2024年6月 ミサ説教
6/2(日)10:00- キリストの聖体の祭日 李 聖一 神父
6/16(日)10:00- 年間第11主日 ハビエル・ガラルダ 神父
6/23(日)10:00- 年間第12主日 ボニー・ジェームス 神父
6/23(日)15:30- 堅信式 アンドレア・レンボ東京教区補佐司教
6/30(日)10:00- 年間第13主日 大西 崇生 神父
年間第13主日
大西 崇生 神父
6/30(日)10:00- 年間第13主日
今日は福音がとても長かったので、説教はできるだけ短くしようと思っています。
「聖書と典礼」を見ていただければお分かりの通り、今日の福音は2つのバージョン、長いバージョンと短いバージョンがありまして、真ん中のところは少し1段下げて書いてあります。そこを省いて読むこともできたんですけれども、長い方を読ませていただきました。それには理由があります。それは、私は個人的にこの2つのバージョンでは長い方をしっかり読まないと、この根本は理解できないのではないかと思っているからです。
今日の福音朗読は2つのエピソードが絡まり合っています。
まず、1つ目のエピソード、すなわち会堂長のヤイロの娘が危篤状態に陥って、それを助けるためにイエスがヤイロの家へと出発します。ところが、その旅の途中に、長い間出血の止まらない病気に苦しんでいる1人の女性と出会って、彼女の病気を癒すというエピソードが挟まれています。そして、再びイエス様は旅を続けて、ヤイロの家で亡くなったと思われていた娘さんを生き返らせ、病気と死から命へと立ち上がらせる。そういうエピソードでこのお話が終わります。つまり今日の福音は、1つのエピソードが始まったのに途中で言わば中断をして、また別のストーリーが始まって、そしてその別のエピソードが終わってからもう一度、先ほどのエピソードが途中から継続して終わる。そういう構成になっています。
「聖書と典礼」の短いバージョンというのは、最初と最後の物語だけを読むものなんですけれども、それでも全く問題なく物語は成立しているわけです。このヤイロの娘のよみがえりと、長い間出血が止まらなかった女性の治癒というこの2つのエピソードは、全く別のストーリーであるように思われますけれども、この両者は深いところでつながっています。たとえばこの福音をよく見てみますと、出血の止まらない女性が病気に苦しんでいた期間は「12年間」というふうに書いてあります。そしてまた、この福音の最後のところで、ヤイロの娘の年齢も「12歳」というふうに書いてあります。同じ12年なんですけれども、その響きはやっぱり違っていると思います。つまり12年というのは、1つの病気にさいなまれて全財産を使い果たすまでに苦しむにはあまりにも長い時間、12年苦しみ抜くというのはあまりにも長い期間です。ところが一方、1つの人生が終わるにしては12年というのはあまりにも短い。娘さんが12歳で亡くなるとしたら、あまりにも短い生涯である。そういうふうな、同じポイントとコントラストが、この12という数字によって2つの物語をつなげる役割を担っています。
ところで、1989年にエドワーズという名前の研究者が「Markan Sandwiches」という名前の論文を発表しました。これは「マルコ福音書のサンドイッチ」という名前の論文です。この論文の中でエドワーズは何を言ったかといいますと、マルコ福音書の中にはこれまで述べてきたような、ある1つのエピソードの中に別のエピソードが挟み込まれていて、包み込まれている。そういうような作りの物語がいくつかある。そしてそのような場合、真ん中に挟み込まれたエピソードのテーマが、それを包み込んでいるエピソードの理解を助けるための鍵となる。そういうふうな読みの提案をしました。もし彼のこの解釈の提案に従うならば、今日の福音は次のように読むことができるかと思います。真ん中の物語、すなわち長い間出血に苦しんでいた女性の物語は、その中心的な主題はその女性に対してイエス様がおっしゃった言葉、「あなたの信仰があなたを救った」、このことだろうと思います。あなたの信仰があなたを救ったというのはどういう意味でしょうか。救ったのはイエス様です。ですから、イエス様は「私があなたを救おう」と言うこともできたはずなんです。しかしながら、私があなたを救う、私が救ってあげるというふうに言うのではなくて、あなたの信仰があなたを救ったとイエス様はおっしゃいます。それは、思いますに、イエス様は私たちの内面に土足で踏み込むようなことはなさらない。そうではなくて、私たちが心を開いて、信仰という同意によって「イエス様、助けてください」と言う時に、イエス様はその癒しを行ってくださる。だから私たちの協力が必要であって、その協力に対して「ブラボー」というふうにイエス様はおっしゃっているのではないかと思います。
「あなたの信仰があなたを救った」。ヤイロの娘のストーリーにおいてもこれが当てはまります。あなたの信仰があなたを救った、という言葉自体は直接的には出てきませんけれども、イエスを信じて、癒し、助けていただけるように願い求めるという主題が、この2つの物語をつないでいます。しかもヤイロの娘の物語の場合、この死にかけていた、病気であったヤイロの娘本人がイエスに願い求めたのではなくて、ヤイロ、お父さんの方が祈っています。つまり、イエスを信じて誰かのために祈る。イエスが必ず助けてくださるということを信じて、大切な誰かのために願い求める。この信仰の態度は、現代を生きる私たちにとっても非常に重要なものとして学ぶことができるのではないかと思います。
堅信式
アンドレア・レンボ東京教区補佐司教
堅信式を迎えられた方々おめでとうございます。
皆さんは今、堅信の秘蹟を受けるためごミサにあずかっています。
皆さんとご一緒にこのごミサを通して聖霊が皆さんの人生の中で、イエス・キリストの福音に「ハイ」と答える全ての人々の中で実現した偉大なことを知り、考えていきたいと思います。
堅信の秘蹟は洗礼の秘蹟を確固となるものとし、皆さんの上に聖霊を豊かに注ぎます。
人生の歩みの中で、イエスの忠実で勇敢な証人となれるよう助けてくれるその偉大な賜物を今、皆さん自身が感謝をもって受け入れることができます。
キリスト信徒として皆さんを育て、福音に生き、共同体の活動的な一員であることを可能にしてくれる聖霊の賜物は実際にすばらしいことです。
ここで旧約聖書が、そしてイエスが教える聖霊の7つの賜物を思い起こしてみましょう。
知恵・理解・判断・勇気・神を知る恵み・神を愛する・畏れ
この7つの賜物の中で、4つを説明させていただきたいと思います。
第2の賜物は理解です。
この恵みによって皆さんは神の御言葉の深さを、信仰の真理を理解できるようになります。
第3の賜物は判断です。
この賜物はあなたたち一人ひとりの人生における神のご計画を発見できるよう皆さんを導きます。
第4の賜物は勇気です。
この賜物は悪の誘惑に打ち勝ち、たとえ犠牲が必要な時も常に善を行うことを助けてくれます。
第7の賜物は神への畏れの賜物です。これは恐怖のことではありません。ここで言われる畏れとは神に対する深い尊敬であり、神を敬う心です。
今日(こんにち)、世界を襲っている全ての危機を含めてこれらを私たちの人生のため、善のために取り計らう神のご計画、そのご意志に対する尊敬です。
聖書では神様は愛であると定義されています。それは今の全世界の社会において、どこに愛として神様が生きて存在しているでしょうか。
現代の世界を見渡すと子ども達が戦争やテロ、病気、飢餓の犠牲となっています。罪のない人々を死が襲っています。
このような苦しみ・悪・不正・死は私たちの信仰を試しているのではないでしょうか。
こうした社会の中で洗礼を受け、堅信を受けて生きるとはどういうことでしょうか。
第二次世界大戦が終わって随分経った1990年代にナチス強制収容所に入れられて20代で亡くなったユダヤ人女性ベッティ・ヒベスの日記が見つかりました。
この日記に彼女は
ーこの世界から神様が追い出されているー
と表現しています。
暴力、民族主義、ナショナリズムという恐ろしい力で神様が追い出され、愛である神様は愛のない世界で居場所を失ってしまったのです。
それでも彼女は自分自身が神様の居場所になる、自分の心の中に愛を育てていくと記しています。
堅信を受ける人たちが与えられる役割、心の中心に刻みつけなければならないことはこの世界の中で自分自身が神様の居場所となっていく、という考え方です。
親や子ども、お年寄り、職場の仲間に優しい心を示し、人を憎まず、赦し続ける細やかな生き方の中に神様は証しされているのです。
堅信を受けられた皆さま、おめでとうございます。
年間第12主日
ボニー・ジェームス 神父
6/23(日)10:00- 年間第12主日
今日の第一朗読、第二朗読、そして福音朗読を合わせて1つのテーマというのは、神様に結ばれているということだと思いますね。第一朗読の中に有名なヨブ記からの朗読がありました。ヨブは神様の様々な恵みをたくさんいただいた人であるにも関わらず、それを疑ったり、本当に神様が存在しているのかとか、そういうふうに考えてしまった人です。そして、それが湖の中で神様が助けてくださるというような形で、湖を静める、あるいは荒れているその湖を静めてくださる神様、その神様に信頼をおいて旅を続ける。そのような福音箇所なんですね。聖書の中に出てくるのは、イエス様が弟子たちと一緒に旅をしているところで湖を静める。そこでその弟子たちに希望、力を与えてあげる。そういう箇所です。そして、第二朗読の中にパウロがこのように語ります。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てています。キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」というふうに書いてあります。キリストと結ばれることによって、私たちは様々な困難を乗り越えることができるという大きな希望を与えてくださっているという話ですね。
もう少し深くこの福音を探っていくと、たくさんの大きな意味、深い意味が含まれているということがわかります。イエス様が弟子たちと湖に出て、そして湖の向こう側に行くという話ですね。この舟ということ自体は伝統的に教会自体を意味している。そしてその教会というものが世の中に旅をしている。私たちをみんな乗せて旅をしている。様々な嵐、苦難、あるいは様々な迫害などがある中で、私たちを乗せてこの世を旅している。その舟の一番頂点に立つのは、船長というか、それがイエス様である。そのイエス様に信頼をおいて、教会というのはこの建物だけではなく、この普遍教会あるいは全体はイエス様を前に立てて歩む。それによって教会が今まで様々な試練あるいは迫害を乗り越えてこの2000年を歩んできたわけですね。それが1つ、伝統的な解釈なんですね。この解釈、この話を元にして考えると、どのように私たちが実際の面でそのような、少し抽象的な話かもしれないんですけれども、本当にこの解釈というか、このような説明が私たちにとって役に立つのかというふうに思われる。あるいは今の時代に合っているか。教会が全ての人を乗せていくべきものであるということも、様々な動きとかもあるわけなんですよね。その中でもこのような話が合っているかどうかというのは疑問に思う時もあるかもしれません。でも教会の今までの歴史を見てみると分かるように、イエス様を前に立てて歩んだ場合、どんなに大きな嵐があったとしても、それを乗り越えていったというのは歴史なんですね。それが今までの教会の歩みなんですね。
これを私たちの個人の生活にもってくると、例えば私たちの前に聖人たちの長い列があります。私たちに先立って生きていた、たくさんの人たちがいるわけですね。その聖人たちも一人ひとりのこの生い立ちを見てみると分かりますけれども、みんなが何らかの形の嵐というか、苦難、迫害、それに立ち向かってそれを乗り越えていって聖人になった人たちなんですよね。聖人たちは生まれつきで聖人になった人は誰もいないですね。だからその聖人たち一人残らず見てみると分かりますけれども、このイエス様という船長というか、それがイエス様を前に立てて歩んでいた人たちなんですね。その人たちが私たち個人にとって、一人ひとりにとってのキリスト教徒として生きる模範になるんですね。私たちがよく知っている現代の聖人たちのことを考えても、そう言うことができますね。例えばマザー・テレサの話なんですけれども、マザー・テレサの個人の日記というか、個人の話を様々なところで見ますけれども、疑いとか、あるいは様々なところで前に進めるか、あるいは自分の信仰、修道者生活でさえ前に進めるかとか、そういったいろいろな試練があったわけなんですね。そういった様々な嵐というか、そういうことを乗り越えていった、そのような存在なんですね。そのような福音箇所なんですけれども、聖人たちのこの例が私たちにとって1つ大きな模範だというふうに思います。
もう1つの簡単な話をしておくと、私たち誰も経験したことがあることだと思いますけれども、私自身が小さい頃、教会の祭りとか様々なたくさんの人が集まるところにお父さんに連れられて、それを見るために行くんですね。周りに大人たちがいっぱい並んでいて、その中に小さな子どもとして行くとき、上で何が起こっているかということは分からない。大きな祭りとか花火が起こっているかもしれない。そういうのは分からないんですけれども、そういう中でもお父さんの指を掴んで、ずっとついていくわけなんですね。それが与えてくれる希望というか、あるいは自信というか、それが子どもを前向きに生かせるわけですね。どんなに大きな人混みであったとしても、その中でもお父さんの1つの指がつながっているということ、この自信。これが大きな導き、あるいは希望になって、そういうふうに行くわけですね。ある意味では、私たち一人ひとりの神様とのつながりも同じようなものである。私たち一人ひとりが神の子どもであって、そして神様にそうやって結ばれているというこの心の奥底の自信、希望。それが私たちを生かせるものでもあるわけなんですね。
今日の福音の中で、イエス様が眠っていた、この舟の中で眠っていたという話ですね。でもイエス様は本当は眠っていたのではない、みんな見ておられたとか、そういった様々な解釈がありますけれども、でもイエス様がその舟の一番大事なところにいてくださっているという自信があって、弟子たちがそこに依り頼んだわけなんですね。そのつながりを持って今度前向きに行くわけですね。そういうつながり、そういう関わり、そういうふうに結ばれているという希望ですね。これが私たち、現代にもキリスト者を生かしていることではないかというふうに思います。現代においても私たち一人ひとりは教会の中、あるいは教会全体が様々な試練に直面していると思いますし、あるいは家庭、家族の生き方とか、あるいは家庭という一つの舟、それも一つ大きな打撃を受けている、直面している時代でもあります。家族、家庭というもの、あるいは個人的にも様々な試練に向かっている時代だと思います。でも、どんな時代にもこのような試練、このような難しいことがあったわけなんですね。そこでイエス様が前に立って、私たち教会を導いてくださった。これが今までの教会の歴史であって、そしてそれが事実でもあります。だからその希望を前において一人ひとりがその希望を持って生きる。そのようにしたいと、できればそのような希望のためにお祈りしたいと思います。
最後にパウロの言葉で終わりたいと思います。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てています」。そして「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じたのです」。
年間第11主日
ハビエル・ガラルダ 神父
今日は2つの神の国のたとえ話があります。この世の中の神の国はご存じの通り、主の祈りに書いてある通りです。「御国が来ますように」、すなわち愛し合いなさいという御心が行われますように、つまり御心が、愛し合っているということがこの世の中で実現されている、行われている状態が神の国です。イエス・キリストがこの神の国のありさまと、神の国に属している人たちの生き方を述べるたとえ話がたくさんあります。
さて、今日は2つのたとえ話があります。2つの意味は種の成長と、からし種の成長です。つまり、メインテーマは「成長する」ということです。それについて考えましょう。前向きに生きる、つまり向上心を持つこと、より良くできるように、仕事も、人間関係も、家事も、お料理も何でも良くできるように、この向上心を勧めている箇所です。イエス・キリストがかつて言いましたね。「子どものようになりなさい」。子どもの1つの重大な特徴は向上心ですね。学びたい、成長したい、質問する。子どものようになりなさい。私たちは向上心を求めましょう。向上心というのは、つまり、自分なりに偉い人になるように。それは変わった表現を使いますが、後で説明します。4Kに満ちた向上心。4KというのはK、日本語のローマ字でKで始まる4つの単語です。その単語を言ってみますと、謙遜、根性、献身、感謝。この4Kに満ちた向上心を願い求めましょう。
まず謙遜というのは、イエス・キリストが言う「偉い人になりたい人」は偉い人になる。でも、人を見下さないように、威張らないように謙遜でありなさい。聖パウロが1つの提案を言います。謙遜になるには、私は周りの人より低いんだということを考えるのがいい。そのために私たちは普通、自分の長所と相手の欠点を比較するんですね。もちろん自分の価値ですよ。では、逆にしてみましょう。自分の欠点と相手の長所を比較すれば頭を下げるかもしれません。もう1つ、私たちの悪い傾向がありますけれども、周りの人の価値を定めるには何を基準にするかと言いますと、自分の長所を基準にする傾向があります。自分の長所が基準で、もちろんそれなら私は1番上ですね。たとえば頭のいい人、勉強ができる学生が他の学生のことを考えると、この人はすごいリーダーシップがあって、でも成績が悪い。この人はすごくスポーツが上手いけどれも頭が悪い。この人は何か女の子たちにモテモテですけども成績は悪い。つまり残るのは自分で、頭がいい。それはいいですけども、人の価値を定めるには他の基準もあるんですね。ですから、こういうふうにすれば少し謙遜になります。謙遜になりなさい。
ところが2番目のKは根性ですね。根性というのは、私たちは謙遜になりたくて目立たないで低い姿勢で歩く傾向がありますね。でもそれは謙遜なのか。ひょっとしたらそれは臆病かもしれません。失敗する勇気はないからかもしれません。そして怠慢だから。怠慢と臆病は原因で、それは謙遜と呼ばないでください。イエス・キリストは、謙遜に偉い人になりなさいと頼んでいますね。ですから立ち直る根性、失敗する勇気、失敗してから立ち直る根性。この意味ですね。このような向上心。そして今の福音には種の成長について書いていますね。ひとりでに種が成長する。どういうふうにするのかわからない。それは土の力、種の力、雨の力、太陽の力、その神秘ですね。命の力、命である神の力によって全てが成長します。それに対して感動して感謝しなければならない。ところがその自然の動きには協力しなければならない。農家は朝から晩まで働いていますね。種を蒔いて世話して、園丁のたとえ話に書いてあるように、木の周りを掘ってみて肥やしをやってみる。農家はそのようなことをやっているんです。だから地方に行きたい人は少ないんですね。大変な仕事ですから。私たちはその種の力、太陽の力、水の力に協力しなければならないんです。その根性。
3番目のKは献身。何のために成長したいんですか。何のために偉い人になりたいんですか。そこで今日の福音が綺麗なことを言ってくださるんです。からし種は成長する。でかい枝を張るんです。何のためですか。空の鳥が止まって巣を作ることができるためです。空の鳥とは悩んでる人です。困ってる人です。あなたはその木ですね。あなたの枝に、悩んでる人が助かるように、巣を作りたい人は作れるし、一休みしたい人はそれでもいい。私たちはそのために成長するんです。決して自己満足で、ああ綺麗になった、大きくなった、あるいは他の木よりも大きくなった。そのことを褒められるためではなくて、目的は人が助かることです。人が助かるために人に仕える。イエス・キリストがかつて言いましたね。「私が来たのは仕えられるためではなくて、仕えるためである」。仕えられるために偉くなりたいのではなくて、仕えることができるために、役立つことができるために、良い人は偉い人になったら自分の声が通りますよ。そしてすごく良いことができる。良い人で成長しない人は、良いこと言うけども誰も聞いてくれないんです。ですから人が助かるために、私は偉い人になりたい。献身。
そして最後に感謝。つまり感謝の姿勢で成長するんです。私たちが成長するのは神様のおかげです。そして周りの人。親と家族と恩人、先生方と学校、たくさんの人のおかげさまで私たちは成長する。そして自分にはある程度健康があり、やる気があってそれを感謝する。それに対して感謝する姿勢で成長する。そして感謝する目的で成長する。ある人がテレビで昔言ったんですね。定年になってからボランティア活動をしていたんです。なぜこんなことをなさっていますか?と言われた時に、私は社会に恩を返したいと。いいことですね。社会に恩を返すためにボランティア活動。私たちも、社会というのはまずご両親ですね。家族、友達、そして丸の内線の運転手と、みんな社会ですね。そのおかげで私たちはここにいることができるでしょう。社会に対して、社会に恩を返すために偉い人、自分なりに前向きに成長して偉い人になりたい。この4Kに満ちた、つまり謙遜、根性、献身、感謝に満ちた向上心を願い求めましょう。
年間第10主日
髙祖 敏明 神父
6/9(日)10:00- 年間第10主日
今日の3つの聖書の朗読、救いの歴史がずっと書かれていまして、特に今の結びのところですね。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。ここに父は出てこないんですけれども、ここにいらっしゃる皆さんがその兄弟であるということを、改めてこの御言葉は教えています。そのことを心に留めながら、今日は現聖堂の25周年でございますので、そちらの方に重きを置いたお話をさせていただきたいと思います。
25年前の1999年6月6日、この日は聖霊降臨の祭日だったそうですが、この日に献堂式が行われました。白柳誠一枢機卿が主式を司られ、この教会の設計図と鍵が当時の主任司祭の池尻廣幸神父に手渡され、この祭壇と皆さんの周りを囲んでいるこの12の柱に聖別された油、聖香油を塗って献堂式を祝いました。正面のイエス像、「シャローム、主の平和」という、「さあ、いらっしゃい」と招いているようにも見えます。この教会自体が楕円形をしている。祭壇を囲むような形で、180度よりもっと囲む形で信徒席が作られている。皆さんお気づきでしょうか。この12の柱はずっと同じ太さじゃないんですよ。上に行くほど少し細くなっているんです。そのイエスの12使徒を念頭に置いた12の柱と、花びら模様の天井、そして聖書が描く大自然をテーマにしたステンドグラスが12枚並んでいます。正面の祭壇の、皆さんから見ると右側には葡萄、左側には麦。言うまでもなくパンとぶどう酒の聖別をする、そのことがこの祭壇を囲むステンドグラスに描かれております。そしてドイツ製のパイプオルガン。このパイプオルガンも25周年を迎えておりまして、つい先日6月4日に浅井先生のオルガン演奏で「オルガンと祈りの集い」をこの聖堂で行いました。
このように様々な特色があるんですけれども、この新聖堂建設に向けて動き出しましたのは1990年代前後というふうに聞いています。当時の記録を改めて読んでみますと、前の聖堂は1949年にフランスコ・ザビエルが日本に来た、その記念を重ねる形で作られた聖堂でしたが、その教会が老朽化し手狭になってきた。そしてもう1つ問題があったのは、出入口が少なかったために、新しい消防法からはこれは違反建築ですよ、と言われたということも言われています。そういうことが主な理由で新しい聖堂を計画しましょう、ということが人々の口にのぼり、実際に進められていきました。でも様々な立場の方が様々な希望や考えを出されて、意見の違いや対立もいろいろとやっぱりあったようです。その中で何度も説明会、意見聴取を繰り返し、そして今の教会、典礼はこういうふうなことで動いていますよ、という講習会をやったり、そして何人かの代表的な方々には教会建築が今どんなふうになっているかということを見て回るツアーも組んで、これも日本だけではなくてヨーロッパまで行って見てきた、というようなことも書かれております。それらの様々な意見や期待を1995年5月20日と言いますから、献堂の約5年前に起工式が行われていますが、その時には留意点6つ、このことに注意して新しい教会を造っていきましょうということに大体意見を集約したそうでございます。この6点は今日でも通用いたしますので、皆様にご紹介申し上げます。
第1点、第二バチカン公会議の精神を汲み取り、祈り、宗教儀式、結婚式、葬儀などの秘跡の場としてふさわしく、静かで神聖な空間を創造すること。
2点目。教会を訪れる全ての人々に配慮し、開かれた教会とすること。
3点目。植木や広場を十分に活用し、貴重な敷地を有効に活用すること。一言説明を加えますと、この聖堂はもちろんですけれども、前の庭、鐘楼、門、それから道路を挟んだ土手筋も借景として、これらを含めて教会なんだという、そういう捉え方。
4点目。従来の聖イグナチオ教会の鐘やステンドグラスなどをできるだけ活用すること。あの鐘はそのままですし、クリプタに降りていく階段にあるステンドグラスだとか、かつての教会にあったステンドグラスをあちこちに散りばめて活用しているのを皆さんもご存じだと思います。そして、古い教会の祭壇がそのままクリプタの祭壇でも使われております。
5点目。小教区教会としての必要に応えるとともに、小教区を超える性格を持ったインターナショナルな教会にすること。
6点目、情報化時代にふさわしい設備を整えること。
こうして6点を聞いてみますと、私たちのこの教会がこのビジョンの延長線上にあるということがわかると思いますし、また同じような課題も抱えている。そういうこの新しい現聖堂を造り上げ、献堂式まで導かれた先人の方々の努力に、私たちは様々な恩恵をこうむっています。そしてもちろんその背後には、神様が私たちを導き支えておられる。改めて感謝を申し上げたいと思います。その代表格として、改めてこの正面のイエス像に目を向けてみたいと思うんですが、十字架像というと多くは十字架上で死去するイエス様の姿が多いんですが、ここの教会の場合には、復活のイエス様が御像として掲げられています。十字架の輪郭。確かに十字架はあるんですけれども、壁の色と同じ十字架になっていますので、その壁の色に吸い込まれるようになっている。その上にイエス様の像が飛び出るという形になっていますが、これは十字架に対する勝利、復活を表しているんだそうです。そして聖堂全体を「シャローム」、皆さんに平和があるようにという挨拶ですけれども、この平安と喜びで包んでいる。さらにこの皆さんが座っていらっしゃる聖堂は12の柱で支えられているんですけれども、同時に私たちの先輩たちが眠っているクリプタに支えられています。地下にクリプタがありますので。この建物の構成自体が「死から復活へ」ということを象徴的に示している。この主聖堂はそういう意味で主イエスの復活を象徴するお御堂となっています。
この聖堂を建築する時に、ミサが終わる時にみんなが声を合わせ、心を合わせてお祈りをした祈りがあります。改めて読んでみますと、今の私たちの祈りにもしたいところです。建築のところを献堂25周年という言葉にちょっと変えてこの祈りをもって説教を結びたいと思います。皆さんもどうぞ耳で聞きながら心でのお祈りしてください。
父なる神よ、あなたは慈しみ深い御心から、御子イエスをこの世に遣わしてくださいました。主イエス・キリストは救いの恵みを人々に与えるため、聖なる教会を建てられ、この地に聖イグナチオ教会共同体を育まれました。今、私たちは献堂25周年を迎えて、この教会があなたの御心にかなうものとなるよう、心を1つにして祈ります。道行く人々が聖堂を仰ぎ見て心の安らぎと神の招きを感じますように。聖堂で祈る人々が御父の愛に包まれ、救い主イエスに出会うことができますように。キリストの食卓を囲む私たちが喜びのうちに礼拝と賛美を捧げ、1つの共同体として社会の光と塩になれますように。あなたの祝福が設計、募金、労働、祈り、奉仕をもって協力するすべての人々に豊かに注がれますように。私たちの主イエス・キリストによって。
ミサの終わりにご寄付を頂いたザビエル聖堂オルガンの祝福式が行われました。
キリストの聖体の祭日
李 聖一 神父
キリストの聖体を記念するこの日曜日ですが、皆さんお一人お一人にご聖体に関するというか、ご聖体の思い出っていうのはおありだろうと思います。私は幼児洗礼でしたので、小学校2年生の時に初聖体っていうのがあって、そこで初めてご聖体をいただきました。あまり美味しいものとは思いませんでしたが、そのご聖体をいただく時によくその神父さんから「これ、噛んじゃいけないよ」って言われて、噛めるほどのものじゃありませんから、こんなもん噛めるかいなと思ってたんですけど、どうして噛んじゃいけないんだろうなと思って母に聞いたら、母は「ご聖体を噛んだら十字架のイエス様から血が流れる」って言ったんですよ。私はびっくりして、そんなことあるかいなと思いながら、注意深く噛まないようにご聖体を飲み込むわけですよね。ある時に口の中にくっついちゃってうまく食べられなくて、しょうがなく噛んでしまったことがあって、ああ、しまったと思って十字架像を眺めたら、別に流れてないなと思って安心したことがありました。
それからイエズス会に入って神学っていうのを勉強し始めた時に、私はそのことがどうしても気になったので、その当時典礼神学を教えておられた土屋神父様、この方は日本語の典礼を作っていくのにとっても尽力された方ですけど、その神父さんの授業の時に、子どもっぽい質問なんだけどと思いながら勇気を出して質問したんです。「神父さん、子どもの頃からご聖体噛んで食べちゃいけないって言われてるんですけど、本当ですか」って聞いたらですね、その神父さんの答えは素晴らしい答えでしたね。「ヨハネの福音書に『わたしの肉、わたしの血。これを食べ、そして飲み』っていうふうに言われているが、その食べるっていうこの言葉は、実はむしゃぶりつくとか、噛み砕くとか、そういう意味なんです。だから遠慮せず噛みなさい」って言われたんです。ああ、そうかと思って、神学っていうのは大事な学問ですから、私はそれを聞いてもう安心してご聖体をいただくようになりました。イエスご自身がその生涯を通して私たちに残してくださった「わたしの体」っていう、そういった時に本当にありがたくいただく、丁寧にいただくっていうこともあるんでしょうが、本当に噛み砕かれる、そのためにイエスはご自分の体を残されたっていう、そんなことを思いながらいただくのもいいかな、と実は思っているところがあります。
ところでこのご聖体っていうのは、私たちの信仰生活の中で一番大事だと思っている方はたくさんいらっしゃると思いますが、カトリックの歴史の中でこのご聖体について歌われた歌って結構たくさんあるんですね。ラテン語の聖歌なんかもいくつもあって、聖体賛美式だとかそういった時によく歌われるんですが、その中にトマス・アキナスが作った祈りがあるんです。「アドロ・テ・デボーテ」って言うんですが、「あなたを賛美し」という、そういうタイトルですけれども、その聖体賛歌っていうのをずっと見ていくと、最後の方にとっても不思議な言葉が出てくるんです。それは何かっていうと「ピエ ペリカーネ ドーミネ イエス」っていう言葉が出てくるんですね。これは日本語に訳すと「慈悲深きペリカン、我が主イエス」って言っているんです。そして「あなたの流された血によって人類は救われ、私は清められます」っていう言葉が続くんですけど、この「ピエ ペリカーネ」って何だろうと思ったんですね。実は日本語訳にその「ピエ ペリカーネ」っていうのをそのまま訳しているものがあまりないんです。慈悲深きペリカンよ、って何でここでペリカンが出てくるのか私はわからなかったんですね。ペリカンってあんまり見たことないですよね。動物園に行ってペリカンのいる動物園が日本にどれくらいあるか知りませんし、動物図鑑かなんかで見たような記憶もあるんですけれども、このペリカンとイエスはどう結びつくのか、私は色々と勉強してみたんですよ。そうしたらですね、ペリカンっていうのは古代のエジプトとか中近東のああいった国々では、ペリカンは自分の胸をくちばしでつついて、そこから流れ出る血によってヒナを育てるっていう伝説があるんですって。はぁーと思いました。ペリカンってくちばしが長いんですね。そのくちばしで自分の胸をつついて、そこから流れ出る血によってヒナを育てる。そしておそらく中世のヨーロッパのカトリック教会の中ではそういった話が伝わってきて、十字架上で流されたイエスの血によって私たちは清められ、そして生きるものとなるっていう、そこへと結びつけたんだっていうことがわかったんですよ。なるほど、慈悲深きペリカンよ、ってそういう意味があるのか。
そして今日の第一朗読、第二朗読は、ご聖体というよりも契約の血っていうことがテーマになっていますけれども、そのイエスが流された血っていうもので私たちは清められ、救われるっていう。そういったことがやっぱり強調されているんだな、ということがわかったんです。ペリカンってさっきも言ったようにくちばしが長いんですが、眠るときにそのくちばしを自分の胸に隠して寝るんだそうですね。そういった姿が自らの血によってヒナを育てるなんていう話になっていったんでしょう。そして古代エジプトでは、ペリカンってペットとして飼われていたんですってね。そしてとっても役に立つ動物で、川に行って魚を取って持ってくるって言うんですよ。この口の中に魚を入れて持ってくる。ああ、そうしたらこれ日本の鵜飼いの鵜と同じようなもんかなと思ったら、実は動物学的に分類していくと、ペリカンと鵜っていうのは同じ種族なんだそうです。なるほどなあ、と思いましたけれども。そんな古代からの言い伝え、そうしたものがイエスのこのご聖体、また御血というものと結びついて語られている。そういう歌、聖体賛歌っていうのがあるっていうことを気がついたんですが、それと同時に私は広島の人間ですけれども、広島に平和記念聖堂っていう幟町の教会があります。そこに正面ファサードに描かれている彫刻っていうか彫り物っていうか、鉄の板ですので、そこに彫り込まれている絵っていうのは実はペリカンなんですね。これに気づく人は結構いないですよ。結構いない。2つあるんですけど、右側の方は不死鳥が描かれていて、左側にペリカンが描かれて、そしてそこから落ちてくる血のしずくっていうのも一つ一つ描かれているんです。で、これはドイツから贈られたものだって言われてますけれども、おそらく原爆の被害によって多くの人々の血が流された。その血によってこの世界に平和がもたらされますように、という願いを込めたファサードなんだっていうことを聞きました。なるほどなあ、私たちが流していく血っていうものが平和を作る、人を助ける、人の命を清めていく。そういったものになっていくっていう願いを、このご聖体というものに込めた。そうした意味というものを、わたしたちは受け取ることができるかなと思います。ご聖体っていうのはもちろん、私たち一人ひとりの個人的な信仰生活を深めていくためにとっても大事なことである。それは言うまでもないですが、しかし同時に私たちがいただくそのご聖体によって、私たちがまた社会に対して、あるいはこの世界の現実に対して語りかけるもの、そしてまた私たちが成すべきことは一体何か。そういったことも含めて捉えていく必要がある秘跡だなというふうに思います。今日はそういった意味でご聖体をいただく時に、このご聖体が私の信仰を深める、そしてまた同時に世界のために私たちが何をするか、それをも考えていく。そうしたきっかけになっていくようになればと思います。
最後にご聖体拝領するときに皆さん手を前に差し出してくださって、私は「キリストのからだ」って言いますが、そのとき大事なことがあるんですね。これも典礼神学の土屋神父さんから教わったことですが、必ず「アーメン」って言う。これはキリスト者にとってとても大事な信仰告白なのだっていうことを教えていただきました。時々「キリストのからだ」と言って、なんか恥ずかしそうに手を出してそのまま去って行かれる方がいらっしゃいますが、これはもう自信を持って、「これはイエスの体だ」「はい、そうです」、そういう意味でアーメンって言う。この言葉を自らの信仰告白として、その言葉が言えるようになさったらいいんじゃないかなと思います。そういう意味で今日ともにこのキリストの聖体のミサをお祝いしたいと思います。