も多いでしょう。キリストの象徴として魚がよく使われます。「イエス・キリスト・神の子・救い主」という言葉の連なりをギリシャ語で表現して、それぞれの言葉の頭に来る文字をつないでいくと、ギリシャ語の魚、イクテュス(ICHTHYS)という綴りになる。ですから、魚というのが主キリストを表す印としてよく使われていますけれども、パンと組み合わされるとご聖体の秘跡のことを意味している。魚だけですと水と関わりますので、洗礼を象徴しているとも言われております。


 そしてイエス様は「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。ここも「来て」ってありますね。イエス様が来る。弟子たちが来る。そこに何か出会いがあるということを私たちに示そうとしているようにも思います。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。イエスが準備されたパンと魚をいただく。このパンは言うまでもなく、裂かれたパン。ちょうど聖櫃も裂かれたパンの図柄になっていますけれども、その裂かれたパン、イエスご自身を、イエス・キリスト、神の子、救い主との信仰を持っていただく。そのご聖体の秘跡によって、ミサの感謝の祭儀によって主イエスとの交わりを深め、養っていただく。その場合に、「今とってきた魚を持ってきなさい」とイエス様はおっしゃる。イエス様からの恵みなんですけれども、私たちの働きもそこに加えてくださる。


2025年5月4日 復活節第3主日

 一方、とれた魚が153匹と数が示されていますけれども、この153というのが何を意味しているかというのは今でも論争があってはっきりしないそうです。ただ1つの説にこういう説もあるんだそうです。当時、地中海にいる魚が153種類あった。それを根拠にして、イエス様の救いが全ての魚に及ぶ。つまり、国籍や人種を超えて、性別とか宗教を超えてすべての人に及ぶんだということがここに暗示されているんじゃないか、というふうに言う学者もいるんだそうです。なかなか面白いと言いますか、大事な指摘かなと思います。


 こうして1回目、2回目、3回目のご出現を振り返ってみますと、いずれも復活したイエスがまず弟子たちに語りかけています。私たちの努力でイエスを見つけたというんじゃなくて、イエス様の方からいらして、先に言葉をかけておられる。「あなたがたに平和があるように」「子たちよ、何か食べるものがあるか」「ここに来て、朝の食事をしなさい」というふうに、イエス様が絶えず主導権を持っていらっしゃる。私たちの信仰は、主イエス、神様からの恵みが先にあって、そこに私たちが協力していくという、そういう歩みだということがここに言われているようです。


 また、1回目の時には、イエス様が「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と派遣をされました。今日のペトロが「わたしは漁に行く」というのを、この宣教の務めというふうに読み替えてみると、この派遣の務めに弟子たちがあたろうとしているということを読み取れるかと思います。そこに他の6人の弟子も加わりますけれども、その日は何もとれなかった。そして明け方、イエス様が「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」という声に従った時に大漁になったという次第が今日述べられています。


2025年5月4日 復活節第3主日

 私たちが宣教するという時、御言葉を伝えるという時、すべての人を対象にする宣教なんですけれども、これも主イエス・キリストの声に従う。主キリストの声というのは、聖霊の声に聞き従って行うときに実りがつく。第1回目の朗読の派遣に続いて、イエス様は弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を与えられました。「だれの罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というふうにおっしゃって、聖霊を与えておられます。ですから、これらをずっと重ね合わせてこの聖書の御言葉を味わってみますと、主イエスの救いのわざの成果である罪の赦し、救いのわざの実りである罪の赦しによって神と和解し、その和解を得て、父と子と聖霊の三位一体の神様の永遠の命の交わりに私たちが加えていただく。そして、主イエスの復活によるこの和解の恵みを、私たちの周囲の人々に宣べ伝えていく。それが宣教だと。


 今日の第一朗読の中にも、「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、このイエスを導き手とし、救い主とし、ご自分の右に上げられました。わたしたちも…聖霊も、このことを証しています」と言っています。それぞれが呼応し合っているというふうに読むことができると思います。これらを集約する言葉が、実は集会祈願のところにあります。それは神様に向かって、「あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたち」というこの短い言葉です。「あなたの子どもとなる恵みを受けたわたしたち」、この短い言葉の中に、今私がずっと申し述べてきたことが、みんなギュッと詰まっています。それを今日このミサの中でよく味わい、そして自分の糧にするようにという招きがあるようです。


 今日このミサで御言葉を聴き、パンとぶどう酒の祭儀をささげる中で、感謝をささげるとともに、このミサで主イエスと出会い、私たちがますます神の子となることができるよう育てていただきましょう。そしてその喜びを生活の中で、言葉と行いをもって私たちの周囲の人々に伝えていく。そういう恵みもご一緒にお祈りいたしましょう。


PAGE TOP