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2025年6月 ミサ説教

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聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日

ボニー・ジェームス 神父

6/29(日)10:00- 聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日


 今日、私たちは聖ペトロと聖パウロ使徒の祭日を祝います。聖ペトロと聖パウロは教会の一番最初の頃、初期教会を創った中で一番大きな役割を果たしていた2人の人物なんですね。ペトロは主にエルサレムとその近くの、いわゆるユダヤ人たちの地方などで福音宣教を行いました。それからパウロは、エルサレム以外のところ、いわゆる異邦人と言われている様々な地域に行って福音宣教を行いました。2人とも福音宣教を行った結果、様々な迫害を受けて、そして殉教されていきます。今日は祭服が赤い色になっていますが、殉教者という意味でこの赤い祭服を使っています。


2025年6月29日 聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日 司式のボニー神父

 このペトロとパウロの2人の人生は、ある意味で現代に生きている私たちにとっても印象的で、たくさんインスピレーションを与えてくださる出来事だと思います。例えばパウロの人生を見てみると分かりますけれども、パウロ自身がキリスト教の最初の人たち、初期共同体を迫害していた人です。キリスト教ということ自体に関して反対した人だったわけですね。そして、そのようにして最初の頃の迫害に関わっていたパウロなんですが、やがて回心してキリスト教を伝える人物になっていきます。これがとても不思議だと思いますね。神様の恵みというものがどれほど力強いものであるかということを教えてくださる1つの出来事だと思います。それからペトロなんですけれども、ペトロは直接にイエスの弟子として動いた人だったんですね。このペトロもイエス様と長く付き合って、そして働いて行動していたにもかかわらず、ある時、イエス様を「知らない」と言って否認する時が出てきます。とても仲のいい友達によって「知らない」と言われる、あるいは言う方もどれほど辛いということが私たちは分かりますね。そのような出来事が起こったわけです。強くイエス様を尊敬していて、そして神の子であるイエス様に信仰を持っていた人だったんですね。でも、ある時、イエス様を知らないというその出来事に至るわけです。


2025年6月29日 聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日

私たちも、信者として生きる中でそのようなことがあるかもしれないですね。もしかしたら公にキリスト信者であるということを言えない状況があるかもしれません。その時、私たちはどのような態度をするのか。私たちは今生きている日本とかで自分の信仰について話しても、それほどの迫害とか難しいこととかはないかもしれない。隠れキリシタンとか、自分の信仰を表現できない、あるいは言えない人の話はそういうふうに言うこともありますけれども、でも世界中でいろんな国、あるいは大きな迫害が起こっているところがあります。キリスト信者であるということだけでも、命の危険にさらされているたくさんの地域があります。つい最近でも、1週間前にシリアの首都ダマスカスの教会で、ミサの間に大きなテロ事故があったんですね。それによってたくさんの人が亡くなりました。大体あまりそういう地域からのニュースが表に出ないんですけれども、そういう地域もあります。もちろんそういうところで人々は強い信仰を持って生きているわけですね。ペトロもそのように迫害、あるいはイエスの弟子だということを知られたら危険だと思って否認したんですが、やがてまたそれを後悔して、イエスの弟子として立ち戻ります。そして、後で福音を宣べ伝えるために出ていきます。


 このパウロとペトロは2つの状況を意味していると思います。私たちは過去にどんなに悪いことをしていたとしても、あるいは至らない者だったとしても、神様に立ち戻った時、回心して福音を信じた時、神様が私たちを受け入れてくださいます。それがパウロの人生の意味だと思いますね。そしてペトロは、私たちはそのように神様の洗礼を受けて、そして強く熱心に信仰を生きる決意をしたとしても、たまにそれを実行できない時が出てきます。あるいは、自分の信仰を公に生きることができない、そういう難しい状況もあると思います。それが当然だと思いますね。そういう時はもしかしたらペトロのように迷うこともあるかもしれません。でも、そこで神様の恵みが必ず働いているから、私たちは絶望する必要がありません、というのがこの2人の人生を通しての意味ではないかというふうに思います。


2025年6月29日 聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日 聖体拝領 ボニー神父と髙祖神父

 今年、教会は聖年を祝います。聖年のテーマは「希望」ですね。「希望は欺かない」。どんな状況にあっても、希望が私たちを前向きに生かしてくれます。これがその聖年のテーマ、希望というテーマの意味だと思いますね。今日はこの聖ペトロと聖パウロ使徒の祭日を祝うにあたり、私たち一人ひとりがいただいている信仰に感謝して、そしてその恵みを人々と分かち合うその勇気、その力のために聖霊を通して祈りたいと思います。


10時ミサ終了後、オリエンテーションを開催しました


キリストの聖体の祭日

浦 善孝神父

6/22(日)10:00- キリストの聖体の祭日


2025年6月22日 キリストの聖体の祭日

 おはようございます。今日、私たちはキリストの聖体の主日を祝っています。イエスはご自分の体を私たちに渡しますが、福音書は「あなたがたがパンを、食べ物を与えなさい」とも言います。
私はカトリック司祭で、イエズス会の浦と申します。もうこれで3度ほどイグナチオ教会でミサを一緒に捧げさせていただいていますので、ご存知の方もいると思います。主任司祭にお礼を言いたいんですが、今日は髙祖神父様がいらっしゃいませんので、皆様にもお礼をお伝えしたいと思います。私は2012年から東ティモールに派遣されて、新しい中学校や高校を創る仕事をしています。髙祖神父さんは私の申し出を快く受け入れてくださって、こうやって皆さんと主日のミサを捧げることをお許しくださいました。どうもありがとうございます。それからイグナチオ教会の皆さんから、私たちの学校にすでに何度もご寄付をいただいております。バザーの収益とか、あるグループの活動の収益、個人的に、あるいは去年、今年も教会のお名前でご寄付をいただいております。お礼申し上げます。ありがとうございます。

2025年6月22日 キリストの聖体の祭日

 今年で派遣されて14年目になりました。東ティモールは2002年にインドネシアから独立して、独立紛争で荒廃した国にイエズス会がモデルスクールを設立するプロジェクトを作りました。ということで日本からは私が派遣されました。2013年に開校して現在に至り、私もそこで働いています。今、1か月間の予定で一時帰国して、今週の木曜日にまた向こうに戻ります。1つの目的は、学校で使う教室用の黒板21個、チョーク、黒板消しを買ってコンテナに詰めて送り出すことです。それから、いただいた本も一緒にコンテナに詰める作業をして、幸い昨日コンテナ船が横浜から出港して、私も木曜日に帰れるようになりました。もう1つの目的は、私たちが設立した学校の生徒たちの奨学金とか、先生の給与の補助とかですね、学用品を買うためにご寄付を募る目的もあります。


2025年6月22日 キリストの聖体の祭日

 2002年にインドネシアから東ティモールは独立した新しい国ですが、人口は135万人。川崎市が156万人だそうですが、それよりも少ない人口で、面積は岩手県と同じぐらいです。私たちが設立した聖イグナチオ学院という中学校と高校ですが、その目的は、独立戦争で荒廃した国に「貧富の隔たりなく、学びたいすべての子どもたちに良い教育を提供できるきちんとした学校」のモデルスクールを創ることで、インクルーシブエデュケーションとか言われますが、包摂的教育を行う学校を創って、誰でも来れる学校だから、新しい教育とか学校のモデルをそこで創りたいということです。そのアイデアとか理想を実現するために、皆様からの経済的なご援助も必要だということです。教会の入り口に、さっき柴田神父さんが紹介してくれたこのようなリーフレットを準備しています。学校を紹介する写真もありますので、どうぞ皆様、1部ずつお取りになっていただければと思います。


2025年6月22日 キリストの聖体の祭日

 イグナチオ教会に今年の4月、東ティモールから神学生が来て教会で働いております。東ティモールのイエズス会のソアレス神学生です。ソアレス神学生が今月号のマジスの一面に挨拶の言葉を書いていますので、これも1部ずつとってご覧いただければと思います。日本のイエズス会からは村山神父さんと私の2人が東ティモールに行きまして、東ティモールからはソアレス神学生が日本に来て、共に助け合いながら働いています。


 さて、今日の聖書の話ですが、第二朗読のコリントの教会への手紙でパウロは次のように言っています。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなた方のためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言った」とパウロは書いています。死を前にした極みの時に、イエス自身はパンを取って、「これはわたしの体」と言って、私たちに与えてくれました。新約聖書の福音書の今日の朗読箇所は続いて、イエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言います。「あなたがた」というのは、すなわち「私たちが」食べ物を与えなさいということです。最後の夜、イエスは自分の体を私たちに与えてくれた。福音書では「あなたがたが食べ物を与えなさい」と。


 けれども、弟子たちはイエス様にお願いしたんですね。「もう夕方になった。群衆がたくさん集まってきている。群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、食べ物を見つけるでしょう」と言います。それを受けてイエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言います。それを聞いて、弟子はこういうふうに答えるんです。「わたしたちにはパン5つと魚2匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。そういうふうにまた答えるんです。もし私たちがそこに居合わせたリーダーだったら、弟子たちが言っていることは現実的な判断、合理的な、できるリーダーの判断で、リスクマネジメントができていると思うかもしれませんが、イエスは違うことを言うんです。


 今日の聖書の箇所の1つの理解の仕方として、例えば東ティモールでは盛大なミサを祝う時はいつでも野外、市街地を離れた広場でミサがある。そこに祭壇を築いて、去年の9月教皇フランシスコも来てミサを捧げたんですが、その時も野外ミサです。午後4時から教皇様のミサがある。私は準備の1つを手伝うのに朝5時半に会場に行った。もう人々がたくさん、午後4時のミサを待っているんですよ。大体そんな時はですね、人々は自分で水とか食べ物を持ってきて、午後4時まで待つんです。だから、東ティモールの学校の生徒たちはそんなことを知っている。それでこの福音の箇所の説明で、「実はみんな食べ物を持っていたけど、人に分けてあげたくなくて、自分の分は自分だけ取っておいて、食べたいから黙って持っていた。でも、イエス様が食前の祈りをして、自分たちが持っている5つのパンと2匹の魚を配って食べ始めたら、みんなも自分たちが持ってきた食べ物を出して食べ始め、持っていない人には持っている人が分けてあげた」と言うとみんな納得するんです。


2025年6月22日 キリストの聖体の祭日

 学校の職員が休憩室で昼ご飯食べる時に、時々先生が「今日はご飯がない」って言ったら、他の先生たちがすぐに分けてあげる。おかずは普段でもみんなの前に出し合ってみんなが人のおかずを勝手に食べるという、そういう習慣があるから、こういう説明をしたらみんな納得するんです。イエスは次のように言います。「これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念として行いなさい」と言って、パンを私たちに分けてくれます。イエスは自分のすべてを私たちに与えてくれました。じゃあ、イエスに従う私たちはどうすればよいのかということでしょう。


 「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱えた」。これは食前の祈りです。すると、「持っているものを人に渡したくない」と思う気持ちが変わって人々は食事を始めて、そしてすべての人が満腹して、残ったパン屑を集めると12の籠にいっぱいになった。もし私たちが今日、聖体の主日を祝っていますが、ここにいる私たちがみんなで分け合ったら同じことが起こるかもしれません。もし私たちが同じようなことをしたら、12の籠に余るほど食べ物がまだある。それは与えてもらって満腹した人、あるいは与えてあげて満腹、そして自分も満腹した人。与えられた人、与えた人、2人とも満足できることだったと思います。私たちは信者として、イエス様、神様に恵みを与えられて「赦してもらいたい、与えてもらいたい、招いてもらいたい、不安から解放されたい、病気を癒してもらいたい」と、それが私たちの信者になった動機かもしれませんが、イエス様は、「恵みを与えなさい、赦しなさい、招きなさい、解放してあげなさい、病人を世話してあげなさい」とも私たちに言っているんだと思います。


 東ティモールは今年で独立して23年目。日本は今、第二次世界大戦後80周年ですけれども、戦争の惨禍とか第二次世界大戦後の復興を、私たちはひょっとしたら忘れてしまったかもしれない。戦後教会はですね、たくさん宣教者、ミッショナリーを受け入れてきて、そして日本はミッションの対象で、日本の教会は派遣された宣教師を通して資金を得て、教会を建てたり病院を建てたりとか、カトリック学校を設立していきました。今は、自分たちの力で教会を建てることができた、自分たちの力で学校を建てることができましたと言いますが、その基礎を作ってくれたのは多くの場合、宣教師の人たちです。上智大学とかイグナチオ教会とか、いろんなカトリック学校とか大学とかも同じだと思います。


 戦後80年たって、経済的豊かさとか物を所有する豊かさに満足してしまって、私たちは与えられるだけで、自分たちが与えることとか世話をすることを忘れてしまったかもしれません。実はその経済的豊かさとか物を所有することと、満足して幸せだと思って、納得した自分の生き方だと思える人生とは連続してないことがあります。何らかの断絶がある。うすうすそういうことに私たちは気がついています。その断絶とかがあるがゆえに、私たちは信者として納得して生きよう、ミッションを果たそうとする原動力とか、モチベーションを失って、ダイナミクスがない信仰生活になってしまうかもしれません。もし私たちがイエス様が言うように、「あなたたちが食べ物を与えなさい」という言葉に従おうとするなら、おそらくイエス様は弟子たちにチャレンジしたのかもしれない。どうやってみんなで分け合うか、教えてあげたかったのかもしれません。今日、イグナチオ教会で献血がありますが、それも1つだと思います。教会がダイナミクスを持っていて、人のために尽くすということの表れだと思います。


2025年6月22日 キリストの聖体の祭日

 回心には3つのレベルがあると言われています。知的回心(わかった)、倫理的回心(そうする義務があると感じる)、3つ目は宗教的回心と言われており、スピリチュアルな回心です。分かった、事実を理解して義務だと思っても、義務だと思ったことを実行するにはスピリチュアルな回心が必要だということです。宗教的な判断となります。それは金銭的なものを所有することによって感じられる「豊かさ」や「幸せ」とは異なった次元で感じられるようなものです。私が東ティモールに行く時ですね、高校時代からの親友に東ティモールに行くって言ったら、その親友は信者じゃないけど何て言ったかって言うと、「そうやろね。やっぱりね。腑に落ちたわい、そうこなくっちゃ」って、「お前が神父ということは分かったけど、行くんだったらやっぱりお前、そういう生活してるんだっていうことが今、分かった」という話をした。私は、行ったら寂しくなるなと言われると思ったら、ああ、よかったねという話をされたんですね。


2025年6月22日 キリストの聖体の祭日

 教皇フランシスコは「兄弟のみなさん」という回勅で次のように言っています。「『神を信じて賛美することが、神の心にかなうことを裏付けるわけではない』ことを示しています」。神を賛美することが神の心にかなうことを裏付けるものではない。フランシスコは同じ回勅で「人間は余すところなく、自分自身を与えない限り、自己実現も成長もなく、充足も得られないように造られています。他者との出会いがなければ、自分の真の姿すらも徹底して知ることはできません」。そして最後に「自分たちの内に、破壊の力もあることを自覚しなければなりません」。私たちは今日、聖体の祝日をここで祝いますが、私たちのこの共同体が、パンを分け与える人、パンをいただく人、そして両方が満足することができるようになればいいと思います。


三位一体の主日 堅信式

アンドレア・レンボ 東京教区補佐司教

6/15(日)10:00- 三位一体の主日 堅信式


2025年6月15日 三位一体の主日

 堅信式を迎えられた方、おめでとうございます。本日、私たちの教会共同体は大きな喜びに包まれています。私たちは三位一体の主日を祝い、同時に、皆さんが聖霊の賜物を受ける堅信の秘跡に与ります。三位一体の神秘とは、私たちの知性で解き明かすべき謎ではなく、心を開いて受け入れるべき愛の現実です。それは抽象的な概念ではなく、私たちにご自身を与えてくださる生ける神の現れです。


 箴言の朗読が語るように、知恵は天地創造の初めから神と共にありました。神は決してご自分の愛を閉ざすことなく、創造の初めから惜しみなくこの世界に注がれてきました。三位一体の神とは、父が子を愛し、子が父に自らを委ね、聖霊がその愛の交わりとして私たちへと注がれる、まさに愛そのものの交わりです。神の内には絶え間ない関係性、開かれた交わり、豊かな自己贈与があります。確かに三位一体とは、神の内に成立している永遠の交わりではありますが、だからといって、父と子と聖霊の中で完結してしまう愛ではなく、私たち人間のもとへ派遣されたこと、聖霊を通じて私たちに与えられるものです。ここで、本日朗読された使徒パウロのローマの使徒への手紙を思い起こしましょう。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。この言葉は、今日堅信を受ける皆さんのうちに実現します。三位一体の愛の交わりである神が、聖霊を通してあなた方に愛を与えるのです。


2025年6月15日 三位一体の主日

 また、聖霊を受けるということは、神ご自身があなたの心のうちに住まわれるということです。パウロはコリントの使徒へ向けてこう言っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」。また、同じ手紙の中で次のようにも言っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。ですから皆さん、どうか次のことを理解してください。皆さんはこれから受ける堅信の秘跡を通じて、三位一体の神との一致に招かれています。神の印が心に刻まれ、私たちは神の家族の一員として迎え入れられます。それは父のように愛し、子のように仕え、聖霊のように証しする者へと変えられていくということに他なりません。


 ヨハネによる福音において、イエスは弟子たちにこう語られます。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」。人生には困難や疑い、悲しみ、迷いがあります。しかし、私たちは決して一人ではありません。聖霊が慰め主であり、導き手であり、キリストの記憶そのものとして、常に私たちとともにおられます。そして、善を選び、信仰にとどまり、キリストに従って生きるように私たちを助けてくださいます。


 ここで旧約聖書が、そしてイエスが教える聖霊の7つの賜物を思い起こしてみましょう。知恵、理解、判断、勇気、神を知る恵み、神を愛する、神への恐れ。この7つの賜物の中で、4つを思い起こしたいと思います。第2の賜物は理解です。この恵みによって、皆さんは神の御言葉の深さと信仰の真理を理解できるようになります。第3の賜物は判断です。この賜物は、あなたたち一人ひとりの人生における神のご計画を発見できるよう、皆さんを導きます。第4の賜物は勇気です。この賜物は、悪の誘惑に打ち勝ち、たとえ犠牲が必要な時でも、常に善を行うことを助けてくれます。第7の賜物は神への恐れの賜物です。これは恐怖のことではありません。ここで言われる恐れは、神に対する深い尊敬であり、神を敬う心です。


2025年6月15日 三位一体の主日

 今日この世界において求められるべきものとは、見せかけの優しさや一時的な美しさの愛ではなく、本物の愛と信頼できる関係、そして生きている場所、年齢、仕事など、多様性のうちにある私たちの全員の愛における一致です。三位一体の神の愛こそ、それを教えてくれる模範です。堅信は旅の終わりではなく、新たな使命の始まりです。皆さんはこれから神の愛をもって世界に平和と希望をもたらす使命を担っています。恐れないでください。神は皆さんと共におられます。聖霊は皆さんを励まし、強め、支え、導いてくださいます。そして常にあなたのそばには、愛に満ちた父、救いの子、導く霊がおられます。だから、神の愛を受け入れ、神に満たされ、そして出発してください。愛を持って生き、開かれた心で人々に仕え、三位一体の神の愛を世界の中で生きて証しする人になってください。


堅信を受けられた皆さま、おめでとうございます。


聖霊降臨の主日

髙祖 敏明 神父

6/8(日)10:00- 聖霊降臨の主日


2025年6月8日 聖霊降臨の主日

 皆様、改めて聖霊降臨の主日おめでとうございます。先ほど「聖霊の続唱」を一緒に歌いましたけれども、言葉もメロディーも非常にきれいで、心に響きます。この「聖霊の続唱」の曲を歌いながら、あるいは聞きながら、私たちの人生の、あるいはこの信仰生活の様々な苦しみや楽しみ、悲しみや喜びと重ね合わせて味わいながら、「聖霊来てください」という祈りを私たちもささげたいと思います。


 今日祝っています聖霊降臨、2つの面の実現があるというふうに言われています。1つは旧約聖書が実現したということ。もう1つはイエス様の約束が実現したということ。もちろんこれはつながっているんですけれども、最初の方の旧約の預言の実現につきましては、今日最初の第一朗読で読んでいただいた、様々な言葉を弟子たちが話したということを聞いた人たちが、この人たちは朝から酔っ払っているんだというふうな反応をしますよね。それに対してペトロが立って説教をするわけですけれども、その時にすぐこう言うんですね。「この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」。預言者ヨエルが言っていたことの実現なんですよ、ということをペトロは言って、ではどういう預言ですかということがこの後にずっと紹介されています。


 その冒頭のところはこうです。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、私の僕(しもべ)やはしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。これが実現している。そして、この預言の言葉の結びにはこう書いてあります。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」。ですから、この「預言する」ということの珍しさで終わるわけではなくて、主の名を呼ぶことを通してみんな救われる。この預言というのはそこにつながっているんだということが、この預言を引用することによって伝えられています。それを踏まえてペトロは、イエス様の死と復活の秘儀について説明していくという、そういう流れになっています。


 では、イエス様の約束の実現という面はどうでしょうか。今日読まれたのは使徒言行録2章ですけれども、その第1章のところに、イエス様が天に昇られる前に、使徒たちにおっしゃっています。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」。聖霊による洗礼がこの聖霊降臨によって実現しているという、そういう筋の運びになっています。


2025年6月8日 聖霊降臨の主日

 皆様が持っていらっしゃるこの「聖書の典礼」の表紙のところには、鳩の形をした聖霊から火のようなものが注がれている。12人の使徒、そして真ん中にマリア様がいらして、一番大きなところ、マリア様ですね。このグループの中にマリア様が中心にいらしたということは本当のことだと誰も疑いがない。ただ、この聖霊降臨を受けたのがマリア様を中心にした12人の弟子、この時はマティアがユダに代わって選ばれていますので、12人の弟子であったのか。その少し前に弟子たちは、ペトロを中心にして120人ほど集まっていたということが書かれているんですね。今日の第一朗読のところでは「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」と書いてありますので、この一同が12使徒のことを言っているのか、120人のことを言っているのかははっきりしていない。ただ、いろんな言葉を話しているということが12の数で止まっていませんので、12を超えていると言われていると考えると、12人の使徒を超えた、もっと多くの人がいたと考える方が自然かもしれません。そのようなことははっきり言われていません。


 一方、私が先ほど読んだヨハネの福音書の方。こちらの方でもイエス様の約束の実現ということがやはり語られています。先ほどお聞きになられた通り、「イエスは弟子たちに言われた。『わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる』」。そして後半のところで、この弁護者とは、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊のことだというふうに、イエス様ご自身が説明を加えておられます。この聖霊は、ヨハネの福音書によりますと、永遠に私たちと一緒にいてくださる方だと。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」。


 ですから主イエスを愛し、その言葉を守る人。「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエス様の命令を守る人。主イエスを愛し、その言葉を守る共同体に三位の神がいらして一緒に住んでくださる。これは旧約時代からの神の約束の実現でもあり、イエス様がご自分の生涯をかけてもたらされた救いのわざの実現でもあります。旧約の時代から主なる神は「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」ということがいろんな預言のところで言われていましたが、それがここで実現するということで、そこに私たちは教会の誕生ということを見ています。


2025年6月8日 聖霊降臨の主日

 今日の第一朗読にありましたことを思い浮かべますと、地域を超え、言葉を超えて、その当時知られていた全世界に救いの言葉、福音が伝わる。イエス様のわざの救いの効果が及んでいく。その教会の誕生は聖霊によって結ばれているという、そこに今日の私たちの御言葉のメッセージが込められているようです。聖霊によって結ばれている、ここにいる私たちも、洗礼を受け聖霊によって結ばれている。それで1つの共同体を作っている。そしてその共同体は、ローマの教皇をはじめ、世界の教会を結んでいますし、この教会を通して地球にいる全人類を含む共同体として祈りをささげる。パウロは、今日の第二朗読ですけれどもそれを踏まえているんでしょう。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子である」。「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」ということを先ほどの朗読でも言っていました。


 では、聖霊の働きは具体的にどんなことがあるんでしょうか。ヨハネの福音書の中には「あなたがたにすべてのことを教え、わたし(イエス)が話されたことをことごとく思い起こさせてくださる」。イエス様が話されたことを、これはこういう意味だったんだ、こういうふうな力づけがあったんだということが、聖霊によってわかるようになる。皆さんも信仰生活の中で、そういう経験を何度もしていらっしゃると思います。神のことを知り、理解するには、神の霊による教え、導きが必要です。実際にパウロの書簡、聖書を読んで、あるいは旧約を読んでいるところでなかなかピンとこないという時期があります。しかし、ピンとくるということはやっぱりあるんですよね。その時に、聖霊が私たちの心に働いて理解する力を緩めてくれている。そこで結びつくということがあります。そして、それが分かったということで留まらずに、自分自身が生きていく力になる。周りの人と関わりを持っていく場合の大きな励まし、力になっているということはよくあります。皆さんの信仰生活の中でのそういう恵みを、今日のお祝いをする中でいろいろと思い起こされるといいと思います。


2025年6月8日 聖霊降臨の主日

 パウロは、「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」と言っています。そして、この霊によって私たちは「アッバ、父よ」、つまり「お父さん」というふうに呼びかけて、神の子、神の相続人となり、三位の神のいのちの交わりに加えていただけるということを、パウロは今日、強調しています。


 聖霊が様々な面で働いていることについては皆さんも経験していらっしゃるでしょう。私たちの関わりについても、先ほどの「聖霊の続唱」がいろんなことを歌いながら私たちに語りかけてくれました。そのことを思い起こしながら、「聖霊の続唱」を私たちの日々の祈りにしたいと思います。そして教皇レオ14世が私たちに勧められるように、出会いと対話によって橋を架けていく。そういう力が私たち一人ひとりに、また共同体に、教会全体に与えられますように、ご一緒に今日のミサの中で聖霊にお祈りいたしましょう。その意味でも「聖霊来てください」という祈りをご一緒にささげたいと思います。


主の昇天の祭日

髙祖 敏明 神父

6/1(日)10:00- 主の昇天の祭日


 今日私たちは、主の昇天の祝日をご一緒に祝っています。主の昇天というのは、私たちの信仰生活との関わりではどういう意味、どういう関わりがそこにあるんでしょう。皆様が手元に持っていらっしゃるかと思いますが、今日の聖書と典礼を読んでみますと、第一朗読の使徒言行録とルカの福音書の呼応関係が説明されています。ルカの福音書はイエスの活動を昇天、父なる神のもとにイエス様が昇って行かれるという出来事で結んでいる。そして使徒言行録の方は、同じルカが執筆していますけれども、同じ昇天の出来事から第二巻を書き始めている。ルカの福音書は、イエスは弟子たちを「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」というふうに書いてありますし、使徒言行録の方は、イエスは使徒たちに「話し終えると、彼らが見ているうちに天に上げられた」というふうにして、両方が呼応する形で書かれています。
 そしてこの昇天の出来事ということですけれども、先ほどミサの始めに唱えました集会祈願の中で「主の昇天に、(キリストに結ばれる)わたしたちの未来の姿が示されています」というふうに祈りました。ですから昇天、主の昇天ということは、私たちが神の子とされたんですけれども、今はまだ完成していない。それを神の子として完成される、充満する、それが未来の姿だというふうに教えているようです。もう少しそこのところを、今日の御言葉を味わいながら祈りの中で深めてみましょう。


2025年6月1日 主の昇天の祭日

 ルカの福音書も使徒言行録も共通して強調しているのが、「父が約束されたものをあなた方に送る」。使徒言行録も「父の約束されたものを待ちなさい」。「父の約束されたもの」というのがキーワードになっているようです。ルカ福音書は「父が約束されたものをあなた方に送る。高い所からの力に覆われるまでは都に留まっていなさい」。それを受けて使徒言行録では、「エルサレム(都)を離れず、父の約束されたものを待ちなさい」というふうにおっしゃっている。ということは、父の約束されたものが送られる。約束されたものが私たちのところに授けられる。そのためには、主の昇天がステップとして必要なことであったということを私たちに教えているようです。皆さん持っていらっしゃる聖書と典礼の今日のこの表紙のところには、イエス様の昇天の絵が描かれていますけども、その真ん中にマリア様がいらっしゃることにお気づきでしょうか。ルカ福音書が記していますようにマリア様に聖霊が下ってきて、神の御子イエスを宿します。そして誕生して成長し、33年の人生を通して、私たちの目に見えない神の見える姿として、私たちが信じている父なる神とはこういう方ですよ、私たちと父との関係、神様との関係はこういうことですよ、ということをいろんな形で教え、示し、私たちを勇気づけてくださった。


2025年6月1日 主の昇天の祭日

 そしてこれも集会祈願になりますけれども、父なる神は「御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と新しい地を開いてくださった」。そういう言葉を心に留めますと、主の昇天というのは、御ひとり子イエスを栄光、つまり神の力が輝いているところに高めること。父なる神の元に、元いた場所に帰ること。父なる神の望みに従ってイエスが果たされた救いのわざ、十字架の苦しみと死を通して復活に至る、その救いのわざを完結させるものがご昇天だというふうに説明されていると思います。だから、今日の第二朗読のヘブライ書は次のように説明して私たちを励ましています。イエス・キリストは「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださった。神はイエスの血によって、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった。だから信頼しきって、神に近づこうではありませんか」。神の子としての中身を本当に作り上げていこうでありませんか、というふうに私たちに励ましの言葉を与えています。


 改めて主の昇天によって私たちには何が起きるのかということを、今話してきたことをまとめてみますと、ルカ福音書は「高い所からの力に覆われる」。この高い所からの力とは言うまでもなく、聖霊を指しています。使徒言行録は「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」。「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまでわたしの証人となる」というふうにイエス様がおっしゃっています。私たちの信仰は私自身の努力とか力も必要ですけれども、神の霊・聖霊・いのちの霊を与えられてこそ力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で私の証人になるということですから、まずはこの聖霊をいただいて力を受け、「私たちのために開いてくださった新しい生きた道」、これを新しい天、新しい地と呼んでいると思いますけれども、これを歩むことができるし、「信頼しきって神に近づく」ことができる。神に近づくことができない状態を罪というふうに表現していますけれども、その罪をイエス様が取り払ってくださったおかげで、私たちは生きている神様に近づくことができる。逆に言うと、神様は聖霊を通して、イエスという形で私たちのそばにいつもいてくださる。私たちと人生を共に歩んでくださっているという言い方もできるかと思います。


2025年6月1日 主の昇天の祭日

 ですから、先ほどの集会祈願の中で、キリストに結ばれる私たちをあなた(神)のもとに導き、ともに永遠の命に入らせてください、それでこそ、昇天に示された私たちの未来の姿が実現されていくんだ、というふうに祈りましたし、教えています。と同時に、地の果てに至るまで主イエス・キリストの証人となるというんですから、私自身が満足を感じるというところにとどまらず、その喜びを世界の人々に伝えていく。それが福音宣教であり、私たちの使徒職でもあるでしょう。希望の巡礼者として、その希望の根拠は私たちの未来の姿にある。それがもうすでに与えられている。その希望をもって巡礼しながら、イエスの良き訪れ、喜びの福音を伝え、その証人となること。そこに私たちは召されています。今日のこの典礼で言いますと、後ほどご一緒に唱えます共同祈願のそれぞれの祈りが、今私が申し上げてきたようなことを祈る中身になっています。信仰宣言を唱えた後、その共同の祈りを心合わせてお祈りしたいと思います。



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