2024年5月 ミサ説教
三位一体の主日
山内 豊 助祭
5/26(日)10:00- 三位一体の主日
今日は三位一体の主日です。皆さん三位一体っていうとなかなかイメージがつかないと思います。私も分かったような分からないような感じがします。私が初めて三位一体っていう言葉を聞いたのは、20歳ぐらいの時に小泉純一郎さんが「三位一体の改革」っていう改革を出された時に、三位一体っていう言葉があるんだって初めて知りました。三位一体の改革っていうのは、三つの改革を一体として行うっていうものでした。その使い方が正しいかどうかは私には分かりませんが、三位一体っていう言葉は1500年ぐらい論争が続いていた概念です。今日は、もっとシンプルな話をしたいと思います。
私は三位一体って聞いて、まず心に残っているフレーズがあります。「父は創造し、子は救い、聖霊は導く」という言葉があります。これは三位一体についてよく言われるフレーズです。ですが、誰が言い出したか分からないんですけど、結構教会の中で使われたりします。この言葉は三位一体を黙想するのにとても優れたフレーズだと思います。でも注意が必要です。「父は創造し、子は救い、聖霊は導く」という言葉。父は創造しかやらないのか、子は救いしかやらないのか、聖霊は導きしかやらないのか。父は他のことをやらないんですか?そういうことを考えることもあるんですけど、実際これはみんなで、みんなというか、三位一体の神としてそれを行います。だから「父は創造し」って言っていても、子も聖霊もその創造のわざを行います。ただ、その父、子、聖霊の働き、創造、救い、導きの働きを前面に押し出した時に、創造は父が前面に立ってやっている感じがします。救いはイエス・キリストが受肉されてこの世に来たっていうところが前面に押し出されます。今私たちが生きている時代は聖霊の導きによって生きています。そういうイメージが創造、救い、導きの各前面に出ています。
まず父なる神です。父なる神を思う時、私たちは創造の神秘を感じます。たとえば偉大な自然を見て、山登りをして頂上に立って周りを見渡して、父なる神の創造は素晴らしいと思ったり、小さい自然の世界、小さい虫とかそういうものを見て、この自然のハーモニーっていうか、調和をすごく感じて、父の創造の神秘を感じる時もあります。皆さんはジャズの曲で“The Very Thought of You”っていう曲知ってますか?ジャズで昔から歌われていて、ナット・キング・コールとかが歌って有名な曲なんですけど、そこにこういう歌詞があります。
I see your face in every flower
Your eyes in stars above
It's just the thought of you
The very thought of you, my love
これを日本語に訳すと「私はすべての花の中にあなたの顔を見る 上空の星たちの中にあなたの目を見る ただあなたを思っている、とてもあなたのことを思っている 私の愛する人よ」っていう歌詞なんですね。私たちが創造の神秘に触れる時、そこに神を見る。父なる神を見る。それはまさにこの詩のように思うわけです。花を見たら神の創造を思い起こし、空を見たら父なる神の目を見る。そういう形で私たちは父なる神の創造に触れることができます。他にも、たとえば芸術の作品があるとします。芸術の作品は作者の思いが現れています。私は今心理学の勉強をしているんですけど、描画法というものがあるんですね。たとえばバウムテストというのがあって、それは木を描くことによってその人、描いてもらったクライエントのその心が少しわかるっていうものなんです。やはり、そういうテストとかでも描いた人の心が現れるわけです。だからこの世界の創造の神秘を見る時に、神の、作者の思いが出てくるわけです。それは人でもそうだし、他の被造物でも同じです。
そして、子なるイエス。イエスを思い起こす時に、救いと切り離せないことに気づきます。皆さん、それぞれキリストに救われたということで、ここに集まっていると思います。救いがあったからこそ、ここにいる。その時に救いの主人公はイエス様だったと思います。私も同じです。誰かから見捨てられた時、自分の人生は失敗したと感じた時、世界の中で自分はたった一人で存在していると孤独を感じた時。そういう時に私はイエスと出会ってきました。そういう辛い時、イエスと出会うと、まさにザアカイのように喜び踊る気持ちが湧いてきます。ザアカイっていうのは徴税人で、イエスを一目見たくて木に登った人です。「私はあなたの家に今日泊まることになっている」って言われて、喜び踊ったっていう彼ですね。私はすごくあの人の気持ちがわかって、本当にイエスに声をかけられた時、そのような気持ちになります。
もう1つは聖霊です。聖霊は風に譬えられます。聖書にこのように書かれています。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのか知らない」と言います。皆さんも聖霊の働きを感じたことがあると思います。心に風が立つ時、自分の心がザザーッとなる時、そういう時があったんじゃないかなと思います。私のイメージで言うと、風がこう田んぼを撫でる時がありますね。こうザザーッと目で見えるような形で。あの感覚が私の心の中に時々出てきます。それをよく見る時に、この風は自分をどこに導いていこうとしているんだろうかと感じます。皆さんも同じ体験があるんじゃないですか。たとえばカトリックで洗礼を受けようと思った時、私の心はザザーッと何かに導かれるようにして洗礼を受ける。私なんかはイエズス会に入ろうと思った時も、ザザーッと風が吹いた感じがしました。私の心の中に何か強い働き、風が吹くっていう感じがしました。そのザザーッということが私の心の中に起きる時、私は聖霊を思います。聖霊がどこかに私を導こうとしている。そのように感じます。
このように「父は創造し、子は救い、聖霊は導く」という言葉は、三位一体の神を黙想する時にとても役に立つフレーズです。ぜひ良かったら、皆さんも神に思いを馳せたい時に「父は創造し、子は救い、聖霊は導く」という言葉を思い出していただけたらいいなと思います。
聖霊降臨の主日
柴田 潔 神父
今日は聖霊降臨の祝日です。イエス様の力ある業にはいつも御父からの聖霊が働いていました。天に昇られるイエス様は、ご自分に働いていた聖霊を私たちに送ってくださると約束され、今日、聖霊降臨をお祝いしています。聖霊降臨は、イエス様が天に昇られた後、私たちが神の国を築いていく転換点です。聖霊はイエス様に、そして今の私たちにも働いてくださる。聖霊がより働いてくださるように、イエス様が1日の中でどのようにお祈りされていたのか考えてみます。
上智大学神学部で「神学ダイジェスト」を発行しています。その36号に「イエスの生涯と初代教会における毎日の祈り」という記事があります。少し長くなりますが、今日はその中からご紹介いたします。
日の出、午後3時、日没。この3つの時刻がユダヤ人の祈りの時間でした。イエス様をはじめとするイスラエルの人は皆、若い頃から時間を決めて日課にして祈る“時課”を大切にしていました。第1の祈りは日の出前の祈り。ヘブライ語でシェマ、「聴け」という言葉から始まるところからシェマと呼ばれていました。「聴け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。この朝の祈りの習慣、神殿で、また様々なところで日の出前にシェマを共唱、共にお祈りしていたと記されています。第2の祈りは午後の祈りで、3時頃に唱えられていました。その時刻には神殿で夕べのいけにえが捧げられています。そのためにたくさんの人が集まり、エルサレムの道がごった返す時に皆で唱えていました。エルサレム以外の地に住む人々も集い、各地の集会でお祈りを捧げます。第3の祈りは日没後です。シェマの祈り、「全力を尽くして神を愛すべき」という戒めを確認します。「今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も起きている時もこれを語り聞かせなさい」。この「寝る時も起きる時も」という言葉が、朝だけでなく、寝る前にもシェマの信仰告白を唱える習慣を生み出します。
福音書では、様々な場面でイエス様がユダヤ教の伝統、時課を守ってお祈りしていたことがわかります。「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」。マルコにはこうあります。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れたところに行き、そこで祈っておられた」。日の出前、第1の祈りをしているイエス様の姿が描かれています。「祈るときにも、あなた方は偽善者のようであってはならない」。午後3時の祈り、第2の祈りを示唆していることがわかります。パンを増やす奇跡の後で夕暮れ近くになると、イエスは山に退いて祈っていた。日没後の第3の祈りです。時にイエス様は晩の祈りを延長して、日の出の時刻までお祈りしていたこともあります。「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた」。イエス様は決まった時間に祈る、時課に基づいてお祈りをしていました。
私は最近、このイエス様と同じ時間帯に祈ろうとしています。日頃「お仕事、次のお仕事」と向かっていますが、その前に聖堂に座って静かに呼吸を整えるようにしています。お祈りの前に、まず「ふーっ」と息を吐き出します。「お仕事、お仕事・・・」と思っていた私は、浅い息になっていることを感じます。吐き出しているうちに、神様からの息吹を取り戻していきます。創世記にはこうあります。神様は人の鼻の穴に「ふーっ」と命の息吹を吹き込み、人は生きるものとなりました。人間誕生の場面です。私たちは意識をしないで呼吸をしています。でも神様は、人の鼻の穴に「ふーっ」と命の息吹を吹き込むことで生きるものとなりました。この場面を黙想して、神様からの命の息吹を思います。1日に3回、息を整えてお祈りをすると、聖霊の働きを感じてきます。「真理の霊はあなたたちを導き、真理を悟らせる」。聖霊は私たちを正しい方向に導き、救いや真理に到達させてくれます。「ふーっ」という命の息吹が吹き込まれて、仕事中毒気味の私に、真理へと向かうように導いてくれます。聖霊は、闇の状態から神様がいらっしゃる場所へと案内してくれます。
聖霊の大きな働きは慰めです。「慰め主、聖霊」(パラクレートス)です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。ゆとりのない生活の中でも祈りの時間を取ることで聖霊の慰めを感じるようになります。イエス様は御父との対話を毎日3回は行っていました。その姿を思い描き、私たちも祈りの時を作っていきましょう。
これまで個人の話をしましたが、教会にも聖霊が働いています。昨日は夕方、新侍者の練習がありました。主に4月7日初聖体を受けた小学3年生です。子どもたちは主の食卓、祭壇を囲んでイエス様の体を初めて拝領しました。その後、会衆の皆さんからたくさんの拍手をいただきました。その拍手の促しもあってか、今年は17人の子どもたちが侍者を志願しています。教会として本当に嬉しいことです。すでに侍者をしているお姉さんの動きを見ていて、今日も姉妹で侍者をしてくれていますが、すでに侍者ができそうな子もいれば、聖堂の中を走ったり、カニさん歩きをしている子もいます。ともかく侍者をしたいと志願する子がこれだけいることは、教会に聖霊が働いていることのシンボルです。7月14日の新侍者祝福式まで毎週練習をします。またミサの後、昨年洗礼を受けられた方の堅信準備会があります。聖霊は私たち一人ひとりの生活の中にも、また教会にも働いています。昇天されたイエス様からの使命、神の国を私たちが築いていく使命を果たしてまいりましょう。
主の昇天の祭日 子どもとともにささげるミサ
山内 豊 助祭
5/12(日)10:00- 主の昇天の祭日
皆さん、おはようございます。元気ですか?今日のミサのテーマって、何か知ってるかな?はい、「さあ、出かけよう」というテーマです。「さあ、出かけよう」って、どこに出かけると思う?わかんないよね、ちょっと。え?遊園地に出かける。はい、ディズニーランドに出かける。イエス様は「さあ、出かけようって」言って、ディズニーランドに行くのかな?じゃあ、何しに出かける?乗り物に乗りに行く。私たちはイエス様に「さあ、出かけて行って何とか」って言われた時に、「さあ、出かけて行って、ディズニーランドに行って乗り物に乗ろう」って、そう言われるかもしれないですね。イエス様は何しに出かけるかって言うと、私たちはミッションをしに出かける。ミッションって英語なんだけど、意味わかるかな?ミッションわかる?そうだね、このお仕事をしてくださいって、命令されてそこに行く。そして役割を果たして帰ってくるっていう感じになります。ミッションって他の言葉で言うと、使命。使命って言葉わかる?わかるね。やるべきことをやる、すごいね、はい、その通りです。私たちカトリックの信者、信者じゃない子もいると思うけど、使命っていうものがあるんだね。イエス様に、この仕事をちゃんとやってねって、与えられた使命があります。そう、今日の福音箇所で出てきてるんだけど、イエス様が私たちにした命令っていうか、お願いっていうか、何ですか?今日、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」っていう使命を私たちは受けました。
これは例えなんだけど、私たちは神様から2種類の手紙を預かっていると思うんですね。1つは教会宛の手紙。そう、教会宛の手紙ね。だから私たち全員に「教会共同体様」っていう手紙をもらっています。それが今日読まれた「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」っていう手紙。それね、1つの使命ね。教会が果たさなきゃいけない。教会って言ったら、私たち一人ひとりのことね。もう1つは個人宛、一人ひとりの名前が書いてある。例えば私だったら山内豊宛に手紙が送られてくる。それは神様が私たち一人ひとりに宛てた手紙。あなたの使命はこれだ、っていう手紙が送られてきます。人生の中でそれを読み解いて生きていくのが私たちの目的だと思います。ちなみに自分の話になっちゃうんだけど、私、神父になろうって思う前って何を仕事にしてたか、知ってる?何ですか?サンリオピューロランドの人ではありません、私は。はい、私は警察官だったんですね、昔。知ってた?知らなかった…。2年間一緒にいたのにね。私が洗礼を受けたのは何歳だと思う?私が洗礼を受けたのは22歳の時でした。22歳、私は大学1年生だったんです。なんで22歳で大学1年生かっていうと、まあ秘密っていうか、今ここでは言わないです。私は洗礼を受けたんですけど、聖書も読んで、この「全世界の人々に福音を告げなさい、イエス様のことを伝えなさい」っていうメッセージはわかったんですけど、私個人宛に来た「あなたは人生においてこのミッションを果たしなさい」っていうものが、まだわからなかったのね。大学4年生になってもまだわからなくなって。大学4年生が終わったら私は、就職ってわかる?仕事に就いたんです。警察官として。それはなんか、もっといろんなものを見てみたいって思ったわけです。パソコンの前で仕事をすることより、私にとってはもうちょっと人と出会って経験したいと思いました。なので、警察官になったわけです。この世界の綺麗なものも、汚いものも全部見てやろうみたいな気持ちでした。(今、警察官?と聞かれて)今は違います。今は助祭ですね。
警察官になっても自分の使命について、ミッションについて考え続けました。警察官って、基本的にどういう人に会う仕事だと思う?会うっていうのは出会う、仕事の中でどういう人に出会っていく仕事だと思う?悪魔?いや悪魔には出会わなかったけど、はい、ゾンビでもないし。悪い人って一括りにするのもどうかなと思うんですけど、だいたい困ってる人とか苦しんでる人とか、そういう人に出会いました。でも、喜んでる人ってあまり警察官と出会わないんだよね。だって、110番する時ってどういう時ですか?ゴキブリが出た!110番だっていうことじゃないよね。まあ、そのゴキブリが出たっていうことも、人にとってはもう災難な時、あまり嬉しくない時ですね。私はそういう方々と出会ってきました。ある時は、生きてない人にも出会いました。なんか様々な理由、交通事故になってしまった人とか、心の病で大変な気持ちになって死んでしまった人。そういう人たちにも出会いました。怖い?怖くないんだよ。それで、私はその人たちを見て、死んでる人たちを見て、死んだ方々はなんか自分に語ってるような気がしたんですね。だって、生まれてきて、苦しい思いして亡くなった。なんと言うんだろう、私の人生はこうだった、こんなことになってしまった。あなたの人生はどう生きる?って問われている感じがした。それとともに私はその死んでいる人を見て、あなたは私と共に歩んでくれないかって言っておられる気がしたんですね。その時に、これは神様から届いた手紙、使命だって思ったわけです。それで結局、イエズス会という修道会に入って、今は助祭になってます。これからもそういう人たちに関われるような仕事をしたいと思ってます。今、心理学科でね、心理学の勉強をすずさんと一緒にやっております。心理学っていうのは、人の心について勉強する。占いではないですね。とても興味深い学問です。ぜひよかったら皆さん、心理学を勉強してください。
皆さんは神様から手紙をもらったことがありますか?じゃあ、大学生の方々はもらったことありますか?あなたは人生をかけてこのミッションをしてください、という。私も大学生の時いなかったから。必ず一人ひとりに使命が与えられます、神様から。人生でこれをしろ、と。そして人々に仕えろという使命が届きます。でもね、ただただぼーっと生きてると、それに気づけないね。私、最近まで子どもだったんですよ、はい。皆さんと同じくらいの年頃だったんですよ。でも、ちょっとぼーっと生きたらもうこの年ですよ。私、今年40歳になるんで、人生って本当に短いんだなって思うのね。だから皆さんには、よく人生において考えて、いろんなことを感じて、そこらじゅうに神様のメッセージがあるから、それを見て生きていってほしいなって思います。ミッションは絶対あるから、ちゃんと心を澄まして、見て、生きていくようにしましょう。私もこれからもそういう気持ちで生きていきたいと思います。じゃあ、以上で。ありがとうございます。
復活節第6主日
関根 悦雄 神父
今日のみ言葉のテーマは明白です。「神は愛である」。そして私たちには「互いに愛し合いなさい」。これはイエスの言葉、イエスの命令と言ってもいいでしょう。問題は、私たちがそれをどのように受け止めて、実行していくかということだけだと思います。今日の福音で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と言いました。この福音はヨハネ15章にあるものですが、イエスはすでに最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗い、そしてその後で「わたしはあなたがたに新しい掟を与える」と言って、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われた。これが新しい掟なんです。今日のところでも何度も繰り返されます。
ヨハネのこの手紙、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。イエスは私たちに模範を示してくださいました。そして、愛が何であるかを具体的に示してくださいました。それは、最終的に自分自身の命も含めて、全てを私たちのために与えたということです。それは十字架上につけられて殺されることになりますが、それです。自分の身にあるものを全て差し出す。これが愛の本質です。もちろん私たちは全部を差し出して、何もかも、命までも、それは今のところ難しいかもしれません。しかし歴史を見るならば、今日のこの福音にもあるように「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。イエスは私たちを友、私たちを愛するから自分の命を十字架上で捧げてくださった。このイエスの愛を知った者は、その後この愛を実行しようと歴史の中でしてきました。日本でもそうでしょう。たくさんの殉教者が生まれました。苦しめられても、最終的に命を取られても、私は人々を愛します。神の正しい、神の福音を告げ知らせます。そのように生きたんです。この「友のために命を捧げること」。今、皆さんも最初に思い出すのはおそらく、もしかするとコルベ神父のことかもしれませんね。そんなに親しい人ではない、その人が殺されることになった。その人の悲しみを見て、私は代わりになります、と自分自身を差し出した。これですよ。
私たちは命を差し出すところまで行けるかどうか、これは私たちの信仰の深さにかかっていると思います。私たちは自分がこの神の愛で満たされていないと、なかなかそれはできないと思います。神の愛に満たされるように、私たちはこのミサに与っています。ミサの中で私たちは、キリストの体を、命を受けるんです。聖体拝領とはその意味です。キリストの命を受けて、私たちが一人ひとり神に愛されているということをそこで確認し、私たちも、私たちの周りにいる愛が必要な人のところに行って私たちを与える。これはね、具体的な愛の形というのは決められません。色々あります。そして人によって、別に偉大なことを考えなくてもいいと思います。でもこの愛の行為の原型として、イエスは最後の晩餐の席で、新しい掟を与える前に弟子たちの足を洗ったという、そういう行為をしたんですよ。この弟子たちの足を洗うというのは、僕(しもべ)の、奴隷の仕事でした。先生である者が身を低くして弟子たちの足を洗った。ここに愛の本質がある。それで互いに足を洗い合いなさいと言った。そして、互いに愛し合いなさいと命じたんです。私たち、誰もこれを忘れていないでしょうね。私たちにとって唯一の掟は、互いに愛し合いなさい、これです。ところが残念ながら、今の世界はこの愛と反対のものが満ち満ちていると言わざるを得ない。自分だけ、人は関係ないとか、さらには人から奪っても自分が豊かになるとか、そういうことを目指して生きている人もいるわけですよ。その極端な形が争いとか戦争につながっていくと思います。そういう中で、本当に愛を支柱としているのは誰か、というのを見極めるのも大切なことだと思います。
皆さんは自分自身がまず、愛されていると思いますか?事実を申し上げましょう。一人ひとり今ここに存在しているということは、愛されたということです。もし小さい時から愛がなかったら、生存できないんですよ。家庭で生まれてたら、何も人間的な愛を示されずにただ食べ物だけ与えられても生存できない。私たちが今生きているということは、愛されてきた。もちろん人によって十分かどうかはありますけれども、しかし生存できるだけの愛は受けてきた。そして私たちは、もっともっと愛を受けるように、これも願ったらいいんじゃないかと思います。私たち、愛するために愛されるように、もっともっと愛されるようにと言って愛されるようになると、人を愛することももっとできるようになる。人を愛すれば愛するほど、また人からも愛される。これが普通だと思います。私たちがそういう生き方をして、今の社会、日本を含めて、分断とか愛に反するものが強く働いている、そういう面があります。そういう中で本当の愛を示していくこと、自分が低くなって人の足を洗うこと。これをしていくことができるように、そういう恵みを今日はご一緒に願いましょう。