2026年1月 ミサ説教
1/1(木)0:00- 神の母聖マリアの祭日(深夜ミサ) 髙祖 敏明 神父
1/1(木)10:00- 神の母聖マリアの祭日 髙祖 敏明 神父
1/4(日)10:00- 主の公現の祭日 サトルニノ・オチョア 神父
1/11(日)10:00- 主の洗礼の祝日 ボニー・ジェームス 神父
1/18(日)10:00- 年間第2主日 バレンタイン・デ・スーザ 神父
1/25(日)10:00- 年間第3主日 グエン・タン・アン 神父
年間第3主日
グエン・タン・アン 神父
1/18(日)10:00- 年間第3主日
兄弟の皆さん、今日の「神のことばの主日」にあたり、私たちの心の深いところに聖パウロがコロサイの信徒たちに語ったこの言葉が響いてきます。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3・16)。この言葉は、神の言葉そのものである御子を私たちの内に迎え入れることの大切さを思い起こさせます。御子は受肉され、私たちの間に住まわれました。主は世の光であり、主に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つのです。
今日の「ことばの典礼」では、「光」というテーマが繰り返し語られています。第一朗読で預言者イザヤは、罪と悪の闇の中に生きる人々に向かってこう告げます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。この預言は、どのような人であっても神が決して忘れることはないということを力強く語っています。神は常に人を愛し、その光を注がれます。そして、その光の中を歩むとき、人は神のいのちに与ることができるのです。
実はこの第一朗読は、主の降誕の夜半のミサでも読まれた箇所です。今生まれた幼子イエスこそ、人類が待ち望んできた世の光である。その教会の確信がここに表されています。私たちは今日この箇所を改めて読み、先ほど聞いたマタイ福音と結びつけて味わっています。今日の福音は、イザヤの預言がイエスにおいて実現し、真実となったことを示しています。イエスこそ世の光です。さらにマタイはここで3つのイメージを私たちのために描き、この3つのイメージを通して私たちがイエスと出会い、その光を味わい、そして他の人々のために光となる使命を見出すよう導いています。
第1のイメージは、イエスが旅を始められる姿です。時が満ちるとイエスはナザレを離れ、カファルナウムへ向かわれました。主は1箇所に留まる方ではなく、常に出かけて行き、人々一人ひとりと出会い、その人生に耳を傾けられます。この姿は、神が遠くに留まる方ではなく、自ら進んで人間の歴史の中に入り、私たちと共に歩まれる方であることを示しています。光であるイエスは、私たちの人生のあらゆる出来事の中におられ、照らし、導いてくださいます。忙しい日々のただ中にあっても、神は私たちと共におられます。私たちが必ずしも神を探し出せるほど強くないことを知っておられるからこそ、主ご自身が近づき、共に歩んでくださるのです。だから、私たちは主が共にいてくださるという確信のうちに、人生の旅を続けることができます。
第2のイメージは、イエスが異邦人のガリラヤの地を自らの光で照らされる姿です。 当時、ガリラヤは異邦人の土地として軽んじられた土地でした。しかし、イエスはあえてそこへ赴き、救いの光をもたらされました。それは神の光が誰一人排除することなく、すべての人に注がれることを示しています。神はすべての人を救いたいと望んでおられ、決して誰一人忘れることはありません。私たち一人ひとりの名前は神の愛の内に刻まれています。この恵みに感謝し、日々の生活の中でそれを生きていきましょう。
第3のイメージは、イエスが最初の弟子たちに呼びかけ、ご自身と共に福音を宣べ伝えるよう招かれた場面です。主は、彼らが日々の仕事に励んでいるそのただ中で呼ばれました。そして、兄弟である者同士を2人ずつ招かれました。そこから私たちは大切なことを学びます。それは、私たちは一人きりでキリスト者として生きることはできないということです。信仰に生きるとは孤立して生きることではなく、共同体の中で、共同体と共に生きることです。私たちは主にあって兄弟姉妹とされ、互いに光となるよう招かれています。この使命は家庭から始まり、共同体、教会、そして日々出会う人々へと広がっていきます。
この点に関連してちょっと話したいと思います。第2朗読では、コリントの共同体が分裂し、心を1つにできていなかったことが語られます。共同体の中で、ある人は「私はパウロに」つき、ある人は「私はケファに、私はアポロに」と分裂を招きました。それに対して聖パウロは彼らに、あなたがたは本来パウロとかアポロ、ケファに属する者ではなく、世の光であるキリスト自身に属する者です。だからあなた方がキリストに倣い、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を1つにし、思いを1つにし、固く結び合いなさいと勧めました。そうすることで共同体はキリストの光のしるしとなることができます。
マタイ福音書に戻りましょう。マタイ福音書が示す3つのイメージを通して、私たちは光である主イエスが常に私たちと共に歩んでくださっていることを知ります。そして今、私たちは互いに愛し、仕え合う生き方を通して、その光をこの世界に証しするよう招かれています。特に今日の「神のことばの主日」にあたり、互いのために祈りましょう。神の言葉を私たちの人生の中心にある光と希望の源として生きることができますように。また神の言葉を学び、深め、それを生きたいという渇きを新たにされ、日々の生活の中で御言葉の証人となることができますように共に祈りましょう。アーメン。
年間第2主日
バレンタイン・デ・スーザ 神父
今日の第一朗読の中で、3節、5節を見ると「あなたはわたしの僕、イスラエル。あなたによってわたしの輝きは現れる。主の御目にわたしは重んじられている」とあります。この「重んじられている」ことが私たち一人ひとりに、信者としてこの恵みが自分の中に溶けることができたらと思います。すごく大切なものです。神様の作品である自分。コピーじゃないです。作品です。今、コピーの機械が増えすぎていて、携帯でもできる。でも、コピーじゃない。オリジナル、本物ですね。この御ミサから、皆さんは作品であるという意識を高めて、広げて、大事にして、この1年間一人ひとりにこれが実現したら、12月31日はすごく素晴らしい1年だったと言えると思うんです。英語で言えばcalled by God、一人ひとりを神様が呼んでいるんです。この意識を高めてこの1年を出発した方がいいかなと思います。
神様に呼ばれた人間であることの自己確認ができて、努力しながらこれを生かすことができたら幸せです。第二朗読の1節「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」ですね。ここに座っている私たちみんな、神様から呼ばれて召されている人。この意識を、このお御堂から自分の家に持って行った方がいいんじゃないかと思います。意識を高めて、深めて、大事にしていくことができたら、この1年、この1日、全部変わっていくと思います。神様の祝福を願う、祝福を与える人間になったら、この教会も変わっていく。私たちの生活も新たになっていくことができます。「新たにする人」は人じゃないです。自分です。自分がこの神様の美しい人間として生活できたら幸せ、ありがたいです。
福音朗読を見ると、「そのとき、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊』」。「わたしの後から一人の人が来られる」。だからイエス様が私たちのところに毎日、いつも来ているんです。けれども、その意識がない。認めていない。自分の価値を落としてしまって、人々のコピーになりたい、あの人のようになりたい、この人のようになりたいと言う。なる必要ないです。この方に従って、自分が植えられたところに美しい人間として咲いた方がいいと思います。だからイエス様は私たちのところに毎日来ている。この気づきを高めて、深めて、この内容を大事にしていくことができたら、ヨハネと同じように、私たちは植えられたところで誰であるか分かると思います。人のコピーじゃないです。オリジナル、本物です。だからこの気づきがある。私たちはこの内容を大切にして、個人個人を育てること。個人個人が、人々の中に美しい人間として生活できたら幸せ、ありがたいです。
髙祖神父様が私を紹介しましたけれども、1990年は古い教会から新しい教会を作ることを決めました。91年から99年まで、カンガス神父様、私と池尻神父様もこの建設会議、募金会議に入って、ずっと99年まで運んでいったんです。1つだけ皆さんが知らないことがあります。この教会が完成するのに6ヶ月延びた。大きな理由は、屋根です。この屋根は清水(建設)が持ってきて入れることにした時は小さかったんです。これは誰も知らないと思います。だから6ヶ月延びた。12月に完成する予定が6月になりました。(屋根は)しっかりしていて落ちてこないので、びっくりしないでください。これがあったんです。今、髙祖神父様のもとでいろいろなイエズス会の神父様が働いていることに感謝して、皆さんも自分の司祭を育てる責任があります。信者としてどうぞこの役割を果たしてください。
私も今、神父様が言った通り、82年から2004年までこの教会だったんですが、ピタウ神父様が私に、教会に来て英語グループのコミュニティを作ってくださいと言ったんです。私が教会に来る前は上智から誰か来て御ミサを立てて帰って、英語の御ミサはあったんですけれども、コミュニティがなかったんですね。だから培うために2年間かかりました。今、英語の御ミサの人、見たら分かりますね。これが日本、これがアジアです。時間がかかる。培っていかなければならないです。だから慌てないで生活して、この教会が皆さんの教会、髙祖神父様のもとでやっている。支えてお互いに進んでください。
82年から2004年ですが、この中で私はサバティカルに2回行っているし、地球を3回まわりました。オーストラリアとニュージーランドだけ行ったことがないです。EUの仕事がルクセンブルグであったし、国連の仕事がアフリカにあった。この教会で1000人くらいに洗礼を授けているんです。700人は赤ちゃん。82年から、ヨーロッパ各国から若い夫婦が来て、子どもたちにほとんど洗礼を授けているんです。お葬式も200人以上、25回結婚講座やっているので、結婚式も300人以上です。1つ皆さん知らないと思いますが、平日の12時の御ミサのことです。私は世界中回っているので、ロンドン、ニューヨーク、トロント、サンパウロ、インドでも、どの国に行っても12時に英語の御ミサがありました。このことについて私が意見を出した時、反発が猛烈でした。2年間戦って、じゃあ、あなたから始めてくださいと言われて、今、12時の御ミサが毎日あるんですね。これを作るまで2年間かかったんです。すごく反発がありました。今、毎日200人いらしてるんですね。だからどうぞ皆さん、この教会を世話している神父様たちのために祈ってください。私たちはいつも柔軟性、スピリチュアルフレキシビリティですね。霊的な柔軟性を持って、信者の立場に立って物事を見て生活することができたらありがたいです。
12時の平日の御ミサと、聖体奉仕者も私が始めました。皆さんは必要なものを神父様たちに話して、一緒に動くことが一番大事です。英語グループのコミュニティもピタウ神父様が私に頼みました。英語の御ミサの後、スペイン語の御ミサを作ったし、ポーランド語の御ミサも作った。インドネシアの御ミサがあったし、今ベトナムの御ミサですね。すごく一生懸命やっているところです。私たちはカトリック信者ですね。カトリックと言ったら同じ精神を持っている人です。だから人々が差別しないで、私たちはお互いに支えて、お互いに受け入れて生活できることになったら幸せです。私たちはみんなに対して、親切な心、穏やかな心、尊敬する心で生活できたらすごく良いです。謙遜は力です。祈りが支えます。この教会に入った皆さんの力に責任がある。このように私たちが生活できたら幸せです。
最後に、神様が上からあなたを祝福するように。あなたの足元からあなたを支えるように。あなたの前に導くように。あなたの後ろを守るように。あなたの側で慰められるように。このいただく恵みを大切にできたら、私たちは幸せです。Life is a gift. Time is a gift.
主の洗礼の祝日
ボニー・ジェームス 神父
1/11(日)10:00- 主の洗礼の祝日(子どもとともにささげるミサ)
今日は、聖書の中で私たちが耳にしましたイエス様の洗礼なんですね。少し今日は「洗礼」という言葉について見ていこうと思います。皆様が見ている通り、洗礼というのは文字通りに「洗う」儀式。そのような言葉から来ているんですね。洗うというのは、水で洗う、清い水で洗うとか、そういう儀式ということですね。
皆さん、洗礼を受けたことを覚えている人はいますか。洗礼を受けたことを覚えている人、いないですよね。ほとんどの人がとても小さい時に洗礼を受けたと思いますので、覚えていないと思います。私も覚えていないです。私も赤ちゃんの時に洗礼を受けたので、覚えていないです。写真が残っているんですけれども、思い出はそれだけですね。なので、洗礼の時、何が起こっただろうと考えたことがありますかね。そこまで考える必要はないと思いますけれども、今日は洗礼について話していく中で、洗礼の3つの恵みについて話したいと思います。洗礼で私たちがいただく3つの恵みですね。たくさんのお恵みがありますけれども、その中の主に3つの恵みについて話したいと思います。
そのうち1番目は、洗礼によって心が清められるということです。皆さん、毎日お風呂に入ったりしますね。それは体を清めるためなんですね。それと同じく、私たちの心を清める必要がある。いろんないらないところとか、いらないものとか、罪とか、そういったことを清めるためなんですね。それでも私たちがそういう清めを意識をして新しい人になる。それが1番目の恵みですね。清められるということです。
そして、2番目は何でしょう。洗礼によって心の糧が与えられる。糧というのは難しい言葉かもしれませんが、本当に簡単に言うと、心の食べ物。心の食べ物と言っても不思議かもしれませんが、心の栄養、そういうふうに説明できると思います。私たちは体に栄養が必要なんですね。同じように私たちの霊的な生活の中にも、支え、神様の恵みが必要なんですね。それこそ今日のミサのテーマなんですけれども、神様の望む私になる。神様の望みを私たちは知るようになる。それが私たちの心の生きがい、私たちを生かせるものになる。その恵みをいただく。それが心の糧というものなんですね。それが2番目のことでした。心の糧が与えられる。
そして、3番目は何でしょう。3番目は教会のメンバーになる。教会の一員になる。私たちはみんな今日ここに来て座って、この御ミサに参加しています。それは私たちがみんな教会のメンバーになるという恵みをいただいているからなんですね。それが教会の一員になる、そして教会から私たちがさまざまな活動に参加できるようになったりする、そういうことですね。それが教会のメンバーになるということです。その他にもいろんな恵みがありますけれども、主にこの3つの恵みですね。心が清められる。心の糧が与えられる。そして教会のメンバーになる。この3つの恵みなんですね。
神父様、なぜ子どもがとても小さい頃に洗礼を受けなければならないんですか。赤ちゃんとしての洗礼はどうしてあるのか。みんな大人になって、神様のことをもう少し分かるようになってからでいいのではないか、と時々聞かれますね。どういうふうに答えられるか、皆さんも考えてください。私としてはですね、この3つのポイントをもって答える時があります。例えば皆さん、この1番目のポイントなんですけれども、心が清められる。赤ちゃんが生まれた時、最初は何をしますかね。赤ちゃんを清めるというか、シャワーを浴びせる。生まれた病院とかできれいにしますね。そのまましておくわけではないです。私たちも神様の恵みをいただくこの洗礼ということが、小さい赤ちゃんである時から清める、その必要性があるということが1つですね。
それから2番目のポイントですね。心の糧が与えられる。赤ちゃんが生まれたら、赤ちゃんに最初に固い食べ物とかを与えることはできないんですけれども、でも必要な食べ物を与えるわけです。私たちも、霊的な賜物も同じことなんですね。できるだけ早く、みんなにその霊的な賜物を人々に与えようと教会が望んでいるわけです。なぜなら、私たちは子どもの頃から神様の望みを分かる、そして神様につながって生きる、神様の望む私になって生きるためなんですね。それが子どもの時から必要です。
それから3番目。教会のメンバーになる。私たちも、例えば赤ちゃんが生まれたとしたら、すぐ家族の一員なんです。家族の一員になるわけですね。20歳になって成人式が終わってから家族にしようと思うことはないですね。神様の家族になる。本当に赤ちゃんである時からこそ神様の家族になってほしいというふうに私たちは思うわけです。それによって神様とつながっている教会という大きな組織につながっていく。最終的にイエス様につながっていくことになるわけですね。イエスの体につながっていく。少し深い言葉を使うと、私たちはみんなイエスの体の一部になっていく。教会というのはキリストの体であると私たちが言うのは、それがあるからですね。キリストの体であるその教会の一部になっていく。それが赤ちゃんである時からそういうふうにつながっていく、つながりを持っていく。そのためなんですね。
そのようにして、様々な意味で私たちは小さい頃から洗礼の恵みをいただいていることに意味があると思います。なので、今日は一人ひとりがいただいた洗礼の恵みを少し思い出しましょう。そして、洗礼を受けていらっしゃらない方もこの中にいると思いますね。これから洗礼を考えている人たちもいると思います。その人たちも神様のこの恵みに与って生きる。その中で洗礼の恵みをいただいて、神様の望む私になっていくように祈りたいと思います。
今日は主の洗礼、イエス様の洗礼の祭日です。この日こそ私たちの洗礼を思い出して、そしてその恵みに感謝できる日ではないかというふうに思います。
主の公現の祭日
サトルニノ・オチョア 神父
今日の祝日は「主の公現」と言われているんですね。お手元のプリントには主の公現とともに、素晴らしい昔の絵もあります。そこでは博士たちのことも出てきますけれども、こちらには福音に入っていないこともいろいろあります。それを少し説明したいんですけれども、初めてこのマタイの福音のことを聞くと、特に大人の人たちは、なんと童話みたいなこと、これは本当にそうだったんですか?本当に東方から博士たちが来たと、どういうふうな記録が残っていますか?と言います。何も残っていないんです。これは童話というか、ある意味でたとえ話みたいなことです。このたとえ話をもって具体的に出てくることは、非常に深い意味があります。ある意味で皮肉のこともあります。それでこれを見て、大人の目で読んでそれを受け入れると、非常にいろいろなことを学ぶことができると私は思います。
まず第1に、東方から来る。これはイスラエルの人たちではない。聖書の人たちではない。 いわば異邦人。東方といってですね、ローマからじゃない。ギリシャからじゃないんです。それは知られていない世界です。これは東方。具体的に言えないけれども、遠いところから来た。この人たちのためにもイエス・キリストは生まれたんです。ただその言葉だけで、初めからイエス・キリストは本当にカトリック、普遍、みんなのために生まれた。その人たちはエルサレムに来て「生まれた王様はどこにおられますか」と言っているんです。これはやはり、たとえ話でなければ考えられないんですね。エルサレムの王様のところへ行って「生まれた王様はどこにいるんですか」と。本当に考えられないんですけれども、それは皮肉でもあります。
ベツレヘムはエルサレムから5kmだけ離れているんです。東方から、知られていない国から来る人たちはすぐイエス・キリストを探しているのに、そのすぐそばにいる人たちはイエス・キリストを探していない。「自分の民に来て、受け入れられなかった」という言葉は、この今日の福音によって具体的に出てくるわけです。うちの人たちは知らない。よその人たちは分かる。なお、ヘロデに「ベツレヘムで生まれるはずです」と、祭司たちはそう言うんです。偉い人たち、律法学者たちはみんな「ベツレヘムです」と言うんです。どうして行かないんですか。5kmしか離れていないんです。それなのに行かない。「あなた方は調べて、見つかったら知らせてください」と言うんです。本当にこれはすごく皮肉ですね。うちの人たちにはわからない。
それから彼らは星に導かれるんです。これは天文学と関係が1つもない。その星はダビデの星です。今でもその星は、イスラエルの旗を見るとそこにあります。それでこの星、ダビデの星、「ダビデの子イエス」と言われるんです。ダビデの受けた預言はですね、この子によって満たされるわけです。それから博士たちはマリアとイエスを見つける。私たちも、特にイグナチオ教会ですから、イグナチオの祈りはこうだった。「マリア様、あなたの子に会わせてください」。3人の博士は、3人と言ったんですけれども、3人であるということはどこにも入っていないんです。贈り物は3つの贈り物であるということは入っていますけれども、3人の博士は私たちの作った話です。ちょうど教会を出ると、まだ馬小屋があります。その馬小屋では3人の博士もいます。先ほど申し上げたように、カトリックのようなことですね。普遍的なことである。3人の博士の年は違います。若い人もいる。中年の人もいて、おじいちゃんみたいな人もいます。民族も違う。金髪みたいな人がいれば、黒い人もいます。アフリカ、アジア、すべての土地からこちらに来るわけです。それは教会の作ったものですね。福音には入っていない。
けれども、入っているのはあの3つの宝物。黄金。言うまでもなく、今でもよくわかります。黄金だったら王様であるということです。王様の冠は黄金でなければ、ですね。黄金とともに、他の贈り物としては、乳香。乳香は、この子は王様だけじゃなくて、神です。私たちも今でも、特に日本ではいろんなお寺行くと香を立てる。どうしてですか。その煙が上がる。香を立てる時には、私たちは何か祈っている。求めている。祈っている。だから香を立てると、この子は神であるということを知らせています。難しいのは没薬。没薬は昔、苦しみと縁があると言われたんです。没薬は、昔の人たちにとっては痛み止めとして使われていたわけです。なんかしゃれたアスピリンのようなものです。これは福音に入っています。イエス・キリストが十字架につけられる前に誰かが来て、それからぶどう酒1杯、そこに没薬が入っていたわけです。それで没薬によって体は鈍くなって、苦しみに耐えられるようになります。
だから黄金、この子は王様です。乳香、この子は神様です。没薬、人です。苦しむ人です。痛みの経験がある人です。その意味で今日の博士たちが私たちに教えていることはこれですね。公現、この子を見てください。私たちの神、私たちの主、私たちのような、私たちの兄弟です。私たちの一人です。私たちは博士と一緒に、心の巡礼、生きている限りいつも歩み続けて、このイエス・キリスト、神であり、王であり、人間であるイエス・キリストを見つけましょう。
神の母聖マリアの祭日
髙祖 敏明 神父
皆様、改めて新年のお祝いを申し上げます。今日の第一朗読で先ほど読まれましたように、「イスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい」というこの言葉が、いつも新年のこの時に読まれます。私たちの祝福を願う祈りとして、私たち自身のために、家族のために、人類家族のために、また私たちが住んでいるこの地球のために、この祝福をご一緒に祈りたいと思います。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように」「主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」。私たちの祈りとしたいと思います。
では、そうしていただく神様からの祝福の恵みをどのように生きていったらいいのか、今日の福音をヒントにしながら思い巡らしてみたいと思います。
「羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。天使に告げられ、教えられたことを見に行く。現実がどのようであるかをしかと見る。自分の目で確認する。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。私たちの身の回りに起こっていること、人々が知らせてくれることの中に潜む神からの招き、メッセージ、御旨を探し、それを識別していく。神の母、聖マリアの生き方がそうでした。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」。天使を通して神からいただいたメッセージ、神の御旨を忠実に実行していくこと。
こうしてみますと、第1に周囲の人の言葉に耳を傾けながら現実をよく見ること、第2にそうした現実の中で伝えられている神からのメッセージ、御旨を識別すること、第3に識別した神からのメッセージ、御旨を忠実に実行するという3つの段階がここで教えられているように思います。
「1年の計は元旦にある」と言われます。皆さんも、それぞれこの1年に向けた新しい抱負、自分の願い、希望、期待を心の中に持っていらっしゃるでしょうし、多くの方が祈りのカードとして、今、祭壇に捧げておられるかと思います。その実現も、今申し上げた3つの段階を歩んで実現されていくようです。では私たちのこの聖イグナチオ教会の1年の計はいったい何でしょう。それは私たちの教会としてシノドス流の教会に育つことです。教皇フランシスコによって始められた「世界代表司教会議第16回通常総会」、シノドスというふうに言われていますけれども、その最終文書が「シノドス流の教会~交わり、参加、宣教~」というタイトルで、今年の6月の末に日本語訳が出されています。このシノドス流の教会が示す教会像に学びながら、私たちの小教区としての、ここ10年先を視野に入れたビジョン(デザイン)とパストラル・プラン(司牧計画)を作成していくという、この計画です。
何のためにそういうことをやるんですか。私たちの教会が今よりも参加型で宣教的となり、つまり、多くの方々が教会を一緒につくっていく担い手になっていく。一緒に宣教の担い手になっていくという教会のあり方に育てていき、神の恵みを証しする教会となるためです。この路を歩み、前進するためにシノダリティ、ともに歩むということをシノダリティと言っているそうですけども、ともに歩むということを具体的に推進しながら、まずはこの教会の置かれている現状、周囲の状況、社会の動向、日本の動き、世界の動き、そうした現状をよく見極める。次いで回心を伴う霊的会話を重ねて、神の御旨の識別を進める。そして識別が示す必要な霊的刷新と構造改革を進めていく。この3段階を経て、この教会も計画を進めていこうとしています。その際の理念は、皆様のいろんな考えをいただいてまとめた言葉ですけれども、「キリストを頭に1つになろう」という理念です。
先ほど、回心を伴う霊的会話と申し上げましたけれども、最終文書「シノドス流の教会」は、ともに歩むシノダリティの神髄は「聖霊によって回心に呼ばれた者たち」、これがともに歩むということの中核にあるものだというふうに教えています。皆さんもクリスマスの時に、教会の作りましたこのメッセージカードを手にされたでしょうか。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを伝える。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という、ルカ福音書を掲げています。ダビデの町とはベツレヘムのことです。では、私にとってのダビデの町、あなたにとってのダビデの町とは一体どこでしょうという疑問を投げかけて聖書の言葉を引用しました。「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。もし、誰かが私の声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って食事を共にし、その人もまた、私と共に食事をする」。「共に食事をする」というのは、私たちが祝っていますミサが、すでにその前触れとして実現しています。
「シノドス流の教会」になるためには、この最終文書が何を言っているかということをよく理解することが必要です。ですから、それを読み解くということを呼びかけていますし、いろんな場でそれを実行しようとしています。例えば主日の説教の中で、信徒の様々な集まりの中での講話とか研修の場で、様々な活動団体の活動連絡会の話題提供の中で、そして黙想会などを通して、私たちの教会の現状をよく見る、知る。
1つの例を申し上げますと、今年10月の初めに教勢調査、つまり何人ぐらいの方がミサに与っていらっしゃるかということを各ミサごとに集計し、合計しています。教会誌のマジス11月号で具体的な数字もすべて報告されていますけれども、土曜の夜から日曜日のミサ、そして外国語のミサがふた月に1度とかひと月に1度とかありますので、これらも全部カウントして、主日のミサに与っていらっしゃる信者さんがおよそ4200人。日本語のミサの出席者はそのうち1320人ほど。外国語ミサの出席者は2855人。コロナ前は日本人の参加者の方が多かったんですけれども、今、この状況は逆転しています。それが私たちの教会の今置かれている現状です。
言葉別のミサが現在では並立していますけれども、外国語信徒、外国籍信徒との「共存」から、国籍、言語、文化を超えてつながる「共生」への転換が、私たちの教会の課題として大きく浮かび上がってきています。それに対する試みとしては、多言語による国際ミサがすでに行われていますし、いろんな言葉を持ち寄ってのリビング・ロザリーが唱えられていますし、将来を担う若者たちをカトリックの国際大会に派遣したりしています。「共存」から「共生」へ、その理念が先ほど申し上げた「キリストを頭に1つになろう」です。そういう私たちの計画を具体的に進めるためにもう動き始めています。
2025年3月、去年の3月に中長期計画策定準備委員会を設置いたしました。そしてその準備委員会の動きと合わせて、皆様のお手元にも「ともに歩む教会の祈り」というものをお渡しして、そして折に触れてこの祈りを私たちの教会の祈りとして唱えようということを実際に実践してきています。また11月から12月にかけましては、「信仰のしおり」という小冊子についてのアンケートを実施しました。日本語共同体に呼びかけて実施したわけですけれども、シールでの回答、紙での回答、WEBでの回答がありました。12月初旬の集計で約330人ですから、約25%の人からの回答を得ていますが、参加型の教会にするという狙いでいきますと、このアンケートの回答率ももっと高めたいところです。
そして何より「麹町教会100周年プラン策定委員会」を今年4月の御復活の祝日後に設置しようということで、今その準備を進めています。2036年、これから10年先ですが、私たちの教会は小教区教会として誕生100周年を迎えます。イグナチオ教会の前身の聖テレジア教会が献堂式を祝ったのが1936年3月22日。それからちょうど100周年を迎えるあたりを1つのターゲットにしながら、100周年プランを作ろうという、そういう狙いです。
聖霊の導きのもと、豊かで生き生きとした持続的発展を遂げることができるように、2030年までの中期計画、2036年までの長期計画を立案すること。その際、聖イグナチオ教会自身の特性、都心にあること、様々な外国人たちがたくさんいること、イエズス会という修道会が運営の母体にあること、そのような特性を生かす。時代や地域の環境変化を考慮しながら、教会全般に向けた計画を策定する。信仰と霊性を軸にしながら、教会の組織、その運営、活動及び施設設備、財政等、教会全体に関わることについてのビジョン(デザイン)を作り、その司牧計画パストラル・プランを策定しようという計画です。
そのための重要課題の選定、そうした課題への対応策を具体的に立案し選択していく。全共同体とともに具体的に実行できる計画を策定する。そしてその実行に努める。その際、必要な専門部会も開いて、なるべく多くの方が参加してこの教会の未来を一緒に担っていけるようにという、そういうふうな計画が進められています。その委員会を担う委員の自薦他薦を皆さんに現在お願いしている最中です。来週の日曜日が締め切り日です。どうぞ、これと思う方がいらっしゃいましたら、ご推薦をぜひお願いしたいと思います。
「1年の計は元旦にあり」、その具体的実現は福音が教える通り、第1に周囲の人の様々な語りに耳を傾けながら現実をしっかりと見る。第2に現実の中で伝えられている神からのメッセージ、御旨を識別する。第3に識別した神からのメッセージ、御旨を忠実に実行するというこの3段階を、もちろん時間的に順番が大きくいきますけれども、しかし同時並行的に進むものもあるかと思います。
私たちが神の祝福の恵みに生かされ、聖霊に導かれ、神の母聖マリアの取り次ぎを得て、後に共同祈願で唱えますように、生活の中で福音の喜びと平和、信仰の喜びと平和を証しできますように祈り合いたいと思います。それを通して私たちの聖イグナチオ教会がシノドス流の教会に成長できますようにと、ご一緒に祈り合いたいと思います。私たちの新年に向けての様々な願い、抱負が実現するということも願いつつ、私たちの教会全体のためにもお祈りをし、そして教皇レオ14世が私たちに掲げているメッセージも心に留めながら、教会全体を聖霊が導いてくださいますように、マリア様のとりなしをお願いながらご一緒に祈りを捧げたいと思います。
神の母聖マリアの祭日(深夜ミサ)
髙祖 敏明 神父
今日は新年最初のミサでもありますけれども、教会は「神の母聖マリア」の祝日として今日のミサを捧げるように私たちを招いています。そして同時に「世界平和の日」。いつも教皇がこの日に向けて「世界平和の日メッセージ」 をお出しになっています。
私たち日本人は新年というと、なんとなく初日の出、今真夜中なんですけれども、初日を見るということに何か特別な、心がウキウキするような、そういうふうな気持ちとか感情を持っています。その思いに重なるかのように、主イエス・キリストの到来を太陽の光になぞらえているので、皆さんもご存知だと思います。例えば、洗礼者ヨハネのお父さんザカリアが預言したその中に「神の憐れみによって、高いところからあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和に導く」と歌っています。今日はその初日の出、そしてイエス様がこの太陽の光である、そして平和の道に導くということですので、私のこの説教では少し平和ということについて焦点を合わせてお話してみたいと思います。
今日は世界平和の日として、教会が特に平和のために祈るように私たちを招いていますけれども、教皇レオ14世が5月8日に教皇に選ばれて、バチカンのバルコニーからその前にいる人々、世界にいる人々に向けて最初の挨拶をされた。その最初の言葉が「あなた方に平和があるように」でした。ご存知の通り、これは復活されたイエス様が、ユダヤ人を恐れてドアに鍵をかけ、家に閉じこもっていた弟子たちに語りかけた最初の言葉です。今日は主の御降誕から8日目。その主の御降誕の時に天使たちが 「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」というふうに歌ったと書かれていますけれども、この願い、「地には平和、御心にかなう人にあれ」というのが、主イエスにより弟子たちにおいて実現しているというふうにも言うことができるかと思います。
主イエスが復活された時に「あなた方に平和があるように」とおっしゃったわけですけれども、そこにはどういう仕掛けというか、仕組みがあるのでしょうか。世界平和の日にあやかって、復活したイエスが弟子に現れた場面を読み直して確認してみたいと思います。先ほど言いましたように、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちの家の戸に鍵をかけている。鍵をかけているということは、心も閉じているということの1つの比喩でもあるでしょう。そこへイエスが来て真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」とおっしゃって、手と脇腹をお見せになった。弟子たちの目の前、その真ん中に姿を表す。正面から対面して、自分が幽霊ではなくて、十字架にかかって命を捧げたその本人であることを示して弟子たちを安心させる。聖書には「弟子たちは、主を見て喜んだ」というふうに書いてあります。
次いで主は重ねて言われる。「あなた方に平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」。つまり、父なる神と御子イエスの交わりに弟子たちが加えられることを知らせる。そしてその交わりの中から派遣するという使命を与える。使命を与えるということは、あなた方を信頼しているということを言っているとも読み取ることができます。信頼しているからこそ、使命を与える。
さらにイエスは「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。この言葉も、非常に深い意味があると思います。弟子たちは十字架にかけられる、捕らえられる主を見捨てて逃げました。信頼を裏切りました。そのことに強い罪悪感、そしてユダヤ人への恐れを強く感じている。その罪悪感と恐れに対して、罪の赦しといやしを聖霊によってイエス様はお与えになる。そして強められる。自分が犯した罪、過去のことに目を向けているだけではなくて、もっと前を見るように。
「あなた方に平和があるように」というのは、前に向かって進みましょうという、そういうメッセージになっていると思います。さらに、お互いに赦し合うこと、「私が愛したようにお互いが愛し合うように」というのがイエス様の新しい掟でした。この新しい掟を実行するように。赦し合うというのは、過去を見てどうだこうだということから、もっと前を見て、これから先の世界に歩んでいこうという、そういう招きになっています。
しかし、少し冷めた目で考えますと、このような考察は確かに美しい。確かに聖書のエピソードは私たちの心を引き付けるんですけども、それが現実世界、戦争が今もあり、人が殺し合っている現実世界に対してどういう役割があるんですか、何の役に立つんですか、という疑問が私たちの心の中にも湧いてきます。教皇レオ14世の今年の「世界平和の日メッセージ」には、それに対する1つの挑戦が込められています。「あなた方に平和があるように」「心と思いと生活から武器を取り除く」。これが平和のメッセージのテーマになっています。
そして、こういうようなこともおっしゃっています。「残念ながら現代では、信仰の言葉を政治闘争に持ち込み、ナショナリズムを賛美し、暴力と武力闘争を宗教的に正当化することがますます普通に見られるようになっている…信仰者は、神の聖なる名を覆い隠すこのような冒涜に、何よりも生活の証しによって積極的に反駁しなければなりません」「平和を広めるための第一歩は、平和は可能であり、すべての人が平和を願っていることを信じることから始まる…平和というのは遠い理想(いつか実現する、自分たちとは遠いものだ)というふうに考える時、平和が否定され、平和を実現するために戦争を行うということがつまずきだと考えないようになってしまう」。だからこそ、心と思いと生活から武器を取り除く平和を祈り求め、証ししようというふうに語りかけています。
イエス様がもたらされる平和は私たちのミサの中でも祈ります。1番目につくのはご聖体拝領の前、「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。『わたしは平和を残し、わたしの平和をあなた方に与える』」。これを受けて私たちは主の平和の挨拶を交わし、主イエスが与える平和を祈り合います。ですから今日、今この時間、この平和のために祈りましょう。そして共同祈願で祈り合い、聖体拝領の前にも心を込めて祈り合いましょう。その平和の実現のためにこそ、主イエスはご自分を捧げられました。ご自分を捧げられたその記念がミサであり、私たちはその記念をミサで行っています。
この後、心を込めて信仰宣言を唱え、感謝の祈りをご一緒に捧げながら、世界の平和のため、私たちがその平和のために働くことができる、そういう恵みもご一緒にお祈りしたいと思います。