2025年8月 ミサ説教
8/3(日)10:00- 年間第18主日 クリスチャン・ムカディ 神父
8/15(金)10:00- 聖母の被昇天の祭日 髙祖 敏明 神父
8/17(日)10:00- 年間第20主日 ハビエル・ガラルダ 神父
年間第21主日
関根 悦雄 神父
8/24(日)10:00- 年間第21主日
今日の福音のテーマは明らかでしょう。救われる者は少ないのか、多いのか。皆さん一人ひとりの関心は、では私は救われるのかどうかということでしょう。皆さんはこの救いというものは何であるか、どのようなものであるか、どのように考えていますか?ある意味で、救いはすべての人に与えられるとも言えるでしょうし、今日の福音は「救われる者は少ない」というふうに言っていると思うんです。そうしたら私は救われない。どうしよう。このように思うんじゃないでしょうか。

今日の福音の最初の方をよく見ておきたいんですが、ある人がイエスに向かって「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねます。それに対するイエスの答えは「狭い戸口から入るように努めなさい」。ということは、救われる人はそんなに多くはない。誰も彼も救われるのではなくて、狭い戸口から入って、その道を通り抜けた人が救われるというふうに考えていいのではないでしょうか。そもそも救いとは、私たちが望む救いとは何ですか。私たちはこの世に生まれ、そして何年か経つとこの世での終わりを迎える。死を迎えるわけですね。これは誰にでも訪れます。問題はその後どうなるか。私たちの多くの者は、私たちが死んだ後、天に昇って神の国に行き、そして最後の審判を受けるけれども、それでも最終的に救われる。これを願っているんじゃないでしょうか。死んでから天国に行けるように。では、死ぬまでに何をしたらいいんでしょうか。それが「狭い戸口」ではないかなと思うんです。「狭い戸口」から入るということ。
イエスは何を言いたいのか。教会は何を教えているんでしょうか。聖書にはいろんな箇所がありますが、私たちこの世に生きる者にとって最も大切なことは、最後の審判の時に、ちゃんと「私は主の言葉に従って生きてきました」と言えることではないでしょうか。主が私たちに命じることはいくつかの表現で言うことができますが、聖書の中にたとえば有名なところですと、黄金律として示されている「人にしてもらいたいと思うことは何でも人にしなさい」。自分がこうしてほしいと思うことは、他の人も同じように思っているんだからそれを人にしなさいということ。これを本当に私たちはしているでしょうか。

それから最後の審判の様子はマタイの25章に書いてあったでしょう。たとえばイエスは右側の人たちに向かって「あなたは飢えていた時に食べさせ、私が喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」と。その人はいつそういうことをしたんですか。一方の左側にいる人たちには、そういうことをまったくしてくれなかったと言うんです。さあ、私たちはそれをしているでしょうか。イエスに対してそういう行為をするということは、私たちの周りにいるそういうことが必要な人、生きるために必要な人にそれをしているかどうかということだと思います。それをしているかどうか。
また別の言い方をすれば、私たちは主の命令、掟として「互いに愛し合いなさい」と言われている。「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」。これをイエスは新しい掟として私たちにくださった。では、それを私は今、実行しているでしょうか。それを生きているでしょうか。この辺が鍵であるというふうに思います。確かに今の世の中、自分が生きることで精一杯という人もかなりいるんじゃないでしょうか。人のことなどあまり考えない。しかし、イエスが私たちに望むことは、そこに神の国が到来するように、神の国を実現させるためには互いに愛し合う。互いに助け合う。互いに支え合う。困っている人がいたら、善きサマリア人のようにその人の隣人になる。そういうことを具体的にして、行って生きているかどうか。これが問われると思います。

神は非常に寛大な方だと思います。すべての人を救いに招いておられます。しかしやはり、招いているからといって安心して何もしない、その人には救いの保証がないんじゃないかなと思うんです。回心すれば、十字架のところで回心した盗賊のように天の国にあげられるかもしれません。しかし私たちはキリストを主と認めて、その主の道を歩もうとして洗礼を受けたと思うんです。ですから私たちの日常生活においても、毎日自分に死んで、そして人を生かす。これを心掛けていったらいいと思います。これはそれぞれの家庭の中で、自分の周りの小さな地域社会において、あるいは職場において、学校において、互いに愛を与え合うということ。これを行って本当の救いに至るように、そういう恵み、導きを願いたいと思います。
私たちが永遠の命をいただくのは、ただ死んだ後のことではないと思うんです。私たちが本当に自分自身を与えて、これを生きることによって、もうすでに永遠の命を生きていると言っていいと思います。だから、私たち一人ひとりそういう生き方ができるように、そういう私たちの愛の行為を必要としている人は私たちの周りに、そしてこの世界に増えているように思うんです。他の人なんて構っていられない、大事なのは自分だけだ。これは神の国にならないと思うんですね。だから私たち一人ひとりが、本当にこの神の国の子として愛の掟を守り、真の喜びを生きていくことができるように、そういう恵みを今日ご一緒に願いたいと思います。
年間第20主日
ハビエル・ガラルダ 神父
この福音のメインテーマは「平和」ですね。そして日本では80年にわたって平和がありました。ですから平和について考えましょう。この福音にはいろいろ説明しなければならないことがありますけれども、時間の関係で1つだけのポイントについてご一緒に考えてみたいと思います。平和というと、日本の平和、世界の平和、それを祈る。そして私たちの周りの人たちとの平和を作る平和です。つまり、家庭の中の平和、職場の中の平和、友達と仲間の間の平和を求めることにしましょう。

平和とは何でしょうか。世間にとって、平和というのは武器の音が聞こえない状態。これは非常にありがたいことですね。私たちは80年間にわたってその平和に恵まれています。ここには戦争を知らない子どもたちは多いですね。でも、戦争を経験している人たちにとっては、武器の音が聞こえないということは非常にありがたい状態です。そして家庭の中で、仲間や職場の中で、喧嘩の大声が聞こえないことはありがたい状態です。
ところが、この状態は最低必要条件です。平和の最低必要条件です。なぜかというと、武器の音が聞こえないけれども、今の日本の状態では本当の平和がありますか。上の人にとってはすごく楽な状態ですけれども、下にいる人たちにとってはこの平和はちっとも嬉しくないことでしょう。非常につらい。しかも何にも言えないんです。力は全部上の人たちの中にあるので。ですから平和と言っても偽りの平和になっているかもしれません。受け身的で。そしてまた家庭の中では、喧嘩の大声はないけれども、下手をしますとあまりにも互いに遠ざかっているので、あまりにも互いに無関心なので、喧嘩するほどでもない状態になっている。これは平和ではない。これは無関心。
それを考えて、イエス・キリストがもたらす平和は違います。今の平和を踏まえて、なおかつ、キリストの平和は何かと言いますと、愛と話し合いによって生まれる平和です。愛と話し合いによって生まれる平和はキリストの平和、キリストがもたらす平和です。これについて少し考えましょう。話し合いによって得られる平和です。前の教皇フランシスコがよく言っていましたね。平和のために武器を増やすということよりも、話し合いをするのは本当の解決です。では、この話し合いについて考えましょう。おもに私たちの身近な経験である家庭とか、仲間とか職場の中の平和です。
話し合いというのは難しいことです。まず聞くべきですね。何を聞くかというと、相手が言ったことを聞くべきです。私が言わせたいことではなくて、相手が言ったところの中から都合のいい部分だけ聞くのではなくて、相手が言ったことを聞くべきです。それから相手が言いたかったことも理解すべきです。相手が言った言葉にこだわりすぎて、相手が言いたかったことを理解しない時もあります。それも残念なことです。言ったことと言いたかったことを聞くべきです。
そして話す。話し合い。意見が違うんですね。してはいけないことは、自分の意見を絶対的な真理にするということです。自分の意見を絶対的な真理にすれば話し合いになりません。力関係になります。相手も同じことをするので、結局どっちが強いかということになるわけです。戦争ですね。ですから、まず自分の意見を絶対的な真理にしない。そして話すんですね。話し合って協力して、意見が違うけれども、協力しながら真ん中に隠れている本当の真理を探求する。具体的な真理は隠れている。まだわからないんです。2人で違った意見を持って、絶対的な真理ではなくて、ただの意見を持って話し合って、この真ん中に隠れている真理を探求するということは話し合いの目的です。

その真理を見つけたら、今度は譲り合うことです。これは本当の話です。ところが現実は厳しいものです。これは非常に難しいことです。なぜかというと、人間は利己主義です。エゴイストです。エゴが強い。自分の利益を、何よりも自分の利益を求める。ですから、話し合っていれば譲らなければならない部分があるので、それは嫌ですよ。全部取りたい。だから力による、強い人が勝つという話し合いになります。この世界にもそれがもう明らかに見えていますね。家庭でもそうです。職場でもそうですね。強い人が勝つ。それは平和ではないんですね。ところがこのエゴイズム、エゴが強いということは取り除くことはできない事実です。心の底に根深く入っていることで、死ぬまで私たちはエゴイストでしょう。
じゃあ、どうしましょうか。これです。エゴイズム、利己心を取り除くことはできないけれども、超えることはできます。上回ることはできます。愛を強めれば、愛を高めれば、愛がエゴイズムより上になればそれは解決です。エゴイズムを取り除くことは無理です。でも乗り超えることはできます。愛を深めて。愛とは何かというと、これから言うことを深めればいいと思います。愛というのは、助け合って分かち合う。世界にこれがあればいいですね。助け合って分かち合う。ゆるし合って譲り合う。尊敬し合って受け入れ合う。おもに直らない欠点のあるこの人を受け入れる。受け入れ合う。大切にし合って仲良く生きる。これはキリストの平和です。
助け合って分かち合う。ゆるし合って譲り合う。尊敬し合って受け入れ合う。大切にし合って喜んで生きる。一緒に喜んで仲良く生きる。この平和を求めましょう。家庭の中でもこの平和を作りましょう。この平和の実りは何かというと、これです。神と愛し合って、神と仲良く生きる。人間と愛し合って、人間と仲良く生きる。自然と愛し合って、自然と仲良く生きる。これはキリストの平和の実りです。
では、世界の平和を祈りながら、この私たちの平和を作りましょう。願い求めましょう。真剣に願いながら本気で求めましょう。
聖母の被昇天の祭日
髙祖 敏明 神父
今、マリア様のエリサベト訪問のところの福音書を読み上げましたが、今日はその福音の話から少し離れますけれども、終戦の日から10日ほど経った9月5日の日の話をさせていただこうと思います。
考えてみますと、日本はマリア様と縁が深い。太平洋戦争が始まったのは12月8日、聖母マリアの無原罪の御宿りの祭日。終戦は8月15日、聖母被昇天の祭日。日本にキリスト教を伝えたザビエルの鹿児島上陸は8月15日で、聖母の被昇天の祭日です。そしてザビエルがマラッカから日本に向かうとき、自分にとって未知の国であった日本をマリア様に捧げて特別なご保護を願ったというふうに伝えられています。そして、上智大学の「上智」という名はマリア様の連祷の一節「上智の座」に由来していると言われていますし、その上智のマリア様とのつながりを感じながらのエピソードです。

1945年8月15日に日本は無条件降伏しました。アメリカ合衆国の戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書に調印したのが9月2日。その3日後の話です。その前後、連合国軍は佐世保や横須賀から続々と日本に上陸していました。合衆国の戦艦には従軍司祭が付いておりまして、その中に何人かのイエズス会の神父もいました。そのうちの3人、オコンノー、レイ、ロビンソンというこの3人の神父が相談して、東京の上智大学にいるはずのイエズス会の同志たちの状況を確かめるために、5日の朝、横須賀からジープを走らせました。ロビンソン神父は、大戦前に上智で教えており、日本語も話せました。
横浜までは順調に走れたんですけれども、東京に向かう道は検問も厳しく何度も止められました。しかし日本語を話せる人が1人いましたし、その彼が、瓦礫の街になっていたとはいえ東京の地理を知っていたおかげで、焼け残っていた上智の司祭館に、お昼前、何とか食料と衣服を持ち込むことができました。ちょうどこの辺りも焼け野原で、上智の建物とあのレンガの一号館だけがこの近辺で残っているという、そういう状況で、お昼前に何とかそこにたどり着いたわけです。
上智の仲間からは大歓迎を受けました。そして様子を探ってみると、餓死した人とか、戦死した人は誰もいなかったんですけれども、全員が栄養失調だということが一目でわかったそうです。運んできた1週間分の食料を渡して、日本の教会の事情を聞いてみる。日本全体で80ものカトリックの学校や教会や修道院が焼けてしまった。原爆を受けた広島や岡山、東京のイエズス会の人と活動の様子を聞きながらも、横須賀に帰るにはまだ時間もかかる。ですから帰路に就こうとすると、上智の神父さんたちは「せっかくだから昼の食事を一緒にとりましょう」と誘ったそうです。
食事を共にしてもっと話を聞きたいのは山々なんですけれども、自分たちが残って食事をすれば、その分だけ食料が減ることになります。その誘いをいじらしく感じた3人は、持っていた非常食まで差し出して、「夕方までには佐世保に帰らなきゃいけないから」と言って辞去することにしました。

別れ際に「何か欲しいものがあるか」と尋ねると、こう返事が返ってきました。「もし適うなら、英語を教えたり、日本の再建にたずさわる知識階級に影響を与えられるような若いアメリカ人のイエズス会員を日本に送ってくれないか」と。てっきり食糧か何かを求めると思っていたら、欲しいのは人材だとの返事。この願いにいたく感動した3人は、この日の出来事と、人材が欲しいという日本の会員の願いを本国アメリカの管区長に手紙で知らせました。
当の管区長はこの願いをすぐにローマのイエズス会総長ヤンセンス神父に伝えたところ、総長は全世界のイエズス会員に向けて、「日本では教会と使徒職を再建するために人材を求めている。世界のどこの管区に属している人でも、日本に行って働きたいと望む会員は手を挙げよ。日本に派遣する」と呼びかけました。
イエズス会では伝統的に宣教地に派遣する特定の管区を決めており、戦前の日本へはおもにドイツ管区と、スペインのバスクを中心にしたロヨラ管区から宣教師が派遣されていました。その伝統から言えば、この総長の決断と呼びかけは実に異例なことでした。この呼びかけにさらにインパクトを与えたのはペドロ・アルペ神父の世界行脚でした。
1945年8月6日、広島の郊外で原爆を受け、自ら被爆しながらも被災者の救護と治療に当たったアルペ神父は、その後世界各地を回って、広島の状況や日本が必要としていることを話し伝えました。総長の呼びかけとアルペ神父の証言とが相乗効果を生み、日本の教会と使徒職に尽くしたいとの志をもって、いろいろな国から若い神学生や宣教師が続々と日本にやってきました。実現しませんでしたけれども、実は教皇フランシスコもこの流れで日本に行きたいと考えていた1人でした。

そのおかげで1960年代から70年代、上智大学では外国人宣教師の教授が増え、外国語学部が開設されるなど国際化への道を切り開くことになりました。国籍でいうと25カ国をも数え、SJハウスに住む会員は約100名、その80%ほどが外国人宣教師でした。私たちのこの聖イグナチオ教会の関連で言いますと、戦前から日本にいらしたホイヴェルス神父さんやビッター神父さんらは別格として、ベチコフェル、カンガス、リバス、バルバ、ネメシェギ、メンディサバル、ヴィタリ、コリンズ、ディータース、亡くなったエルナンデス修道士やマルコ修道士、そして今日もミサを一緒にしてくださっているガラルダ神父、オチョア神父もそうした呼びかけに応えて日本に来られた方々です。その多くの方はこの下のクリプタに眠っておられます。
大戦前もそうでしたけれども、特に大戦後のイエズス会は、世界中から優れた人材を得て発展してきました。こうした歴史の歩みの中に「上智の座」・聖母マリア様のとりなし、とりつぎを見るのもあながち間違いではないだろうと思います。わたしたちの教会の3つの鐘の1つに「上智の座」という名前が付けられているのもそれを示唆しているように思います。平和旬間の締めの日である聖母被昇天の祭日にあたって、マリア様のご加護を改めてご一緒にお祈りしたいと思います。世界が、人類家族が平和の道を歩んでいけますよう、人材を現代世界にたくさん送ってくださいとマリア様のとりつぎを願いながら、ご一緒にお祈りをささげたいと思います。



年間第19主日
柴田 潔 神父
8/10(日)10:00- 年間第19主日
今日のテーマは「目覚めよ」です。「起きろ!起きろ!神が来られる!時間を無駄にするな!神をお待たせするな!」
Wake up. Wake up. God is coming. Don’t spoil your time, don’t let Him wait.
聖書ではイエス様と一緒の時を婚宴にたとえています。朗読された聖書でも「主人様、イエス様が帰って来られる」「僕よ、目覚めて用意していなさい」と呼びかけています。では、暑い夏、どのように目覚めたらいいでしょうか?
先週、私はお2人のご葬儀の司式をさせていただきました。その前に塗油の依頼があり、ご葬儀になり、また塗油のご依頼があり、ご葬儀が続きました。木曜日には、ご葬儀の後、火葬場にお見送りに行き、その足で小平まで塗油に伺いました。急遽、帰国された娘さんからの依頼でした。塗油の後、娘さんがこうメールでお返事くださいました。「母も喜んでおりました。久しぶりに笑顔が見られて、私も救われました。大事な秘跡に間に合って、平和な気持ちになりました」。暑い夏ですが、汗をかきながらでも心を込めてできる限りのことをする。塗油にご一緒して、不安・悲しさを超えて、信仰の世界、神様が計らってくださる世界に繋がったように思います。暑い夏、不安な方に同伴することも“目覚めること”の1つだと思います。

2つ目は “平和に目覚める”。映画「シンドラーのリスト」からご紹介します。ナチによるユダヤ人虐殺をまのあたりにしたドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、迫害されているユダヤ人1100人を労働力の確保という理由で助けました。ナチス・ドイツが無条件降伏をしたことで、ナチの党員のシンドラーは身を隠すことにしました。助けたユダヤ人たちとの別れの場面です。
助けられたユダヤ人たちは、シンドラーに贈り物を差し上げたいと思い、1人の金歯を抜いて、それを溶かして指輪を差し出しました。指輪にはこう書いてあります。「1人の生命(いのち)を救う者が世界を救える」タルムード、ユダヤ教の口伝律法の教えです。
けれどもシンドラーはこう言います。「もっと救い出せた」会計士シュターンは言います。「あなたはこの1100人を救ったんです」「彼らから新しい世代が育ちます」シンドラーは「もっと大勢を救えた」「車を売れば10人を救えたはずだ。10人だぞ」「このナチの金のバッジで2人救えた。いやたとえ1人でもいい。1人救えた。人間1人だぞ。努力すればもう1人救えたのに・・・しなかった」シンドラーとシュターンは抱き合って、お互いの思いを伝えます。2人の上に、助けられたユダヤ人たちが、またさらに抱き合って思いを伝えます。「平和とは、1人の命を大切にすること」身近な1人。自分も含めて身近な1人を大切にする。そのことに目覚めていきましょう。
「目を覚ましていなさい」はマタイ25章1-13節の「賢い乙女と愚かな乙女」のたとえ話と同じテーマです。このたとえ話はバッハのカンタータ140番「目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声」で演奏されています。よく知られた曲で、待降節で演奏されることもあります。これからオルガニストの方に弾いていただきます。オルガン曲はBWV 645番「目覚めよと呼ぶ声あり」となっています。自分が目覚めること、神様に願いたいことを、オルガンを聴きながら黙想しましょう。
J.S.バッハ: 目覚めよと呼ぶ声あり BWV 645(オルガン版)
私たちは弱さや限界を抱えていますが、音楽の力を借りて神様の世界にも入れます。めげている時、やる気が起きなかった時、そんな時にこのBWV 645番をはじめ、バッハの曲を聴くと、私は限界を突破できそうな、またどこまでたどり着けるかわかりませんが、神の国を目指して歩みたい、そんな気持ちになります。
私たち一人ひとりに目覚めて限界を超えていく力が宿るように、もう少しお祈りいたしましょう。

年間第18主日
クリスチャン・ムカディ 神父
今日の福音朗読では、主イエスは私たちに対して次のように警告をしています。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と呼びかけています。

我々人間が身体を持っている限りでは、貪欲、情欲、そういうことから逃げることができません。なぜかというと、私たちは身体性を持つからです。ある意味で貪欲や情欲が私たちの身体性を表すものだと思います。しかし、ここでよく注意されているのは、それに気をつけなさいということです。なぜかというと、私たちが生きているこの資本主義的な社会では、私たちの情欲とか貪欲を促す機会が多いと思います。だから宣伝であったり、それぞれの形で、私たちの周りや電車の中を見ると、すごくいろいろな宣伝がされています。それは私たちの欲望、私たちの情欲を促すためであるかなと思います。

しかし、それに気をつけないといけないですね。特に財産に対する貪欲です。パウロは私たちが地上のもの、つまりみだらな行い、貪欲、情欲に引っかからないようにと言っています。結局、財産とか、あるいは知識を持つことは悪いことなのでしょうか。たくさんの財産を持つこと、たくさんのことを手に入れるということは悪いことではないと思います。しかし、それがどれほど他の人々のためになるか、それはポイントだと思います。単に自分のためではなく、自己中心的な立場ではなく、持っている知識、持っているものが、いかにそのものが他の人々の助けになるか。それはポイントであるかなと思います。
私たちが持っている知識、財産、富というのは、他の人々のためにならないと「すべては空しい」になってくると思います。これが福音聖書と第一朗読の1つの共通のポイントだと思います。私たちが持っている第1の財産というのは、私たちの健康、私たちの人生というものです。いかにそれを生かして人々の助けになるか。あるいは私たちのためだけなのか。私たちはそういう自己中心的な傾向性があると思います。まず私、そして私、それから私ということです。

ここで聖書が呼びかけているのは、すべてのものが他者のために、つまり他の人々の助けになるということが重要であるかなと思います。そうならないと「すべては空しい」になってくるんです。つまり、私たちが持っている知識や財産、富の価値は、それがどれだけ人々の助けになるか、それによって決まると思います。
この行き詰まる社会に生きていて、私たちが私たちの弱さ、私たちの足りなさを認め、神様の助けを願って、本当に私たちが持っているすべての人生、知識、財産、富が人々の助けになるように、このミサの中で神の恵みを願いたいと思います。