2025年10月 ミサ説教
10/5(日)10:00- 年間第27主日 サトルニノ・オチョア 神父
年間第27主日
サトルニノ・オチョア 神父

ただ今、耳にしたこのルカの福音の箇所「わたしどもの信仰を増してください」。私たちはいろんな経験をして、聖書を読んで、祈って、それで信仰に入ったんですが、でもこの信仰の世界は一体どういうふうに見たらいいのか。おきてを守らなければならない、これをしなければならない、教会に来なければならないということですか。そうしたらその信仰はちょっと薄いですよ。義務と義理だけです。「信仰を増してください」とはどういうことですか、ということですね。
イエス様の時代の社会の仕組みはこれだったんですね。まず第一に、奴隷の人たちがいたんです。その奴隷たちは戦争に負けて、勝った人たちはその人たちを無理やりに使っていたわけです。仕方がない。奴隷はその勝った人に感謝することもしないし、どちらかといえば憎んでいるんです。ですので、自由がない。でも、もう1つのレベルもあったんです。奴隷ではないんです。けれども、僕(しもべ)です。その僕たちは奴隷と違って、家の中では1つのメンバーとして生きていたんですけれども、その僕は義務としていろんな仕事をしなければならないし、言われるように動いている人です。それからあと、自由な人もあります。自由な人たちの中でいろんなレベルがあるでしょうけれども、その人たちは自分のしたいことはする。行きたいところへ行く。言われてもやりたくないことはしない。イエス様はそのことを言っていて、僕だったら、働いたからから疲れているので、今、家に帰って食事しましょうとはならない。そうではないです。まず第一に、主人に対していろんなことしなければならない。主人が食事をしてから、後で台所で、あるいは別のところでその人たちは食べる。食べ物はありますけれども、一緒にしないんです。それでイエス様は、「これは当たり前ではないか」と言われる。

けれども、信仰によってこの世界は壊れる。私たちはイエス・キリストを信じることによって、神の僕、神の奴隷にならない。神の僕になれない。イエス・キリストの僕にもなれない。イエス・キリストご自身は、あのご受難の前に弟子たちには、「あなた方は私と一緒にいるんだから、もう僕と呼ばない。友と呼ぶ。あなたは私の友です。同じレベルです。肩を並べて歩んでいるのです。一緒に食べているのです」とおっしゃる。けれども、もう一方のところがあります。私たちはイエス・キリストを信じることによって、イエス・キリストは神の御ひとり子であるので、私たちはイエス・キリストを信じることによって、増した信仰によってイエス・キリストに結ばれる。ミサでは、私たちがご聖体をいただく時にはイエス・キリストと結ばれる。それで御ひとり子であるイエス・キリストとともに、私たちは奴隷ではなく、僕でもなく、友でもなく、子になります。子であるイエス・キリストとともに、私たちも子になります。これは私の言葉ではないんです。パウロの言葉です。御子によって、私たちは神の子になる。それによって私たちは、天におられる私たちの父、子として祈るのです。だから、このような本当に大きくなった、成長した信仰によって、私たちはただ神様と結ばれる。イエス・キリストと結ばれるということじゃなくて、愛のことです。一緒になっているんです。愛のことです。イエス・キリストを信じるよりも、イエス・キリストを愛するのです。
なお、こちらも今日皆さんにお勧めしたいと思いますけれども、私たちが何回も偉そうに、神様を愛する、何よりも私たちは神様を愛するというのは、ちょっと厚かましいことです。私たちには一方的に神様を愛する力がない。もう一度繰り返します。絶対ない。ありえない。それで、どうして私たちは神様を愛することができるかと言いますと、ヨハネの手紙では非常にはっきりしています。どうしてですか。まず第一に、私たちが愛することができるのは愛されたからです。神様に愛されているのです。愛されたあの時じゃなくて、愛されつつある。いつもいつも、今も。私たちが罪人であっても、ひどいことをしても、神様の愛は絶え間なく私たちとともにあるんです。それを私たちが受けたいのかということです。

ミサの初めに話したように、秋になった時に私たちは自然を見て、紅葉の素晴らしい景色を見る時にはなんとなく、無神論者さえも、ああ、ありがたいものだと思います。何か知らないけれども、愛されているに違いありません。これは信仰の初めです。私たちは神様を愛するのではなく、神様がまず私たちを愛してくださったからです。このヨハネの手紙の言葉です。「神は御ひとり子を世に遣わされた。それは私たちが彼を通して生きるためです。ここに神の愛が私たちに現れたのです 私たちが神を愛するのではなく、神がまず第一に私たちを愛して、私たちに御ひとり子を罪のゆるしとして私たちに遣わされたのです」。だから皆さんにお勧めしたいと思います。祈る時には積極的な態度を取るよりも、受け身になって。それで私たちは愛されている。私たちは大切な人です。神の子です。それによって私たちの信仰は増えるに違いありません。