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2025年7月 ミサ説教

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年間第17主日

髙祖 敏明 神父

7/27(日)10:00- 年間第17主日


 聖イグナチオの祝日おめでとうございます。実際は31日ですけれども、今日はそのお祝いをしていますので、私たちもそのイグナチオのお祝いのミサを一緒にささげたいと思います。

 今日の3つの朗読を今聞きましたけれども、皆さんもお気づきになっていらっしゃるでしょう。共通している点があります。神は私たち人間を一人でも多く救いたいと望まれ、それが実現するように自ら行動される。こういう点が共通していると思います。創世記の中で、先ほどの朗読を聞いていると、アブラハムの願いに神様が譲歩に譲歩を重ねてというふうに見えますけれども、ここはアブラハムの願いを通して、神様が実のところ何を望んでいらっしゃるかということが徐々に明らかになっていると読むところだと思います。つまり、「正しい者がその地に10人いればその町は滅ぼさない」。町も人も滅ぼさないで皆を救いたいんだ、という神様のみ心がそこに表れている。第二朗読のコロサイ書の中では、「神は私たちの一切の罪を赦し、(御子)キリストと共に生かしてくださった」。神はご自分の方から救いの手を差し伸べてくださっているということをここでも言っています。


 今読んだ福音は、後半のところですが「執拗に頼みなさい、探しなさい。天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。神様は私たち人間をできる限り、一人ひとりを救いたいということを望んでいらっしゃるし、そのように行動していらっしゃる。今日お祝いしていますロヨラのイグナチオはそのことに体験的に気づいた人です。そして、それをできる限り多くの人々に伝えようとした人です。ただ、今日の福音を見ますと、神様がそうして救いたいと思っていらっしゃる時に、神様が一方的にそれをなさるわけではない。私たち人間の側の方から、求めること、探すこと、門を叩くこと。そうやって人間の側の方から心と生き方を整えていくことが必要だ。その整え方を自分の体験から「霊操」という本にまとめたのがイグナチオです。


7/27(日)10:00- 年間第17主日

 このことについてまた少し後で戻っていきますけれども、皆さんもシノドスのことをご存じですね。去年の10月に終わりまして、そのシノドスの最終文書が今、日本語でも翻訳されて書店でも売っています。これはぜひ皆様にも手に取って読んでいただきたい。日本語だけじゃなくて、英語でも出ていますのでお読みになっていただきたいと思います。そのごく初めのところに、マグダラのマリアがご復活のイエス様と出会うあのことをイメージしながら、こういうことが書かれています。「教会は、決定的な歴史の出来事、イエスの復活を世に証しするために存在しています。復活の信仰に与り、その証人となるには、自分の内面的なむなしさ、恐れ、疑い、罪の闇の自覚が必要だと福音書は教えています」。


 確かに福音書を見ていきますと、イエス様の救いが到達するには、自分が何か足らないと思っている人に福音が届いています。自分は正しいと思っている人、立派な生活をしていると思っている人には福音は入っていく余地がないようです。そういう自覚が必要だということを福音書は教えている。「ですが闇の中にあっても(罪とか疑いとか恐れの闇の中にあっても)勇気を出して外に出て探し求める人は、実は自分が主イエスから探されていて、名を呼ばれており、(罪が)赦されていて、兄弟姉妹へと遣わされていることに気づくのです」。自分が探し求めているという行動を起こせば、実は神様の方が呼び、探し求めていらっしゃったことに気づいていく。私たちの信仰はそこにあるということを、マグダラのマリアの例を通して言っていますが、その同じことをロヨラのイグナチオは自分の体験で学んだのでした。


 皆さんもご存じだと思いますが、ロヨラのイグナチオは「神のみ旨を探し、それに従う巡礼者」というふうに自分のことを言ってます。戦いの場で大怪我をして、その療養している時に回心を遂げます。その回心の途上で読んだ聖人伝に影響されたんでしょう。自分が英雄的と思われるやり方、これならば神様が認めてくれるだろうというような自己流でキリストに従おうとした。その時のイグナチオの神様の理解というのは、主なる神は天の高みにいらして、尊い方、厳しい方で、自分が苦行を積んで忠実にやっていくということを示せば神様にお会いできるというふうに思って、いろいろな自己流でのキリストの従い方を行おうとする。例えば自分が身につけていた貴族の騎士の立派な衣服を、そのそばにいた乞食が着ているものと取り替え、貧しい身なりをする。マンレサというところに行って厳しい修行をするんですけれども、身なりに気を使わず、髭も髪も伸ばし放題。そして極端な断食、苦行、長い時間の祈りということを続けていく。


 そのために一生身体の不調に悩むことになるんですけども、日本でいう形から入っていくという、この意味ではある意味でイグナチオは正しい道を選んだと思います。私たちも何かのことを身につける時に、いろいろ身につけるという意味でいきますと、理屈から入るよりも形から入っていく方が確かに早い面があることがあるんですよね。それで、形から入って行ってだんだん自分自身が気づいていったのは、神様というのは天のどこか高いところにいらして厳しい顔をして私たちを睨みつけているという存在ではなくて、私のすぐそばにいて、親や先生が子どもを導いていくように神様が私を教えようとしていらっしゃるということにパッと気づくんですよね。恵みによって。そして神様という存在を、外にあるものから自分のそばにいるというもっと親しいもの、心の内面で親しいものというところに気づいていくと同時に、もう1つ大事なことに気づいています。私たちの心の動きです。


 信仰の歩みをしていく、あるいは毎日の生活を歩んでいく中でも、心の中に私たちも様々な動きが出てきますが、大きく分けると2つの動きがある。1つは神様に従おうという思いを強め、励ましとか慰めを与える方向に動く心の動き。もう1つは、神様に従うといってもこういう難しさがあって、こんなところで罪を犯して、なかなか神様は厳しい方で、信じても何の得にもならないよというような形で、信じるということを思いとどませるような、他の方向に曲げてしまおうとするような、そういう心の動き。私たち人間はそういう両方の動きの中に置かれているということにこの人は気づいている。そして励ましという方向をずっと自分がやろうとすると、この励ましとか慰めが結構続く。しかし、困難だという思いにとらわれていくと非常に心が荒んでいくというか、人生が虚しいものに思えていく。こういうふうなところに人間の心がいるということにこの人は気づいていく。


 そしてその背後に、良い霊と、私たちをダメにしようとする霊が働いているということに気づいていく。その中で私たちが良い霊に気づいてそちらを選び取っていく。そして、選び取るとともにそれを実行していくということに、私たちが聖霊に従うということがそれで実現できるんだということに気づいていく。そういう自らの心の遍歴体験をまとめた霊操と、今申し上げた「霊の識別」。この仕方を伝授して心と生き方を整える。それが神様を求める、探し求めるということとつながっていく。つながることによって神と出会うことができる。神に従うことができる。そういうことをこの方は体験的に学んでいく。


7/27(日)10:00- 年間第17主日

 しかし、それをやろうとしても自己流でやっているとうまくいかない。教会の権威筋からも認められない。どうするか。教会の権威ある人や周囲の人々からも認められ、受け入れられることが必要。そのためにどうするか。その当時の教会の奉仕者になるために、司祭になるための勉強を始めます。そしてこの方はラテン語も十分身につけていなかったようですから、聖地の巡礼を果たしてスペインのバルセロナに帰っていくんですけれども、10歳前後の子どもたちに混じってラテン語を勉強します。今日もラテン語の聖歌を聞いていますけれども、イグナチオもこのデ・アンジェリスを聞きながら育ったに違いありません。


 そして、今からちょうど500年前。イグナチオは1491年に生まれて1556年に亡くなっていますので、今からちょうど500年前というと1525年7月。この時イグナチオはどこにいたか。調べてみると、バルセロナでラテン語を勉強してそれがある程度身についた。それでその次の段階の人文学で哲学を勉強するために、マドリッドのちょっと東側にアルカラ・デ・エナレスという大学の町があるんですが、そこに移動して哲学を勉強し始める。そういう段階にいるということが分かりました。ですから、ずいぶんラテン語で苦労したんだろうなと思いますけれども、500年前のイグナチオはまだ司祭になっていなくて、その勉強を始める。そして自分が恵みで受けたものを人々に伝えるという、そこに自分の使命、ミッションを受け取ったんですね。


 そこでいろんな大学の町を回って、最終的にパリ大学に行って哲学と神学を学び、そこで自分と同じ理想、同じようなミッションを考える人を集める。これも霊操をすることによって集めたんですが、同志6人、イグナチオを入れて7人が集まった。そのうちの1人がザビエルです。1534年8月15日に、この7人でパリのモンマルトルの丘のちょっと下ったところで誓いを立てる。これがイエズス会の実質的な誕生になります。ローマ教皇から正式な修道会として認められるのが1540年の9月。そして興味深いのは、その半年前の1540年の3月に、すでにザビエルをインドに派遣するということでザビエルは動き始めています。


 こうしてイグナチオを中心にしたイエズス会の面々は皆、霊操と霊の識別の仕方を自分がまずは身につけ、それを人々に伝えて、福音を信じて悔い改め、キリストの弟子になって、神と人に仕える生き方を人々に伝えるという、この宣教と司牧の活動に取り組んでいきます。ザビエルがインドを経て日本にやってくるのは、そうした活動の一環というか、流れの中です。言い換えますと、疑いや罪、絶望の闇の中にあっても、勇気を出してその自分の状況から外に出て、生きておられる神を探し求める人は、実は自分がイエス様から探されていて名を呼ばれているということに気づく。しかも自分でダメだと思い込んでいる、それを神様はイエス様のわざを通して赦してくださっていて、そしてその赦しと喜びのメッセージを兄弟姉妹に伝えるように、生き方を通して伝えるようにというふうに派遣されている。このことに気づいていく。自分が、神から愛され大切にされていることに気づく。そして自らが神を愛し、人を愛するよう派遣されていることに気づいていく。


 今日のロヨラのイグナチオの生涯を思い起こしながら福音を聞き、こうしたことを少し思い巡らしながら、祈りの中で深めながら、私たちも神様から名を呼ばれていること、大事にされていることに気づき、それを自覚できる恵みを願いましょう。ロヨラのイグナチオのとりなしを通して、そしてこの気づきを深めて実行し、人々にこの喜び、解放の喜び、生きる喜びを人々に伝えていく恵みをお祈りしたいと思います。ロヨラのイグナチオのとりなしを願いながら、そういう私たちの祈りと願いを捧げたいと思います。


年間第16主日 幼児洗礼式

髙祖 敏明 神父

7/20(日)10:00- 年間第16主日


 今日の 第一朗読と福音は、両方とも「おもてなし」ということがテーマになっている。皆様もお気づきのことだと思います。 2020年の東京オリンピックを招致するとき、日本の団体が「おもてなし」というのを出して、日本の特徴だということを表した。そういうことを思い出しておりますけれども、本日は幼児洗礼式がここで行われます。先ほど申し上げました通り、今日洗礼を受ける赤ちゃんの中には、生まれて2. 5ヶ月、2ヶ月半の赤ちゃんから5歳の子どもまでおります。そのご家族の皆様、おめでとうございます。そして代父母の皆様もおめでとうございます。そして、私たち共同体にとりましても大きな喜びの日でありますので、この感謝のミサをご一緒にささげたいと思います。


7/20(日)10:00- 年間第16主日

 赤ちゃんや子どもは「未来からの留学生」というふうに言うことがあります。その意味でいきますと、ご夫婦のもとを訪れた、いわばお客様だというふうに言うことができるのかもしれません。その意味では、今日洗礼をお父さん、お母さんの信仰に基づいて洗礼を授けるというのは、深い意味でこのお客様、未来からの留学生を「もてなす」ということが言えるんだろうと思います。教会の共同体としましても、心から歓迎し、ご両親、ご家族、代父母の皆様と喜びを分かち合いたいと思います。 そして今日洗礼を受ける一人ひとりに、神様からの祝福と導きがあるようにご一緒にお祈りをさげたいと思います。


 今日の第一朗読、創世記では、突然目の前に現れた客人をもてなすために、走り回って手配し指示するアブラハムの姿が描かれています。「何か召し上がるもの」を用意しますからと言って、これは言語では「かけらのパン」、つまりパンのかけらというふうな非常に小さなことを言っているんですが、実際には上等の小麦粉によるパン菓子、柔らかくて美味しそうな小牛の肉、凝乳を用意すると。ですから、豪華な食事を提供しているということが言えます。自らが持っている最も良いもので、お客様、相手を歓迎し、もてなすということがそこに言われているように思います。そして今日の福音の第一朗読の最後のところでは、そのもてなしのお返しになるんでしょうか。来年、あなた方には新しいお客さんが来ますよ、つまり赤ちゃんが生まれますよ、ということが言われています。


 一方、先ほど読み上げた福音ですけれども、イエスとその弟子たちを迎えてせわしなく立ち働いて、もてなしに心を砕くマルタの姿が描かれています。アブラハムの場合と同じようにあれもこれもと気を回して、最上のもてなしに励む姿が描かれています。一方、マリアはそういうマルタの働きを気にしていないかのように、主イエスの足元に座ってその話に聞き入っている。そこでマルタは「主よ、わたしの姉妹(マリア)はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください」とマリアへの不満を訴えます。それに対しイエス様は、「マルタ、マルタ」と名前を2度も呼んで「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」ということをおっしゃいます。私たちの毎日の生活を振り返ってみても、あれもこれもと気を回してせわしなく物事に励むとき、ともすればゆとりがなくなって、自分と同じように動いてくれない家族や仲間を批判することがよくあります。そういうことと照らし合わせてこの言葉を聞くこともできるんだなというふうに思います。


7/20(日)10:00- 年間第16主日

 イエス様は言葉を続けられます。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。イエス様がおっしゃっていることを私なりに整理すると、2つの面があるかなというふうに思います。1つは、私たちがお客様をもてなすということをやるときに、自分が「これがいい」と思った自分本位の「もてなし」を考えて、相手が何を望んでいるかを想像し考えるゆとりもなく、自分の物差しによるこの「もてなし」を相手にしている。それで自分はもてなしているつもりになっているという、そういう点をイエス様がマルタに気づかせようとしているのかなというふうに思います。2つ目は、人をもてなすというのは、食卓で上等な飲食を振る舞って心と体を「もてなす」というやり方もあるんですけれども、相手の顔と目を見ながらその話に耳を澄まし、聞き入るという「もてなし」のやり方もある。そして、それを選ぶ人もいるんですよ、ということをイエス様がおっしゃっている。


 こういう点から考えますと、今日洗礼を受ける子どもたちに対しても、食卓で「もてなし」、心と体を育てるとともに、その子の顔と目を見ながらその話に耳を傾ける「もてなし」をも持って接するように、ということを教えているようにも思います。2ヶ月半の子どもはまだ自分のことはもちろん話せないんですけれども、だんだん子どもは自分の意思を持って、自分の考え方をいろいろと伝えようとするでしょう。その話に耳を傾けるというもてなしもあるよ、ということを教えているように思います。


7/20(日)10:00- 年間第16主日

 皆様もお読みになったかもしれませんが、福岡教区の寺浜亮司という神父様が、今日のこの福音を読みながらこんなことを書いておられます。ミサはことばの典礼と感謝の典礼から成るんですけれども、今日の福音のマルタは、食卓を中心にする感謝の典礼を表している。 そしてマリアは、主イエスの言葉に耳を傾け、味わうことばの典礼を表している。どちらかだけを分けて祝うことはできない。どちらも同じように必要な奉仕なんですよ、ということを書いておられます。その通りだと思います。


 未来からの留学生である赤ちゃん、子どもたち。私たちを訪れたこのお客様に対しても、食卓で「もてなす」とともに、その言葉に聞き入る「もてなし」にも私たちも務めたいと思います。今日、受洗する一人ひとりが、ことばの典礼と、パンとぶどう酒の感謝の典礼の両方で育てられ、やがてその両方で主イエスをもてなし、人々をもてなすことができる人に育ちますように。そういう願いをご両親、代父母とともに私たちも捧げたいと思います。


年間第15主日

柴田 潔 神父

7/13(日)10:00- 年間第15主日


7/13(日)10:00- 年間第15主日

 朗読されました「善きサマリア人」のたとえ話から、1つの動詞に絞って今日はお話しいたします。「行って」という言葉です。


 思い出深いのは東日本大震災です。その時、私は山口にいました。山口から東北まで1600キロ。新幹線を乗り継いでボランティアに「行く」。でも行ってもほとんど変わらない。1日に2リットル、3リットル、ヘドロかきという津波の後片付けをしますが、範囲が広すぎて途方もない感じがしていました。行く意味がどこにあるのか、自分に何ができるのか、ずっと考え続けていました。それでも夏休み、冬休み、春休みにはグループでボランティアに出かけ続けます。不安な気持ちで挑戦し続けました。おかげで不安があっても、遠くても出かけていく習慣ができました。


 不安があっても挑戦していく。それはカブトムシを育てることも同じです。生き物だから大事に育てても成虫になるわけではありません。不安があっても神様は働いてくださる。昨晩数えたら、オス・メス90匹。今年は立派な成虫が多くて嬉しくなりました。カブトムシは難民支援の募金になります。今朝はミサの前後で30つがいがもらわれていきます。


 隣人とは、困っている人。命からがら日本に逃げてきて、住む場所がなくて困っている人。言葉がわからなくて困っている人、家族と離れて寂しい人、これからの生活、将来に不安を持っている人たちです。「行って」、カブトムシがもらわれていって、困っている人を助けてくれる。私たちがそれぞれに「行って」、困っている人を助けられるように願いましょう。


7/13(日)10:00- 年間第15主日

 これから侍者祝福式があります。侍者になることも「行く」こと。会衆席、皆さんが座っている席から、神様の近くに行くこと。侍者になると、神様の席から見えるようになります。初聖体の後から、侍者になるための準備をしてきました。香部屋の使い方、ミサの流れ、侍者服の着方、ミサの後の片付けの仕方を勉強しました。


 ミサのお手伝い以外でも変わってきています。食事の時には、家族で一番最初に「食前の祈り」を唱えるようになった男の子がいます。神様に近いところで、神様のために働く気がして、教会に来るのがとても楽しみになった女の子がいます。四谷で生きる、教会で生きる覚悟が生まれた女の子がいます。新しく侍者になる一人ひとりが、見えないところで信仰が成長しています。


 侍者祝福式は毎年行われていますが、信仰と奉仕が受け継がれていく神秘的なお祝いです。大人の私たちも、生き生きと信仰が生きられるように願いましょう。


新侍者祝福式と、今夏ローマで開催される、青年の祝祭へ派遣される若者たちの祝福が行われました。


年間第14主日

グエン・タン・ニャー 神父

7/6(日)10:00- 年間第14主日


2025年7月6日 年間第14主日 司式のニャー神父

 イエスは公の宣教活動の初めから多くの人々を使徒や弟子として選びました。彼らを選んだ目的は、彼らをイエスのもとに留まらせ、宣教に遣わすことです。今日の福音書では、72人の弟子たちがイエスと共に過ごした後、神の国の到来を宣べ伝える使命に遣わされました。イエスは弟子たちを宣教の旅に向けて、注意深く準備させたのです。イエスの弟子たちが神の国を宣べ伝えるために、どのように出かけなければならないか、その重要な点について皆さんと一緒に考えてみたいと思います。


 最初に書き記されているのは、「イエスは彼らを二人ずつ遣わされた」ということです。神の国を宣べ伝えることは、個人の務めではなく、共同体的な務めです。二人ずつ宣教に遣わされたことは、互いに支え合う、神の国の計画は特定の個人の独占物ではないことを示しています。ですから、神の国を宣べ伝えるために出かける弟子たちは、自分が宣べ伝えているものの共同体的な本質を他の人々に理解させなければなりません。おそらく、最も大事なのは、弟子たちが互いに一致を示すことによって、神の国の到来のしるしになることです。


 次に、弟子たちは神の国のために働くにあたって、祈らなければならないことを強調していました。「収穫の主に願いなさい」と。神の国は霊的な国です。したがって、神の国のために、派遣された人々はまず祈りの人間、霊的な人間でなければならないということを教えてくれます。そして、この働きは大変なことだと示していました。「狼の群れに子羊を送り込むようなものです」。送られた世界と弟子たちとは対等ではないのです。送られた世界は狼の群れのように恐ろしい、危険なものである一方、弟子たちは子羊のように弱い存在です。この派遣は自己犠牲の道へ導かれる派遣なので、祈りを通して神の恵みを受けなければ、実現できないのです。


2025年7月6日 年間第14主日 10時ミサ

 しかし、このような危険な派遣ですが、イエスは弟子たちに「財布も履物も持たずに」軽やかに出るように命じました。宣教の旅における弟子たちの荷物は空っぽの手です。この旅に物質的な物は不要です。物質的な財産を持参しないことで、弟子たちは世俗的な保証ではなく、神ご自身と神のみ摂理にすがるように招かれています。


 さらにイエスはまた、弟子たちに派遣される先の人々との関わり方をも教えました。まず、挨拶の言葉を見てみましょう。「家に入る時、まず、この家に平和があるように」と。平和の挨拶がイエスの弟子たちの挨拶です。彼らは平和をもたらすために旅立ちました。そして、宿所は一箇所だけを選ぶように言われました。「家から家へと渡り歩くな」。信頼できる場所を拠点として選び、宣教の最後までそこに留まることは、イエスが弟子たちに与えた助言です。なぜならば、この旅の目的は、神の国を宣べ伝えることなのです。弟子たちは日常生活のことばかりに気をとられていると、心から宣教することが難しいからです。


鐘楼と青空

 最後に、弟子たちは宣教を受け入れない人々に対して、明確な態度を持つように勧められていました。「彼らに対する証しとして、足のちりを払い落しなさい」。しかし、足のちりを払い落とすという行為には、神の国は近づいたことを知れ、という言葉に付け加えられています。ここで強調されているのは、どんな状況においても、神の国が近づいたことを宣べ伝えなければならないのです。歓迎されても拒絶されても、このメッセージを伝えることを忘れてはいけないのです。


 私たちもイエスを信じる者として、当時の弟子たちと同じように、イエスと共に留まり、イエスに遣わされて、宣教に携われるように招かれています。現代人に神の国を宣べ伝えるために、2000年前と変わらなく、大変な使命です。しかし、当時の弟子たちと同じようにイエスの教えてくださった宣教のやり方に従ったら、この使命を全うすることができるでしょう。


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