2025年12月 ミサ説教
12/7(日)10:00- 待降節第2主日 ハビエル・ガラルダ 神父
12/14(日)10:00- 待降節第3主日 山内 豊 神父
12/21(日)10:00- 待降節第4主日 関根 悦雄 神父
12/24(水)19:00- 主の降誕(夜半のミサ) 髙祖 敏明 神父
12/25(木)10:00- 主の降誕(日中のミサ) 髙祖 敏明 神父
12/28(日)10:00- 聖家族 グエン・タン・アン 神父
聖家族
グエン・タン・アン 神父
12/28(日)10:00- 聖家族
共同体の皆さん、今日私たちはともに聖家族の祝日を祝っています。聖家族という言葉を聞いたとき、皆さんはどのようなイメージを抱くでしょうか。理想的で、模範的で、何一つ欠けるところのない家族。そのように思い浮かべるのが一般的です。それは決して間違いではありません。しかし、もし私たちがそのイメージだけで立ち止まってしまうと、聖家族は困難や試練に満ちた私たちの日常の家庭生活からあまりにもかけ離れた、無関係な存在のように思えてこないでしょうか。では、聖家族とはどういうことでしょうか。どうすれば私たちの家族も聖なる家族となることができるのでしょうか。
実は、教会が幼子イエス、マリア、ヨセフの家族を聖家族として告白することは、私たちの日常の家庭生活と切り離されたものではありません。彼らの家族は確かに私たちと同じものです。しかし、その家族が聖なるものとされているのは、何よりもまず神から与えられた恵みによるものです。この教会の告白は、まず家族における神の働きを、次にその働きに対する人間の応答をはっきりと示しています。神が働き、人がそれに応えて生きる。まさにその歩みこそが私たちの家庭を聖とする道なのです。そしてそのことを、私たちは今日のマタイ福音書から確かめることができます。
今日の福音は、幼子イエスとその両親であるマリアとヨセフの家族が危険と脅威にさらされていた状況を描いています。ヘロデは幼子イエスを殺そうとしていました。その中で、神は生まれたばかりの幼子の命を守るために行動されます。神は天使をヨセフに遣わし、幼子とその母を連れてエジプトへ逃げるようにと命じられました。ヨセフはこの神の呼びかけに従い、家族を守りました。その結果、彼らは無事でした。さらにエジプトから戻る時も、ヨセフは再び神の導きに従い、ユダヤではなくナザレへと家族を連れ戻りました。当時のユダヤはヘロデの息子アルケラオが支配していますが、彼もまた父と同じように残酷な人物だったからです。
皆さん、幼子イエス、マリア、ヨセフの家族は、その始まりから危機と困難の中にありました。それは私たちの家族にも当てはまることではないでしょうか。確かに私たちの家庭には喜びと平和があります。しかし同時に、悩みや試練がないわけではありません。それでも聖家族の経験が私たちに示しているように、愛と慈しみに満ちた神は常に、私たちの家族を見守ってくださっています。神は一人ひとりの家族を決して忘れず、支え、守るために働いてくださっています。大切なのは、私たちが自分の家庭の中に神がともにおられることを認識し、 聖ヨセフと聖母マリア、そして幼子イエスに倣って、神とともに家庭を築いていくかどうかなのです。
私たちにとって、神が私たちの家族にいてくださる以上に意味のあることはありません。なぜなら家庭を築くことは、単に夫婦とか親子とかの労力だけによるものではなく、何よりもまず神ご自身の働きであると信じています。詩編127編には、この信仰を次のように語っています。「主が家を建てるのでなければ、それを建てる人の労苦はむなしい」。ですから私たちは聖家族に倣い、自分の家族をすべて慈しみ、深い父なる神に委ね、神とともに愛と平和に満ちた家庭生活を築いていきましょう。
さらに、今日の第二朗読であるコロサイの教会への手紙は、私たち一人ひとりの家庭にとって大切な生き方を示しています。家庭生活はいつも順調とは限りません。そのことをよく理解した上で、聖パウロは私たちにこう勧めました。「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」。皆さん、家庭の中で物事が思うように進まないときこそ、互いを支える愛が必要なのです。マザー・テレサはかつてこう言いました。「家庭に愛が取り戻されるなら、この世界は変わるでしょう」。
どうか、聖母マリアと聖ヨセフの取り継ぎによって、幼子イエスの恵みに支えられ、私たちがそれぞれの家庭の中で互いに愛し合い、赦し合うことができますようにともに祈りましょう。そのように生きる時、一人ひとりの家庭は、神の愛と平和に満ちた聖なる家庭となることができるでしょう。
最後に、すべての家族を聖母マリアと聖ヨセフに委ねましょう。そうすれば、どのような試練の中にあっても落胆することなく、夫婦の愛を育み、人生に忠実に奉仕し、子どもたちを愛をもって育てていくことができるでしょう。アーメン
主の降誕(日中のミサ)
髙祖 敏明 神父
改めて皆様、主のご降誕のお喜びを申し上げます。今日はラテン語のミサ曲、デ・アンジェリスを歌っています。デ・アンジェリス、天使ミサですね。第二朗読に天使が出てきたからということもありますけれども、ご存知のようにルカ福音書によりますと、イエス様が生まれた後、天使が羊飼いたちに「今日ダビデの町で救い主が生まれた、あなたたちの大きな喜びだ」ということを伝えた。その天使を称える意味もありまして、今日はデ・アンジェリスのミサ曲を歌っています。いささか長いんですけれども、教会の伝統を皆様と一緒に味わいたいと思います。
クリスマスは贈り物を贈り合い、みんなで食事するとか、家族みんなで喜び合う日でもあります。この喜びの理由を今日の聖書の朗読から探ってみますと、今読んだヨハネの福音書の中に、命であり、人間を照らす光である神の御子がこの世に来られた。それによって、かつてサムエルが預言した、今日の第二朗読にありました「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」という言葉が実現したというふうに教えています。神の御子が、罪を除いて私たち人間と同じ人間として誕生し、イエスと名付けられた「人の子」となって、「わたし(神)は彼の父となり、彼はわたし(神)の子となった」というメッセージ。そのメッセージをもう少し聖書の言葉をたどりながら深めてみようと思います。
ヘブライ書の冒頭。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた」。皆さんが持っていらっしゃる聖書と典礼には、終わりの時代を説明して「神が人類の歴史に介入する時」というふうに書いてありますけれども、神が人類の歴史に介入した時から始まる時代には、この世に遣わされた御子によって私たちに語られた。先ほどの聖書朗読の一番最後に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。イエス様が天の父と呼ぶ神様がどういう存在であるかということを私たちに示された。かつては預言者たちがいろいろ言っていたけれども、御子を通して私たちの目に見える形で、耳に聞こえる形で語られた。
では何を語ったのでしょう。神の御子が、私たち人間を照らす光であり、人間を救う命であるということ。ヨハネ福音書はそう私たちに教えています。しかし同時に、すべての人がこの喜びの知らせ、福音を信じて御子を受け入れたわけではない。ヨハネ福音書は、「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と言っています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」というふうに言います。
しかし、聖書の中の話にも飛躍があるようです。父なる神の御子は当然「神の子」です。私たち人間がどうして「神の子」になるのでしょう。御子が人間として生まれてくださり、そして十字架を通してご復活へという人生を歩まれる。そういう御子の救いのわざを通して、人間の子、「人の子」が「神の子」となる道を開かれた。神と人間の間をつないだのがこの神の御子、イエス・キリストである。だから人間を照らす光であり、人間の命なんだと教えています。「言(イエス)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。資格を与えたというわけですから、放っておいても自動的に神の子になるのではなくて、その資格をどう生かすか、それを私たちがどう受け止めて、そこに自分をかけていくかによって、神の子となるということの意味内容が変わってくるようです。
ヨハネ福音書は、その神の子となる資格を与えてもらった人々は、血によって、つまり血のつながりによってではなく、肉によってではなく、肉というのは弱く滅びゆく存在である人間の、永遠に生きたいという欲や願いによってではなくて、神によって生まれた。神からの恵みによってそれが可能になったということ。ですから、先ほど私が唱えました集会祈願に、お手元の聖書と典礼でたどっていただきたいと思いますけれども、「永遠の父よ、あなたは人間を優れたものとして造り、救いのわざを通して、さらに優れたものにしてくださいました」と信仰を告白し、祈りました。
「人間を優れたものとして造り」というのは、神のかたどり、神の似姿として人間が創造されたということでしょう。それが先ほど申し上げましたイエスの救いのわざ、神様の救いのわざによってさらに優れたものになった。さらに優れたものというのが、神の御子を長男、一番上のお兄さん、あるいは頭として、私たちはその兄弟姉妹となる「神の子」にしていただいた。「神の子」に高めていただいた。人間が神の似姿として創造された時から、実は三位一体の神の命にあずかるように、神様は人間を創造されたというのが、聖書の中の救いの歴史の大きなメッセージになっています。
パウロはそのことを、人間が創造されてからよりもっと早く、この宇宙・世界を創造した時から、人間を神の命にあずからせるということの、そのためにこの世界を造り、人間を造ったというふうに言っています。またこの教会はロヨラの聖イグナチオの名をいただいていますけれども、ロヨラのイグナチオは霊操の中で、御託身、御誕生と続くイエスの誕生のところの神秘をよく黙想するように、突然イエス様がパッと生まれたわけじゃなくて、長い救いの歴史の中でだんだん準備されながら、ようやく機が熟して生まれてきたんだということを、神秘としてよく黙想するようにと勧めています。
今日、先ほど一緒に聞きましたヨハネ福音書の冒頭の言葉、「初めに言があった。言は神と共にあった」ということで、続くこの箇所、冒頭のこの荘重な表現は、私たち人間の救いの計画、それが長い救いの歴史の下で、あるいは歴史のごく初めの時から計画されていて、それがこういう形で実現したんだということを、ヨハネは私たちに気づかせようとしているようです。イエスは父の独り子としての栄光を受け、恵みと真理に満ちている。ヨハネは書きます。人間を照らす光であり、命である。神の似姿である人間が「神を父とする神の子」に高められ、終わりの時代、神が人間の歴史に介入するという時代が最終的に始まった。だが、それはまだ完成していない。その完成に向けて、今日の私たちの典礼は、私が気づいたところで3つの祈りをはめ込んでいます。
その第1は、先ほど読んだ集会祈願に続くところですけれども、「神のひとり子が人となられたことによって、わたしたちに神のいのちが与えられますように」ということを言うわけですから、神の子の命がまだ100%は与えられてないということでしょう。そのために私たちは今日のミサの最初にみんなで祈りました。2つ目、今日の共同祈願の結びの言葉です。「いつくしみ深い神よ、ひとり子をお与えくださった恵みに感謝いたします。みことばが人となられた神秘を通して、すべての人が救いに導かれ、永遠の命にあずかることができますように」と祈ります。3つ目、共同祈願の最初の祈りですけれども「まことの光であるキリストの降誕を喜び合うわたしたちが、主において神の子とされた恵みを多くの人に伝えていくことができますように」と祈ります。
今ご紹介した3つの祈りは今日の典礼の狙いでもあり、私たちへの招きともなっています。私たちはその祈りを、心を広げてご一緒にお祈りしたいと思います。
主の降誕(夜半のミサ)
髙祖 敏明 神父
主イエスの誕生をこうして皆さんと一緒にお祝いしています。ミサの初めに、私も幼子イエス様を胸に抱いて祭壇に登り、マリア様とヨセフ様の間に置きました。
「子供の誕生はいつも希望の源です」。皆さんご自身の誕生も希望の源だったでしょうし、自分につけられた名前には、だいたい親や周囲からの希望と願いが込められています。ちなみにイエスという名前はヘブライ語のヨシュアから来ていますが、このヨシュアをギリシャ語に訳した時にイエスと訳しました。元の意味は「ヤハヴェ(主)は救う」という意味です。ユダヤ人の間ではとても人気のあった名前で、ですから他の人と区別するために「ナザレのイエス」というふうに呼ばれております。イエス様が十字架にかかって処刑されるその直前にピラトが、イエス様とこの人(バラバ)のどちらを選びますかって言いましたけれども、あのバラバもイエスという名前だったんですよ。それぐらい人気のある名前でした。皆さんが手にされたロウソクは、現在の地球人類の間に様々な闇がありますけれども、その中で輝く光であるイエス・キリストのシンボルですし、その誕生の喜びと希望のシンボル、そして私たちの喜びと希望のしるしでもあります。
自分の生まれた日のことを覚えている人はほとんどいないでしょう。親や家族からの話を聞いて記憶にとどめている人はいるかと思います。イエス誕生の情景については、伝統的に馬小屋がそれを伝えています。ルカ福音書では、先ほど読み上げた通り、ヨセフとマリアが「ベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とのみ記されています。そこには馬小屋という表現は実はないのです。
お手元に聖書と典礼を持っていらっしゃると思いますが、その表紙を皆様ご覧ください。もし見るのが難しい方は横の方と一緒にご覧いただきたいと思いますが、幼子イエスを母マリアが手を合わせて礼拝しています。その後ろからヨセフが明かりを照らしています。赤子のイエスの頭の上には、2頭の家畜と思われる動物が描かれています。右はどうも牛のようです。左は馬小屋の風景だから馬でしょうかね。そしてよく目を凝らしてみると、窓の外に顔がありまして、窓の外から中を覗き込んでいるのはどうやら羊飼いたちのようです。
しかし皆さん、先の福音書には馬も牛も登場していなかったということにお気づきでしょうか。では、ここにイエスを見つめる家畜がなぜ登場するのか。ピンときた人もいるでしょう。飼い葉桶からの連想だろう。そうです。確かに飼い葉桶は、牛や馬に食べさせる草や藁などを入れる桶です。そこに寝かされたのですから、飼い葉桶から餌を食べる牛や馬がいても不思議ではありません。これらの家畜が幼子に息を吹きかけて、寒くならないように温めているんだというふうな話も一説にはあります。それにしてもベッドの代わりに飼い葉桶、布団の代わりに藁とは、救い主の誕生という華々しいイメージからは驚くほど遠いです。ここには何か意味が隠されているのでしょうか。
少しヒントになるのが今日の福音朗読の後半部分です。イエスの誕生後、近くで野宿していた羊飼いたちに天使たちが現れ、民全体に与えられる大きな喜びを伝える。「今日、ダビデの町で私たちのために救い主が生まれた」と知らせる。そしてそのしるしは、布にくるまれて飼い葉桶に寝かされていることだと教えています。布にくるまれて飼い葉桶に寝かされているのが誕生した救い主イエスのしるしだというのですから、このしるしには何かもっと意味がありそうです。聖書の伝統の中で、飼い葉桶には何か特別な意味があるのでしょうか。
調べてみますと、有名な預言者イザヤの書のごく初めに、「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、私のイスラエルの民は見分けない」と記されています。牛もろばも飼い主を知っており、食べ物をもらう主人の飼い葉桶も知っているのに、私の民、神の民は、自分を養い育ててくれている主である神を知らない、と言うのです。だとすると、先に幼いイエスを見つめる動物を牛と馬と言いましたけれども、正しくは牛とろばだということになります。訂正いたします。こうして自分の飼い主を知っている牛とろばが救い主イエスを知っているのに、民、人々はイエスを知らない。そのことが、イエスは客をもてなす宿屋ではなくて、人知れず誕生した。そのシンボルが飼い葉桶だということになります。しかし「私の民は見分けない」という言葉のニュアンスからは、人知れず隠れているというより、気づかない、無視しているという方がどうも心に響いてきます。
逆に言いますと、イエスの誕生には、人知れずであろうが、多くの人から無視されていようが、私たち人間のために生まれ出るという強い意思があったというふうに読むことができます。今日の第一朗読の結びで、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」というふうに言っているのと呼応するようです。ではそこにはどんな意思、どんな熱意が込められているのでしょうか。今年4月に帰天された教皇フランシスコは、こう説明します。「イエスの他には御父である神を知る者はいません。しかしイエスは、まさに御父がどういう方であるかを私たちに啓示するため、知らせるためにこの世に来られました。この幼子のお陰で私たちは、大陸や言語や文化の違いを超えて、互いを父なる神のもとで本当に兄弟姉妹と呼ぶことができるのです」。「キリストは限られた人のためではなく、すべての人のために来られました」と。
質素な飼い葉桶に寝かされた幼子が救い主だというのですから、驚きです。実は聖書が教える神は、華やかな世界からは目立たず、むしろ人目につかず隠れておられます。しかし何もしていないのではなくて、私たちが「大陸や言葉や文化の違いを超えて、互いを本当に兄弟姉妹と呼ぶことができる」世界が実現するよう、ご自身でも、また私たちを通して力強く働いておられます。多くの人はそれに気づかないだけです。
クリスマスは神の御子イエスの誕生を祝いますが、それは、イエスが父なる神と人間とを結ぶ橋となって私たち人間を救う、その救い主の誕生だからです。それも、人々に無視されようが反対されようが、父なる神がどういう方であるかを私たちに知らせ、神と人間とを結ぶ橋となるという強い意思を持ってお生まれになりました。それが私たちの希望の源であり、その喜びを祝っています。その意味では、イエスが寝かされている飼い葉桶は、戦乱や対立、飢餓や分断などで薄汚れたこの世界に、救いが、喜びと希望が与えられたこの世界のシンボルともいえます。同時に様々な困難や悩みを抱えている私たち自身のシンボルとも言うことができます。
そうした喜びをもたらしてくださる主イエス、この喜びと願いを込めてI wish you Merry Christmas and A Happy New Year!おめでとうございます。
待降節第4主日
関根 悦雄 神父
私たちは今日、待降節第4の主日を祝っています。ご存知のように、もう数日すると主の降誕の祭日を祝うわけです。この待降節の間に私たちはいろいろなことを求められたと思います。1つは、この待降節には回心、悔い改めということが求められます。一人ひとり自分の生き方が神の御旨に沿うものかどうか、それをしっかりと見極める。神の御旨に沿わないということは、私たちが神の方を向かないで自分の好きなところに向いて、自分の好きなことをやってしまうとか、そういうものから神の方に向きを変えて、そこで神の御旨をしっかりと受け止める。そしてそれを行っていく。これが回心、悔い改めでしょう。
そしてそういう回心した人として、このキリストの誕生に向けていろんな人が登場してきます。私たちは前に洗礼者ヨハネのことが話題になりました。この洗礼者ヨハネの誕生も、キリストの誕生と同じように不思議なお告げによってなったわけですね。ザカリア、エリザベトはもうすでに年を取っていたが、自分たちには子がないという。そして長い間そういうことで悩み苦しんでいた。そういうところに神が恵みを与えてくださった。そして洗礼者ヨハネが生まれた。このヨハネはイエスの到来を準備する者、イエスの道を平らにする者として働いたわけです。この働きのためにヨハネは、ご存知のようにその当時の支配者に異議を唱えましたね。そして捕まって、最終的に変なことで殺されてしまう。そういう運命をたどった人です。しかしこのヨハネは、あくまでも殺されるためにじゃないんです。主の道を準備する。そのためには、どうしてもそのような時の支配者と戦わなければならなかった。そういう使命を受けて生きた人です。
このクリスマスが近くなると、どうしても私たちはこのイエスに焦点を当てていろんなことが語られる。それをしっかりと受け止めなければならない。今日のところでも、イエスのこの世の父親と母親であるヨセフとマリアについて語られます。「ヨセフは正しい人であった」と書いてあります。そして結婚する前にマリアが妊娠しているということを分かって、ひそかにマリアを去らせようとした。しかし夢で、そのマリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだ。ですからこのマリアをちゃんと受け入れて、イエスの養父、父親となりなさい。そういうお告げを受けた。このこともヨセフにとっては大変なことだったと思います。しかしこれは神のお告げであるからといって、それをしっかりと受け止めてマリアを受け入れ、マリアの産んだ子を育てることになっていくわけです。
今日、私が言いたいのは、神は私たち一人ひとりにもこういう特別な命令というか、望みを伝えているはずです。私たちは洗礼によって神の子となりました。キリストを主として、私たちみんなに共通して望まれていることは何でしょうか。私たちは主の教えに従って生きるということ。主イエスは具体的にどのように生きましたか。それをしっかり見て、私たちもそのイエスの道に従って歩んでいく。そこにいろんな障害があればそれと戦いながらでも歩んでいく。これが私たち一人ひとりに望まれていることではないでしょうか。今の教会のいろんなシステムによってそれぞれの教区があり、小教区があり、この主日にはみんな教会に来て神の言葉を聞く。そして主を賛美し礼拝する。これはいいですよ。しかし、それで十分でしょうか。これはみんなに共通のことでしょう。しかし私たち一人ひとりに、何かそういう神の願いがあるんじゃないでしょうか。そういうものを私たちはどのように受け止めて、それを実行しようとしているか。これが本当に大変なことだと思うんです。そして最も大事なことだと思うんです。
キリスト者として生きるというのは、この世においてはそんなに楽ではないと思います。ちょっと考えてみたんですが、イエスはね、今からおよそ2000年前にこの世に出て、いわゆる神の国を宣べ伝えたと考えていいと思います。イエスは、歴史的に言えば西暦紀元前4~5年に生まれたとされています。そして30歳になって世に出て、神の福音を宣べ伝え始めた。そうするとちょうど2000年前でしょ。そういう時代にいる私たち一人ひとりは、今の世の中どうですか。私たちが望む神の国の在り方に近づいているんでしょうか。それとも神の国の在り方とは全く逆の方向に行っているんでしょうか。私たちはこの世界の状況、そして日本の状況、日本の社会の状況、これをしっかりと見て、そこで私たちはどのように、何を訴え、そして何を、どんな行動をしていかなければならないのか、一人ひとり考える必要があると思います。
今日のマリアも、普通ではありえないことが神から託された。しかし、マリアはご存知のようにそのお告げを受けた時に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、それを引き受けてキリストの母となった。大変なことですよ。だけれども、これが神の御旨だからといって、それを受け止めてそれを行った。生きた。ヨセフもそうでしょ。ヨセフもマリアの夫として、そしてこの世的にはイエスの父親として世話をし、イエスを育てた。これも大変なことです。それを神の御旨だからそれを引き受けたということでしょう。
今日のこの第一朗読ではアハズのことが出てきます。アハズはこのコメントにあるように、前8世紀後半のユダヤ王国の王でした。しかしアハズはこの預言者に言われてもそれには従わないで、アッシリア帝国に従属する道を選んだ。神の御旨に従わなかった。そういう人です。第二朗読ではパウロが登場します。ご存知のように、パウロは初めは熱心なユダヤ教徒で、キリスト者を迫害する者でした。その先頭に立ってキリスト者たちをやっつける仕事をしていた。しかし、そのパウロはイエスとの出会いによってまるっきり人生が変わってしまった。そしてここに言うように「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」、自分をそのように受け止めています。そしてローマの教会の人たちへこのように言います。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」、このように言うんです。
私たちも「召されて神の子となった者」です。私たちには何が求められているのか。さっきも言ったように、今の世界を見て、もちろん私たちがこの教会でミサに与ってキリストを礼拝し、そしてキリストの命を受けて生きるということ、これは非常に大事なことだと思います。しかし、ただ受けてそのままじゃないでしょう。それは私たちがキリスト者として、この世において証しをしていく。そのことが求められていると思うんです。やることは一人ひとり違うかもしれませんね。でも、それをしっかりとやっていくことができるように、そういうふうな悔い改め、回心というのが求められているのではないかと思います。私たちがそういうことをしっかりと行っていくことができるように、そして主の降誕を心から喜んで、その主に従っていくことができるように願っていきましょう。
待降節第3主日
山内 豊 神父
12/14(日)10:00- 待降節第3主日
今日の福音の場面は、ヨハネの弟子がイエスに対して「あなたはメシアですか」と尋ねる場面となっております。皆さんにとって、なぜイエスはメシアだとわかったんでしょうか。代々クリスチャンの家庭ではそれはもう自明のことだと思うんですが、後から洗礼を受けた方は、なぜこの人がメシアだと思ったんでしょうか。聖書にはこう書いてあります。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。これを聞いて皆さんは、この人は間違いなくメシアだと思うでしょうか。このニュースを聞いて皆さんは、ああ、メシアが現れたと思うでしょうか。当時の人にとっても同じような問いがありました。
もしイエス様が「私はイスラエルの民をローマ帝国から解放するために来た」と言ったら、ああ、メシアが来たんだと、もしかしたらその当時のユダヤ人は思ったかもしれません。一方で「イスラエルの良い羊を集めて、それで私は新しい派閥を開く」って言ったら、もしかしたら、メシアが来たんだと多くの人が思ったかもしれません。当時はいろいろな派閥がありました。ファリサイ派だとかサドカイ派、エッセネ派とかいろいろな派閥があって、優秀な人たちを集めてそういう派閥を作るために来たのか。実際イエス様の後を継いだ人たちは、ナザレ派と言われてユダヤ人の会堂の中にいたわけですけど、自分は派閥を作るために来たとは言っていません。他にも、「世界を屈服させるために私は来た」って言ったら、もしかしたらメシアが来たって思う人がいたかもしれません。
私たちは目の見えない人ではなくて、足の不自由な人ではなく、重い皮膚病を患っている人でもなければ、耳の聞こえない人でも、死者でも貧しい人でもありません。それゆえ、あまりにも限定された人、対象となる人が少ないメッセージであって、「自分は対象外だから、イエス様は私を対象にして来なかったんだ。私にとってメシアじゃないんだ」と思う人も多かったと思います。それは罪人、病人、貧しい人のメシアであって、私のメシアではないように思えます。現実に、当時イエスをメシアであると認識できた人は一部の人でした。貧しい人っていうと、当時はほとんどの人が入っていたと思うので、多くの人は自分あてかなと思ったかもしれませんが、優秀なというか、エリートたちはそうは思いませんでした。だからヨハネであってもそれに気づくことがなく、直接「あなたはメシアですか」と弟子たちに聞きに行かせたわけです。
多くの人が「あなたはメシアだったらはっきり言いなさい」とイエス様に言っている場面もたくさんあります。イエス様は、はっきり「自分はメシアだ」って言わないんですね。「あなたが見ているわざを見れば、何かわかるだろう」というスタンスでいました。多くの人にとって、イエスがもたらした福音は福音だとは思わなかったものです。特にファリサイ派や律法学者は、イエスのメッセージはすごく危険なもので、自分たちの立場を危うくするようなメッセージを感じていました。多くの人は、放蕩息子のたとえに出てくるお兄さんのような立場を取っていました。弟が戻ってきて、宴会を開いて何かやっているな、外から見て、何でそんなにあの人たちのためにやっているんですか、みたいな形で、自分は蚊帳の外のように感じていました。
逆に、罪人にさえあんなに良くしてくれるんだから、私たちに対してはもっといいことをしてくれるはずだと思うわけです。メシアだったら、罪人でもあんなにやってくれるんだったら、ちゃんと神様についていった私たちはもっといいものがもらえるんじゃないかと思っていたわけです。でも、実際に与えられたのは同じものでした。後から来た人を1デナリオンで雇ったなら、最初から働いてた人はもっともらえるんじゃないかと思って、でも1デナリオンしかもらえなくて文句を言うっていう話がありましたね。あれこそ多分実際に起こっていたことだと思います。ファリサイ派は、もっともらえるんじゃないかと思ってたんですけど、案外もらえなかったという。なので、ファリサイ派の人たちは、もしかしたらメシアだと思わなかったんじゃないかなと思います。
なぜイエスは私たちにとってのメシアであると言えるのでしょうか。この方は、私たちがずっと待っていた人だと言えるのでしょうか。私たちは目の見えない人、足の不自由な人、耳の聞こえない人、貧しい人とさほど変わらない自分を聖書の中で発見します。彼らは人生に対して失望し、どこに行ったらいいかもわからず、神から離れた生活をしていました。私たちは聖書を読んでいて、聖書に出てくる罪人、病人、貧しい人に自分を投影して、私たちも同じだと思うわけです。彼ら昔の貧しい人や病人、罪人、それは私たちも同じで、迷い、失望し、目的も分からずさまよっていた存在です。聖書に目に見えない人が出てきた時、私たちも同じだ、目が見えているにもかかわらず何も見えてないなと。そして耳が聞こえない人が出てくると、ちゃんと私も耳があるけど聞こえていない自分を発見します。そして私たちはこの人生において、さまよっているなという感覚を持つわけです。聖書の中にはこう書いてあります。「私たちは見ても見えず、聞いても聞こえず、理解できないことを知っている」と書かれています。
この世界に落胆し絶望した寄る辺のない私たちに、イエスは希望を与えに、そして共に生きるために来てくださいました。私たちは、聖書に出てくる罪人や貧しい人と変わらない自分を聖書の中に発見しました。そして自分を顧みると、多くの人は違うかもしれませんが、私の場合は人生に絶望して、自分の至らなさに失望して、自分は一体何のために生きてるんだろう、人のために何の役に立てるんだろう。そういうことを思いながら、自分はこの世界から見捨てられた人間だって思う時がありました。その時に私たちが聖書を読むと、ここに出てくるのは私だと思うわけです。私はここに出てくる罪人と一緒じゃないか。罪人になさったイエス様の行いを見て、そして現実にも私たちは癒される体験をして、この人こそ私たちが待っていたメシアだと思うわけです。
確かにいろいろなものが私たちにとって助けになりました。例えばお金がない時にお金をくれる人がいれば、この人はメシアに違いないと思ったりするわけです。でも、その人たちは結局最後まで希望を与えることはできませんでした。何かがあると私たちから希望が奪われていくのが分かります。でも、イエス様は決してそういう形で私たちに希望を与えるわけではありません。決してなくならない希望、そして永遠の命。多くのものが失われていきます。例えば多くの人が亡くなったり。私は41年も生きていると、多くの知っている人が亡くなって、イエズス会の仲間もどんどん亡くなっていきます。その中で奪われない希望って言ったら、やはりこの永遠の命、イエス様が与えてくれる永遠の命だなと感じます。決して私たちの築いた関係はなくなるものじゃない。そしてこれは永遠に続いていくものなんだという希望が私たちに与えられています。
本当に希望を与えてくれるのは、今度お生まれになるイエス・キリストです。私たちはもう一度、この幼子を発見するために旅に出る必要があると思います。もしこの中でイエス様に対する希望が失われかけている人がいるのなら、私たちはもう一度、羊飼いや三博士のように旅を続けて、そしてイエス様に出会う必要があると思います。それは決して失われない希望だと思います。なので、私たちはこの待降節を過ごしている中でイエス様に出会えるように、恵みを願いながらミサを続けましょう。
待降節第2主日
ハビエル・ガラルダ 神父
待降節はイエス・キリストを待ち望む期間です。待つよりも望む。主イエスよ、来てください、主イエスよ、来てくださいと何回も言われる時期です。そのために道を整える。道を歩きやすくして、イエス・キリストが入ることができるために道をきれいにするのです。どういうふうに道を整えることができるかといいますと、それは悔い改めによって。悔い改めて道をまっすぐにします。ですから悔い改めは目的ではない。悔い改めのための悔い改めは長くもたない。何のための悔い改めですか。それはイエス・キリストがこの世に、この心に、自分の心に入ってくださって、私たちはキリストにはまって、キリストとともにキリストについていく。進む道を進める。キリストについていくために悔い改めるのです。
では、どういうふうに悔い改めることができるかと言いますと、私が好きな1つの箇所はあの放蕩息子のたとえ話。ルカの15章にありますけれども、そこで悔い改めが表れてきます。まず、放蕩蕩子のしたことで、何をしたかというと、放蕩息子は非常に悪いことしましたけれども、反省しました。我に返って反省しました。放蕩息子のように私たちも反省しましょう。それは悔い改め。でも、自分の罪を考える、また考える、それは暗い。反省は暗い反省ではなくて、むしろ前向きの反省。それは明るい。やりがいがあります。それから反省というと、神様に対しても、そして人に対しても反省するんですね。何かがあった時には自分も反省する。ですからこの悔い改めは、神様に対しても、人間に対しても悔い改めるはずです。
2番目にこの放蕩息子がしたことは、戻ること。家に戻りました。私たちも神様に戻りましょう。ちょっと遠ざかっているかもしれません。神様に戻る。そして人に戻る。離れているその人に、精神的に離れているその人に戻る。そしてまた初心に戻る。それから放蕩息子は謝りました。私たちもあのたとえ話の徴税人のように「罪深い私を憐れんでください」、こういうふうに神様に謝りましょう。人に対しても謝る。謝り合う。
これは放蕩息子がしたことですけれども、それで十分ではないんです。今度はお父さんがなさったことです。そのたとえ話でお父さんは神様ですね。お父さんは赦してくださった。何もなかったことにしましょう。赦してくださった。私たちも人を赦す。何もなかったかのようにしましょう。それから、そのお父さんは受け入れてくださった。自分の子どもとして受け入れてくださった。その過去のあった子ども、その欠点のあった子どもを受け入れました。私たちも、私たちに悪いことした人を受け入れて、そしてその人の欠点を、直らない欠点のあるこの人を受け入れる。これも悔い改めです。
それからお父さんは抱きしめてくださった。愛する。聖パウロが言うように、愛はすべてを完成させる絆である。綺麗な言葉ですね。ですから、お父さんは赦してくださった。受け入れてくださった。抱きしめてくださった。それを私たちが人に対しても、これをすると同時に神様に抱きしめられていることを信じて、感じて、嬉しくなって、その喜びを周りの人に感じさせるという生き方をするのが、悔い改めの結果ですね。
ところが、悔い改めにはふさわしい実を結ばなければならない。どういう実ですか。悔い改めた人にふさわしい態度、それはまず、人を赦すこと、人を裁かないこと、その人の言葉と行いをなるべく良い方に解釈すること。それから、あまり文句を言わないこと。でも何よりも、感謝すること。感謝はすべてですね。感謝はすべてを清めると思います。これは結ばなければならない悔い改めの実。もう1つですけども、何のために悔い改めるかというと、先ほど言ったように、目的を失わない方がいい。悔い改めのための悔い改めはもたない。キリストが心に入ってくださって、私たちはキリストにはまって、これからキリストにくっついていくように、道を進めてくださるキリストについていきます。
ですからキリストに言いましょう。主よ、私はあなたについていきます。というよりは、私は自信がないんです。ついていきたいけれども、意思が弱くて座っちゃうかもしれません。他の道を選ぶかもしれません。ですから、ついていくことよりも、主よ、連れて行ってください。連れて行ってくださいと願い求めましょう。