2025年11月 ミサ説教
11/2(日)10:00- 死者の日 ハビエル・ガラルダ 神父
11/9(日)10:00- ラテラノ教会の献堂 柴田 潔 神父
11/16(日)10:00- 年間第33主日 髙祖 敏明 神父
11/23(日)10:00- 王であるキリストの祭日 酒井 陽介 神父
11/30(日)10:00- 待降節第1主日 サリ・アガスティン 神父
待降節第1主日
サリ・アガスティン 神父
11/30(日)10:00- 待降節第1主日
「目を覚ましていなさい」というメッセージは、毎年この主日の福音朗読でイエス・キリストの言葉として強調されます。これは神の御前に備えをすることが重要だという意味でしょう。冬が始まると自然はその体勢を変え、多くの場合は動きを止め、静かになっていきます。もうすでに始まっていると思います。そろそろ木々が葉を落として、ある意味で待つ姿勢に入ります。冬を越して春を待って、再び命を輝かせて生きる自然を見ることがあります。新緑、開花、新しい実りが生まれるのです。
「待降節は待つ季節」と言われますが、この待降節に2つの「待つ」の意味があると言われます。1つ目は、旧約聖書の時代から人々が心を合わせて救い主の誕生を待つという「待つ」の意味です。私たちは救い主の誕生を待って、栄光の賛歌を歌わず、その日を待つのです。もう1つは主の再臨を待つという「待つ」の意味です。2000年以上前に主の到来をいただいている私たちは、もうすでに救い主が訪れている今、主が共にいてくださる今を生きる。しかし、それと同時に救いの完成の時である主の再臨、世の終わりとも言うかもしれない。それをもって今日の日の「今を生きる」ということ。それが待降節の2つの「待つ」という意味です。
何年か前に、皆さんもよくご存じの「置かれたところで咲きなさい」という本がベストセラーになっていました。シスター渡辺和子がその本の中で言おうとしていることは何だろうと思って読んでみました。ベストセラーになるということは、多くの人がこの本を買って読んだということでしょうけれども、何かを探してそのように読んだでしょう。その結果として、多くの人に勇気と慰めを与えた本だと聞いたことがあります。私はこの本の中で1番ポイントだと思った1つのことをこの待降節に思い出します。「咲きなさい」と言っていますが、その本の中の2ページだけですけれども、「待ちなさい」とも言っています。どうしてかというと、確かに「置かれたところで咲きなさい」ということは分かりやすい。そしてできれば早く咲きたいという気持ちのある人がその本を読んで、どうすれば自分も良いきれいな花を咲かせることができるかと探していたでしょう。
しかし、あるページにはこのように書いてありました。「しかしね、咲かない時もあります。咲けない時もあります。雨が多くても咲けないし、太陽が強すぎても咲けない。きれいな花を咲けない時があります。その時、頑張らなくていいよ。ただその時、できるだけ根を下へ下へと下ろしなさい。頑張ってないように見えるかもしれないけれども、その時、根を下へ下へと下ろしなさい」と言っています。つまり、時期が来た時に大きな、きれいな素晴らしい花を咲かせるためにということを書いてあります。これはこの本の本当に伝えたかった意味だろうと私は思います。どうしてかというと、多くの人は思った通りに花が咲かない、あるいは咲けないという気持ちからこの本を読むであれば、大丈夫だよと言ってくれているような本だったからでしょう。
しかし待降節は、そのように頑張っている人もいれば、頑張れない人もいるでしょうから、頑張っている人には「ちょっと待ってください、そして自分の居場所を見てください」という時期でもあり、あるいは頑張れていない人には「大丈夫だよ」、パウロの言葉にありますように「救いが近づいていますよ、咲ける時が近づいていますよ」という希望を与える時期でもあるかと思います。あるいはただ待つ時に、目を覚ましていなさいというようなイエスの言葉もあります。「あなた方も用意していなさい」と、これは今日の福音のメッセージでもあります。
そういう意味で今日の朗読を受け止めれば、この2つのレベルでこの待降節を過ごす必要があるかと思います。1つは個人的なレベルです。もう1つは社会的なレベルです。個人的なレベルでどのようにこの待降節を過ごせるかと考えると、私は日本に最初に来た時の1つの経験を思い出します。日本に来て何にも分からないで迷って、どこかに行くための道も分からない。行って探し、見つけるというのは、今は携帯電話があるからGoogleに聞けば何でも教えてくれるけど、私が来た時はそんなことはなかったんです。そして迷って歩く時に、必ず日本のどの道のどの角にも地図が用意されています。それは私にとっては新鮮だったんです。インドのようにそんな用意は全くない社会から日本に来てみると、きちんと地図が用意されていて、その地図を探すと一番最初に“You are here”と書いているんです。英語で「現在地」と書いているんです。まずはそこを見つけるわけですね。そうじゃなかったらわからないんです。“You are here”という、今どこに自分がいるかということを見つけて、そこからどこに向かって、どういうふうに行けば自分が行きたいところに行けるかということがわかるという。これは私にとっては新鮮な経験だったんです。
インドでは、「道は口にある」と言うんです。みんなに聞いて、どこにどういうふうに行けばいいかということを聞くんですけれども、日本ではあまり聞かない。逆に、この地図を見て自分の居場所を最初に見つけて、そして道を探していく。私はこの“You are here”という言葉は非常に印象的だったんです。この待降節に求められているのは、今、私はどこにいるのか、自分の心はどんな状況なのか、自分の人生はどんな状況なのか、その現在地を見つけるというのが待降節の大きな役割かと思います。その方法はいろいろあると思いますので時間があれば教えたいんですが、今はやめておきます。
もう1つは待降節の社会的なレベルでの役割です。皆さんご存じの通り、教皇レオ14世が就任後初の外遊で中東のトルコなどの国を訪問されています。世界のニュース報道を見ると、イスラム教の地域を訪問している教皇ということで政治的解釈を主に報道されていますが、もちろん現在社会において宗教間対話や平和の実現のためにもあらゆる努力をしていることは明らかです。そしてそれと同時に、キリスト教信仰の源流であるこの地に立ち返るのは前に進むためだと、昨日教皇様が語っていました。28日にトルコ南部のイズニクという場所を訪問して、キリスト教の歴史上重要な第一ニケア教会公会議の開催された場所に行かれて、1700年前にそのニケア教会公会議が開催された記念式典を行い、東方教会の総主教と出席しまして、そこの演説の中で教皇は「歩むべき道は兄弟愛に基づく出会い、対話、協力の道だ」と語っていました。この宗教を超えた結束を訴えています。これは社会的な意味での待降節を過ごす意味の1つだと思います。私たちは今、社会的にどこにどういう状況で、その現在地がどこにあるか探すということかと思います。
この世において良い花を咲かせるために、個人的にも社会的にも良い活動ができますように、終末論的に言えば、1日であっても長い一生かけても、世の終わりの時でも神様との良い出会いができますようにという待降節の2つの意味があると思いますので、この神様との出会いのことも踏まえて、私たちが祈りながら待ち、改めながら用意する良い待降節となりますように、皆様と一緒にお祈りしたいと思います。
クリスマスバザーを開催しました
王であるキリストの祭日
酒井 陽介 神父
11/23(日)10:00- 王であるキリストの祭日
今日、私たちは王であるキリストの祝いをしています。キリスト教の特徴というか根本というか、一番大切なところは何かというと、私たちの信仰、私たちの宗教はイエス・キリストとの関わりである。この一言に集約されると思います。イエス・キリストとどのようにこの私が関わって生きているのか。これが私たちに問われることでしょう。生きている間、そしてもし私たちが裁きと呼ばれるところに呼ばれた時に、天国で問われるのは「あなたは私とどんなふうに関わってきたかな」、そのように問われると思います。その時に私たちは、もちろん完璧な模範回答をする必要はなく、この私が地上にいる間、キリスト者として生きる中で、自分たちのそれぞれの在り方、身分、生き方の中で「このようにあなたと関わってきました」と私たちは伝えるに過ぎないわけです。
今日、「王であるキリストの祭日」にあたり、イエスはこの私たちに本当に大きな意味、深い意味、そして宗教的な意味で王様として私たちの上に君臨しているような感じですが、それはこの世にいる、世にある王様とはずいぶん違うんだということを3つの側面から皆さんに分かち合っていきましょう。
まず、第1は牧者であるイエス・キリスト。牧者であるイエス・キリストとどのように私たちは関わっていくかな、関わることができるかなということです。牧者である以上、イエスはこの私のために命をかけます。私たちが危険にさらされている時に、私たちのそばに行きます。私たちを探し出します。私たちがいなくなっている時に、本当に血まなこになって私たちを探し出す。牧者キリスト、私たちはなかなかこのイエスとの結びつきを感じられない時もあるかもしれないし、自分が孤独だな、孤立無縁だな、そんなことを思う時があるかもしれません。でも、その時にイエスは必ず私たちを探し出してくれる。探し当ててくれる。そして、彼の方から私たちのもとに来てくれる。彼の声がした時に、私たちははっと気づいて、主だ、と私たちは気づくことができる。その時に私たちは主の方へ向かっていく。牧者キリストとの関わり。そして私たちの態度としては、その牧者キリストの導きに委ねるということです。これが第1点。
第2は、師であるキリストとの関わり。私たちの師、教師として、また師匠として、師であるキリストとの関わりということです。師である以上、イエスは私たちに教え諭します。私たちが知らないことを伝えてくれます。私たちがわからないことを、神秘として、そしてその愛の結実として見せてくれます。イエスから、私たちはたくさんのことを学ぶことができるんです。これが私たちの態度です。私たちはそしてキリストに倣う者になっていく。師であるキリストのようになりたいな。先生に対する憧れを小さい時に持っていたかもしれません。あんなふうになりたいな、先生、かっこいいな。そんな単純な気持ち、素朴な気持ちを私たちは持っていいんです。イエス様みたいになりたいな、イエス様みたいに愛深くありたいな。イエス様みたいに人を赦したいな。イエス様みたいに一人ぼっちのところに行く、誰かに寄り添う勇気が欲しいな。私たちキリスト者はそのイエスの生き方に倣うことができるんです。なぜならば師イエス・キリストは、私たち自らの生き方をもってどうやって生きたらいいのかを教えてくれているからです。これが第2点。
そして最後は第3点、友であるキリスト。友であるキリストは私たちと一緒に歩いてくれます。一緒に集まって、一緒に分かち合ってくれます。あの最後の晩餐で、ヨハネ福音書の告別説教と言われる13章から17章に続くあの中で、イエスは自分がこの後弟子たちによって見捨てられ、十字架で苦しむということを知っていながらも弟子たちの足を洗い、最後の晩餐を囲み、そして「私はみんなを友と呼ぶ」と言ったんです。私はあなたを友と呼ぶ。牧者であり、師であるキリストが自らを友として私たちに関わってくれる。私たちは、ならば私の大切なことをイエスに打ち明けていこうではないか。自分がきつい時、ちょっと助けてほしい。そんなことを気軽に言える友。私の心の中に抱えているものに何の裁きもなく耳を傾けてくれる友。そうしていくうちに、この私もイエスの友となっていくことができるんです。
イエスが私たちの友であることは彼が言ったことで、それは揺るぎないこと。でも、どれくらい私たちは自分たちがイエスの友であるんだということを意識しているでしょうか。イエスは私たちに友になってほしいんです。これが関わりの宗教、関わりの信仰の、ある意味真骨頂ですよ。きっと皆さんは、それぞれにそのイエスとの関わりを結んでいらっしゃると思います。そしてそれはもう十分だということもなく、私たちがそれこそ死ぬ時までずっと学びながら、倣いながら、気づきながら、養いながら、私たちがイエスの友になっていく。
私たちのこの信仰がイエス・キリストとの関わりの宗教なんだ、関わりの信仰なんだ。それ以外はないよというくらいの話なんですよね。どうかお一人お一人が、そしてこの教会全体が、それは単にこの教会という時に「麹町聖イグナチオ教会」だけではなく、日本の教会のみならず、世界の教会がイエスとの関わり、そして私たちがイエスと結んでいくこの友情、これを大切にすることができたら、きっと何かが変わっていくはずです。もし何かがまだまだ変わらないとすれば、その友情をもっともっと確かなものにしていかなければいけないという、そういうことなのかもしれません。一緒にイエスとの友情を培い、この関わりを深めていくことができますように。王であるキリストが私たちの心を治め、そしてこの世界を真の平和へと導いてくださいますように。
年間第33主日
髙祖 敏明 神父
改めて今年金婚、銀婚を迎えられた皆様、おめでとうございます。そして、一緒にお祝いするために集まってくださった皆様方にもお祝いを申し上げます。
11月22日はご存知のように語呂合わせから「いい夫婦の日」です。毎年この日に近い日曜日に「結婚感謝ミサ」を捧げてはいるんですけれども、いい夫婦の日は、典礼暦では「王であるキリストの祭日」の前となりますので、聖書朗読は世の終わり、終末を迎える心づもりを説く、そういう箇所が読まれます。それにしましても今年銀婚、金婚を迎えられた方は、金婚の方は1975年に結婚していらっしゃる。銀婚の方はちょうど2000年に結婚していらっしゃる。それぞれ聖年なんですよね。今年も聖年、そして、今年銀婚を迎えている方が今度金婚を迎える時は2050年ですので、また聖年の年。聖年の喜びとこのお祝いが重なるというのは、とってもいい年に結婚されたなということを思います。そういうお祝いを一方で思いながら、今日の聖書の朗読の中から結婚感謝に向けたみことばを見出すのは難しいなというのが正直なところであります。でもいくつかは見出せるようにも思います。
テサロニケの中には「誰にも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けた」。こういう思いを持つ方もいらっしゃるでしょうし、ご夫婦もおられるかもしれません。また、ルカ福音書の様々な災難や病気、不運や不遇、戦争等も含めて、それに見舞われて困るんですけれども、それが信仰を表明する場、信仰の試練となって、主イエスを証しする機会となった。そういう経験を積んでこられたご夫婦もたくさんいらっしゃると思います。文字通り「忍耐によって、命を勝ち取ってきた」という、そういうご夫婦もあるかもしれません。その方々には、マラキの後半一番最後にありますように、「わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る」と祝福され、答唱詩編も「神に向かって喜びの声をあげ、賛美の歌で神をほめよ」と私たちの喜びに後押しをしてくれているようです。
11月22日、「いい夫婦」。この「いい夫婦」に限らず結婚記念日を迎えられると、お二人で、あるいは家族も含めてお食事を一緒にしたり、旅行をしたり、様々なイベントをずっと積み重ねておられると思いますが、最近あった一つの、ある後期高齢者のご夫婦の話をご紹介したいと思います。このご夫婦も毎年結婚記念日には、夫婦間でプレゼントを贈り合ってきたそうです。奥様、妻の方は信者でしたが、ご主人、夫の方は未信者の家庭です。この秋に今年の結婚記念日を迎えた日、奥さんはこうおっしゃったそうです。「今年は、プレゼントはいいので、私の願いを叶えてくれない?カトリックの洗礼を受けてほしいの」。少し前から病床についている夫は、しばらく奥さん、妻の顔と目をじっと見つめて「うん、受けてもいいよ」「じゃあ、12月のあなたの誕生日に洗礼を受けたら」「うん、そうするか」。
それで夫の気持ちが変わらないうちに、ということで私のところに相談にみえたんです。話を伺っていて、本当に喜ばしい話ではあるんですけれども、ご主人が病気という弱みにつけ込む形になるのはちょっと問題だろうと私は感じまして、改めてご主人の気持ちを確認してみてくださいというふうに申し上げて、お帰りになりました。数日後連絡がありまして、ご本人も洗礼を受けたいとはっきりおっしゃって、家族で相談をして、以前からその家族と知り合いであった神父様に連絡を取ったら、ちょうどそのご主人の誕生日のその日が空いてるということで、その日に洗礼を授けることになったんだそうです。なんだかちょっとよくできすぎた話だなという気もしないではないんですけれども、結婚記念日にこういうやりとりをできるというのも、そういうお祝いの仕方もあるんだなと思いました。
ミサの一番初めに新井満さんのことを申し上げましたけれども、新井満さんには祝婚歌、「結婚おめでとう」という詩もあります。この教会で結婚式を挙げられる方の結婚講座の一番最初の話をする時に、私は好んでこれを紹介しているんですけれども、2004年に作られたものです。その時、地球上には66億の人類がいました。その言い出しはこうです。「この地球上に66億の人類 33億の女 33億の男 その中のたった一人の女と たった一人の男が出会ってしまった」。結婚している皆さんもそういう思いをされたかもしれませんね。「これは奇跡だ と同時に 運命でもある 勇気と希望をもって 二人は決断した 今日からは この人と一緒に 歩いてゆこう あの遥かな道を」。ただ、遥かな道と言っても、いつもきれいな道がついているわけではない。新井さんもすぐ「まっすぐな道 まがり道 坂道 泥道 崖っぷちの道 道はけわしく 地図もない どこまで続くのか いつまで続くのか 道の向こうに 何が待っているのか 歩いてみなければわからない だから歩いてゆく どこまでも いつまでも…」というふうに続いていきます。
今日、結婚記念日を祝っていらっしゃる銀婚、金婚の方に限らず、皆さんもこういうこの新井満さんの「結婚おめでとう」という言葉を聞きながら、ご自分の結婚された日のことを様々に思い起こしておられるかと思います。祭壇の前に立って、神と参列者の前で誓いを立てたあの日のこと。その日から二人で努力を重ねて、地図のない旅をしてきたこの旅行の日々。それがファミリーヒストリーとなっているんですけども、ファミリーヒストリーを刻んできたその日々を思い起こされるかと思います。それらを思い起こしながら、改めて今日のこのミサの中で結婚の誓いを更新し、神様からの祝福と導きをご一緒に願いたいと思います。皆様、おめでとうございます。
ラテラノ教会の献堂 七五三祝福式
柴田 潔 神父
11/9(日)10:00- ラテラノ教会の献堂 七五三祝福式
若い人の聖書朗読はとてもみずみずしくて素敵に感じました。説教もできればやってもらいたいなと思うんですけれども、神父さんがさせていただきます。ちょっと大人向けの説教なので、子どもたちには難しいかもしれませんがご辛抱ください。
教会が献堂式を記念するようになったのは、もともとは旧約時代から受け継いでいる習慣です。キリスト信者は、聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂(11月18日)、聖マリア大聖堂(8月5日)、そしてラテラノの大聖堂をお祝いしています。そのうちの最も古い大聖堂が今日記念しているラテラノ教会です。
ラテラノの教会は、ローマの教会が自由になった4世紀、324年11月9日に献堂式が行われています。当時の皇帝コンスタンティヌス大帝が、土地を教皇様に献上し、その土地の上に建てられました。最初の名は「救い主大聖堂」でしたが、13世紀に聖ヨハネの名が加えられ、一般的には「ヨハネ大聖堂」と呼ばれるようになりました。こんにちの教皇の公式行事は、より大きなサン・ピエトロ大聖堂で行われるようになりましたが、ラテラノの聖堂には「ローマと世界とすべての教会堂の母であり頭」であるという碑が刻まれています。
では、なぜ教会は献堂をお祝いするのでしょうか?アウグスティヌスはこう言っています。 「心をこめて教会の献堂式を賛美すれば、わたしたちの霊的神殿も祝われて刷新されます。 なぜなら、『神の神殿はあなた方であり、聖なるもの』だからです」。この言葉をより詳しく考えてみました。
17世紀のフランスのカルメル会修道士、ブラザー・ローレンス(御復活のラウレンシオ)は「神の臨在の実践」という本を書いています。彼は戦争の時代に生まれ、入隊しますが脚に怪我をして、故郷に戻ります。職を転々とし、28歳の時、パリの跣足カルメル会の修道院に入り、ブラザーとなります。怪我をした足を引きずりながら、15年間、修道院の調理人として働きます。足の状態が悪くなると、座ってでもできるサンダル作りの仕事をしました。
彼は、修道院に入ってしばらくは「霊的に未熟だ」と劣等感を抱えていました。けれどもだんだんと内的な平和を感じ始めます。仕事を始める時は、「神さま、あなたは私と共におられます。今あなたの言葉に従い、私の心を仕事に向けます。どうか、ずっと私と共にいて、私を助けてください。私の働きと私の愛をすべてお受け取りください」と祈りました。
仕事が終わると振り返り、もし神様と一緒に仕事ができていたなら神様に感謝し、そうでないなら神様に赦しを願います。がっかりしないようにもう一度心を整え、神様から離れることがないように願いました。すると、自分が神の住まいだと感じ続けられるようになります。
ブラザー・ローレンスは言います。「神様と共にいるためには、いつも教会にいる必要はありません。私たちは自分の心の中に礼拝堂を作り、折に触れてそこに留まり、従順に、謙遜に、愛をこめて神と対話すればいいのです。誰でも多かれ少なかれ、このように神と親しく対話する能力を持っています。神様は、私たちに何ができるかをご存じです。おそらく神様は、私たちからたった一つのこと、すべてを捧げる決心を持っているかどうかだけを見ておられます。神様だけが心を満たしてくださいます。だから、始めましょう。勇気を出しなさい」。
神様に自分を捧げしていれば、私たち自身が神の住まいとなれます。ラテラノの教会を祝いながら、ローレンスのように神様と対話して、一人ひとりが聖霊が働く神の神殿となってまいりましょう。
死者の日
ハビエル・ガラルダ 神父
いつもそうですけれども、今日は特別に、そしてこのミサの時に特別に、亡くなられた愛しい方々のために向かって「ありがとう、よろしく」と何回も繰り返す日です。さらに、神様に向かって同じ言葉を繰り返します。「この方々をよろしくお願いします。私たちはもうこれ以上何もできませんので、お願いします」。そして神様に向かって「ありがとうございます。この大切な人に会わせてくださってよかった。ありがとう」。しかし、寂しいですね。限りなく寂しい。その人の声はもう聞こえない。いかに大切だったか今になってわかる時もあります。大切な人の大切さは「不在」で感じられると思います。いる時には当たり前だと思いますけれども、いなくなりますと、いかに大切だったかということがわかります。
しかしこの方々は今、何をしていらっしゃるでしょうか。わかりませんね。イエス・キリストが教えてくださったことは2つの大事なヒントですけれども、1つは全然違った様子で、全く異なった状態で、まさしく同じ人間が生きるということです。状態は全然違う。人の様子はもう違う。でも、まさしく同じ人間は生きる。イエス・キリスト自身が復活してから何回も弟子たちに現れましたね。その時に弟子たちは、マグダラのマリアでさえ隣にいてもわからなかったんです。つまり、全然違う様子です。ところが心でわかると、まさしく同じキリストだとわかります。私たちの愛しい人たちもこのようなことだと信じています。もう1つのヒント。イエス・キリストがおっしゃったんです。「永遠の命は宴会のようです」。まさしく宴会ではないけれども、宴会のような、つまり宴会の本質は愛ですね。親と一緒に仲良く分かち合って、助け合って、飲んで、笑って、話して、仲良く生きる。これは宴会の本質ですね。それは天国です。永遠の命です。神学者たちはこの言葉でまとめたんです。「愛し合って喜ぶ、とこしえに」。これです。
ところが1つの大事なことがあります。イエス様が今の福音でもおっしゃっているんですけれども、イエスを見て、信じる人は宴会に入ります。でも、イエスを信じない人は宴会に入らないわけですか?これは私たち、主に皆さんに重大な質問ですね。周りの非常に大切な人がキリストを信じなかった。キリストに対しては全然興味がなかった。じゃあ、その人は宴会の時にはいらっしゃらないわけですか?あまりにも寂しすぎるんですね。そうではないと思います。イエス・キリストの言葉を信じましょう。「私の羊は私の囲いの中にいる。しかし囲いの外にも私の羊がいる。なぜなら私の言葉を聞いて、それに従う羊です」。囲いというのは教会ですね。囲いに入っているのは私たちですけれども、入っていない人がいる。皆さんの非常に大切な人です。入っていなかった。囲いの外にいた。でも、イエス・キリストが言うんです。その人は心の声を聞いて、心の声はイエス・キリストの声ですね。その声は「愛し合いなさい」という声です。その声を聞いてそれを行った人は、その声に従った人は「外にいても私の羊です」。これはいいですね。ですから、キリストの声に従う、愛し合うということです。それなら宴会に一緒にいてくださると思います。
もちろん、なるべくなら囲いの中に入っていただきたいんですね。イエス・キリストがそれを言いました。「全世界に行って、みんなに洗礼を授けなさい」。イエス・キリストは、洗礼を受けて囲いに入ることを望んでいらっしゃるんです。しかも入って、今のようにミサも礼拝もある。秘跡もあって、愛は深められるんです。深くなるし、愛が清められる。そして講座といろんなこと、本来の雰囲気はやっぱり神様に導く雰囲気です。ですからなるべくなら囲いに入っていただきたいけれども、無理な時もあります。その時には、本人にとっては「私はキリストの声に従っているつもりじゃないよ」と言ったでしょう。それはそうです。でも、イエス・キリストにとっては、「この方は私の声に従う私の羊です」。
そういえば、1つの可愛らしい実話を思い出しますが、ある日本人の夫婦で、60年以上にわたって円満な夫婦生活を送ってきた2人のことです。話によりますと、夫婦喧嘩はかなり多かったそうですが、仲直りが早くて、喧嘩の話題自体もかわいらしくて、なかなかいい夫婦だなという評判の2人でした。ところが、残念ながら旦那様の方が亡くなられました。ご家族は墓地でお墓を囲んで心の中で祈りをつぶやいてから、では行きましょうと言った時、おばあさんになっていた奥様が「私はもう少し残りたいと思いますが、よろしいでしょうか」と言いました。「もちろんおばあさま、どうぞごゆっくり。私たちは外で待っていますから」。彼女は1人で、全く1人で、その墓の真ん前にじっと立っていらして、長く長くいらっしゃるのです。一方、外で待っていたご家族は、おばあさまがなかなか出てきませんので、孫にあたる若い男性が「ちょっと呼んできますよ」と言って、後ろから入って近寄りました。「おばあちゃま、もう遅いから帰りましょうよ」と言おうと思った時、そのおばあさまの声が彼の耳に入り、彼の方が感動のあまりに目が真っ赤になったそうです。
非常に単純な言葉ですが、美しいと思います。そのおばあさまは誰も聞いてないと思って、静かな声で同じ言葉を何回も何回も繰り返していたのです。「ありがとう、ありがとう・・・」。そればっかりです。きれいですね。「ごめんね」という意味も含む「ありがとう」という言葉は、多分、旦那様が生きていらした時には照れくさくてあまり口に出さなかったのかもしれません。むしろ奥様らしく、「だらしない、また遅刻、まったくもう」というような不満の言葉を繰り返していらしたかもしれませんが、しかしその言葉より深いところにあった気持ちは感謝の気持ちでした。喧嘩していた時にも感謝の気持ちで、そしてその気持ちが旦那様にもきれいに伝わりましたし、旦那さんにもその気持ちは十分ありましたので、素晴らしい夫婦だったのです。そしてもう恥ずかしくない時に、60年以上にわたっていつも心の底に溜まっていた気持ちが自ずと溢れ出て、「ありがとう、ありがとう」と繰り返しておられたのです。