2026年2月 ミサ説教
2/22(日)10:00- 四旬節第1主日 髙祖 敏明 神父
四旬節第1主日 洗礼志願式
髙祖 敏明 神父
2/22(日)10:00- 四旬節第1主日 洗礼志願式
先ほど唱えました今日の集会祈願、「四旬節の典礼を通して、わたしたちに、キリストの死と復活の神秘を深く悟らせてください」というふうに祈りました。これは洗礼志願式を迎えている皆様にとっての祈り、願いでもあり、もうすでに洗礼を受けている私たちにとってもこれは祈りであり、願いであります。
創世記はお聞きになられた通り、アダムとエバの神への背きが朗読されましたけれども、人は神によって息吹を与えられて生かされているのに、蛇に唆されて神に従わないという罪を犯した結果、人は神から離れて土の塵に帰っていく。寿命が尽きて死ぬと滅ぶしかないということを描いています。一方福音は、悪魔に唆されてはいるんですけれども、聖書の言葉をもって毅然として誘惑を退けるイエスの姿が描かれています。皆さん持っていらっしゃる聖書と典礼には、このイエスが受けた誘惑の背景には、イスラエルの民の旅、奴隷であったエジプトから脱出後、約束の地に入るまでの40年間のイスラエルの民の荒れ野での旅と関連しているということが書いてありますが、同時にこれは私たちの日々の生活、日々の歩みとも重なりますので、少しこの3つの誘惑について深めてみたいと思います。
第1の誘惑は、40日間の断食を経て、空腹状態にイエスがある。そうするとサタンがやってきて、「神の子なら、石をパンに変えたらどうだ」。神の子としての力を自分の欲求を満たすために使ったらいいんじゃないの、という誘惑です。イスラエルの民はエジプトを脱出して荒れ野にいる時に、「我々はエジプトの国で、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに、モーセたちは我々を荒れ野に連れ出して飢え死にさせようとしている」と言って非難し、不満を述べる。主なる神はモーセの願いに応える形でもあって、天からのパン、マナとうずらを与える。そして養うことだけではなくて、民が神の指示に従うかどうかを見る、というふうに聖書に書いてあります。
それで、イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」というこの聖書の言葉で誘惑を退けますが、神の指示に従うかどうか、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるということにこれが呼応していると思います。私たちは、日々唱える主の祈りで、日ごとの糧を願い求めます。お腹を満たす糧と、心を満たす糧両方が意味されているでしょう。そして皆様ご存じのように、真の生きるパンはイエスです。イエス様の御言葉と御聖体によって私たちは養われ、神に従っていくという道を歩んでいくことができる。
第2の誘惑は、神殿の屋根の端に立たされて「神の子なら飛び降りたらどうだ。天使たちが手であなたを支えるよ」。神が共におられるのかどうか試してみたら、神の力が働くかどうか試してみたらいいじゃない、という誘惑です。イスラエルの民はやはり荒れ野で、「なぜ我々をエジプトから導き出されたのか、水もない荒れ野で、渇きで殺すためなのか」というふうに非難して、主は我々と共に歩んでおられるのか、我々の間におられるのかどうかということでモーセと争う。民を導かれる主をそういう形で試しました。主なる神はモーセに、岩を杖で打たせて水をほとばしり出される。その場所が「試し」というマサと、「争い」というメリバという名前が付けられたということが聖書に書き記されています。
イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」という聖書の言葉をもってお答えになる。私たちは時々、神様を脅迫するような祈りをします。神様この願いを聞いてください。でないと私はもう信じませんよ、なんていう形で神様を脅迫する。そういう祈りをされていることが折に触れてあります。しかし主の祈りでは、父なる神の御名が尊ばれますように、というふうに私たちは祈ります。「あなたの神である主を試してはならない」というイエスの言葉は、私たちの信仰の土台にあります。
3つ目の誘惑。全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、「私(サタン)にひれ伏して拝むならこれを皆与えよう」という誘惑。神でないものに頼ろうとする偶像崇拝への誘いです。イスラエルの民はシナイ山のふもとで、モーセが主から十戒を受けている間、こう言います。「我々に先立って進む神々を作ってください。あのモーセがどうなったのかわからないから」と言う。この民の要求に応えて金の子牛の鋳造を作り、「これこそエジプトの国から導き上がった神々だ」と言って、それを伏し拝む。主なる神はこの偶像崇拝の罪を犯した民を打たれますけれども、モーセの執り成しもあって、主に従うか、従わないかを選ばせます。ここには神に私たちのことを執り成してくださるイエス・キリストの姿が前もって描かれているようです。
イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と退けられます。私たちの毎日の生活の中で、「神様を信じます」という信仰宣言をする一方、お金や財産、地位や名誉、あるいは自分自身が神であるかのように振る舞おうとする誘惑がよくあります。他の人を裁くというようなこともよくあるでしょう。主の祈りでは、「父なる神の御心が行われるように」と祈りますし、「私たちを試みに陥らせず、悪からお救いください」と祈ります。私たちの毎日の生活と非常につながっているこういう3つの誘惑を重ね合わせてみますと、それは皆、十字架上のイエスに対して「十字架から降りてきて自分を救え」という誘惑に全て重なります。
創世記と福音との対比を踏まえて、今日の第二朗読、ローマ書は「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい人とされる。一人の人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みと賜物とは、多くの人に豊かに注がれる」と説いています。実にアダムは、来たるべき方を前もって表す者だったのです。今日の聖書の言葉の一番最初の言葉です。
イエス様が飢えや渇き、名誉や称賛、偶像崇拝へと誘う悪霊サタンの唆しに乗らなかったこと、そうして父なる神の御心に従ってはりつけになった十字架から降りず、自分を救わないで神にご自身を委ねられたことによって、神の恵みとイエス・キリストの恵みと様々な賜物が多くの人、全ての人に豊かに注がれるんだとパウロは説きます。この神の恵みとイエス・キリストの恵みと賜物こそ、神の命に与ること、復活のいのちをいただくことに他になりません。
このキリストの十字架上の死と復活の神秘を、四旬節の務めを果たしながら深く悟ることができる、そういう恵みをご一緒にお祈りいたしましょう。洗礼志願者のためにも、また洗礼を受けている私たちのためにも、またこの地球上に住む私たちの兄弟姉妹のためにも、心を合わせてお祈りしたいと思います。
年間第6主日
柴田 潔 神父
ファリサイ派や律法学者の人々が大事にしたいこと、社会的なルール、根幹は十戒を守ることでした。神様がシナイ山でモーセを通してイスラエルの民に授けられた契約。今の朗読からは3箇所、3つの戒めがありました。「殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽証してはならない」。10の戒めを守ったら自分は救われる。守らなければ自分は救われない。 イスラエル社会の根幹をなすルール、掟でした。これに対してイエス様は「あなた方の義がファリサイ派たちの義にまさっていなければ、天の国に入れない」と言われます。十戒にまさる“義”とは何でしょうか?
教会での司牧をしていても、自分の至らなさ、弱さに直面することがあります。申し訳なく感じながら、状況を少しでも良くしたいと思いますが、その兆しが見えないこともあります。そんな時、洗礼名にベルナデッタを考えている女の子がいて、私も一緒に調べました。少し長くなりますが、『マリアさまを見た少女 ベルナデッタ』という、イラスト入りの優しい文章で書かれた本の中からご紹介いたします。
ベルナデッタは長女でした。両親が働きに出るので、学校には行けず、妹や弟たちの面倒を見ていました。そのため勉強も遅れて、14歳になってもまだ初聖体を受けられませんでした。赤ちゃんの時に預けられたことのある乳母の家へ行くことになりました。子どものお守りをしながら、初聖体の勉強に行かせてもらえるという約束でした。けれども、この約束を乳母は守ってくれません。初聖体の勉強が一向にできません。教会に行く代わりに、時々乳母が公教要理を教えてくれるのですが、ベルナデッタはフランス語はわかりません。すると乳母はすぐに怒り出して、「なんておばかさんなの!何もわからないじゃない」と叱ります。
この辛い体験を、ずっと後になっていとこに打ち明けます。すると、「そんなに辛かったのなら、どうしてお父さんに言わなかったの?」と聞かれます。ベルナデッタはこう答えました。「神様は、時々、私たちを辛い目におあわせになります。でも、それは罰を与えるためでも、いじめるためでもありません。その苦しみが私たちをもっと強くし、もっと賢くなるようにとお与えになるのです。そして、苦しい時はきっと神様は助けてもくださいます。決して我慢できない苦しみをお与えにはなりません」。ベルナデッタは、人に教えてもらえなくてもそれを知っていたのです。だから、辛くても不平を言いませんでした。
ベルナデッタの信仰の要はロザリオでした。狭い、牢獄のような部屋で、家族が身を寄せ合って、毎晩十字架の前で、大きな声で「ロザリオの祈り」を唱えていました。聖母と初めて会った時、ベルナデッタはポケットから粗末なロザリオを取り出して、十字架を切ろうとしましたが、驚いて動けませんでした。立ち尽くすベルナデッタに、聖母は優しく微笑んで十字架を切りました。ベルナデッタも十字架を切ることができました。そして聖母の前でひざまずいてロザリオの祈りを始めました。すると、聖母も一緒にロザリオで祈り始めました。ロザリオがベルナデッタの生命線でした。至らなさを感じながら、ロザリオを唱える。砕かれた心で、ロザリオの祈りをする。この姿に、ファリサイ派にまさる“義”があるように私は感じました。
もう1つ“義”についてヒントをもらえたことをご紹介いたします。洗礼勉強中の小学2年生の女の子に、「神様はどんなイメージ?」と尋ねてみました。すると「神様は自分のことを褒められたり、感謝されたりしても得意にならない。自慢しない」。私など、状況がうまくいくと得意になってしまうことがあります。そんな私に女の子は、「感謝されても得意にならない。自慢しない」“義”の姿を教えてくれました。
イエス様の言われる「ファリサイ派にまさる義」は、「これを守ったら救われる」というルールではないのでしょう。その場その場で紡ぎ出されてくる、神様からいただけるもの。行き詰まった時には、砕かれた心でベルダデッタのようにロザリオを唱える。また褒められたり、感謝されたりしても自慢しない。得意にならない。そんな謙遜な心で神の義を示していきましょう。
年間第5主日
関根 悦雄 神父
2/8(日)10:00- 年間第5主日
今日の福音で「あなたがた」と呼びかけられている人たちは、山上の説教で最後に「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」、この「あなたがた」です。山上の説教を聞いている弟子たち、それと多くの貧しい人たち、その人たちに向かって今日の言葉が発せられます。
イエスは何を言うんですか。「あなたがたは地の塩である」と言います。塩というのは何ですか。塩は世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保ちます。「あなたがた」は地上でこのような役割を自然に担っているのです。この塩味は自分からのものではなく、イエスに従うことによって与えられていることを意識し、イエスに従う道を歩み続けることが大事なのです。塩というのは他に取って代わるものがないでしょう。塩味、他のものでつけられますか。ないと思います。ですからこの塩、人に味をつける。これは人々を大切にする、人に尊厳を与える、そういうものじゃないかなと思います。
それから「あなたがたは世の光である」というふうに言います。そして今日の福音の最後の方では、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言います。それは何のためですか。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためです」。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」、これは自分自身をひけらかすことではありません。「あなたがたの光」とは、神から託された光、キリストです。この光を人々の前に明らかにするかしないかの責任も、ひとえにイエスの弟子にかかっています。つまり私たちがイエスの弟子として、キリストに従う者としてその光を輝かすかどうか、一人ひとりにかかっているということです。
今の世の中、暗いでしょう。自分一人ひとりが、なんかわけのわからないものに取りつかれてしまって、何をしたらいいかわからない。そういう状況もあるんじゃないでしょうか。そういうところに光を当てて、真実が何であるか、私たちにとって最も大切なことは何なのか、これをしっかりと明らかにしていく。これが私たちに求められていると思うんです。「あなたがたの天の父をあがめるようになるためだ」とありますが、立派な行いとは、人を救う神の誠実な慈しみに照らして他の人を愛し抜くことを意味します。他者を愛すること、これに尽きます。具体的には、孤児や寡婦をいたわり、寄留の外国人の面倒を見たり、貧しい人々に衣食を提供したり、病人を介抱することです。
今日の第一朗読のイザヤの預言にも「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」、このようにあります。またその預言の後ろの方にも「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」とあります。その光を私たちは輝かす使命を受けています。それは自分が自分を誇ることではありません。私たち自身がキリストからの知恵を受けてそれを人々に伝えること。それはただ言葉ではなくて、さっき述べたような具体的な行為によってそれを示していくこと。それによってキリストの光が私たちの周りにも伝わっていくのではないかと思います。
もう1つ、この「地の塩、世の光」と言う時に、イエスは私たち一人ひとり、あなたがた一人ひとりはそういう者であるから、自信を持って生きなさいと。人々にそういう力を与えるものでもあると思うんです。でも私たち、まず自分自身に自信を持っていますか。自分がどういうものであるか、自分が本当に存在意義のある、大きな存在意義のあるものだということを自覚できているでしょうか。これは私たちの場合には、このキリストに本当に従うことによってのみそれが得られるんじゃないかと思うんです。私たち自尊心というようなことを言いますが、自分が尊いのは神に愛されているからです。そのために私たちは、どんな困難があってもこの世に生き続けていけるわけです。
これはもちろん神と私たちの関係というのが中心的なものですけれども、私たちと周りの人たちとの関係も大事ではないか。つまり、私たちが一人ひとりの人間の尊厳を認め、あなたはかけがえのない人であるということ、それを認めて愛し合うこと。これによって本当にキリストの弟子になって、光を輝かすことができるのではないかと思います。これは家庭の中でも大事なことです。親は子どもたちにこれをしっかりと伝えなければならないと思います。子どもたち、あなたはかけがえのない存在なのだ、私たちにとって非常に大切な存在なのだ。甘やかすことではありません。しかし、それをしっかりと伝えること、これには大きな意味があると思います。
そして、ここに集う私たち一人ひとりも神の子です。神の子としての尊厳を重視している大事な人たちです。お互いにそれを認めながら、そして励まし合って、この地の塩となり、世の光となって働くことができるように、そういう恵みを今日ご一緒に願いたいと思います。
年間第4主日
髙祖 敏明 神父
今、一緒に聞きましたマタイの福音は、ご存じのように5章6章7章と山の上からイエス様が説教された、それがまとめられているその一番最初のところ、真福八端という言葉で言われている有名な箇所であります。
「イエスは群衆を見て、山に登られた」。この「山に登った」ということには、救いの歴史の大きな出来事が背景に置かれています。言うまでもなく、イスラエルの民がエジプトを脱出後、モーセがシナイ山に登って、主なる神から旧約聖書を貫く十戒、これを授けられた。そういうこの救いの歴史の大きな出来事を背景にして、イエス様が山に登っておられる。つまり、自分はモーセに代わるそういう人物、役割だということを私たちに教えている。そして「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」。この「近くに寄って来た」という言葉の中にも深い意味を込めてマタイは書いているそうで、イエスの近くに場所を占めてイエスの教えを深く学ぶ、それは福音に生かされ、福音を伝える者となるためでした。私たちもこの真福八端のことを少し心に留めながら、私たち自身も御言葉の近くに寄ってその秘密を学び、福音を生き、福音を伝える者となる。そういう恵みをいただきましょう。そのためにも、福音を3つの点から少し読み直してみたいと思います。
まず、「心の貧しい人は幸いである」という言葉で日本語の訳は始まっていますけれども、ギリシャ語の原文の冒頭に来るのは「幸いである。心の貧しい人々は」という語順だそうです。ですから、ギリシャ語の方は「幸いである」ということの方に強調点を置いてみんなの注意を引きつけるような、そういう文章で書かれていますが、日本語では「心の貧しい人は幸いである」と「幸い」が下に来るものですから、どちらかというと「心の貧しい人」の方に注目させるような、そのような日本語になってしまっています。けれども、この8つのものは全て「幸いである」ということが頭に来てできている文章です。
この「幸いである」というのは、「一般に言われる幸運」ではありません。例えば、何かおいしいものを食べて幸せだなと思うことがあるかもしれません。昨日ある新聞を読んでいましたら、書評のところに、日本とアメリカの文化の違いを説明するコンテキストでしたけれども、学校や職場であなた一人が褒められた時、こういう時と、一息ついてお風呂でくつろいだ時、どっちが幸せですかって聞いているそうです。そうすると、アメリカの多くの人は、学校や職場であなた一人が褒められた時の方に丸をつけるそうです。しかし、日本人の多くの人は、一息ついてお風呂でくつろぐ時、ああ、幸せだなと感じる。そういう文化の違いがあるそうです。そういう幸せを感じるというのは、これも神様の恵みですから大いに喜んだらいいと思います。
しかし、今日の福音の「幸いである」という場合のこの「幸い」は、そういう私たちの日常生活での幸いの意味をもう少し超えて、神様と自分とがどういう関係にあって幸せなのかっていうことを言おうとしている。それを告げようとしている。一言で言うと、神を恐れ尊び、この恐れっていうのは怖いものというよりも畏敬の念、そういうふうな意味の恐れ尊びですけれども、神に信頼する人は幸いという意味だと言われています。詩編の一番最初のところも同じ「幸いである」。これ、日本語では「いかに幸いなことか」と訳されていますし、今日の入祭の歌でもここを歌いましたね。「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず…傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。聖書の旧約聖書の中でこの「幸いである」ということは、いろんなところでこう言われています。それを今日のマタイの福音書の真福八端は受けて「幸いである。心の貧しい人々は」云々と続いています。
2つ目、十戒の第一戒と、真福八端の第一句をちょっと比較してみたいと思います。十戒の第一戒、ご存じのように「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という言葉です。真福八端の第一句は、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。第一戒の方は、まず神に目を向けさせるという、そういうふうな言葉になっていますし、神様と私たち人間との基本的な関係、「わたしをおいてほかに神があってはならない」という命令口調で言われている。それに対して真福八端の第一句、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」というこの言い方の中には、まずイエス様の念頭にあるのは、人々、人間、私の仲間。そこに向けて、その人々が神の国、天の国とどういう関係にあるのかということを言おうとしている。強調点の置き方が違う。そこに1つの大きな時代の転換があるということを私たちに教えようとしているようです。
3つ目、解釈の難しいこの「心の貧しい人」というこの言葉です。原文では「霊において貧しい人」というふうに書いてあるそうです。「霊において貧しい人」というのはなかなか日本語にならないものですから、日本語では「心の貧しい人」と訳されています。ところが皆様ご存じのように、私たちの日常生活の中で「心の貧しい人」と言ったら、がつがつとしていて思いやりのない人、さもしい人のこと。他人に寛容でない、そういう人のことを「心の貧しい人」って言う。だからこの訳は良い訳ではないと批判する方も少なくありません。聖書の注解書を見てみると、この「霊において貧しい」という「霊において」とか「心」と訳されているものは、マタイがこの福音書を書く時に付け加えた言葉だと言われています。旧約聖書の伝統から考えても、ここは「貧しい人」ということでいいはずだと。実際にルカはイエス様の教えとして、「貧しい人は幸いである」という言い方をしています。そうなると「貧しい人」というのは一体何を意味しているか、そこが今日の福音のポイントになるようです。
旧約聖書の伝統から言いますと、「不当に自分の所有物を奪われて貧困に陥っている者」、それを「貧しい人」という言葉で言っているし、多くの預言者たちは、神はしばしばこのような人々の保護者だと言っていまして、実際に旧約聖書のいろんなエピソードでは、そういう「貧しい人」が神によって救われるというエピソードがいろいろと書き込まれています。神に守られ、自分自身を頼まないで神に信頼を置く者、その意味で神の前にへりくだる者、敬虔な者、それが貧しい者だと。こういうふうに申し上げますと、皆さんも頭に浮かんでくることがあるかもしれません。ナザレのイエスがご自分の故郷ナザレに帰って、安息日に会堂で渡された聖書をパッと開くと、イザヤ書に目が留まった。これはマルコやルカが書いているところですけども、どういう箇所であったかというと、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。…捕らわれている人には解放を、圧迫されている人を自由にし…」という形で書いていく。「貧しい人」というのは、圧迫されている人を総称する呼び方のようです。
今日の答唱詩編、先ほど歌っていただきましたけれども、第2節にも「神はとこしえにまことを示し、貧しい人のためさばきを行い、飢えかわく人にかてを恵み、捕らわれ人を解放される。神は見えない人の目を開き、従う人を愛される。身寄りのない子どもとやもめを支え、逆らう者の企てを砕かれる」ということで、貧しい人の側に神がおられるということを詩編も歌っています。今日の答唱詩編だけではなくて、第一朗読、第二朗読もこれと呼応しているような言葉を見出すことができます。第一朗読のゼファニヤの預言では、「苦しめられ、卑しめられた民(苦しみを耐えている人たち)、彼らは主の名を避け所とする(主に信頼を置く)」ということが言われている。第二朗読の一コリント書でも、「人間的に見て知恵や能力や地位のある者ではなく、世の無力な者が選ばれた」。その世の無力な人は「神によってキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは私たちにとっては神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」。そのキリストのおかげで、私たちは今日の福音の「幸いである」というその人々の中に含めていただいています。
「貧しい人」というのは、食べ物に困っている、住む家に困っている、お金や財産などに困っているという、経済的に困窮しているという意味もあるように解釈してもいいかと思いますけれども、それ以上に自分自身や自分の持ち物、財産に依存することはなく、それが自分の人生だということではなくて、神に依り頼んで生きるという積極性がある。苦しめられて悩んでいるということだけではなくて、この苦しみの中でも自分が神様に従っていくんだという、この積極性があるということも大事なポイントになっています。今日の聖書と典礼の、ちょうど下の解説のところにそのことが書いてありまして、真福八端の最初の4つは「苦しみに耐えている人々の姿」、後半の4つは「苦しみの中でより積極的に生きようとしている人の姿」を示している。実際に憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人々というふうにしてこのことを伝えています。そういう意味に見ますと、「貧しい人」というのは先ほど言いました通り、様々な意味で苦しみ、不当なというか、そういうことで悩み、課題を抱えている人の総称だと言えます。
今日のこの真福八端が私たちに伝えるこのメッセージをよく味わい、私たち一人ひとりの人生を生き抜く指針にしたいと思います。福音をよく味わい、そしてその福音を伝え、証しする人になることができますように、その恵みをご一緒に祈り求めたいと思います。