2025年9月 ミサ説教
9/7(日)10:00- 年間第23主日 グエン・タン・アン 助祭
9/14(日)10:00- 十字架称賛の祝日 山内 豊 神父
十字架称賛の祝日
山内 豊 神父
9/14(日)10:00- 十字架称賛の祝日 子どもと祖父母と高齢者のためのミサ
皆さん、おはようございます。久しぶりに教会学校の子どもたちを見ると、私が知らない人が多くいるなって感じます。1年ぐらい前に引退したんですけど、1年でこんなに変わるものかって思うぐらい人が変わっていて、びっくりします。

今日は十字架の称賛の日になっております。人生は十字架を背負っていく道のようだと私は思います。イエス様は「わたしについていきたい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言いました。実は私たちは十字架を背負って生きているわけです。皆さん、十字架を背負って生きてるって感じませんよね。でも、いろんな十字架を背負って生きています。生まれた時から私たちは十字架を背負っています。例えばどんなことがあるでしょうか。例えば生まれる場所。私は日本で生まれました。でも、この中にはいろんな国で生まれた人がいるかもしれません。私はアメリカで生まれたかったって思う人もいるかもしれませんが、私たちはそれを選べませんね。アフリカのどこかの国、例えばコンゴ民主共和国で生まれる可能性だってあったわけですが、私たちは日本で生まれて、そして育っている。それは生まれた時から決まっていて、背負っていかなければならない。日本人として生きていかなければならないという、十字架かどうかは分からないですけど、何かを背負っているわけです。
そして、自分の親は私たちは選べません。隣の家に生まれたかったって思っている人がいるかもしれませんが、隣の家で生まれることはできません。私たちは親とずっと生きていく。そして関係を背負って生きていかなければなりません。日本の中で貧しい人と裕福な人がいます。私たちの中には、金持ちの家に生まれたかった人もいると思います。私も金持ちのもとで生まれたいなって思って、もう無理な話で、極限に貧しいわけではないですけど普通の家に生まれました。それも私たちが背負っていかなければならないものです。皆さんは健康ですか?生まれながらにして体が弱い人もいます。そういうものも背負って生きていくわけです。最初は小さい十字架を背負っていくんですけど、人生を歩んでいくとどんどん重くなっていきます。いろんなものを背負って生きていかなければならないわけです。例えばある人は病気と一緒に付き合っていかなければならない。途中で病気になってそれを背負って生きていかなければならない。

そして子どもが生まれるかもしれません。子どもをちゃんと背負って生きていく。それも1つの十字架であります。この中で、結婚したい人いますか?まだ子どもだからいないかな?あ、いらっしゃいましたね。大学生の方は結婚したいと。その結婚アイテムを背負っていく人生になっていきます。私たちはそれが重く苦しいものだと思うかもしれませんけど、私たちにとってその十字架っていうものは、私を形作るものであるわけです。私たちはそれによって清められて神の子となっていく。背負っているものによって神の子になっていくわけです。決してそれはマイナスだけのものではないし、プラスだけのものではないです。でも、それを背負って生きていく。そしてちゃんと背負って、神の子となっていくっていうことが求められています。
明日は敬老の日だそうです。敬老の日って何の日ですか?おじいちゃんとおばあちゃんに「ありがとう」と言う日。その通りだと思います。人生は山登りに例えられるかもしれませんね。皆さんは山登りを始めたぐらいですね。小学生、みんな10歳ぐらい?10歳もいかないぐらいだと思うんですけど、これからどんどん山に登っていくわけです。私は40歳ですから、だいたい真ん中の頂点にいるかもしれない。頂上にいて一番今いい時なのかもしれないですけど、頂上ぐらいにいるかもしれません 山に登るっていうことは、いろんなものを身につけていきます。学校に行っていない人もいるかもしれないですけど、学校に行ってる人は勉強して、いろんなものを身につけて、どんどん何でもできるようになっていく。だからプラスが多い時期なんですね。皆さんどんどん大人になって、何かできるようになっていくわけです。
でも、この山は登った後、どうしなきゃいけないですか?頂上に住む?帰らなきゃいけないんですね。山は下りていかなければならないわけです。高齢者の方は今、この下りていくっていう時期を歩んでいるんじゃないかなと私は思います。ずっと登っているわけにはいかないんですね。どんどん下りていかなければいけないわけです。それはいろんなものを失っていく道のりでもあります。例えば健康。皆さん、子どもたちね、健康な人もいますけど年を取ると病気とかし始めるんですね。私も半年ぐらい前に脳梗塞をやりまして、私はもう死ぬんだって若干思ったんですけど、死ななかったのでよかったです。そうやってどんどん病気をしていくわけですね。昔は私、バスケットボール部だったんですけど、体が動くし、永遠に走れるって思うぐらい体力がありました。でも今考えると全然走れないし、動けないし、腰痛いし、なんかどんどん失ってるわけですね。

おじいちゃんおばあちゃんになっていくと、それが大きくなっていって、例えば歩けなくなったりとか、いろんなものが失われていきます。あと、名誉とかね。例えば自分のお父さんがもしかしたら社長な人もいるかもしれないですけど、社長って働いている地位にはその肩書きがありますけど、引退すればそれはなくなるわけです。どんどん失っていくマイナスが多い時期になっていきます。そして、最後に手放さなければならないのは、自分の命ということになっていきます。何もできなくなって、命までも神様に返していくっていう日々です。そういう日々は結構大変ですよね。疲れるっていうか、辛い時期にあたります。
このことは心理学的な言葉で言うと、対象喪失って言うんですね。対象はその対象で、喪失はなくすって意味です。私たちが生きている中で、いろんなところにエネルギーを注いでいます。例えば、私は社長なんだって思う。それにすごくエネルギーを注いでいて、パッとその社長という肩書きがなくなった時に対象となるものがなくなる。そしてそれがその人の心にすごいダメージを負うっていう形になります。本当はそこでまた持ち直して新しい意味に生きていかなければならないんですけど、そこで病気になってしまう人もいます。その失っていく中で唯一残るものは何でしょう?そう、宝物ですね。宝物が一番最後まで残ります。その宝物は神への信仰ですね。それは決して失われることのないものです。どんどん私たちは純粋になっていくんですね。高齢になっていくといろんなものを諦めて手放すけど、最終的に残るのは神への信仰だけです。そしてそれしか持っていかれないっていうか、持ち続けることはできない状況になります。急に亡くなる人もいますけど、ある人は病院の中で少しずつ失われていって、最後に持っているのが信仰ということになります。

実は私たち、死を超えた素晴らしいものを持っているということを心に留めた方がいいし、心に留めましょう。そしてそういう難しい時期を生きている高齢者の方に「ありがとう」と言いたいですね。そして尊敬することが重要なんじゃないかな、と思います。明日は敬老の日ということで、高齢者の方々で本当に大変な時期を過ごしている人もいると思いますので、みんな感謝の心を持ってね。私にはもうおじいちゃんおばあちゃんと言える人は亡くなっていないので、明日皆さん、おじいちゃんおばあちゃんに「ありがとう」って言ってください。言ってくれますか?ちょっとみんな恥ずかしいですね。なかなか親に「ありがとう」とか、おじいちゃんおばあちゃんに「ありがとう」って言うのって恥ずかしいもんね。頑張って明日言ってください。このまま皆さん、高齢の方が最後まで道のりを歩んでいけるようにミサを続けてまいりたいと思います。
年間第23主日
グエン・タン・アン助祭

共同体の皆さん、今日私たちは共に「被造物を大切にするためのミサ」を捧げています。この日の典礼の言葉の中で何度も耳にする言葉「宇宙の万物を見なさい」。これは今日のミサを通して、教会が私たち一人ひとりに投げかけている大切な招きの言葉です。特に今、自然が人間の活動によって深く傷つけられ、人間と自然との密接なつながりへの意識が薄れる傾向があるこの時代において、「宇宙の万物を見なさい。その美しさを黙想しなさい」という呼びかけは一層意味深く響いてきます。
今日の第一朗読の知恵の書とマタイ福音書の中でも、私たちは自然を観察することによって、神がすべての被造物において深く現存し、神の愛、神の美しさ、そして神の力がそこに現れていることを教えられています。自然界を見渡すとき、私たちはきっとその美しさに心を打たれることでしょう。その美しさはまさに神の美しさの反映です。また、自然から受け取っている水、空気、太陽、光、食べ物や飲み物、これらすべてが神からの賜物であり、私たちが生き、成長し、命を豊かにしていくために与えられているものであると理解できるでしょう。なので、このような意味を持って、今日のミサを通して、私たちは神の偉大な創造のわざを共に賛美し、愛の源である神に心から感謝を捧げましょう。

そしてそれだけではなく、神が造られたすべてのものを大切にし、神の創造のわざに積極的に関わっていく決意を新たにしたいと思います。創世記にもあるように、神はこの世界を人間に委ね、それを世話しなさい、それを守りなさいと言われました。それはすべての人に与えられた根本的な使命なのです。しかし、人間はいつのまにか自己中心的な、すなわち自分さえ良ければという生き方に陥り、この使命を忘れてしまったかもしれません。その結果、自然は破壊され、人間と自然とのつながりも薄れてしまいました。
皆さん、けれどもこの危機に対して聖パウロは、第二朗読であるコロサイの信徒への手紙の中で私たちに道を示しています。神は、キリストの十字架の血によってこの世界に平和をもたらし、すべてのものをご自分と和解させてくださいました。この希望の信仰に立つ私たちは、十字架のイエス・キリストに倣い、自分の世界に閉じこもることなく他者に寄り添いながら彼らを愛し、そして神の被造物すべてを大切にしていきましょう。キリストの十字架の恵みによって、私たちは1つの共同体として共に歩み、共にすべてのいのちを守ることができるでしょう。このような意味を胸に、どうか私たちがいつも神の創造のわざを賛美し、すべての被造物を大切にするという使命を果たすことができるよう、今日のミサの中で共に祈りましょう。アーメン。

2025年9月27日にアン助祭の叙階式が当教会で行われます。アン助祭のためにお祈りください。