トップページ おしらせ ミサライブ配信とお説教2025年6月の説教

2025年6月 ミサ説教

2025年5月


三位一体の主日 堅信式

アンドレア・レンボ 東京教区補佐司教

6/15(日)10:00- 三位一体の主日 堅信式


2025年6月15日 三位一体の主日

 堅信式を迎えられた方、おめでとうございます。本日、私たちの教会共同体は大きな喜びに包まれています。私たちは三位一体の主日を祝い、同時に、皆さんが聖霊の賜物を受ける堅信の秘跡に与ります。三位一体の神秘とは、私たちの知性で解き明かすべき謎ではなく、心を開いて受け入れるべき愛の現実です。それは抽象的な概念ではなく、私たちにご自身を与えてくださる生ける神の現れです。


 箴言の朗読が語るように、知恵は天地創造の初めから神と共にありました。神は決してご自分の愛を閉ざすことなく、創造の初めから惜しみなくこの世界に注がれてきました。三位一体の神とは、父が子を愛し、子が父に自らを委ね、聖霊がその愛の交わりとして私たちへと注がれる、まさに愛そのものの交わりです。神の内には絶え間ない関係性、開かれた交わり、豊かな自己贈与があります。確かに三位一体とは、神の内に成立している永遠の交わりではありますが、だからといって、父と子と聖霊の中で完結してしまう愛ではなく、私たち人間のもとへ派遣されたこと、聖霊を通じて私たちに与えられるものです。ここで、本日朗読された使徒パウロのローマの使徒への手紙を思い起こしましょう。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。この言葉は、今日堅信を受ける皆さんのうちに実現します。三位一体の愛の交わりである神が、聖霊を通してあなた方に愛を与えるのです。


2025年6月15日 三位一体の主日

 また、聖霊を受けるということは、神ご自身があなたの心のうちに住まわれるということです。パウロはコリントの使徒へ向けてこう言っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」。また、同じ手紙の中で次のようにも言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。ですから皆さん、どうか次のことを理解してください。皆さんはこれから受ける堅信の秘跡を通じて、三位一体の神との一致に招かれています。神の印が心に刻まれ、私たちは神の家族の一員として迎え入れられます。それは父のように愛し、子のように仕え、聖霊のように証しする者へと変えられていくということに他なりません。


 ヨハネによる福音において、イエスは弟子たちにこう語られます。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。人生には困難や疑い、悲しみ、迷いがあります。しかし、私たちは決して一人ではありません。聖霊が慰め主であり、導き手であり、キリストの記憶そのものとして、常に私たちとともにおられます。そして、善を選び、信仰にとどまり、キリストに従って生きるように私たちを助けてくださいます。


 ここで旧約聖書が、そしてイエスが教える聖霊の7つの賜物を思い起こしてみましょう。知恵、理解、判断、勇気、神を知る恵み、神を愛する、神への恐れ。この7つの賜物の中で、4つを思い起こしたいと思います。第2の賜物は理解です。この恵みによって、皆さんは神の御言葉の深さと信仰の真理を理解できるようになります。第3の賜物は判断です。この賜物は、あなたたち一人ひとりの人生における神のご計画を発見できるよう、皆さんを導きます。第4の賜物は勇気です。この賜物は、悪の誘惑に打ち勝ち、たとえ犠牲が必要な時でも、常に善を行うことを助けてくれます。第7の賜物は神への恐れの賜物です。これは恐怖のことではありません。ここで言われる恐れは、神に対する深い尊敬であり、神を敬う心です。


2025年6月15日 三位一体の主日

 今日この世界において求められるべきものとは、見せかけの優しさや一時的な美しさの愛ではなく、本物の愛と信頼できる関係、そして生きている場所、年齢、仕事など、多様性のうちにある私たちの全員の愛における一致です。三位一体の神の愛こそ、それを教えてくれる模範です。堅信は旅の終わりではなく、新たな使命の始まりです。皆さんはこれから神の愛をもって世界に平和と希望をもたらす使命を担っています。恐れないでください。神は皆さんと共におられます。聖霊は皆さんを励まし、強め、支え、導いてくださいます。そして常にあなたのそばには、愛に満ちた父、救いの子、導く霊がおられます。だから、神の愛を受け入れ、神に満たされ、そして出発してください。愛を持って生き、開かれた心で人々に仕え、三位一体の神の愛を世界の中で生きて証しする人になってください。


堅信を受けられた皆さま、おめでとうございます。


聖霊降臨の主日

髙祖 敏明 神父

6/8(日)10:00- 聖霊降臨の主日


2025年6月8日 聖霊降臨の主日

 皆様、改めて聖霊降臨の主日おめでとうございます。先ほど「聖霊の続唱」を一緒に歌いましたけれども、言葉もメロディーも非常にきれいで、心に響きます。この「聖霊の続唱」の曲を歌いながら、あるいは聞きながら、私たちの人生の、あるいはこの信仰生活の様々な苦しみや楽しみ、悲しみや喜びと重ね合わせて味わいながら、「聖霊来てください」という祈りを私たちもささげたいと思います。


 今日祝っています聖霊降臨、2つの面の実現があるというふうに言われています。1つは旧約聖書が実現したということ。もう1つはイエス様の約束が実現したということ。もちろんこれはつながっているんですけれども、最初の方の旧約の預言の実現につきましては、今日最初の第一朗読で読んでいただいた、様々な言葉を弟子たちが話したということを聞いた人たちが、この人たちは朝から酔っ払っているんだというふうな反応をしますよね。それに対してペトロが立って説教をするわけですけれども、その時にすぐこう言うんですね。「この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」。預言者ヨエルが言っていたことの実現なんですよ、ということをペトロは言って、ではどういう預言ですかということがこの後にずっと紹介されています。


 その冒頭のところはこうです。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、私の僕(しもべ)やはしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。これが実現している。そして、この預言の言葉の結びにはこう書いてあります。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」。ですから、この「預言する」ということの珍しさで終わるわけではなくて、主の名を呼ぶことを通してみんな救われる。この預言というのはそこにつながっているんだということが、この預言を引用することによって伝えられています。それを踏まえてペトロは、イエス様の死と復活の秘儀について説明していくという、そういう流れになっています。


 では、イエス様の約束の実現という面はどうでしょうか。今日読まれたのは使徒言行録2章ですけれども、その第1章のところに、イエス様が天に昇られる前に、使徒たちにおっしゃっています。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」。聖霊による洗礼がこの聖霊降臨によって実現しているという、そういう筋の運びになっています。


2025年6月8日 聖霊降臨の主日

 皆様が持っていらっしゃるこの「聖書の典礼」の表紙のところには、鳩の形をした聖霊から火のようなものが注がれている。12人の使徒、そして真ん中にマリア様がいらして、一番大きなところ、マリア様ですね。このグループの中にマリア様が中心にいらしたということは本当のことだと誰も疑いがない。ただ、この聖霊降臨を受けたのがマリア様を中心にした12人の弟子、この時はマティアがユダに代わって選ばれていますので、12人の弟子であったのか。その少し前に弟子たちは、ペトロを中心にして120人ほど集まっていたということが書かれているんですね。今日の第一朗読のところでは「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」と書いてありますので、この一同が12使徒のことを言っているのか、120人のことを言っているのかははっきりしていない。ただ、いろんな言葉を話しているということが12の数で止まっていませんので、12を超えていると言われていると考えると、12人の使徒を超えた、もっと多くの人がいたと考える方が自然かもしれません。そのようなことははっきり言われていません。


 一方、私が先ほど読んだヨハネの福音書の方。こちらの方でもイエス様の約束の実現ということがやはり語られています。先ほどお聞きになられた通り、「イエスは弟子たちに言われた。『わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる』」。そして後半のところで、この弁護者とは、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊のことだというふうに、イエス様ご自身が説明を加えておられます。この聖霊は、ヨハネの福音書によりますと、永遠に私たちと一緒にいてくださる方だと。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」。


 ですから主イエスを愛し、その言葉を守る人。「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス様の命令を守る人。主イエスを愛し、その言葉を守る共同体に三位の神がいらして一緒に住んでくださる。これは旧約時代からの神の約束の実現でもあり、イエス様がご自分の生涯をかけてもたらされた救いのわざの実現でもあります。旧約の時代から主なる神は「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」ということがいろんな預言のところで言われていましたが、それがここで実現するということで、そこに私たちは教会の誕生ということを見ています。


2025年6月8日 聖霊降臨の主日

 今日の第一朗読にありましたことを思い浮かべますと、地域を超え、言葉を超えて、その当時知られていた全世界に救いの言葉、福音が伝わる。イエス様のわざの救いの効果が及んでいく。その教会の誕生は聖霊によって結ばれているという、そこに今日の私たちの御言葉のメッセージが込められているようです。聖霊によって結ばれている、ここにいる私たちも、洗礼を受け聖霊によって結ばれている。それで1つの共同体を作っている。そしてその共同体は、ローマの教皇をはじめ、世界の教会を結んでいますし、この教会を通して地球にいる全人類を含む共同体として祈りをささげる。パウロは、今日の第二朗読ですけれどもそれを踏まえているんでしょう。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子である」。「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」ということを先ほどの朗読でも言っていました。


 では、聖霊の働きは具体的にどんなことがあるんでしょうか。ヨハネの福音書の中には「あなたがたにすべてのことを教え、わたし(イエス)が話されたことをことごとく思い起こさせてくださる」。イエス様が話されたことを、これはこういう意味だったんだ、こういうふうな力づけがあったんだということが、聖霊によってわかるようになる。皆さんも信仰生活の中で、そういう経験を何度もしていらっしゃると思います。神のことを知り、理解するには、神の霊による教え、導きが必要です。実際にパウロの書簡、聖書を読んで、あるいは旧約を読んでいるところでなかなかピンとこないという時期があります。しかし、ピンとくるということはやっぱりあるんですよね。その時に、聖霊が私たちの心に働いて理解する力を緩めてくれている。そこで結びつくということがあります。そして、それが分かったということで留まらずに、自分自身が生きていく力になる。周りの人と関わりを持っていく場合の大きな励まし、力になっているということはよくあります。皆さんの信仰生活の中でのそういう恵みを、今日のお祝いをする中でいろいろと思い起こされるといいと思います。


2025年6月8日 聖霊降臨の主日

 パウロは、「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」と言っています。そして、この霊によって私たちは「アッバ、父よ」、つまり「お父さん」というふうに呼びかけて、神の子、神の相続人となり、三位の神のいのちの交わりに加えていただけるということを、パウロは今日、強調しています。


 聖霊が様々な面で働いていることについては皆さんも経験していらっしゃるでしょう。私たちの関わりについても、先ほどの「聖霊の続唱」がいろんなことを歌いながら私たちに語りかけてくれました。そのことを思い起こしながら、「聖霊の続唱」を私たちの日々の祈りにしたいと思います。そして教皇レオ14世が私たちに勧められるように、出会いと対話によって橋を架けていく。そういう力が私たち一人ひとりに、また共同体に、教会全体に与えられますように、ご一緒に今日のミサの中で聖霊にお祈りいたしましょう。その意味でも「聖霊来てください」という祈りをご一緒にささげたいと思います。


主の昇天の祭日

髙祖 敏明 神父

6/1(日)10:00- 主の昇天の祭日


 今日私たちは、主の昇天の祝日をご一緒に祝っています。主の昇天というのは、私たちの信仰生活との関わりではどういう意味、どういう関わりがそこにあるんでしょう。皆様が手元に持っていらっしゃるかと思いますが、今日の聖書と典礼を読んでみますと、第一朗読の使徒言行録とルカの福音書の呼応関係が説明されています。ルカの福音書はイエスの活動を昇天、父なる神のもとにイエス様が昇って行かれるという出来事で結んでいる。そして使徒言行録の方は、同じルカが執筆していますけれども、同じ昇天の出来事から第二巻を書き始めている。ルカの福音書は、イエスは弟子たちを「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」というふうに書いてありますし、使徒言行録の方は、イエスは使徒たちに「話し終えると、彼らが見ているうちに天に上げられた」というふうにして、両方が呼応する形で書かれています。
 そしてこの昇天の出来事ということですけれども、先ほどミサの始めに唱えました集会祈願の中で「主の昇天に、(キリストに結ばれる)わたしたちの未来の姿が示されています」というふうに祈りました。ですから昇天、主の昇天ということは、私たちが神の子とされたんですけれども、今はまだ完成していない。それを神の子として完成される、充満する、それが未来の姿だというふうに教えているようです。もう少しそこのところを、今日の御言葉を味わいながら祈りの中で深めてみましょう。


2025年6月1日 主の昇天の祭日

 ルカの福音書も使徒言行録も共通して強調しているのが、「父が約束されたものをあなた方に送る」。使徒言行録も「父の約束されたものを待ちなさい」。「父の約束されたもの」というのがキーワードになっているようです。ルカ福音書は「父が約束されたものをあなた方に送る。高い所からの力に覆われるまでは都に留まっていなさい」。それを受けて使徒言行録では、「エルサレム(都)を離れず、父の約束されたものを待ちなさい」というふうにおっしゃっている。ということは、父の約束されたものが送られる。約束されたものが私たちのところに授けられる。そのためには、主の昇天がステップとして必要なことであったということを私たちに教えているようです。皆さん持っていらっしゃる聖書と典礼の今日のこの表紙のところには、イエス様の昇天の絵が描かれていますけども、その真ん中にマリア様がいらっしゃることにお気づきでしょうか。ルカ福音書が記していますようにマリア様に聖霊が下ってきて、神の御子イエスを宿します。そして誕生して成長し、33年の人生を通して、私たちの目に見えない神の見える姿として、私たちが信じている父なる神とはこういう方ですよ、私たちと父との関係、神様との関係はこういうことですよ、ということをいろんな形で教え、示し、私たちを勇気づけてくださった。


2025年6月1日 主の昇天の祭日

 そしてこれも集会祈願になりますけれども、父なる神は「御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と新しい地を開いてくださった」。そういう言葉を心に留めますと、主の昇天というのは、御ひとり子イエスを栄光、つまり神の力が輝いているところに高めること。父なる神の元に、元いた場所に帰ること。父なる神の望みに従ってイエスが果たされた救いのわざ、十字架の苦しみと死を通して復活に至る、その救いのわざを完結させるものがご昇天だというふうに説明されていると思います。だから、今日の第二朗読のヘブライ書は次のように説明して私たちを励ましています。イエス・キリストは「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださった。神はイエスの血によって、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった。だから信頼しきって、神に近づこうではありませんか」。神の子としての中身を本当に作り上げていこうでありませんか、というふうに私たちに励ましの言葉を与えています。


 改めて主の昇天によって私たちには何が起きるのかということを、今話してきたことをまとめてみますと、ルカ福音書は「高い所からの力に覆われる」。この高い所からの力とは言うまでもなく、聖霊を指しています。使徒言行録は「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまでわたしの証人となる」というふうにイエス様がおっしゃっています。私たちの信仰は私自身の努力とか力も必要ですけれども、神の霊・聖霊・いのちの霊を与えられてこそ力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で私の証人になるということですから、まずはこの聖霊をいただいて力を受け、「私たちのために開いてくださった新しい生きた道」、これを新しい天、新しい地と呼んでいると思いますけれども、これを歩むことができるし、「信頼しきって神に近づく」ことができる。神に近づくことができない状態を罪というふうに表現していますけれども、その罪をイエス様が取り払ってくださったおかげで、私たちは生きている神様に近づくことができる。逆に言うと、神様は聖霊を通して、イエスという形で私たちのそばにいつもいてくださる。私たちと人生を共に歩んでくださっているという言い方もできるかと思います。


2025年6月1日 主の昇天の祭日

 ですから、先ほどの集会祈願の中で、キリストに結ばれる私たちをあなた(神)のもとに導き、ともに永遠の命に入らせてください、それでこそ、昇天に示された私たちの未来の姿が実現されていくんだ、というふうに祈りましたし、教えています。と同時に、地の果てに至るまで主イエス・キリストの証人となるというんですから、私自身が満足を感じるというところにとどまらず、その喜びを世界の人々に伝えていく。それが福音宣教であり、私たちの使徒職でもあるでしょう。希望の巡礼者として、その希望の根拠は私たちの未来の姿にある。それがもうすでに与えられている。その希望をもって巡礼しながら、イエスの良き訪れ、喜びの福音を伝え、その証人となること。そこに私たちは召されています。今日のこの典礼で言いますと、後ほどご一緒に唱えます共同祈願のそれぞれの祈りが、今私が申し上げてきたようなことを祈る中身になっています。信仰宣言を唱えた後、その共同の祈りを心合わせてお祈りしたいと思います。



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