2026年2月 ミサ説教
年間第5主日
関根 悦雄 神父
2/8(日)10:00- 年間第5主日
今日の福音で「あなたがた」と呼びかけられている人たちは、山上の説教で最後に「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」、この「あなたがた」です。山上の説教を聞いている弟子たち、それと多くの貧しい人たち、その人たちに向かって今日の言葉が発せられます。
イエスは何を言うんですか。「あなたがたは地の塩である」と言います。塩というのは何ですか。塩は世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保ちます。「あなたがた」は地上でこのような役割を自然に担っているのです。この塩味は自分からのものではなく、イエスに従うことによって与えられていることを意識し、イエスに従う道を歩み続けることが大事なのです。塩というのは他に取って代わるものがないでしょう。塩味、他のものでつけられますか。ないと思います。ですからこの塩、人に味をつける。これは人々を大切にする、人に尊厳を与える、そういうものじゃないかなと思います。
それから「あなたがたは世の光である」というふうに言います。そして今日の福音の最後の方では、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言います。それは何のためですか。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためです」。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」、これは自分自身をひけらかすことではありません。「あなたがたの光」とは、神から託された光、キリストです。この光を人々の前に明らかにするかしないかの責任も、ひとえにイエスの弟子にかかっています。つまり私たちがイエスの弟子として、キリストに従う者としてその光を輝かすかどうか、一人ひとりにかかっているということです。
今の世の中、暗いでしょう。自分一人ひとりが、なんかわけのわからないものに取りつかれてしまって、何をしたらいいかわからない。そういう状況もあるんじゃないでしょうか。そういうところに光を当てて、真実が何であるか、私たちにとって最も大切なことは何なのか、これをしっかりと明らかにしていく。これが私たちに求められていると思うんです。「あなたがたの天の父をあがめるようになるためだ」とありますが、立派な行いとは、人を救う神の誠実な慈しみに照らして他の人を愛し抜くことを意味します。他者を愛すること、これに尽きます。具体的には、孤児や寡婦をいたわり、寄留の外国人の面倒を見たり、貧しい人々に衣食を提供したり、病人を介抱することです。
今日の第一朗読のイザヤの預言にも「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」、このようにあります。またその預言の後ろの方にも「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」とあります。その光を私たちは輝かす使命を受けています。それは自分が自分を誇ることではありません。私たち自身がキリストからの知恵を受けてそれを人々に伝えること。それはただ言葉ではなくて、さっき述べたような具体的な行為によってそれを示していくこと。それによってキリストの光が私たちの周りにも伝わっていくのではないかと思います。
もう1つ、この「地の塩、世の光」と言う時に、イエスは私たち一人ひとり、あなたがた一人ひとりはそういう者であるから、自信を持って生きなさいと。人々にそういう力を与えるものでもあると思うんです。でも私たち、まず自分自身に自信を持っていますか。自分がどういうものであるか、自分が本当に存在意義のある、大きな存在意義のあるものだということを自覚できているでしょうか。これは私たちの場合には、このキリストに本当に従うことによってのみそれが得られるんじゃないかと思うんです。私たち自尊心というようなことを言いますが、自分が尊いのは神に愛されているからです。そのために私たちは、どんな困難があってもこの世に生き続けていけるわけです。
これはもちろん神と私たちの関係というのが中心的なものですけれども、私たちと周りの人たちとの関係も大事ではないか。つまり、私たちが一人ひとりの人間の尊厳を認め、あなたはかけがえのない人であるということ、それを認めて愛し合うこと。これによって本当にキリストの弟子になって、光を輝かすことができるのではないかと思います。これは家庭の中でも大事なことです。親は子どもたちにこれをしっかりと伝えなければならないと思います。子どもたち、あなたはかけがえのない存在なのだ、私たちにとって非常に大切な存在なのだ。甘やかすことではありません。しかし、それをしっかりと伝えること、これには大きな意味があると思います。
そして、ここに集う私たち一人ひとりも神の子です。神の子としての尊厳を重視している大事な人たちです。お互いにそれを認めながら、そして励まし合って、この地の塩となり、世の光となって働くことができるように、そういう恵みを今日ご一緒に願いたいと思います。
年間第4主日
髙祖 敏明 神父
今、一緒に聞きましたマタイの福音は、ご存じのように5章6章7章と山の上からイエス様が説教された、それがまとめられているその一番最初のところ、真福八端という言葉で言われている有名な箇所であります。
「イエスは群衆を見て、山に登られた」。この「山に登った」ということには、救いの歴史の大きな出来事が背景に置かれています。言うまでもなく、イスラエルの民がエジプトを脱出後、モーセがシナイ山に登って、主なる神から旧約聖書を貫く十戒、これを授けられた。そういうこの救いの歴史の大きな出来事を背景にして、イエス様が山に登っておられる。つまり、自分はモーセに代わるそういう人物、役割だということを私たちに教えている。そして「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」。この「近くに寄って来た」という言葉の中にも深い意味を込めてマタイは書いているそうで、イエスの近くに場所を占めてイエスの教えを深く学ぶ、それは福音に生かされ、福音を伝える者となるためでした。私たちもこの真福八端のことを少し心に留めながら、私たち自身も御言葉の近くに寄ってその秘密を学び、福音を生き、福音を伝える者となる。そういう恵みをいただきましょう。そのためにも、福音を3つの点から少し読み直してみたいと思います。
まず、「心の貧しい人は幸いである」という言葉で日本語の訳は始まっていますけれども、ギリシャ語の原文の冒頭に来るのは「幸いである。心の貧しい人々は」という語順だそうです。ですから、ギリシャ語の方は「幸いである」ということの方に強調点を置いてみんなの注意を引きつけるような、そういう文章で書かれていますが、日本語では「心の貧しい人は幸いである」と「幸い」が下に来るものですから、どちらかというと「心の貧しい人」の方に注目させるような、そのような日本語になってしまっています。けれども、この8つのものは全て「幸いである」ということが頭に来てできている文章です。
この「幸いである」というのは、「一般に言われる幸運」ではありません。例えば、何かおいしいものを食べて幸せだなと思うことがあるかもしれません。昨日ある新聞を読んでいましたら、書評のところに、日本とアメリカの文化の違いを説明するコンテキストでしたけれども、学校や職場であなた一人が褒められた時、こういう時と、一息ついてお風呂でくつろいだ時、どっちが幸せですかって聞いているそうです。そうすると、アメリカの多くの人は、学校や職場であなた一人が褒められた時の方に丸をつけるそうです。しかし、日本人の多くの人は、一息ついてお風呂でくつろぐ時、ああ、幸せだなと感じる。そういう文化の違いがあるそうです。そういう幸せを感じるというのは、これも神様の恵みですから大いに喜んだらいいと思います。
しかし、今日の福音の「幸いである」という場合のこの「幸い」は、そういう私たちの日常生活での幸いの意味をもう少し超えて、神様と自分とがどういう関係にあって幸せなのかっていうことを言おうとしている。それを告げようとしている。一言で言うと、神を恐れ尊び、この恐れっていうのは怖いものというよりも畏敬の念、そういうふうな意味の恐れ尊びですけれども、神に信頼する人は幸いという意味だと言われています。詩編の一番最初のところも同じ「幸いである」。これ、日本語では「いかに幸いなことか」と訳されていますし、今日の入祭の歌でもここを歌いましたね。「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず…傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。聖書の旧約聖書の中でこの「幸いである」ということは、いろんなところでこう言われています。それを今日のマタイの福音書の真福八端は受けて「幸いである。心の貧しい人々は」云々と続いています。
2つ目、十戒の第一戒と、真福八端の第一句をちょっと比較してみたいと思います。十戒の第一戒、ご存じのように「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という言葉です。真福八端の第一句は、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。第一戒の方は、まず神に目を向けさせるという、そういうふうな言葉になっていますし、神様と私たち人間との基本的な関係、「わたしをおいてほかに神があってはならない」という命令口調で言われている。それに対して真福八端の第一句、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」というこの言い方の中には、まずイエス様の念頭にあるのは、人々、人間、私の仲間。そこに向けて、その人々が神の国、天の国とどういう関係にあるのかということを言おうとしている。強調点の置き方が違う。そこに1つの大きな時代の転換があるということを私たちに教えようとしているようです。
3つ目、解釈の難しいこの「心の貧しい人」というこの言葉です。原文では「霊において貧しい人」というふうに書いてあるそうです。「霊において貧しい人」というのはなかなか日本語にならないものですから、日本語では「心の貧しい人」と訳されています。ところが皆様ご存じのように、私たちの日常生活の中で「心の貧しい人」と言ったら、がつがつとしていて思いやりのない人、さもしい人のこと。他人に寛容でない、そういう人のことを「心の貧しい人」って言う。だからこの訳は良い訳ではないと批判する方も少なくありません。聖書の注解書を見てみると、この「霊において貧しい」という「霊において」とか「心」と訳されているものは、マタイがこの福音書を書く時に付け加えた言葉だと言われています。旧約聖書の伝統から考えても、ここは「貧しい人」ということでいいはずだと。実際にルカはイエス様の教えとして、「貧しい人は幸いである」という言い方をしています。そうなると「貧しい人」というのは一体何を意味しているか、そこが今日の福音のポイントになるようです。
旧約聖書の伝統から言いますと、「不当に自分の所有物を奪われて貧困に陥っている者」、それを「貧しい人」という言葉で言っているし、多くの預言者たちは、神はしばしばこのような人々の保護者だと言っていまして、実際に旧約聖書のいろんなエピソードでは、そういう「貧しい人」が神によって救われるというエピソードがいろいろと書き込まれています。神に守られ、自分自身を頼まないで神に信頼を置く者、その意味で神の前にへりくだる者、敬虔な者、それが貧しい者だと。こういうふうに申し上げますと、皆さんも頭に浮かんでくることがあるかもしれません。ナザレのイエスがご自分の故郷ナザレに帰って、安息日に会堂で渡された聖書をパッと開くと、イザヤ書に目が留まった。これはマルコやルカが書いているところですけども、どういう箇所であったかというと、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。…捕らわれている人には解放を、圧迫されている人を自由にし…」という形で書いていく。「貧しい人」というのは、圧迫されている人を総称する呼び方のようです。
今日の答唱詩編、先ほど歌っていただきましたけれども、第2節にも「神はとこしえにまことを示し、貧しい人のためさばきを行い、飢えかわく人にかてを恵み、捕らわれ人を解放される。神は見えない人の目を開き、従う人を愛される。身寄りのない子どもとやもめを支え、逆らう者の企てを砕かれる」ということで、貧しい人の側に神がおられるということを詩編も歌っています。今日の答唱詩編だけではなくて、第一朗読、第二朗読もこれと呼応しているような言葉を見出すことができます。第一朗読のゼファニヤの預言では、「苦しめられ、卑しめられた民(苦しみを耐えている人たち)、彼らは主の名を避け所とする(主に信頼を置く)」ということが言われている。第二朗読の一コリント書でも、「人間的に見て知恵や能力や地位のある者ではなく、世の無力な者が選ばれた」。その世の無力な人は「神によってキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは私たちにとっては神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」。そのキリストのおかげで、私たちは今日の福音の「幸いである」というその人々の中に含めていただいています。
「貧しい人」というのは、食べ物に困っている、住む家に困っている、お金や財産などに困っているという、経済的に困窮しているという意味もあるように解釈してもいいかと思いますけれども、それ以上に自分自身や自分の持ち物、財産に依存することはなく、それが自分の人生だということではなくて、神に依り頼んで生きるという積極性がある。苦しめられて悩んでいるということだけではなくて、この苦しみの中でも自分が神様に従っていくんだという、この積極性があるということも大事なポイントになっています。今日の聖書と典礼の、ちょうど下の解説のところにそのことが書いてありまして、真福八端の最初の4つは「苦しみに耐えている人々の姿」、後半の4つは「苦しみの中でより積極的に生きようとしている人の姿」を示している。実際に憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人々というふうにしてこのことを伝えています。そういう意味に見ますと、「貧しい人」というのは先ほど言いました通り、様々な意味で苦しみ、不当なというか、そういうことで悩み、課題を抱えている人の総称だと言えます。
今日のこの真福八端が私たちに伝えるこのメッセージをよく味わい、私たち一人ひとりの人生を生き抜く指針にしたいと思います。福音をよく味わい、そしてその福音を伝え、証しする人になることができますように、その恵みをご一緒に祈り求めたいと思います。