トップページ おしらせ ミサライブ配信とお説教2024年5月の説教

2024年5月 ミサ説教

2024年4月


主の昇天の祭日 子どもとともにささげるミサ

山内 豊 助祭

5/12(日)10:00- 主の昇天の祭日


 皆さん、おはようございます。元気ですか?今日のミサのテーマって、何か知ってるかな?はい、「さあ、出かけよう」というテーマです。「さあ、出かけよう」って、どこに出かけると思う?わかんないよね、ちょっと。え?遊園地に出かける。はい、ディズニーランドに出かける。イエス様は「さあ、出かけようって」言って、ディズニーランドに行くのかな?じゃあ、何しに出かける?乗り物に乗りに行く。私たちはイエス様に「さあ、出かけて行って何とか」って言われた時に、「さあ、出かけて行って、ディズニーランドに行って乗り物に乗ろう」って、そう言われるかもしれないですね。イエス様は何しに出かけるかって言うと、私たちはミッションをしに出かける。ミッションって英語なんだけど、意味わかるかな?ミッションわかる?そうだね、このお仕事をしてくださいって、命令されてそこに行く。そして役割を果たして帰ってくるっていう感じになります。ミッションって他の言葉で言うと、使命。使命って言葉わかる?わかるね。やるべきことをやる、すごいね、はい、その通りです。私たちカトリックの信者、信者じゃない子もいると思うけど、使命っていうものがあるんだね。イエス様に、この仕事をちゃんとやってねって、与えられた使命があります。そう、今日の福音箇所で出てきてるんだけど、イエス様が私たちにした命令っていうか、お願いっていうか、何ですか?今日、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」っていう使命を私たちは受けました。


2024年5月12日 主の昇天の祭日 子どもたちと和気あいあいするお説教

 これは例えなんだけど、私たちは神様から2種類の手紙を預かっていると思うんですね。1つは教会宛の手紙。そう、教会宛の手紙ね。だから私たち全員に「教会共同体様」っていう手紙をもらっています。それが今日読まれた「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」っていう手紙。それね、1つの使命ね。教会が果たさなきゃいけない。教会って言ったら、私たち一人ひとりのことね。もう1つは個人宛、一人ひとりの名前が書いてある。例えば私だったら山内豊宛に手紙が送られてくる。それは神様が私たち一人ひとりに宛てた手紙。あなたの使命はこれだ、っていう手紙が送られてきます。人生の中でそれを読み解いて生きていくのが私たちの目的だと思います。ちなみに自分の話になっちゃうんだけど、私、神父になろうって思う前って何を仕事にしてたか、知ってる?何ですか?サンリオピューロランドの人ではありません、私は。はい、私は警察官だったんですね、昔。知ってた?知らなかった…。2年間一緒にいたのにね。私が洗礼を受けたのは何歳だと思う?私が洗礼を受けたのは22歳の時でした。22歳、私は大学1年生だったんです。なんで22歳で大学1年生かっていうと、まあ秘密っていうか、今ここでは言わないです。私は洗礼を受けたんですけど、聖書も読んで、この「全世界の人々に福音を告げなさい、イエス様のことを伝えなさい」っていうメッセージはわかったんですけど、私個人宛に来た「あなたは人生においてこのミッションを果たしなさい」っていうものが、まだわからなかったのね。大学4年生になってもまだわからなくなって。大学4年生が終わったら私は、就職ってわかる?仕事に就いたんです。警察官として。それはなんか、もっといろんなものを見てみたいって思ったわけです。パソコンの前で仕事をすることより、私にとってはもうちょっと人と出会って経験したいと思いました。なので、警察官になったわけです。この世界の綺麗なものも、汚いものも全部見てやろうみたいな気持ちでした。(今、警察官?と聞かれて)今は違います。今は助祭ですね。


2024年5月12日 主の昇天の祭日 お説教をする山内助祭

 警察官になっても自分の使命について、ミッションについて考え続けました。警察官って、基本的にどういう人に会う仕事だと思う?会うっていうのは出会う、仕事の中でどういう人に出会っていく仕事だと思う?悪魔?いや悪魔には出会わなかったけど、はい、ゾンビでもないし。悪い人って一括りにするのもどうかなと思うんですけど、だいたい困ってる人とか苦しんでる人とか、そういう人に出会いました。でも、喜んでる人ってあまり警察官と出会わないんだよね。だって、110番する時ってどういう時ですか?ゴキブリが出た!110番だっていうことじゃないよね。まあ、そのゴキブリが出たっていうことも、人にとってはもう災難な時、あまり嬉しくない時ですね。私はそういう方々と出会ってきました。ある時は、生きてない人にも出会いました。なんか様々な理由、交通事故になってしまった人とか、心の病で大変な気持ちになって死んでしまった人。そういう人たちにも出会いました。怖い?怖くないんだよ。それで、私はその人たちを見て、死んでる人たちを見て、死んだ方々はなんか自分に語ってるような気がしたんですね。だって、生まれてきて、苦しい思いして亡くなった。なんと言うんだろう、私の人生はこうだった、こんなことになってしまった。あなたの人生はどう生きる?って問われている感じがした。それとともに私はその死んでいる人を見て、あなたは私と共に歩んでくれないかって言っておられる気がしたんですね。その時に、これは神様から届いた手紙、使命だって思ったわけです。それで結局、イエズス会という修道会に入って、今は助祭になってます。これからもそういう人たちに関われるような仕事をしたいと思ってます。今、心理学科でね、心理学の勉強をすずさんと一緒にやっております。心理学っていうのは、人の心について勉強する。占いではないですね。とても興味深い学問です。ぜひよかったら皆さん、心理学を勉強してください。


2024年5月12日 主の昇天の祭日 ご聖体を授ける柴田神父と山内助祭

 皆さんは神様から手紙をもらったことがありますか?じゃあ、大学生の方々はもらったことありますか?あなたは人生をかけてこのミッションをしてください、という。私も大学生の時いなかったから。必ず一人ひとりに使命が与えられます、神様から。人生でこれをしろ、と。そして人々に仕えろという使命が届きます。でもね、ただただぼーっと生きてると、それに気づけないね。私、最近まで子どもだったんですよ、はい。皆さんと同じくらいの年頃だったんですよ。でも、ちょっとぼーっと生きたらもうこの年ですよ。私、今年40歳になるんで、人生って本当に短いんだなって思うのね。だから皆さんには、よく人生において考えて、いろんなことを感じて、そこらじゅうに神様のメッセージがあるから、それを見て生きていってほしいなって思います。ミッションは絶対あるから、ちゃんと心を澄まして、見て、生きていくようにしましょう。私もこれからもそういう気持ちで生きていきたいと思います。じゃあ、以上で。ありがとうございます。


復活節第6主日

関根 悦雄 神父

5/5(日)10:00- 復活節第6主日


 今日のみ言葉のテーマは明白です。「神は愛である」。そして私たちには「互いに愛し合いなさい」。これはイエスの言葉、イエスの命令と言ってもいいでしょう。問題は、私たちがそれをどのように受け止めて、実行していくかということだけだと思います。今日の福音で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と言いました。この福音はヨハネ15章にあるものですが、イエスはすでに最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗い、そしてその後で「わたしはあなたがたに新しい掟を与える」と言って、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われた。これが新しい掟なんです。今日のところでも何度も繰り返されます。


2024年5月5日 復活節第6主日 主司式の関根神父

 ヨハネのこの手紙、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。イエスは私たちに模範を示してくださいました。そして、愛が何であるかを具体的に示してくださいました。それは、最終的に自分自身の命も含めて、全てを私たちのために与えたということです。それは十字架上につけられて殺されることになりますが、それです。自分の身にあるものを全て差し出す。これが愛の本質です。もちろん私たちは全部を差し出して、何もかも、命までも、それは今のところ難しいかもしれません。しかし歴史を見るならば、今日のこの福音にもあるように「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。イエスは私たちを友、私たちを愛するから自分の命を十字架上で捧げてくださった。このイエスの愛を知った者は、その後この愛を実行しようと歴史の中でしてきました。日本でもそうでしょう。たくさんの殉教者が生まれました。苦しめられても、最終的に命を取られても、私は人々を愛します。神の正しい、神の福音を告げ知らせます。そのように生きたんです。この「友のために命を捧げること」。今、皆さんも最初に思い出すのはおそらく、もしかするとコルベ神父のことかもしれませんね。そんなに親しい人ではない、その人が殺されることになった。その人の悲しみを見て、私は代わりになります、と自分自身を差し出した。これですよ。


2024年5月5日 復活節第6主日 ご聖体を授ける関根神父

 私たちは命を差し出すところまで行けるかどうか、これは私たちの信仰の深さにかかっていると思います。私たちは自分がこの神の愛で満たされていないと、なかなかそれはできないと思います。神の愛に満たされるように、私たちはこのミサに与っています。ミサの中で私たちは、キリストの体を、命を受けるんです。聖体拝領とはその意味です。キリストの命を受けて、私たちが一人ひとり神に愛されているということをそこで確認し、私たちも、私たちの周りにいる愛が必要な人のところに行って私たちを与える。これはね、具体的な愛の形というのは決められません。色々あります。そして人によって、別に偉大なことを考えなくてもいいと思います。でもこの愛の行為の原型として、イエスは最後の晩餐の席で、新しい掟を与える前に弟子たちの足を洗ったという、そういう行為をしたんですよ。この弟子たちの足を洗うというのは、僕(しもべ)の、奴隷の仕事でした。先生である者が身を低くして弟子たちの足を洗った。ここに愛の本質がある。それで互いに足を洗い合いなさいと言った。そして、互いに愛し合いなさいと命じたんです。私たち、誰もこれを忘れていないでしょうね。私たちにとって唯一の掟は、互いに愛し合いなさい、これです。ところが残念ながら、今の世界はこの愛と反対のものが満ち満ちていると言わざるを得ない。自分だけ、人は関係ないとか、さらには人から奪っても自分が豊かになるとか、そういうことを目指して生きている人もいるわけですよ。その極端な形が争いとか戦争につながっていくと思います。そういう中で、本当に愛を支柱としているのは誰か、というのを見極めるのも大切なことだと思います。


2024年5月5日 復活節第6主日 主聖堂祭壇と生花

 皆さんは自分自身がまず、愛されていると思いますか?事実を申し上げましょう。一人ひとり今ここに存在しているということは、愛されたということです。もし小さい時から愛がなかったら、生存できないんですよ。家庭で生まれてたら、何も人間的な愛を示されずにただ食べ物だけ与えられても生存できない。私たちが今生きているということは、愛されてきた。もちろん人によって十分かどうかはありますけれども、しかし生存できるだけの愛は受けてきた。そして私たちは、もっともっと愛を受けるように、これも願ったらいいんじゃないかと思います。私たち、愛するために愛されるように、もっともっと愛されるようにと言って愛されるようになると、人を愛することももっとできるようになる。人を愛すれば愛するほど、また人からも愛される。これが普通だと思います。私たちがそういう生き方をして、今の社会、日本を含めて、分断とか愛に反するものが強く働いている、そういう面があります。そういう中で本当の愛を示していくこと、自分が低くなって人の足を洗うこと。これをしていくことができるように、そういう恵みを今日はご一緒に願いましょう。


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