トップページ おしらせ ミサライブ配信とお説教2025年7月の説教

2025年7月 ミサ説教

2025年6月


年間第15主日

柴田 潔 神父

7/13(日)10:00- 年間第15主日


7/13(日)10:00- 年間第15主日

 朗読されました「善きサマリア人」のたとえ話から、1つの動詞に絞って今日はお話しいたします。「行って」という言葉です。


 思い出深いのは東日本大震災です。その時、私は山口にいました。山口から東北まで1600キロ。新幹線を乗り継いでボランティアに「行く」。でも行ってもほとんど変わらない。1日に2リットル、3リットル、ヘドロかきという津波の後片付けをしますが、範囲が広すぎて途方もない感じがしていました。行く意味がどこにあるのか、自分に何ができるのか、ずっと考え続けていました。それでも夏休み、冬休み、春休みにはグループでボランティアに出かけ続けます。不安な気持ちで挑戦し続けました。おかげで不安があっても、遠くても出かけていく習慣ができました。


 不安があっても挑戦していく。それはカブトムシを育てることも同じです。生き物だから大事に育てても成虫になるわけではありません。不安があっても神様は働いてくださる。昨晩数えたら、オス・メス90匹。今年は立派な成虫が多くて嬉しくなりました。カブトムシは難民支援の募金になります。今朝はミサの前後で30つがいがもらわれていきます。


 隣人とは、困っている人。命からがら日本に逃げてきて、住む場所がなくて困っている人。言葉がわからなくて困っている人、家族と離れて寂しい人、これからの生活、将来に不安を持っている人たちです。「行って」、カブトムシがもらわれていって、困っている人を助けてくれる。私たちがそれぞれに「行って」、困っている人を助けられるように願いましょう。


7/13(日)10:00- 年間第15主日

 これから侍者祝福式があります。侍者になることも「行く」こと。会衆席、皆さんが座っている席から、神様の近くに行くこと。侍者になると、神様の席から見えるようになります。初聖体の後から、侍者になるための準備をしてきました。香部屋の使い方、ミサの流れ、侍者服の着方、ミサの後の片付けの仕方を勉強しました。


 ミサのお手伝い以外でも変わってきています。食事の時には、家族で一番最初に「食前の祈り」を唱えるようになった男の子がいます。神様に近いところで、神様のために働く気がして、教会に来るのがとても楽しみになった女の子がいます。四谷で生きる、教会で生きる覚悟が生まれた女の子がいます。新しく侍者になる一人ひとりが、見えないところで信仰が成長しています。


 侍者祝福式は毎年行われていますが、信仰と奉仕が受け継がれていく神秘的なお祝いです。大人の私たちも、生き生きと信仰が生きられるように願いましょう。


新侍者祝福式と、今夏ローマで開催される、青年の祝祭へ派遣される若者たちの祝福が行われました。


年間第14主日

グエン・タン・ニャー 神父

7/6(日)10:00- 年間第14主日


2025年7月6日 年間第14主日 司式のニャー神父

 イエスは公の宣教活動の初めから多くの人々を使徒や弟子として選びました。彼らを選んだ目的は、彼らをイエスのもとに留まらせ、宣教に遣わすことです。今日の福音書では、72人の弟子たちがイエスと共に過ごした後、神の国の到来を宣べ伝える使命に遣わされました。イエスは弟子たちを宣教の旅に向けて、注意深く準備させたのです。イエスの弟子たちが神の国を宣べ伝えるために、どのように出かけなければならないか、その重要な点について皆さんと一緒に考えてみたいと思います。


 最初に書き記されているのは、「イエスは彼らを二人ずつ遣わされた」ということです。神の国を宣べ伝えることは、個人の務めではなく、共同体的な務めです。二人ずつ宣教に遣わされたことは、互いに支え合う、神の国の計画は特定の個人の独占物ではないことを示しています。ですから、神の国を宣べ伝えるために出かける弟子たちは、自分が宣べ伝えているものの共同体的な本質を他の人々に理解させなければなりません。おそらく、最も大事なのは、弟子たちが互いに一致を示すことによって、神の国の到来のしるしになることです。


 次に、弟子たちは神の国のために働くにあたって、祈らなければならないことを強調していました。「収穫の主に願いなさい」と。神の国は霊的な国です。したがって、神の国のために、派遣された人々はまず祈りの人間、霊的な人間でなければならないということを教えてくれます。そして、この働きは大変なことだと示していました。「狼の群れに子羊を送り込むようなものです」。送られた世界と弟子たちとは対等ではないのです。送られた世界は狼の群れのように恐ろしい、危険なものである一方、弟子たちは子羊のように弱い存在です。この派遣は自己犠牲の道へ導かれる派遣なので、祈りを通して神の恵みを受けなければ、実現できないのです。


2025年7月6日 年間第14主日 10時ミサ

 しかし、このような危険な派遣ですが、イエスは弟子たちに「財布も履物も持たずに」軽やかに出るように命じました。宣教の旅における弟子たちの荷物は空っぽの手です。この旅に物質的な物は不要です。物質的な財産を持参しないことで、弟子たちは世俗的な保証ではなく、神ご自身と神のみ摂理にすがるように招かれています。


 さらにイエスはまた、弟子たちに派遣される先の人々との関わり方をも教えました。まず、挨拶の言葉を見てみましょう。「家に入る時、まず、この家に平和があるように」と。平和の挨拶がイエスの弟子たちの挨拶です。彼らは平和をもたらすために旅立ちました。そして、宿所は一箇所だけを選ぶように言われました。「家から家へと渡り歩くな」。信頼できる場所を拠点として選び、宣教の最後までそこに留まることは、イエスが弟子たちに与えた助言です。なぜならば、この旅の目的は、神の国を宣べ伝えることなのです。弟子たちは日常生活のことばかりに気をとられていると、心から宣教することが難しいからです。


鐘楼と青空

 最後に、弟子たちは宣教を受け入れない人々に対して、明確な態度を持つように勧められていました。「彼らに対する証しとして、足のちりを払い落しなさい」。しかし、足のちりを払い落とすという行為には、神の国は近づいたことを知れ、という言葉に付け加えられています。ここで強調されているのは、どんな状況においても、神の国が近づいたことを宣べ伝えなければならないのです。歓迎されても拒絶されても、このメッセージを伝えることを忘れてはいけないのです。


 私たちもイエスを信じる者として、当時の弟子たちと同じように、イエスと共に留まり、イエスに遣わされて、宣教に携われるように招かれています。現代人に神の国を宣べ伝えるために、2000年前と変わらなく、大変な使命です。しかし、当時の弟子たちと同じようにイエスの教えてくださった宣教のやり方に従ったら、この使命を全うすることができるでしょう。


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