2025年10月 ミサ説教
10/5(日)10:00- 年間第27主日 サトルニノ・オチョア 神父
10/12(日)10:00- 年間第28主日 グエン・タン・アン 神父
10/19(日)10:00- 年間第29主日 髙祖 敏明 神父
10/26(日)10:00- 教会祭 国際ミサ 柴田 潔 神父
教会祭 国際ミサ
柴田 潔 神父
今日は日本語、英語、スペイン語、ベトナム語でそれぞれの神父様が2分ぐらいの説教をされます。まず私からです。イグナチオ教会はどのような教会なのか考えてみました。
40年前、大学2年生だった私は生きる目標がわからなくてイグナチオ教会の朝ミサに来ました。ミサが終わった後も、ずっと座り続けていると、後ろからご婦人が声をかけてくださいました。「あなたの願い事が叶うといいわね」。初めて教会に来た「私のために祈ってくださる」。教会は「祈ってくださる場所」。それが最初の私のイグナチオ教会の体験でした。
今は、どうでしょう?東ティモールから来られている中間期生のソアレス神学生のために、8人の信者さんが日本語を教えてくださっています。文化の特徴を互いに感じ合い、どんなことに興味があるのか、疲れてないか、それぞれの先生方は様子を見ながらレッスンを続けてくださっています。日本語検定の合格のために、そしてソアレスさんがこのイグナチオ教会で司祭叙階されるように、チームで応援してくださっています。「イグナチオ教会は神学生を育ててくださる教会」。今、とても感謝しています。
イグナチオ教会は大きな教会です。でも、出かけることも大切にしています。先週は奉仕者と4名の方の塗油に伺いました。「あなた方のうちで病気の人がいたら、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブの手紙5・14)。ヤコブの手紙が実現しました。ご聖体は誤嚥の危険があって聖体拝領が難しい方には、御血をご用意しました。ある方にはスプーンに数滴、御血を拝領していただきました。すると「もう少しいただこうかしら」と、おかわりを望まれました。場が和みました。人生の最後の試練、死に臨む時に、聖体拝領の恵みを願う祈り「アヴェ ヴェルム コルプス」の歌詞が実現しました。ご葬儀では典礼聖歌隊の皆様が心を込めてアヴェ ヴェルム コルプスを歌って見送ってくださいました。
体験していることを少し紹介させていただきました。今、集まっている私たちがイグナチオ教会で体験していることを集めたら、どれほど豊かになるでしょう。小さな一人を大切にするその体験が集まって一つになっていく。イグナチオ教会の素晴らしさに感謝して、さらに発展させていきましょう。
年間第29主日
髙祖 敏明 神父
改めて、今日洗礼を受けるご家族の皆様、おめでとうございます。ミサの初めに、今日は大きな喜びの日と申し上げましたけれども、私たち司祭団も、侍者も、それから聖体奉仕者もお祝いしています。今日は本当にたくさんの方が、司祭団も柴田神父さんを含めて4人も関わっていますし、侍者の方も、ご覧になっている通り様々な年齢の子どもたちが奉仕をしてくれています。
幼児洗礼を受ける子どもたち、子どもという存在は、私たちに確かに未来を感じさせ、希望を与えてくれます。共同体にとっても本当に大きな喜びであります。イエス様は「私のもとに来させなさい」とおっしゃっています。主イエスが与える祝福に子どもたちを委ね、任せたいと思います。また、父と子と聖霊の交わりに入れる洗礼は、イエスの死と復活にあずかり、私たちの希望の礎となるものであります。航海に例えられる人生という旅を始めた幼き巡礼者に、洗礼が希望の錨となりますようにと、ご一緒にお祈りをしたいと思います。
そして、もう1つ大事なことがあります。父と子と聖霊の交わりに入る洗礼というのは、ご家族が三位一体の神のかたどりとして生きるということでもあります。父と子と聖霊、お父さんとお母さんが、私たちが父と呼んでいる神様の役割を果たすでしょうし、そこから生まれてきた子ども、そしてそこにある愛である聖霊、その交わりである聖霊家族として三位一体の神秘を生きる、そういう恵みに今日あずかることになります。そういう意味での感謝を改めて捧げたいですし、これからの祝福と導きをご一緒にお祈りしたいと思います。
今日の朗読の中でパウロがテモテに送った手紙、そこには今日の幼児洗礼に向けたメッセージ、信徒となった私たちへのメッセージがたくさん含まれているように思います。パウロは弟子テモテに言っています。「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と。そして「だれから学んだか」。このことは聖書と典礼の中に、テモテの父はギリシャ人、母はユダヤ人で、彼は母と祖母からユダヤ人としての教育を受け、聖書を学んだ。さらにパウロからキリストについての教えも受けたというふうに書いてあります。テモテを、「私たち」ないしは「洗礼を受ける子どもたちとそのご両親」に置き換えて読むことができると思います。父親の協力があって初めて幼児洗礼ということに行くんでしょうし、初めて三位一体の神秘を生きることができるからであります。
改めてテモテの手紙をちょっと読んでみますと、「幼い頃から聖書に親しんできた…この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなた方に与えることができる」。与えることができるというわけですから、自動的に救いに導かれるわけではない。その「できる」ということを私たちが実際に実現する。そういう意味の努力も必要だというニュアンスが込められています。私たちもこの点を意識したいと思います。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられる」。私たちも聖書、神のみことばに学んでそうありたいですし、子どもたちもそのように育ってほしいと思います。ミサの聖書朗読は「神のみことばの食卓」と言われます。神様のみことばによって私たちも養い、育てていただきましょう。
もう1つ、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」。教える立場にある者、ご両親、あるいは私たち自身も含めてそこへの励ましであり、アドバイスであろうかと思います。子どもは未来を感じさせる希望を与える存在。子どもを育てることは喜びであるとともに、苦労も多く、忍耐が求められます。聖書の基本思想に、教育についてこのような教えがあります。私たち人間が子供を育てるというふうに思っているけれども、聖書の根本的な思想は、神が人を育てておられるということなんだ。神が人を、人類を、共同体を育てておられるということ。育児、養育、教育に携わる私たちが、神の霊に導かれて、神が育てておられるその育て方に委ねたい。その導きを私たちも、そこに協力するという形で子どもたちを育てたい。そういう祈りをご一緒に捧げたいと思います。
福音書の中には、なかなか希望とか願いが叶えられなくても、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えている。「神は、昼夜叫び、求めている選ばれた人をいつまでもほうっておかれることがあろうか」とイエス様はおっしゃっている。
この世への誕生は人生という旅のスタートです。洗礼は、父と子と聖霊の交わりに入れる新たな誕生です。ご家族にとっては三位一体の神の似姿として、その神秘を生きることであります。父と子と聖霊の三位一体の神は、私が意識しているかしないかに関わらず、いつも私たちの傍にいてくださり、私を守り、育てておられます。いつくしみ深い神に信頼して、今日洗礼を受ける子どもたちその一人ひとりのために、そしてそのご両親のために、また代父母を務めてくださる方々のために、神様からの祝福と導きをお祈りいたしましょう。そして自分自身が洗礼を受けた日のことを思い起こしながら、聖書に親しみ、自分が学んで確信したことから離れることがないように、神の力添えを絶えず祈り続けることにいたしましょう。
年間第28主日
グエン・タン・アン 神父
10/12(日)10:00- 年間第28主日
共同体の皆さん、今日の福音書では、重い皮膚病を患っていた10人の人がイエスによっていやされた出来事が語られています。ご存知のようにユダヤ人の文化と宗教生活において、この病気は単なる身体的な苦しみだけでなく、しばしば罪の罰としても理解されてきました。この病気にかかると汚れているとみなされ、共同体から追い出され、家族とも離れて町の外で孤独に生きなければならなかったのです。ですからいやされるということは、単に体が良くなるだけでなく、共同体への復帰、そして神との和解を意味しています。
今日の福音では、10人の病者が遠くからイエスに向かって叫んだと書かれています。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。家族にも拒まれ、誰からも受け入れてもらえず、孤独の中にいた彼らにとって、奇跡を行う力を持つイエスは大きな希望だったに違いありません。イエスは彼らにこう言います。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。当時、病気がいやされたかどうかを正式に判断するのは祭司の役割でした。10人はその言葉を信じて出かけていきます。すると、その途中でなんと彼らの病はいやされていたのです。
ところが、そのうちイエスのもとに戻ってきて神を賛美し、イエスの足元にひれ伏して感謝したのはたった1人だけでした。そして彼は、ユダヤ人とは対立関係にあったサマリア人だったとルカは伝えています。他の9人はどうしたのでしょうか。おそらく自分たちの回復を祭司に認めてもらい、晴れて正常な人間として社会に戻ることを急いだのでしょう。人との交わりを渇望していた彼らにとって、それは当然の行動だったかもしれません。しかし、戻ってきたこの人に対してイエスはこう言われます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。
皆さん、病気のいやしは確かに神の恵みです。しかし、その恵みがどこから来たのか、誰によって与えられたのかを理解するのは信仰の力によるのです。このサマリア人は、ただ自分がいやされたことを喜んだのではありません。そのいやしが単なる偶然や運の良さではなく、神の働きであると心で感じ取ったのです。そして、その神の働きが、今やイエスの存在を通して自分に注がれている愛と慈しみなのだと気づいたのです。神への感謝の行為こそが、まさに神への信仰の現れでした。
皆さん、私たちは日々神から豊かな恵みをいただいているものです。毎日の生活の中で、私たちは多くの恵みを受け取っています。それらすべては、私たち一人ひとりに向けられた神の偉大な愛と慈しみのしるしです。けれども、私たちはその恵みにどれだけ気づいているでしょうか。もしかすると当たり前のこととして受け止め、感謝することを忘れてしまってはいないでしょうか。私たちが日々受けているすべてのもの、命、健康、平和、仕事、家族、共同体、そして信仰そのもの。それらがどこから来ているのか。それは慈しみ深い神から与えられたものに他なりません。しかし、このことを心から理解するにはやはり信仰が必要なのです。
だからこそ、今日のミサの中で私たちの信仰がより強められるように一緒に祈りましょう。そして日々与えられている恵みにいつも感謝できる心を持ち続けましょう。これから私たちは感謝の祭儀を共に行います。この感謝の祭儀の中で、神は先に私たちを愛します。ご自分の命を私たちのために捧げます。この偉大な神の愛と慈しみに心から応え、感謝と賛美を捧げるこの祭儀を、今、共に味わいましょう。
今日はアン神父様の日本語初ミサでした
年間第27主日
サトルニノ・オチョア 神父
ただ今、耳にしたこのルカの福音の箇所「わたしどもの信仰を増してください」。私たちはいろんな経験をして、聖書を読んで、祈って、それで信仰に入ったんですが、でもこの信仰の世界は一体どういうふうに見たらいいのか。おきてを守らなければならない、これをしなければならない、教会に来なければならないということですか。そうしたらその信仰はちょっと薄いですよ。義務と義理だけです。「信仰を増してください」とはどういうことですか、ということですね。
イエス様の時代の社会の仕組みはこれだったんですね。まず第一に、奴隷の人たちがいたんです。その奴隷たちは戦争に負けて、勝った人たちはその人たちを無理やりに使っていたわけです。仕方がない。奴隷はその勝った人に感謝することもしないし、どちらかといえば憎んでいるんです。ですので、自由がない。でも、もう1つのレベルもあったんです。奴隷ではないんです。けれども、僕(しもべ)です。その僕たちは奴隷と違って、家の中では1つのメンバーとして生きていたんですけれども、その僕は義務としていろんな仕事をしなければならないし、言われるように動いている人です。それからあと、自由な人もあります。自由な人たちの中でいろんなレベルがあるでしょうけれども、その人たちは自分のしたいことはする。行きたいところへ行く。言われてもやりたくないことはしない。イエス様はそのことを言っていて、僕だったら、働いたからから疲れているので、今、家に帰って食事しましょうとはならない。そうではないです。まず第一に、主人に対していろんなことしなければならない。主人が食事をしてから、後で台所で、あるいは別のところでその人たちは食べる。食べ物はありますけれども、一緒にしないんです。それでイエス様は、「これは当たり前ではないか」と言われる。
けれども、信仰によってこの世界は壊れる。私たちはイエス・キリストを信じることによって、神の僕、神の奴隷にならない。神の僕になれない。イエス・キリストの僕にもなれない。イエス・キリストご自身は、あのご受難の前に弟子たちには、「あなた方は私と一緒にいるんだから、もう僕と呼ばない。友と呼ぶ。あなたは私の友です。同じレベルです。肩を並べて歩んでいるのです。一緒に食べているのです」とおっしゃる。けれども、もう一方のところがあります。私たちはイエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストは神の御ひとり子であるので、私たちはイエス・キリストを信じることによって、増した信仰によってイエス・キリストに結ばれる。ミサでは、私たちがご聖体をいただく時にはイエス・キリストと結ばれる。それで御ひとり子であるイエス・キリストとともに、私たちは奴隷ではなく、僕でもなく、友でもなく、子になります。子であるイエス・キリストとともに、私たちも子になります。これは私の言葉ではないんです。パウロの言葉です。御子によって、私たちは神の子になる。それによって私たちは、天におられる私たちの父、子として祈るのです。だから、このような本当に大きくなった、成長した信仰によって、私たちはただ神様と結ばれる。イエス・キリストと結ばれるということじゃなくて、愛のことです。一緒になっているんです。愛のことです。イエス・キリストを信じるよりも、イエス・キリストを愛するのです。
なお、こちらも今日皆さんにお勧めしたいと思いますけれども、私たちが何回も偉そうに、神様を愛する、何よりも私たちは神様を愛するというのは、ちょっと厚かましいことです。私たちには一方的に神様を愛する力がない。もう一度繰り返します。絶対ない。ありえない。それで、どうして私たちは神様を愛することができるかと言いますと、ヨハネの手紙では非常にはっきりしています。どうしてですか。まず第一に、私たちが愛することができるのは愛されたからです。神様に愛されているのです。愛されたあの時じゃなくて、愛されつつある。いつもいつも、今も。私たちが罪人であっても、ひどいことをしても、神様の愛は絶え間なく私たちとともにあるんです。それを私たちが受けたいのかということです。
ミサの初めに話したように、秋になった時に私たちは自然を見て、紅葉の素晴らしい景色を見る時にはなんとなく、無神論者さえも、ああ、ありがたいものだと思います。何か知らないけれども、愛されているに違いありません。これは信仰の初めです。私たちは神様を愛するのではなく、神様がまず私たちを愛してくださったからです。このヨハネの手紙の言葉です。「神は御ひとり子を世に遣わされた。それは私たちが彼を通して生きるためです。ここに神の愛が私たちに現れたのです 私たちが神を愛するのではなく、神がまず第一に私たちを愛して、私たちに御ひとり子を罪のゆるしとして私たちに遣わされたのです」。だから皆さんにお勧めしたいと思います。祈る時には積極的な態度を取るよりも、受け身になって。それで私たちは愛されている。私たちは大切な人です。神の子です。それによって私たちの信仰は増えるに違いありません。