2025年9月 ミサ説教
9/7(日)10:00- 年間第23主日 グエン・タン・アン 助祭
9/14(日)10:00- 十字架称賛の祝日 山内 豊 神父
9/21(日)10:00- 年間第25主日 髙祖 敏明 神父
9/28(日)10:00- 年間第26主日 関根 悦雄 神父
年間第26主日
関根 悦雄 神父
9/28(日)10:00- 年間第26主日
今日の福音は、私たちの死んだ後についてのことから始まります。私たちはこの世に生まれて、生きて、そして最後にはこの世での死を迎えます。その後のことについては誰も分からない。私たちは信仰によって天に召されて永遠の命を生き、そして最後に復活させていただける。しかし、それは最後の審判に臨むためであって、その後、最後の審判で助かる者、あるいは滅ぼされる者もいるのかもしれない。わからないんです。もし誰かが、あの世に行った人が戻ってきて、私たちの間で、死んだ後はこういう世界ですよということを教えてくれるならば、それを信じてみるかもしれません。しかし、私たちにあるのはただイエス・キリストの福音だけです。福音のことば。私たちはそれを信じて生きようとしています。
今日のこの福音にあったように、私たちのこの世での世界、これは完全なものではない。今日のところでは、この紫の柔らかい衣を着た、毎日贅沢に遊び暮らしていたファリサイ派の人。それとその家の近く、門前に、できものだらけの貧しいラザロという人がいた。この現実は私たちの現実でもあるでしょう。今私たちが生きている世界、これはどういう世界ですか。残念ながら公平な、互いに助け合って、貧しい人が一人もいないというような世界ではない。日本の、私が生まれてから今までで直接経験した、昭和50年頃ですかね。これはどちらかというと貧しい人がそんなにいなかった。みんな中流の生活で「一億総中流」と言われたこともあった。しかし、そういう中にも貧しい人がいましたよ。私も個人的な経験ですけれども、家はそんなに貧しくはなかった。農家ですから食べるものはあった。でも、買うものはほとんどなかったんです。家で醤油も作り、味噌も作りました。ですから買ったものといったら、塩は家で作れないから、それくらい。時々魚が来て、そういうものも買うことがあった。しかし、そういう中でも特に夕方、夕食の準備をする頃、「醤油がなくなったのでちょっと分けてください」とか、「貸してください」と言って来る人もあった。だけども、それなりにみんな生きていられた。
今はどうですか。今の世界、本当に貧しい人は食べ物にも困っている。そういう人がいる。一生懸命親は働いている。しかし、子どもは食事を準備してもらえない。それで食べるものがない、ひもじい思いをしている。そういうことがあると聞いています。しかし、それと同時に金持ちも多くなった。昔はそんなに金持ちはいないと思う。「一億総中流」だったから。ところが今、金持ちというのはとんでもない金を持っているんでしょう。社会の仕組みもそういう人たちを増やそうとしているんじゃないかなと思われますね。貧しい人と金持ちの差がなくなるようにじゃない。ますます開いていくような傾向になっているんじゃないでしょうか。そういう中で私たちはどのように生きるのが、どういう選択をして生きるのが正しいキリスト者としての生き方なのか、それをしっかり考える必要があると思います。
確かに今日の福音では、死んだ後に貧しい者が優遇され、いい思いをすることができる。しかし反対に、金持ちが厳しい状況に置かれる。しかし、これは本当に神が望んでいることでしょうか。イエス・キリストが私たちに望むのは、私たちの今生きている世界が神の国のようになることではないでしょうか。そのために自分に余裕があるならば貧しい人を助け、そして貧しい人も、そういう少し余裕のある人を頼って生きることができる。そういう世界がキリストが望む世界じゃないかと思うんです。難しいですよ。そのために、いろんなことが変えられなければならない。政治もその一つでしょう。私たち一人ひとり、自分の周りにいる人の中で生活に困っている人はいないか、そういう人がいたら、できるならばそういう人を援助する。今、日本だけではないですよ。戦争の惨禍の中に生きていかなければならない。自分の命の保証もなかなかない。そういう人たちもいる。そういう人たちのために自分ができることは何かないんでしょうか。そのように考えて実行していくのが私たちキリスト者の役割ではないかなと思うんです。
私たちは信仰宣言で、最後に「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、 聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます」と唱えます。だったらそういう信じる者の生き方として相応しいのはどういうことなのか。たとえば永遠の命。皆さん、永遠の命というのは私たちが死んでからいただくものというふうに思っていませんか。私はちょっと違うふうに考えるんです。永遠の命って何ですか。永遠のものっていうのは、私たちの周りにあるでしょうか。あえて探すならば、これは愛である。愛は永遠ですよ。ですから、私たちが互いに愛し合う。これをイエスは明示したでしょう。私たちは互いに愛し合う。相手一人ひとりが私にとって大事な人だ。ですから、その人が困っていて私に余裕があれば、私のものを提供していく。そしてお互いに助け合って結ばれていく。これがキリスト者の生き方ではないかと思うんです。
愛は永遠です。永遠の命。それは私たちが愛を生きることではないかなと思うんです。私たちはそういう生き方ができるように、今日のミサでご一緒に祈りましょう。
年間第25主日
髙祖 敏明 神父
皆様のご協力のもと、この天井の自動火災報知器の工事が無事に終わりました。その間、平日のミサはマリア聖堂でやっていましたけれども、無事に終わって、あとはここのセンサーを受ける事務室の中の機械を取り替えると工事が終わります。そして、いろんな皆さんのグループの中でパントリーを使っていらっしゃいますが、パントリー1にエアコンを入れました。あそこは火を使いますので、少し涼しさがあるといい、ただエアコンの風が火に当たるところがあるので、それは上手に業者がやってくれたという話を聞いていますけれども、実際にそこでお仕事をなさっている方は非常に喜んでくださっています。こういうふうに、私たちの教会の中の様々な施設・設備、もちろんこの祈りのための施設・設備もそうですけれども、少しずつイノベーションをしていくということが必要になってきます。私たちの信仰の歩みも一箇所に留まっているというよりも、神様の御言葉は私たちにイノベーションを起こして、どんどん深まっていくということを招いているようです。今日の福音を材料にして、その辺について少しお話ししてみようと思います。
今日の3つの朗読がありましたけれども、最初の朗読アモスの預言とルカの福音書は、隣人に商売で不正を働き、弱い者を金で買い取る人々が登場してきている。アモスの預言の方は比較的分かりやすい内容になっていますね。「お前たちは言う」ということで「エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴1足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう」というふうにして、相手をいかにごまかすかということがここに書かれていますので、そこに不正があるということはよくわかります。しかし、福音書の中でこのところは「不正な管理人のたとえ」ということで紹介されているんですが、さっと読んだだけでは何が不正なのかということがいくつか出てくるんですけれども、分かるようで、分からないんですよね。ちょっとそのことについて申し上げますね。
例えば「不正にまみれた富」という言葉が出てくる。皆さんが持っていらっしゃる聖書と典礼の中にはちゃんと注釈がついていて、この不正にまみれた富というのは、「不正な手段で得た富ではなくて、『この世の富』」のことを言っていると書いてあります。ですから、不正という言葉を使っていても、必ずしも私たちが普通に考えている不正ではないということがわかります。しかし、さらにわかりにくいのは、「不正な管理人のたとえ」ということでも出てくるこの話です。伝統的な解釈は、管理人が主人の財産を無駄遣いしていた。無駄遣い、これは不正だと。それから主人に借りのある人を呼びつけて証文を勝手に書き直す、書き換えさせる。これも不正だと。これもよく分かる。ところが分からないのは、「主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と書かれているからです。この抜け目のないやり方っていうのが主人の財産の無駄遣いのことを言っているんでしょうか。また証文を勝手に書き換えさせることを「抜け目がない」と言っているんでしょうか。それをほめたって言うと、不正なことをしなさいと言ってるように読めますよね。これはいかにもおかしい。その解釈がそもそも違っているんじゃないかというふうに思います。
そこで最近の解釈はこうだそうです。これは皆さんのお手元の聖書と典礼にも書いてあることです。「書き直しなさい」ということを説明して、「偽りの文書を作ることではなく、律法で禁じられていた利息分(あるいは手数料)を差し引いたとも考えられる」という、一歩退いた説明になっていますけれども、最近はこの解釈が強いようです。と言いますのは、実際に律法は、イスラエルの同胞の人々から利息を得てはならないというふうに利息を取ることを禁じています。しかし、この管理人はそういうことを知っているにもかかわらず、自分の裁量で、律法を無視して利息や手数料をつけていた。そして証文を持ってきた人に対して、自分がつけていた手数料とか利息分を差し引くという形で相手に恩を売り、自分を家に迎えてくれる友を得た。このやり方を「抜け目がない」というふうに主人がほめたというのが最近の解釈だそうです。この方が何か無理がない気がしますよね。
でも、自分で勝手にこの利息をつけておいて、それを相手に恩を売る形で引いてやるというのは、ある意味で姑息な手段ですよね。でもこの主人は、そういう相手に恩を売ることを上手に、気づかれないようにやったというこの抜け目のなさをほめているんでしょう。ですからイエス様はこのたとえを話して、続けて「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。不正にまみれた富(つまりこの世の富)で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなった時、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。ここに私たちの日常生活から信仰生活へのステップというか、そこが込められている。この世の富で友達を作りなさい。それはこの世の家に迎えられること以上に、永遠の住まい、つまり神の国に迎え入れてもらえるという、そちらの方を推奨している。それを意識しているんでしょう。皆様の持っていらっしゃる聖書と典礼にも、「貧しい人に施しをしてその友となれ、という意味にもとれるが、そうすることによって神の友になりなさい、という意味にもとれる」というふうに説明してあります。こういう説明、納得できますよね。私たちの持っている富の、そのもともとの意味がそこに書かれてあるんですけども、私たちが持っている富というのは、自分のために使うものだけではなくて、むしろ私たちの隣人のために使う、お互いに分かち合うもの、交換し合うものとして与えられている。そこがとても大事な点だろうと思います。
以上のような説明を踏まえて、まず、ごく小さなことにも忠実であることが大切である、とイエス様はおっしゃっています。主人の財産を管理する人が無駄遣いをしているというのは、おそらく日々のごく小さなことへの忠実をおろそかにしていった、その積み重ねなんでしょう。そして、「他人のもの」についても忠実であるようにと書かれていますけれども、管理人は他人の財産管理を任されていました。先ほど申しました通り、「他人のもの」、これについても聖書と典礼で「神から人に任されたこの世の財産」だって説明してありますよね。これを自分のためのみに用いたり、私腹を肥やすために使う、そのために与えられるんじゃありませんよ。そのために神様からあなたに任されてるんじゃありませんよ。皆さんと全員と周囲の人と分かち合うものとして神から任されている。この点を意識して、「他人のもの」に関わるようにと教えている。私たちもいろんな人たちから関わりを持って、いろんな人のものを預かったりします。ごく小さなことへの忠実も、他人から預かるものについての忠実も、私たちの日々の生活の中で、家庭生活の中で、友達付き合いの中で、社会生活で、そしてこの教会での生活、信仰生活でもとてもこれは大事なことです。そのことを今日福音は私たちに教えているように思います。
そしてイエス様は、ごく小さなことに不忠実であるとか、他人のものに対しても不忠実であるというこの生き方の背後には何があるか、それは財産や富に執着する心、人間の倫理道徳や神への忠実よりも財産や富を優先させているという心の姿勢があることを見抜いておられる。だからイエス様は今日のこの話のまとめとして、「どんな召し使いも2人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるかどちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とはっきりとおっしゃっています。これは富を否定しているものではありません。優先順序をどこに置いているかという、そこの問題です。
今日の第二朗読は、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」というふうに書いてあります。今日のこの福音を私が説明してきたような感じで知り、イエス様が私たちに呼びかけていらっしゃることを心から受け止めて、それを本当に深く知るということに、今日の御言葉は私たちを招いているようです。今日の第二朗読の最初のところに「愛する者よ、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」とあります。これは神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる、ということに対応するものでしょう。私たちもこのミサの中で、特に今日のこのパウロが勧めている祈り、すべての人が救われて真理を知ることになるように、願いと祈りと執り成し、そして感謝の祈りをご一緒にささげたいと思います。
十字架称賛の祝日
山内 豊 神父
9/14(日)10:00- 十字架称賛の祝日 子どもと祖父母と高齢者のためのミサ
皆さん、おはようございます。久しぶりに教会学校の子どもたちを見ると、私が知らない人が多くいるなって感じます。1年ぐらい前に引退したんですけど、1年でこんなに変わるものかって思うぐらい人が変わっていて、びっくりします。
今日は十字架の称賛の日になっております。人生は十字架を背負っていく道のようだと私は思います。イエス様は「わたしについていきたい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言いました。実は私たちは十字架を背負って生きているわけです。皆さん、十字架を背負って生きてるって感じませんよね。でも、いろんな十字架を背負って生きています。生まれた時から私たちは十字架を背負っています。例えばどんなことがあるでしょうか。例えば生まれる場所。私は日本で生まれました。でも、この中にはいろんな国で生まれた人がいるかもしれません。私はアメリカで生まれたかったって思う人もいるかもしれませんが、私たちはそれを選べませんね。アフリカのどこかの国、例えばコンゴ民主共和国で生まれる可能性だってあったわけですが、私たちは日本で生まれて、そして育っている。それは生まれた時から決まっていて、背負っていかなければならない。日本人として生きていかなければならないという、十字架かどうかは分からないですけど、何かを背負っているわけです。
そして、自分の親は私たちは選べません。隣の家に生まれたかったって思っている人がいるかもしれませんが、隣の家で生まれることはできません。私たちは親とずっと生きていく。そして関係を背負って生きていかなければなりません。日本の中で貧しい人と裕福な人がいます。私たちの中には、金持ちの家に生まれたかった人もいると思います。私も金持ちのもとで生まれたいなって思って、もう無理な話で、極限に貧しいわけではないですけど普通の家に生まれました。それも私たちが背負っていかなければならないものです。皆さんは健康ですか?生まれながらにして体が弱い人もいます。そういうものも背負って生きていくわけです。最初は小さい十字架を背負っていくんですけど、人生を歩んでいくとどんどん重くなっていきます。いろんなものを背負って生きていかなければならないわけです。例えばある人は病気と一緒に付き合っていかなければならない。途中で病気になってそれを背負って生きていかなければならない。
そして子どもが生まれるかもしれません。子どもをちゃんと背負って生きていく。それも1つの十字架であります。この中で、結婚したい人いますか?まだ子どもだからいないかな?あ、いらっしゃいましたね。大学生の方は結婚したいと。その結婚アイテムを背負っていく人生になっていきます。私たちはそれが重く苦しいものだと思うかもしれませんけど、私たちにとってその十字架っていうものは、私を形作るものであるわけです。私たちはそれによって清められて神の子となっていく。背負っているものによって神の子になっていくわけです。決してそれはマイナスだけのものではないし、プラスだけのものではないです。でも、それを背負って生きていく。そしてちゃんと背負って、神の子となっていくっていうことが求められています。
明日は敬老の日だそうです。敬老の日って何の日ですか?おじいちゃんとおばあちゃんに「ありがとう」と言う日。その通りだと思います。人生は山登りに例えられるかもしれませんね。皆さんは山登りを始めたぐらいですね。小学生、みんな10歳ぐらい?10歳もいかないぐらいだと思うんですけど、これからどんどん山に登っていくわけです。私は40歳ですから、だいたい真ん中の頂点にいるかもしれない。頂上にいて一番今いい時なのかもしれないですけど、頂上ぐらいにいるかもしれません 山に登るっていうことは、いろんなものを身につけていきます。学校に行っていない人もいるかもしれないですけど、学校に行ってる人は勉強して、いろんなものを身につけて、どんどん何でもできるようになっていく。だからプラスが多い時期なんですね。皆さんどんどん大人になって、何かできるようになっていくわけです。
でも、この山は登った後、どうしなきゃいけないですか?頂上に住む?帰らなきゃいけないんですね。山は下りていかなければならないわけです。高齢者の方は今、この下りていくっていう時期を歩んでいるんじゃないかなと私は思います。ずっと登っているわけにはいかないんですね。どんどん下りていかなければいけないわけです。それはいろんなものを失っていく道のりでもあります。例えば健康。皆さん、子どもたちね、健康な人もいますけど年を取ると病気とかし始めるんですね。私も半年ぐらい前に脳梗塞をやりまして、私はもう死ぬんだって若干思ったんですけど、死ななかったのでよかったです。そうやってどんどん病気をしていくわけですね。昔は私、バスケットボール部だったんですけど、体が動くし、永遠に走れるって思うぐらい体力がありました。でも今考えると全然走れないし、動けないし、腰痛いし、なんかどんどん失ってるわけですね。
おじいちゃんおばあちゃんになっていくと、それが大きくなっていって、例えば歩けなくなったりとか、いろんなものが失われていきます。あと、名誉とかね。例えば自分のお父さんがもしかしたら社長な人もいるかもしれないですけど、社長って働いている地位にはその肩書きがありますけど、引退すればそれはなくなるわけです。どんどん失っていくマイナスが多い時期になっていきます。そして、最後に手放さなければならないのは、自分の命ということになっていきます。何もできなくなって、命までも神様に返していくっていう日々です。そういう日々は結構大変ですよね。疲れるっていうか、辛い時期にあたります。
このことは心理学的な言葉で言うと、対象喪失って言うんですね。対象はその対象で、喪失はなくすって意味です。私たちが生きている中で、いろんなところにエネルギーを注いでいます。例えば、私は社長なんだって思う。それにすごくエネルギーを注いでいて、パッとその社長という肩書きがなくなった時に対象となるものがなくなる。そしてそれがその人の心にすごいダメージを負うっていう形になります。本当はそこでまた持ち直して新しい意味に生きていかなければならないんですけど、そこで病気になってしまう人もいます。その失っていく中で唯一残るものは何でしょう?そう、宝物ですね。宝物が一番最後まで残ります。その宝物は神への信仰ですね。それは決して失われることのないものです。どんどん私たちは純粋になっていくんですね。高齢になっていくといろんなものを諦めて手放すけど、最終的に残るのは神への信仰だけです。そしてそれしか持っていかれないっていうか、持ち続けることはできない状況になります。急に亡くなる人もいますけど、ある人は病院の中で少しずつ失われていって、最後に持っているのが信仰ということになります。
実は私たち、死を超えた素晴らしいものを持っているということを心に留めた方がいいし、心に留めましょう。そしてそういう難しい時期を生きている高齢者の方に「ありがとう」と言いたいですね。そして尊敬することが重要なんじゃないかな、と思います。明日は敬老の日ということで、高齢者の方々で本当に大変な時期を過ごしている人もいると思いますので、みんな感謝の心を持ってね。私にはもうおじいちゃんおばあちゃんと言える人は亡くなっていないので、明日皆さん、おじいちゃんおばあちゃんに「ありがとう」って言ってください。言ってくれますか?ちょっとみんな恥ずかしいですね。なかなか親に「ありがとう」とか、おじいちゃんおばあちゃんに「ありがとう」って言うのって恥ずかしいもんね。頑張って明日言ってください。このまま皆さん、高齢の方が最後まで道のりを歩んでいけるようにミサを続けてまいりたいと思います。
年間第23主日
グエン・タン・アン助祭
共同体の皆さん、今日私たちは共に「被造物を大切にするためのミサ」を捧げています。この日の典礼の言葉の中で何度も耳にする言葉「宇宙の万物を見なさい」。これは今日のミサを通して、教会が私たち一人ひとりに投げかけている大切な招きの言葉です。特に今、自然が人間の活動によって深く傷つけられ、人間と自然との密接なつながりへの意識が薄れる傾向があるこの時代において、「宇宙の万物を見なさい。その美しさを黙想しなさい」という呼びかけは一層意味深く響いてきます。
今日の第一朗読の知恵の書とマタイ福音書の中でも、私たちは自然を観察することによって、神がすべての被造物において深く現存し、神の愛、神の美しさ、そして神の力がそこに現れていることを教えられています。自然界を見渡すとき、私たちはきっとその美しさに心を打たれることでしょう。その美しさはまさに神の美しさの反映です。また、自然から受け取っている水、空気、太陽、光、食べ物や飲み物、これらすべてが神からの賜物であり、私たちが生き、成長し、命を豊かにしていくために与えられているものであると理解できるでしょう。なので、このような意味を持って、今日のミサを通して、私たちは神の偉大な創造のわざを共に賛美し、愛の源である神に心から感謝を捧げましょう。
そしてそれだけではなく、神が造られたすべてのものを大切にし、神の創造のわざに積極的に関わっていく決意を新たにしたいと思います。創世記にもあるように、神はこの世界を人間に委ね、それを世話しなさい、それを守りなさいと言われました。それはすべての人に与えられた根本的な使命なのです。しかし、人間はいつのまにか自己中心的な、すなわち自分さえ良ければという生き方に陥り、この使命を忘れてしまったかもしれません。その結果、自然は破壊され、人間と自然とのつながりも薄れてしまいました。
皆さん、けれどもこの危機に対して聖パウロは、第二朗読であるコロサイの信徒への手紙の中で私たちに道を示しています。神は、キリストの十字架の血によってこの世界に平和をもたらし、すべてのものをご自分と和解させてくださいました。この希望の信仰に立つ私たちは、十字架のイエス・キリストに倣い、自分の世界に閉じこもることなく他者に寄り添いながら彼らを愛し、そして神の被造物すべてを大切にしていきましょう。キリストの十字架の恵みによって、私たちは1つの共同体として共に歩み、共にすべてのいのちを守ることができるでしょう。このような意味を胸に、どうか私たちがいつも神の創造のわざを賛美し、すべての被造物を大切にするという使命を果たすことができるよう、今日のミサの中で共に祈りましょう。アーメン。
2025年9月27日にアン助祭の叙階式が当教会で行われます。アン助祭のためにお祈りください。