2025年12月 ミサ説教
12/7(日)10:00- 待降節第2主日 ハビエル・ガラルダ 神父
12/14(日)10:00- 待降節第3主日 山内 豊 神父
待降節第3主日
山内 豊 神父
12/14(日)10:00- 待降節第3主日
今日の福音の場面は、ヨハネの弟子がイエスに対して「あなたはメシアですか」と尋ねる場面となっております。皆さんにとって、なぜイエスはメシアだとわかったんでしょうか。代々クリスチャンの家庭ではそれはもう自明のことだと思うんですが、後から洗礼を受けた方は、なぜこの人がメシアだと思ったんでしょうか。聖書にはこう書いてあります。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。これを聞いて皆さんは、この人は間違いなくメシアだと思うでしょうか。このニュースを聞いて皆さんは、ああ、メシアが現れたと思うでしょうか。当時の人にとっても同じような問いがありました。
もしイエス様が「私はイスラエルの民をローマ帝国から解放するために来た」と言ったら、ああ、メシアが来たんだと、もしかしたらその当時のユダヤ人は思ったかもしれません。一方で「イスラエルの良い羊を集めて、それで私は新しい派閥を開く」って言ったら、もしかしたら、メシアが来たんだと多くの人が思ったかもしれません。当時はいろいろな派閥がありました。ファリサイ派だとかサドカイ派、エッセネ派とかいろいろな派閥があって、優秀な人たちを集めてそういう派閥を作るために来たのか。実際イエス様の後を継いだ人たちは、ナザレ派と言われてユダヤ人の会堂の中にいたわけですけど、自分は派閥を作るために来たとは言っていません。他にも、「世界を屈服させるために私は来た」って言ったら、もしかしたらメシアが来たって思う人がいたかもしれません。
私たちは目の見えない人ではなくて、足の不自由な人ではなく、重い皮膚病を患っている人でもなければ、耳の聞こえない人でも、死者でも貧しい人でもありません。それゆえ、あまりにも限定された人、対象となる人が少ないメッセージであって、「自分は対象外だから、イエス様は私を対象にして来なかったんだ。私にとってメシアじゃないんだ」と思う人も多かったと思います。それは罪人、病人、貧しい人のメシアであって、私のメシアではないように思えます。現実に、当時イエスをメシアであると認識できた人は一部の人でした。貧しい人っていうと、当時はほとんどの人が入っていたと思うので、多くの人は自分あてかなと思ったかもしれませんが、優秀なというか、エリートたちはそうは思いませんでした。だからヨハネであってもそれに気づくことがなく、直接「あなたはメシアですか」と弟子たちに聞きに行かせたわけです。
多くの人が「あなたはメシアだったらはっきり言いなさい」とイエス様に言っている場面もたくさんあります。イエス様は、はっきり「自分はメシアだ」って言わないんですね。「あなたが見ているわざを見れば、何かわかるだろう」というスタンスでいました。多くの人にとって、イエスがもたらした福音は福音だとは思わなかったものです。特にファリサイ派や律法学者は、イエスのメッセージはすごく危険なもので、自分たちの立場を危うくするようなメッセージを感じていました。多くの人は、放蕩息子のたとえに出てくるお兄さんのような立場を取っていました。弟が戻ってきて、宴会を開いて何かやっているな、外から見て、何でそんなにあの人たちのためにやっているんですか、みたいな形で、自分は蚊帳の外のように感じていました。
逆に、罪人にさえあんなに良くしてくれるんだから、私たちに対してはもっといいことをしてくれるはずだと思うわけです。メシアだったら、罪人でもあんなにやってくれるんだったら、ちゃんと神様についていった私たちはもっといいものがもらえるんじゃないかと思っていたわけです。でも、実際に与えられたのは同じものでした。後から来た人を1デナリオンで雇ったなら、最初から働いてた人はもっともらえるんじゃないかと思って、でも1デナリオンしかもらえなくて文句を言うっていう話がありましたね。あれこそ多分実際に起こっていたことだと思います。ファリサイ派は、もっともらえるんじゃないかと思ってたんですけど、案外もらえなかったという。なので、ファリサイ派の人たちは、もしかしたらメシアだと思わなかったんじゃないかなと思います。
なぜイエスは私たちにとってのメシアであると言えるのでしょうか。この方は、私たちがずっと待っていた人だと言えるのでしょうか。私たちは目の見えない人、足の不自由な人、耳の聞こえない人、貧しい人とさほど変わらない自分を聖書の中で発見します。彼らは人生に対して失望し、どこに行ったらいいかもわからず、神から離れた生活をしていました。私たちは聖書を読んでいて、聖書に出てくる罪人、病人、貧しい人に自分を投影して、私たちも同じだと思うわけです。彼ら昔の貧しい人や病人、罪人、それは私たちも同じで、迷い、失望し、目的も分からずさまよっていた存在です。聖書に目に見えない人が出てきた時、私たちも同じだ、目が見えているにもかかわらず何も見えてないなと。そして耳が聞こえない人が出てくると、ちゃんと私も耳があるけど聞こえていない自分を発見します。そして私たちはこの人生において、さまよっているなという感覚を持つわけです。聖書の中にはこう書いてあります。「私たちは見ても見えず、聞いても聞こえず、理解できないことを知っている」と書かれています。
この世界に落胆し絶望した寄る辺のない私たちに、イエスは希望を与えに、そして共に生きるために来てくださいました。私たちは、聖書に出てくる罪人や貧しい人と変わらない自分を聖書の中に発見しました。そして自分を顧みると、多くの人は違うかもしれませんが、私の場合は人生に絶望して、自分の至らなさに失望して、自分は一体何のために生きてるんだろう、人のために何の役に立てるんだろう。そういうことを思いながら、自分はこの世界から見捨てられた人間だって思う時がありました。その時に私たちが聖書を読むと、ここに出てくるのは私だと思うわけです。私はここに出てくる罪人と一緒じゃないか。罪人になさったイエス様の行いを見て、そして現実にも私たちは癒される体験をして、この人こそ私たちが待っていたメシアだと思うわけです。
確かにいろいろなものが私たちにとって助けになりました。例えばお金がない時にお金をくれる人がいれば、この人はメシアに違いないと思ったりするわけです。でも、その人たちは結局最後まで希望を与えることはできませんでした。何かがあると私たちから希望が奪われていくのが分かります。でも、イエス様は決してそういう形で私たちに希望を与えるわけではありません。決してなくならない希望、そして永遠の命。多くのものが失われていきます。例えば多くの人が亡くなったり。私は41年も生きていると、多くの知っている人が亡くなって、イエズス会の仲間もどんどん亡くなっていきます。その中で奪われない希望って言ったら、やはりこの永遠の命、イエス様が与えてくれる永遠の命だなと感じます。決して私たちの築いた関係はなくなるものじゃない。そしてこれは永遠に続いていくものなんだという希望が私たちに与えられています。
本当に希望を与えてくれるのは、今度お生まれになるイエス・キリストです。私たちはもう一度、この幼子を発見するために旅に出る必要があると思います。もしこの中でイエス様に対する希望が失われかけている人がいるのなら、私たちはもう一度、羊飼いや三博士のように旅を続けて、そしてイエス様に出会う必要があると思います。それは決して失われない希望だと思います。なので、私たちはこの待降節を過ごしている中でイエス様に出会えるように、恵みを願いながらミサを続けましょう。
待降節第2主日
ハビエル・ガラルダ 神父
待降節はイエス・キリストを待ち望む期間です。待つよりも望む。主イエスよ、来てください、主イエスよ、来てくださいと何回も言われる時期です。そのために道を整える。道を歩きやすくして、イエス・キリストが入ることができるために道をきれいにするのです。どういうふうに道を整えることができるかといいますと、それは悔い改めによって。悔い改めて道をまっすぐにします。ですから悔い改めは目的ではない。悔い改めのための悔い改めは長くもたない。何のための悔い改めですか。それはイエス・キリストがこの世に、この心に、自分の心に入ってくださって、私たちはキリストにはまって、キリストとともにキリストについていく。進む道を進める。キリストについていくために悔い改めるのです。
では、どういうふうに悔い改めることができるかと言いますと、私が好きな1つの箇所はあの放蕩息子のたとえ話。ルカの15章にありますけれども、そこで悔い改めが表れてきます。まず、放蕩蕩子のしたことで、何をしたかというと、放蕩息子は非常に悪いことしましたけれども、反省しました。我に返って反省しました。放蕩息子のように私たちも反省しましょう。それは悔い改め。でも、自分の罪を考える、また考える、それは暗い。反省は暗い反省ではなくて、むしろ前向きの反省。それは明るい。やりがいがあります。それから反省というと、神様に対しても、そして人に対しても反省するんですね。何かがあった時には自分も反省する。ですからこの悔い改めは、神様に対しても、人間に対しても悔い改めるはずです。
2番目にこの放蕩息子がしたことは、戻ること。家に戻りました。私たちも神様に戻りましょう。ちょっと遠ざかっているかもしれません。神様に戻る。そして人に戻る。離れているその人に、精神的に離れているその人に戻る。そしてまた初心に戻る。それから放蕩息子は謝りました。私たちもあのたとえ話の徴税人のように「罪深い私を憐れんでください」、こういうふうに神様に謝りましょう。人に対しても謝る。謝り合う。
これは放蕩息子がしたことですけれども、それで十分ではないんです。今度はお父さんがなさったことです。そのたとえ話でお父さんは神様ですね。お父さんは赦してくださった。何もなかったことにしましょう。赦してくださった。私たちも人を赦す。何もなかったかのようにしましょう。それから、そのお父さんは受け入れてくださった。自分の子どもとして受け入れてくださった。その過去のあった子ども、その欠点のあった子どもを受け入れました。私たちも、私たちに悪いことした人を受け入れて、そしてその人の欠点を、直らない欠点のあるこの人を受け入れる。これも悔い改めです。
それからお父さんは抱きしめてくださった。愛する。聖パウロが言うように、愛はすべてを完成させる絆である。綺麗な言葉ですね。ですから、お父さんは赦してくださった。受け入れてくださった。抱きしめてくださった。それを私たちが人に対しても、これをすると同時に神様に抱きしめられていることを信じて、感じて、嬉しくなって、その喜びを周りの人に感じさせるという生き方をするのが、悔い改めの結果ですね。
ところが、悔い改めにはふさわしい実を結ばなければならない。どういう実ですか。悔い改めた人にふさわしい態度、それはまず、人を赦すこと、人を裁かないこと、その人の言葉と行いをなるべく良い方に解釈すること。それから、あまり文句を言わないこと。でも何よりも、感謝すること。感謝はすべてですね。感謝はすべてを清めると思います。これは結ばなければならない悔い改めの実。もう1つですけども、何のために悔い改めるかというと、先ほど言ったように、目的を失わない方がいい。悔い改めのための悔い改めはもたない。キリストが心に入ってくださって、私たちはキリストにはまって、これからキリストにくっついていくように、道を進めてくださるキリストについていきます。
ですからキリストに言いましょう。主よ、私はあなたについていきます。というよりは、私は自信がないんです。ついていきたいけれども、意思が弱くて座っちゃうかもしれません。他の道を選ぶかもしれません。ですから、ついていくことよりも、主よ、連れて行ってください。連れて行ってくださいと願い求めましょう。