2026年1月 ミサ説教
1/1(木)0:00- 神の母聖マリアの祭日(深夜ミサ) 髙祖 敏明 神父
1/1(木)10:00- 神の母聖マリアの祭日 髙祖 敏明 神父
1/4(日)10:00- 主の公現の祭日 サトルニノ・オチョア 神父
主の公現の祭日
サトルニノ・オチョア 神父
今日の祝日は「主の公現」と言われているんですね。お手元のプリントには主の公現とともに、素晴らしい昔の絵もあります。そこでは博士たちのことも出てきますけれども、こちらには福音に入っていないこともいろいろあります。それを少し説明したいんですけれども、初めてこのマタイの福音のことを聞くと、特に大人の人たちは、なんと童話みたいなこと、これは本当にそうだったんですか?本当に東方から博士たちが来たと、どういうふうな記録が残っていますか?と言います。何も残っていないんです。これは童話というか、ある意味でたとえ話みたいなことです。このたとえ話をもって具体的に出てくることは、非常に深い意味があります。ある意味で皮肉のこともあります。それでこれを見て、大人の目で読んでそれを受け入れると、非常にいろいろなことを学ぶことができると私は思います。
まず第1に、東方から来る。これはイスラエルの人たちではない。聖書の人たちではない。 いわば異邦人。東方といってですね、ローマからじゃない。ギリシャからじゃないんです。それは知られていない世界です。これは東方。具体的に言えないけれども、遠いところから来た。この人たちのためにもイエス・キリストは生まれたんです。ただその言葉だけで、初めからイエス・キリストは本当にカトリック、普遍、みんなのために生まれた。その人たちはエルサレムに来て「生まれた王様はどこにおられますか」と言っているんです。これはやはり、たとえ話でなければ考えられないんですね。エルサレムの王様のところへ行って「生まれた王様はどこにいるんですか」と。本当に考えられないんですけれども、それは皮肉でもあります。
ベツレヘムはエルサレムから5kmだけ離れているんです。東方から、知られていない国から来る人たちはすぐイエス・キリストを探しているのに、そのすぐそばにいる人たちはイエス・キリストを探していない。「自分の民に来て、受け入れられなかった」という言葉は、この今日の福音によって具体的に出てくるわけです。うちの人たちは知らない。よその人たちは分かる。なお、ヘロデに「ベツレヘムで生まれるはずです」と、祭司たちはそう言うんです。偉い人たち、律法学者たちはみんな「ベツレヘムです」と言うんです。どうして行かないんですか。5kmしか離れていないんです。それなのに行かない。「あなた方は調べて、見つかったら知らせてください」と言うんです。本当にこれはすごく皮肉ですね。うちの人たちにはわからない。
それから彼らは星に導かれるんです。これは天文学と関係が1つもない。その星はダビデの星です。今でもその星は、イスラエルの旗を見るとそこにあります。それでこの星、ダビデの星、「ダビデの子イエス」と言われるんです。ダビデの受けた預言はですね、この子によって満たされるわけです。それから博士たちはマリアとイエスを見つける。私たちも、特にイグナチオ教会ですから、イグナチオの祈りはこうだった。「マリア様、あなたの子に会わせてください」。3人の博士は、3人と言ったんですけれども、3人であるということはどこにも入っていないんです。贈り物は3つの贈り物であるということは入っていますけれども、3人の博士は私たちの作った話です。ちょうど教会を出ると、まだ馬小屋があります。その馬小屋では3人の博士もいます。先ほど申し上げたように、カトリックのようなことですね。普遍的なことである。3人の博士の年は違います。若い人もいる。中年の人もいて、おじいちゃんみたいな人もいます。民族も違う。金髪みたいな人がいれば、黒い人もいます。アフリカ、アジア、すべての土地からこちらに来るわけです。それは教会の作ったものですね。福音には入っていない。
けれども、入っているのはあの3つの宝物。黄金。言うまでもなく、今でもよくわかります。黄金だったら王様であるということです。王様の冠は黄金でなければ、ですね。黄金とともに、他の贈り物としては、乳香。乳香は、この子は王様だけじゃなくて、神です。私たちも今でも、特に日本ではいろんなお寺行くと香を立てる。どうしてですか。その煙が上がる。香を立てる時には、私たちは何か祈っている。求めている。祈っている。だから香を立てると、この子は神であるということを知らせています。難しいのは没薬。没薬は昔、苦しみと縁があると言われたんです。没薬は、昔の人たちにとっては痛み止めとして使われていたわけです。なんかしゃれたアスピリンのようなものです。これは福音に入っています。イエス・キリストが十字架につけられる前に誰かが来て、それからぶどう酒1杯、そこに没薬が入っていたわけです。それで没薬によって体は鈍くなって、苦しみに耐えられるようになります。
だから黄金、この子は王様です。乳香、この子は神様です。没薬、人です。苦しむ人です。痛みの経験がある人です。その意味で今日の博士たちが私たちに教えていることはこれですね。公現、この子を見てください。私たちの神、私たちの主、私たちのような、私たちの兄弟です。私たちの一人です。私たちは博士と一緒に、心の巡礼、生きている限りいつも歩み続けて、このイエス・キリスト、神であり、王であり、人間であるイエス・キリストを見つけましょう。
神の母聖マリアの祭日
髙祖 敏明 神父
皆様、改めて新年のお祝いを申し上げます。今日の第一朗読で先ほど読まれましたように、「イスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい」というこの言葉が、いつも新年のこの時に読まれます。私たちの祝福を願う祈りとして、私たち自身のために、家族のために、人類家族のために、また私たちが住んでいるこの地球のために、この祝福をご一緒に祈りたいと思います。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように」「主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。私たちの祈りとしたいと思います。
では、そうしていただく神様からの祝福の恵みをどのように生きていったらいいのか、今日の福音をヒントにしながら思い巡らしてみたいと思います。
「羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。天使に告げられ、教えられたことを見に行く。現実がどのようであるかをしかと見る。自分の目で確認する。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。私たちの身の回りに起こっていること、人々が知らせてくれることの中に潜む神からの招き、メッセージ、御旨を探し、それを識別していく。神の母、聖マリアの生き方がそうでした。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」。天使を通して神からいただいたメッセージ、神の御旨を忠実に実行していくこと。
こうしてみますと、第1に周囲の人の言葉に耳を傾けながら現実をよく見ること、第2にそうした現実の中で伝えられている神からのメッセージ、御旨を識別すること、第3に識別した神からのメッセージ、御旨を忠実に実行するという3つの段階がここで教えられているように思います。
「1年の計は元旦にある」と言われます。皆さんも、それぞれこの1年に向けた新しい抱負、自分の願い、希望、期待を心の中に持っていらっしゃるでしょうし、多くの方が祈りのカードとして、今、祭壇に捧げておられるかと思います。その実現も、今申し上げた3つの段階を歩んで実現されていくようです。では私たちのこの聖イグナチオ教会の1年の計はいったい何でしょう。それは私たちの教会としてシノドス流の教会に育つことです。教皇フランシスコによって始められた「世界代表司教会議第16回通常総会」、シノドスというふうに言われていますけれども、その最終文書が「シノドス流の教会~交わり、参加、宣教~」というタイトルで、今年の6月の末に日本語訳が出されています。このシノドス流の教会が示す教会像に学びながら、私たちの小教区としての、ここ10年先を視野に入れたビジョン(デザイン)とパストラル・プラン(司牧計画)を作成していくという、この計画です。
何のためにそういうことをやるんですか。私たちの教会が今よりも参加型で宣教的となり、つまり、多くの方々が教会を一緒につくっていく担い手になっていく。一緒に宣教の担い手になっていくという教会のあり方に育てていき、神の恵みを証しする教会となるためです。この路を歩み、前進するためにシノダリティ、ともに歩むということをシノダリティと言っているそうですけども、ともに歩むということを具体的に推進しながら、まずはこの教会の置かれている現状、周囲の状況、社会の動向、日本の動き、世界の動き、そうした現状をよく見極める。次いで回心を伴う霊的会話を重ねて、神の御旨の識別を進める。そして識別が示す必要な霊的刷新と構造改革を進めていく。この3段階を経て、この教会も計画を進めていこうとしています。その際の理念は、皆様のいろんな考えをいただいてまとめた言葉ですけれども、「キリストを頭に1つになろう」という理念です。
先ほど、回心を伴う霊的会話と申し上げましたけれども、最終文書「シノドス流の教会」は、ともに歩むシノダリティの神髄は「聖霊によって回心に呼ばれた者たち」、これがともに歩むということの中核にあるものだというふうに教えています。皆さんもクリスマスの時に、教会の作りましたこのメッセージカードを手にされたでしょうか。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを伝える。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という、ルカ福音書を掲げています。ダビデの町とはベツレヘムのことです。では、私にとってのダビデの町、あなたにとってのダビデの町とは一体どこでしょうという疑問を投げかけて聖書の言葉を引用しました。「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。もし、誰かが私の声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って食事を共にし、その人もまた、私と共に食事をする」。「共に食事をする」というのは、私たちが祝っていますミサが、すでにその前触れとして実現しています。
「シノドス流の教会」になるためには、この最終文書が何を言っているかということをよく理解することが必要です。ですから、それを読み解くということを呼びかけていますし、いろんな場でそれを実行しようとしています。例えば主日の説教の中で、信徒の様々な集まりの中での講話とか研修の場で、様々な活動団体の活動連絡会の話題提供の中で、そして黙想会などを通して、私たちの教会の現状をよく見る、知る。
1つの例を申し上げますと、今年10月の初めに教勢調査、つまり何人ぐらいの方がミサに与っていらっしゃるかということを各ミサごとに集計し、合計しています。教会誌のマジス11月号で具体的な数字もすべて報告されていますけれども、土曜の夜から日曜日のミサ、そして外国語のミサがふた月に1度とかひと月に1度とかありますので、これらも全部カウントして、主日のミサに与っていらっしゃる信者さんがおよそ4200人。日本語のミサの出席者はそのうち1320人ほど。外国語ミサの出席者は2855人。コロナ前は日本人の参加者の方が多かったんですけれども、今、この状況は逆転しています。それが私たちの教会の今置かれている現状です。
言葉別のミサが現在では並立していますけれども、外国語信徒、外国籍信徒との「共存」から、国籍、言語、文化を超えてつながる「共生」への転換が、私たちの教会の課題として大きく浮かび上がってきています。それに対する試みとしては、多言語による国際ミサがすでに行われていますし、いろんな言葉を持ち寄ってのリビング・ロザリーが唱えられていますし、将来を担う若者たちをカトリックの国際大会に派遣したりしています。「共存」から「共生」へ、その理念が先ほど申し上げた「キリストを頭に1つになろう」です。そういう私たちの計画を具体的に進めるためにもう動き始めています。
2025年3月、去年の3月に中長期計画策定準備委員会を設置いたしました。そしてその準備委員会の動きと合わせて、皆様のお手元にも「ともに歩む教会の祈り」というものをお渡しして、そして折に触れてこの祈りを私たちの教会の祈りとして唱えようということを実際に実践してきています。また11月から12月にかけましては、「信仰のしおり」という小冊子についてのアンケートを実施しました。日本語共同体に呼びかけて実施したわけですけれども、シールでの回答、紙での回答、WEBでの回答がありました。12月初旬の集計で約330人ですから、約25%の人からの回答を得ていますが、参加型の教会にするという狙いでいきますと、このアンケートの回答率ももっと高めたいところです。
そして何より「麹町教会100周年プラン策定委員会」を今年4月の御復活の祝日後に設置しようということで、今その準備を進めています。2036年、これから10年先ですが、私たちの教会は小教区教会として誕生100周年を迎えます。イグナチオ教会の前身の聖テレジア教会が献堂式を祝ったのが1936年3月22日。それからちょうど100周年を迎えるあたりを1つのターゲットにしながら、100周年プランを作ろうという、そういう狙いです。
聖霊の導きのもと、豊かで生き生きとした持続的発展を遂げることができるように、2030年までの中期計画、2036年までの長期計画を立案すること。その際、聖イグナチオ教会自身の特性、都心にあること、様々な外国人たちがたくさんいること、イエズス会という修道会が運営の母体にあること、そのような特性を生かす。時代や地域の環境変化を考慮しながら、教会全般に向けた計画を策定する。信仰と霊性を軸にしながら、教会の組織、その運営、活動及び施設設備、財政等、教会全体に関わることについてのビジョン(デザイン)を作り、その司牧計画パストラル・プランを策定しようという計画です。
そのための重要課題の選定、そうした課題への対応策を具体的に立案し選択していく。全共同体とともに具体的に実行できる計画を策定する。そしてその実行に努める。その際、必要な専門部会も開いて、なるべく多くの方が参加してこの教会の未来を一緒に担っていけるようにという、そういうふうな計画が進められています。その委員会を担う委員の自薦他薦を皆さんに現在お願いしている最中です。来週の日曜日が締め切り日です。どうぞ、これと思う方がいらっしゃいましたら、ご推薦をぜひお願いしたいと思います。
「1年の計は元旦にあり」、その具体的実現は福音が教える通り、第1に周囲の人の様々な語りに耳を傾けながら現実をしっかりと見る。第2に現実の中で伝えられている神からのメッセージ、御旨を識別する。第3に識別した神からのメッセージ、御旨を忠実に実行するというこの3段階を、もちろん時間的に順番が大きくいきますけれども、しかし同時並行的に進むものもあるかと思います。
私たちが神の祝福の恵みに生かされ、聖霊に導かれ、神の母聖マリアの取り次ぎを得て、後に共同祈願で唱えますように、生活の中で福音の喜びと平和、信仰の喜びと平和を証しできますように祈り合いたいと思います。それを通して私たちの聖イグナチオ教会がシノドス流の教会に成長できますようにと、ご一緒に祈り合いたいと思います。私たちの新年に向けての様々な願い、抱負が実現するということも願いつつ、私たちの教会全体のためにもお祈りをし、そして教皇レオ14世が私たちに掲げているメッセージも心に留めながら、教会全体を聖霊が導いてくださいますように、マリア様のとりなしをお願いながらご一緒に祈りを捧げたいと思います。
神の母聖マリアの祭日(深夜ミサ)
髙祖 敏明 神父
今日は新年最初のミサでもありますけれども、教会は「神の母聖マリア」の祝日として今日のミサを捧げるように私たちを招いています。そして同時に「世界平和の日」。いつも教皇がこの日に向けて「世界平和の日メッセージ」 をお出しになっています。
私たち日本人は新年というと、なんとなく初日の出、今真夜中なんですけれども、初日を見るということに何か特別な、心がウキウキするような、そういうふうな気持ちとか感情を持っています。その思いに重なるかのように、主イエス・キリストの到来を太陽の光になぞらえているので、皆さんもご存知だと思います。例えば、洗礼者ヨハネのお父さんザカリアが預言したその中に「神の憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く」と歌っています。今日はその初日の出、そしてイエス様がこの太陽の光である、そして平和の道に導くということですので、私のこの説教では少し平和ということについて焦点を合わせてお話してみたいと思います。
今日は世界平和の日として、教会が特に平和のために祈るように私たちを招いていますけれども、教皇レオ14世が5月8日に教皇に選ばれて、バチカンのバルコニーからその前にいる人々、世界にいる人々に向けて最初の挨拶をされた。その最初の言葉が「あなた方に平和があるように」でした。ご存知の通り、これは復活されたイエス様が、ユダヤ人を恐れてドアに鍵をかけ、家に閉じこもっていた弟子たちに語りかけた最初の言葉です。今日は主の御降誕から8日目。その主の御降誕の時に天使たちが 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」というふうに歌ったと書かれていますけれども、この願い、「地には平和、御心にかなう人にあれ」というのが、主イエスにより弟子たちにおいて実現しているというふうにも言うことができるかと思います。
主イエスが復活された時に「あなた方に平和があるように」とおっしゃったわけですけれども、そこにはどういう仕掛けというか、仕組みがあるのでしょうか。世界平和の日にあやかって、復活したイエスが弟子に現れた場面を読み直して確認してみたいと思います。先ほど言いましたように、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちの家の戸に鍵をかけている。鍵をかけているということは、心も閉じているということの1つの比喩でもあるでしょう。そこへイエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」とおっしゃって、手と脇腹をお見せになった。弟子たちの目の前、その真ん中に姿を表す。正面から対面して、自分が幽霊ではなくて、十字架にかかって命を捧げたその本人であることを示して弟子たちを安心させる。聖書には「弟子たちは、主を見て喜んだ」というふうに書いてあります。
次いで主は重ねて言われる。「あなた方に平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」。つまり、父なる神と御子イエスの交わりに弟子たちが加えられることを知らせる。そしてその交わりの中から派遣するという使命を与える。使命を与えるということは、あなた方を信頼しているということを言っているとも読み取ることができます。信頼しているからこそ、使命を与える。
さらにイエスは「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。この言葉も、非常に深い意味があると思います。弟子たちは十字架にかけられる、捕らえられる主を見捨てて逃げました。信頼を裏切りました。そのことに強い罪悪感、そしてユダヤ人への恐れを強く感じている。その罪悪感と恐れに対して、罪の赦しといやしを聖霊によってイエス様はお与えになる。そして強められる。自分が犯した罪、過去のことに目を向けているだけではなくて、もっと前を見るように。
「あなた方に平和があるように」というのは、前に向かって進みましょうという、そういうメッセージになっていると思います。さらに、お互いに赦し合うこと、「私が愛したようにお互いが愛し合うように」というのがイエス様の新しい掟でした。この新しい掟を実行するように。赦し合うというのは、過去を見てどうだこうだということから、もっと前を見て、これから先の世界に歩んでいこうという、そういう招きになっています。
しかし、少し冷めた目で考えますと、このような考察は確かに美しい。確かに聖書のエピソードは私たちの心を引き付けるんですけども、それが現実世界、戦争が今もあり、人が殺し合っている現実世界に対してどういう役割があるんですか、何の役に立つんですか、という疑問が私たちの心の中にも湧いてきます。教皇レオ14世の今年の「世界平和の日メッセージ」には、それに対する1つの挑戦が込められています。「あなた方に平和があるように」「心と思いと生活から武器を取り除く」。これが平和のメッセージのテーマになっています。
そして、こういうようなこともおっしゃっています。「残念ながら現代では、信仰の言葉を政治闘争に持ち込み、ナショナリズムを賛美し、暴力と武力闘争を宗教的に正当化することがますます普通に見られるようになっている…信仰者は、神の聖なる名を覆い隠すこのような冒涜に、何よりも生活の証しによって積極的に反駁しなければなりません」「平和を広めるための第一歩は、平和は可能であり、すべての人が平和を願っていることを信じることから始まる…平和というのは遠い理想(いつか実現する、自分たちとは遠いものだ)というふうに考える時、平和が否定され、平和を実現するために戦争を行うということがつまずきだと考えないようになってしまう」。だからこそ、心と思いと生活から武器を取り除く平和を祈り求め、証ししようというふうに語りかけています。
イエス様がもたらされる平和は私たちのミサの中でも祈ります。1番目につくのはご聖体拝領の前、「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。『わたしは平和を残し、わたしの平和をあなた方に与える』」。これを受けて私たちは主の平和の挨拶を交わし、主イエスが与える平和を祈り合います。ですから今日、今この時間、この平和のために祈りましょう。そして共同祈願で祈り合い、聖体拝領の前にも心を込めて祈り合いましょう。その平和の実現のためにこそ、主イエスはご自分を捧げられました。ご自分を捧げられたその記念がミサであり、私たちはその記念をミサで行っています。
この後、心を込めて信仰宣言を唱え、感謝の祈りをご一緒に捧げながら、世界の平和のため、私たちがその平和のために働くことができる、そういう恵みもご一緒にお祈りしたいと思います。