2025年8月 ミサ説教
8/3(日)10:00- 年間第18主日 クリスチャン・ムカディ 神父
年間第18主日
クリスチャン・ムカディ 神父
8/3(日)10:00- 年間第18主日
今日の福音朗読では、主イエスは私たちに対して次のように警告をしています。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と呼びかけています。

我々人間が身体を持っている限りでは、貪欲、情欲、そういうことから逃げることができません。なぜかというと、私たちは身体性を持つからです。ある意味で貪欲や情欲が私たちの身体性を表すものだと思います。しかし、ここでよく注意されているのは、それに気をつけなさいということです。なぜかというと、私たちが生きているこの資本主義的な社会では、私たちの情欲とか貪欲を促す機会が多いと思います。だから宣伝であったり、それぞれの形で、私たちの周りや電車の中を見ると、すごくいろいろな宣伝がされています。それは私たちの欲望、私たちの情欲を促すためであるかなと思います。

しかし、それに気をつけないといけないですね。特に財産に対する貪欲です。パウロは私たちが地上のもの、つまりみだらな行い、貪欲、情欲に引っかからないようにと言っています。結局、財産とか、あるいは知識を持つことは悪いことなのでしょうか。たくさんの財産を持つこと、たくさんのことを手に入れるということは悪いことではないと思います。しかし、それがどれほど他の人々のためになるか、それはポイントだと思います。単に自分のためではなく、自己中心的な立場ではなく、持っている知識、持っているものが、いかにそのものが他の人々の助けになるか。それはポイントであるかなと思います。
私たちが持っている知識、財産、富というのは、他の人々のためにならないと「すべては空しい」になってくると思います。これが福音聖書と第一朗読の1つの共通のポイントだと思います。私たちが持っている第1の財産というのは、私たちの健康、私たちの人生というものです。いかにそれを生かして人々の助けになるか。あるいは私たちのためだけなのか。私たちはそういう自己中心的な傾向性があると思います。まず私、そして私、それから私ということです。

ここで聖書が呼びかけているのは、すべてのものが他者のために、つまり他の人々の助けになるということが重要であるかなと思います。そうならないと「すべては空しい」になってくるんです。つまり、私たちが持っている知識や財産、富の価値は、それがどれだけ人々の助けになるか、それによって決まると思います。
この行き詰まる社会に生きていて、私たちが私たちの弱さ、私たちの足りなさを認め、神様の助けを願って、本当に私たちが持っているすべての人生、知識、財産、富が人々の助けになるように、このミサの中で神の恵みを願いたいと思います。