2024年3月 ミサ説教
3/10(日)10:00- 四旬節第4主日 森 晃太郎 神父
3/17(日)10:00- 四旬節第5主日 ハビエル・ガラルダ 神父
3/28(木)19:00- 主の晩さんの夕べ 佐久間 勤 神父
3/30(土)19:00- 復活の聖なる徹夜祭 髙祖 敏明 神父
復活の主日
髙祖 敏明 神父
皆様、改めて主のご復活おめでとうございます。ミサの始めに申し上げましたけれども、今日のこのミサの中で、聖体奉仕者に任命される方々もおられます。おめでとうございます。この聖堂ができまして献堂25周年をお祝いする今年、こうして私たちが主の祭壇を囲んで、受難と十字架を通して死から命へと移られるキリストの過越の神秘を祝うことができますことを、神様に感謝したいと思います。
本年は東京教区で宣教協力体を私どもの教会と組んでいます神田教会と築地教会が、共に創立150周年を祝います。私たちの教会、聖イグナチオ教会も古い聖堂から数えますと献堂75周年。神田教会と築地教会の半分です。この恵みの年を神様に感謝しながら、神の御子イエスの死と復活という過越の神秘を深く味わい、私たちに託された全人類に対する祭司としての務めをより良く果たして参りましょう。全人類に対する祭司としての務めと言いますのは、私たちは洗礼を受けることによってキリストの祭司職に与っています。全人類の中で一部の人しか信仰を持っていないにしても、私たちが祭司として全人類のために祈ること、地球上のすべてのいのちを守るために祈ること。それを私たちは課せられていますし、私たちの祈りの中でそれを日々祈っています。そういう務めをより良く果たしていきたいと願っております。
本日の福音、今読み上げた通りですけれども、週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちの出来事が読まれました。ただ、この箇所を何回読んでみてもよくわからないのは、シモン・ペトロともう1人の弟子が墓に入ってきて「見て、信じた」って書いてあります。何を見て、何を信じたんでしょう?ある方は、主のご復活というふうに言うんですけれども、しかし聖書には「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」って書いてあるんですよね。だから、ご復活を信じたというわけにはいかない。そういう話ではないはずです。では何を信じたんでしょう、というのがもう一つピンとこない。まだ理解できず、暗いうちの出来事という、それがこの2人の心理状態というか、信仰の状態も表しているのかもしれません。この2人は何を一体信じたのか。ヨハネの福音書を見ますと、主が墓から取り去られたこと、どこに置かれているか私たちには分からないことをマグダラのマリアが告げます。シモン・ペトロともう1人の弟子がそれを確認するために墓へ走っていきます。そして主イエスが墓から取り去られて遺体が見当たらないことを「見て、信じた」というふうに読むことができます。見て、信じた後、今日の朗読のすぐ後に続くんですが、この2人は家に帰っていっています。ですから、ご復活を信じたのではないということはそこからも分かる。
しかし、これを読んでみても、聖書に「見て、信じた」と重い言葉が書いてあるのに、そんな単純なことなんでしょうか?というあたりがよく分からないんです。イエスの死、人間誰でも死にますけれども、イエスの死という絶対的な現実に直面した。しかも十字架の死というインパクトの強すぎる、その強さのために心が、理解が金縛り状態になっているというふうにも言うことができるかもしれません。一方で、今日第一朗読で読まれました使徒言行録のペトロの姿と、今日の福音書のペトロの姿には大きな落差があるということに皆さんもお気づきだと思います。第一朗読の方では、ペトロがイエスのご出現を体験し、聖霊降臨を経てイエス・キリストについて証言をしています。ナザレのイエスを、神は聖霊と力によって「油注がれた者、メシア」にされたこと。イエスは方々をめぐり歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たち、病気で苦しんでいる人たちをすべていやされたこと。人々はこのイエスを木にかけて殺してしまったんですけれども、神はイエスを3日目に復活させ、選ばれた証人に現されたこと。イエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者、そして神から定められた者であること。この方を信じる者は誰でも、その名によって罪の赦しが受けられること。これらを力強く人々に証言するようにと命じられています。
落差が激しいこの2つのことをつなぐのは、今日の入祭唱かな、という気がします。「わたし」つまりイエスですけども、「わたしは死者のうちから立ち上がり、神とともに生きる。神の手はわたしの上にあり、そのはからいは神秘に満ちている」というふうに、入祭唱で歌っています。福音書のペトロと使徒言行録のペトロとの間に、そこに何か入祭唱で言っている秘密と言いますか、神秘があるようです。神秘は神秘として味わうというのも私たちの信仰の立場でもありますけれども、主が墓から取り去られたのは、死者のうちから立ち上がって神と共に生きるためであった。生きている者と死んだ者との審判者・主に定められたイエスは罪を赦し、病をいやし、神と共に生きる命、永遠の命への門を開いてくださった。入祭唱はそういうことを教えていると思います。そして、今日の集会祈願で私は先ほど祈りを唱えましたけれども、これが今日を祝う私たちの祈りです。「全能の神よ、あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き、永遠の命の門を開いてくださいました。主イエスの復活を記念し、この神秘にあずかるわたしたちを、あなたの霊によって新たにし、永遠のいのちに復活させてください」。これが今日の祝いを貫く私たちの祈りです。そして私たち祭司の、全人類に向けた証言の祈り。この祈りに私たちの心を重ねて、ご一緒にこのミサの中で祈りをささげたいと思います。
今日のこの祈りも、献堂25周年の祝いも、決して一度だけの打ち上げ花火で終わらせるものではありません。私たちの教会はミッション2030を掲げていますが、その達成に向けての歩みでもあります。ミッション2030には4つの柱があり、「祈りを深める」「福音を伝える」「共同体を生きる」「新しい協働(ともに働くこと)」を進める。この4つの達成を進めたい。そして教皇フランシスコが進めておられるシノドス(ともに歩む)、これを私たちもこの教会として、またこの教会の仲間として共に実践していきたいと思いますし、今日の集会祈願の祈りはそのための祈りでもあります。今日のこの復活の主日にあたりまして、御言葉を味わい、パンとぶどう酒の祭儀をご一緒にささげますけれども、私たちのそういう祈りと願いを神様にささげ、そしてそういう祈りと恵みを私たちがいただけますように、心を合わせてご一緒にお祈りいたしましょう。
復活の聖なる徹夜祭
髙祖 敏明 神父
皆様、主のご復活おめでとうございます。この聖堂の献堂25周年を迎えた今年、こうして私たちが主の祭壇を囲み、光の祭儀を祝って復活のロウソクを灯し、一緒に神の御言葉を聞き味わうことができること、また洗礼と感謝の祭儀によって主の過越、受難と十字架を通して死から命へと移られるキリストの過越の神秘を祝うことができますことを、神様に感謝いたしましょう。過越の勝利がなったその頂点を祝う今日、洗礼の恵みを受けられる皆様おめでとうございます。教会共同体として皆様を喜んで迎えますし、共に過越の神秘を生きてまいりましょう。
本日の聖書朗読は、皆様もお気づきになった通り、私たち人類の救いの歴史の展開を教えていますし、そのポイントを教えてくれています。少しそれを味わってみたいと思います。創世記の人間の創造、それを受けて祈りの中では「聖なる父よ、あなたは人間をすぐれた方法でお造りになりましたが、さらにすぐれた方法であがなってくださいました」と祈りました。人間は神にかたどって創造された。それだけでも十分価値があるのに、さらに優れた方法で贖われた。どういうふうに贖ってくださったのか。贖うというのは、本来代価、払うべきお金を払って奴隷を自由にすることを贖うという意味で言っています。そういう目で2つ目の朗読、出エジプト記を読んでみますと、紅海を渡ること、それがエジプトの奴隷状態からの解放であり、脱出である。それを受けて「救いの源である神よ、あなたは紅海が洗礼の泉をかたどり、解放された民はキリスト信者の姿を表すことを教えてくださいました」というふうに祈りました。紅海を渡るということは、洗礼による解放の前表、洗礼による解放が来て本物が来たという意味だと思います。シナイ山のふもとでの契約、旧約と、主イエスの血による新しい契約が背景にあります。それを踏まえて先ほどの祈りは「すべての人が、信仰によって民に約束された祝福にあずかり、あなたの霊を受けて新しく生まれることができますように」とお祈りいたしました。
でも、どうすれば神様の霊を受けて新しく生まれることが可能なのでしょうか。エゼキエルの3つ目の朗読に、新しい心、新しい霊という言葉が私たちに伝えられました。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、すべての汚れとすべての偶像から清める(解放する)。わたしはお前たちに新しい心を与え、新しい霊を置き、わたしの掟に従って歩ませ、お前たちはわたしの民となり、わたしはお前たちの神となる」。新しい贖いによって創造が行われるんだ、と教えています。この3つの旧約から取られた朗読を聞いていますと、長い時間をかけて神様が私たちと結ばれる契約を軸にして、救いの歴史を少しずつ少しずつ実現に向けて引っ張ってきておられることがよく読み取れます。そして、旧約による解放、新約による解放、新しい創造も、私たち人間のわざではなくて、全て神様の方からの恵みとして神様の方から働きかけるということで実現していることがわかります。人間をそれほど神様は慈しんでおられる、大事にしておられるということを読み取ることができます。
しかし、同時に質問がわいていきます。神の私たちへの愛とか慈しみはわかったけれども、奴隷を解放する贖いの代価は、誰がどう払ったんですか?先ほど山内さんが読んでくださったマルコの福音書では、週の初めの日の朝早く、婦人たちがイエスの遺体に油を塗るために日が昇ると同時に墓へ出かけていく。イエスの葬りの時に十字架から降ろして亜麻布で巻き、岩を掘って作った墓の中に遺体を収め、墓の入り口には、誰も人が入らないように石を転がしておいた。今日の朗読に登場するマグダラのマリアらの婦人たちは、そのイエスの遺体を収めた場所を見つめていた人々です。行ってみると石はすでに転がしてあり、墓の中で白い衣を着た若者が「あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活された」と告げる。婦人たちは驚き震え上がり、墓を出て逃げ去っていきます。マルコは彼女たちが恐れ、正気を失っていたというところまで書いています。イエスのむごい十字架上の死というショックが大きいためか、死と復活とが結びつかない。福音書を読むと、弟子たちがなかなか理解できなかったということが、どの福音書にも書いてあります。そして、それはおそらく私たちにとっても同じなんでしょう。
ルカ福音書のみがエマオの弟子たちに登場させて、イエスの言葉を伝えています。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずではないか」。聖書を悟る恵みを受けて初めて、私たちもそういうことがわかるようです。メシアの受けた受難と十字架こそが、私たちが解放される贖いの代価であるということを教えています。新約聖書の福音書の後に続くいろんな手紙を読んでみますと、そういう理解に至ったことが書かれています。例えば、ヘブライ書(9章15節)。キリストは新しい契約の仲介者である。前の契約の時に犯された罪を贖うための死が実現したので、召された者は約束された永遠の遺産を受ける。ペトロの手紙(Ⅰペトロ2章24節)にも、イエスは十字架の上で私たちの罪を身に負われた。それは私たちが罪に死んで、正しく生きるためである。私たちはキリストの傷によっていやされた、と私たちに教えています。今日読まれたパウロの手紙、ローマへの手紙にも、洗礼というのは水で汚れを洗い流すものというより、水と聖霊の注ぎによってキリストの死と復活にあずかるものだと。キリストと共に古い自分に死んで罪から解放され、御父によって復活させられたキリストと共に新たな命を生きることにほかならないんだと教えています。
「神にかたどって創造され、さらにすぐれた方法によってあがなってくださった」ということの意味がそこに示されています。当初からの、創造の初めからの神のご計画に基づき、主イエスが受難、十字架上での死によって贖いを果たしてくださった結果、御父が主イエスを復活させ、神との新たな関わりに入る門を開いてくださった。信じる人には新しい心、新しい霊が与えられます。洗礼も感謝の祭儀もそれを実現し、パンとぶどう酒を聖別して祝う感謝の祭儀は、キリストの言葉に従ってキリストの死と復活を記念し、再現する祭儀であります。ですから洗礼も感謝の祭儀も、あるいはこうして御言葉を聞いていることも「お前たちはわたしの民となり、わたしはお前たちの神となる」ということが実現しているその場であります。そうした神様からの恵みに心から感謝しながら、私たちも信仰を深める恵みをさらに願いましょう。そして、洗礼式とパンとぶどう酒の祭儀をこれからご一緒に祝って参りましょう。
主のご復活・ご受洗おめでとうございます
主の受難
山内 豊 助祭
私たちの主イエス・キリストは壮絶な最後を迎えました。十字架に向かっていくその姿は、普段私たちが思い描くキリストの姿とは違っています。皆さんはイエス・キリストを思い描く時、どのような姿を思い描くでしょうか。丘の上で弟子たちに御言葉を語っている姿ですか。それとも復活の栄光に光り輝く姿でしょうか。しかし、本日目にしているのは、イエス・キリストの葛藤し、悶え、痛めつけられ、弱り果てた姿です。今日読んだイザヤ書にもこう書かれています。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」。十字架上のイエス・キリストに対する民衆の印象はこのイザヤの預言通りだったでしょう。
皆さんはこのような姿になっているキリストから目をそらしたいでしょうか。キリストはもっとたくましく、光り輝く方でないといけないと思うでしょうか。確かにそのような姿は主が変容なさった時に見ました。しかし、十字架上のイエス・キリストはその正反対の姿をしています。弱り果て、力もなく、侮辱の対象とされていて、目を背けたくなるような姿をしています。マルコによる福音では、ローマの百人隊長が、弱り果て、力もないイエスを見て「本当にこの人は神の子であった」と言いました。私たちは弱り果て、無力に見えるイエス・キリストの姿に、神の子だと言えるでしょうか。すべての人を愛しきったイエスの人生。その人生は順風満帆で、楽しい日々の連続ばかりではありませんでした。確かに多くの人がイエスの教えを聞きに集まってきた頃もありましたし、多くの喜びあふれる出来事もあったでしょう。一方で、イエスの人生は挫折の連続でもありました。多くの人から反感を買い、弟子たちはイエスのメッセージを理解しないし、挙句の果てには信頼していた弟子たちにも裏切られ、見捨てられて十字架につけられてしまいます。傍らから見れば失望してもよいところではありますが、イエスは神と人々への愛を貫き通します。
イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びます。これは絶望の叫びに聞こえます。しかしそれはちょっと違います。詩編22を読んでみればわかりますが、これは絶望の淵に立たされている状況であっても、私は神を信頼するという詩です。イエスの激しいまでの神と人への愛が叫びとなって表れています。そのように人々に侮辱され、傷つけ、痛めつけられたにも関わらず、激しく愛しきって死んでいったイエスの姿を見て、百人隊長は「本当にこの人は神の子であった」と言います。そのイエスの愛の激しさを見て、思わず口に出た言葉であったろうと思います。そう考えてみると、神の愛とはそれほど激しいものだとわかります。十字架はキリスト教の象徴でもあります。それは神の愛の激しさを象徴するものであると思います。そしてイエスの激しい愛は、人類一般に向けたものではなく、私たち一人ひとりに向けられていることを思い起こしましょう。イエスは死の一線を越えてもあなたは愛し抜かれた、ということを忘れてはいけません。
主の晩餐の夕べのミサ
佐久間 勤 神父(イエズス会日本管区長)
今日の福音書で最後の晩餐にあたって、主は極みまで弟子たちを愛された、と語られています。私たちはどのような時に人の愛を感じるでしょうか。自分が愛されているとか、大切にされていると感じるのはどんな時でしょうか。高価な贈り物をもらった時、あるいは盛大な誕生パーティーを開いてもらった時。そのような豪華なもてなしでしょうか。少し古い話になりますが、以前、アメリカの映画監督で俳優でもありましたウディ・アレンという人がいまして、その人のインタビューを何かで読んだことがあります。その中で心に残っているのは、インタビューの質問をした記者がですね、「今、あなたは有名な監督になって、大変な大金持ちにもなりました。生活は何か変わったでしょうか」と尋ねました。ミリオネア、億万長者の生活はどんなものですか、というのを聞きたかったんだと思いますが、ウディ・アレンの答えは「普段使うお金の桁が増えただけで、生活は全く変わりません」というものだったんですね。つまり日常の生活というのは、お金の額の大小ではないということですね。そのことがこのインタビューの記事を読んだ時に心に残りました。金持ちであるからとか、優遇されているから、人から余分に、あるいは人よりも多く愛されているというものでもない。多分、人はそういうものにすぐ慣れてしまうんでしょう。
では、どういうところで私たちは愛されている、大切にされていると感じるんでしょうか。思うに、本当にさりげない、ありふれた小さなこと。それに表れている、人を大切にする心ですね。人を愛する心を感じ取った時に深く幸せを感じます。日本のもてなし、旅館などですね。近代のものはもうそういうものなくなったでしょうが、昔ながらの旅館ですと、必ず部屋に一輪挿し、一本花がいけてあるんですね。いけばなです。だからすぐに枯れてしまいます。でもその命をかけて、花にとっては命をかけてこの人に喜びを与える、もてなす。ささいなことです。花一本ですね。あるいはお茶一服。それが日本のもてなしの心ですね。あるいはホールを使った後、次の人が使うのを思ってきれいに整えてまた去っていく。部屋を片付けて去っていく。それは誰が次に来るかわかりませんが、しかし、その人のことを思ってするわけですから、きれいに整った部屋に入る時に私たちは、ああ、配慮が整っているな、私たちをちゃんと迎え入れてくれているんだな、ということを感じることができます。
そう考えれば私たちの世界は、多くの小さな、しかし心のこもった、人を大切にする他の人の愛を感じることができます。スイッチを入れて電気が点くのは当たり前ですが、でも、その電気が点くためにどれだけ多くの人が実際に心を込めて、間違いがないように、これを使う人が不便を感じないように努めているでしょうか。誰とはわかりません。でも愛が伝わってきます。このように、私たちは当たり前の中に表れている愛というものに、もう溺れるほどに浴びながら、実は日々生活しています。「神は細部に宿る」、細かいところに宿るということわざがあります。西洋の美術の解説の時に時々引用される、細かいところまで丁寧に作られた作品ですね。でも、このことわざの本当の意味は、手の込んだ仕事に神が宿るというよりは、神がおられるのはその立派な輝かしい力にあふれて人を支配するような、ものものしい、光り輝くそういうものではなくて、むしろ本当にありふれた、誰でも近寄ることができる、誰にでも愛が及ぶもてなしですね。そういうところに神は宿っている。ですから、私たちが浴びるほどに感じているこの人の愛は、それこそ細部に宿る神の愛なんですね。
そういうふうにいろんな出来事を思い出してみますと、イエス様が弟子たちの足を洗った。これはどういう場面かわかりませんが、足を洗うというのは、これは旅をしてきた人が家に入る時に最初に頭の塵、そして足の汚れを洗って家の中に招き入れるもてなしの所作です。それは奴隷の仕事ですね。主人がそれをやることはありません。しかし、それをイエス様はなさる。最も偉大な神の子が、最も低い者となって人々にもてなす。仕えるですね。そしてそのことは一輪挿しのように、皆がやがて忘れるでしょう。その時、その時にかける愛ですね。弟子たちにイエス様は、わかったか、これからの十字架の道、そして復活。その出来事は、神様がこれほど私たちを愛しておられるということ、そしてそれが本当に身近なところにですね。私たちは時々、神を遠いと思うかもしれませんが、しかし実は本当にいろいろな人を通して、そして特にイエス様を通して、私たちはこの神様の愛をいただいているんだということ。それを弟子たちの足を洗うということでイエス様は示されました。ですので、私たちも互いに兄弟姉妹の足を洗いましょう。人々に仕えましょう。そうするところで神様の愛がこの世界に実現いたします。
ザビエル聖堂での聖体安置式
受難の主日
髙祖 敏明 神父
本日、こうして枝を手に持って祝福を受け、主のエルサレム入場の記念を行って聖週間が始まりました。枝の主日を聖堂の外から始めるのは5年ぶりだそうですけれども、皆でお祝いできますことをまずは神様に感謝いたします。そして今日のこの枝の主日を祝うために、様々な持ち場でそれぞれの役割を果たしてくださっている多くの方々、お一人お一人にも感謝を申し上げます。
ただいま一緒に聞きました、マルコによる主イエス・キリストの受難。「聖書と典礼」によりますと、長い形は14章と15章、2章あるんですけれども、今日はその15章を読んだというふうに書いてございますが、14章にはたとえば一番最初にこんなことが書いてあります。「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」というところから14章が始まります。それを受けて12人の1人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして祭司長たちのところへ行き、金をもらう約束をして、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。それに続いて、最後の晩餐、ゲッセマネの園でのイエスの悶えと祈り、イエスの捕縛と最高法院での死刑判決、それが14章で書かれていきます。この聖週間を過ごす中で、ぜひ皆様、14章も読んでみてください。
今日読まれました15章の中では、ユダヤ人の王という言葉がピラトの口からも兵士からも何度か繰り返されています。ピラトの尋問「お前がユダヤ人の王なのか」、ユダヤの民に「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」「ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者をどうしたらいいのか」。兵士が侮辱する言葉も「ユダヤ人の王、万歳」。罪状書きにも「ユダヤ人の王」と書いてある。私たちが枝を振りかざして、救い主、あるいは王としてエルサレムに入場したイエスが、ユダヤ人の王という名で裁かれ、断罪されています。何かがひっくり返っています。
改めて先ほどお御堂の外で読みました入場の福音のところを見てみますと、自分の服を道に敷く、葉の付いた枝を道に敷くというのは、王様を喜び迎えるやり方なんだそうです。ここにはゼカリヤ預言書の一節(9章9節)が引用されていると言われてますけれども、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」というような言葉が預言書に書かれています。神に従う、勝利を与えられた者というのは、神との契約を忠実に、誠実に生き、民を正しく治め、貧しい人の訴えを聞いて正しい裁きを行って平和をもたらす、そういう王様の姿がイメージされているというふうに解説されています。この王によって諸国の民に平和が告げられ、彼の支配は地の果てにまで及ぶ、と書かれています。そして、ろばに乗って来るというこの言い方、表現の中には、古来中近東の伝統なんでしょうか、古代より王様の権威を示すしるしなんだそうです。旧約聖書の伝統でも、ろばに乗ってくるというのは謙虚さの表れ、神様の前での謙虚さの表れであると同時に、平和を私たちに告げようとしている。そういうイメージだと言われています。そういう意味で私たちは、神との関係も適切で、諸国の民に平和を告げる、主の名によって来られる方として、この葉をもって歓迎しながら入堂いたしました。
それなのに、主イエスが「ユダヤ人の王」という同じ言葉を使いながら、裁かれて、断罪されています。受難というふうに私たちは呼んでいます。ここでは王という言葉の意味が、預言者ゼカリヤやエルサレム入城の福音が言っている意味と、ユダヤ人やピラトが考えている王とは何かずれているというか、ひっくり返っているような印象を受けます。聖書の世界だけではなくて、現代世界を見てみても、様々な災害、社会的分断、戦乱、環境問題、様々な問題がある中で、神との約束の前に適切に治めている指導者がどこにいるのか、という私たちの思いも、ここに重ね合うことができると思います。
実は今日読まれなかった14章の中には、こんなことも書かれています。最高法院にてイエス様をどんどんみんなが訴える。しかし、イエス様はお答えにならない。最後に、大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と核心をついた質問をします。そうするとイエスは「そうです」と答えます。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と答える。聖書の中で神が現れてくるというこの表現を使われる。それで大祭司は、これでまたとない証言を得た、神を冒涜したということで、死刑にすべきと断罪していく根拠を得た、というふうに聖書が展開していきます。しかし、ここでも神の御子イエスが神を冒涜する者として受け止められ、裁かれ、断罪されている。ここでも何かがひっくり返っています。これも現代の私たちの社会、世界と重ね合わせて考えることもできるでしょう。神でないものを神であるかのように崇めている多くの人は世界中にいます。お金、経済力、軍事力、権力、名誉、それを第1位にして、いわば偶像崇拝に、というような形で私たちの世界に臨んでいる多くの人がいます。ユダヤのこの最高法院に連なった祭司長や律法学者たちにすると、死刑の判決を与えたけれども、死刑を執行するにはローマ総督の同意がいる。認可がいる。そこでイエスを死刑にするために、ユダヤ人の王と自称する者はローマ皇帝の支配に反逆するんだ、という言葉を用いて十字架刑へと誘導し、それを強要していきます。
ここでは神様の子でありながら、実際に神様を侮辱する者という形で訴えられているわけですけれども、この箇所を見ながら私の頭に浮かんできましたのは、イエス様が税金を納めることを問われた時に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」ということを、言葉でその引っ掛け問答を切り抜けられたことです。けれどもこの場では、皇帝への反逆者、神への冒涜者として断罪され、十字架刑という当時の最も恥ずべき死刑に処せられる。実はこれが父なる神のご計画であった。ゲッセマネの園で、あるいは今日のミサの聖体拝領唱に書かれていますけれども「父よ、できるならば、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの思いどおりにではなく、あなたのおぼしめしのままに」と祈ります。自分の願い、望みよりも、父なる神の御旨、父なる神のご計画を優先させ、それに従うということ。それを今日の第二朗読フィリピへの手紙の中では、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分、人間と同じ者になられ、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした」というふうに表現しています。 しかし、今日のこの福音をずっと読んでいきますと、父なる神のご計画は、御子イエスが死んでしまうということでは終わっていません。今日の受難の朗読の一番最後のところをご覧いただきたいと思いますけれども、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『本当に、この人は神の子だった』」。先入観や思い込み、人気取りや駆け引きとは無縁で、一部始終をずっと見ていた百人隊長。ユダヤ人の最高法院が死刑判決を出した根拠、イエス様が「あなたは神の子か」と聞かれた時に「そうです」と答えて、それを神への冒涜者というふうに見たその根拠を、異邦人であるローマ人の百人隊長が頭から完全に否定している。「ユダヤ人の王、万歳」とイエスを侮辱した兵士たちと真逆の理解を出して、ユダヤ人の王という罪状書きに書かれているこの言葉の深い意味を洞察することができた。その恵みを得たということでしょう。私たちからすると、完全なと言ってもいいほどの信仰告白がそこに込められています。
でも、なぜ神の子、御子イエスがこんな苦難を受けなければならなかったのか。そこにはどのような神のご計画があったのか。今日の聖書朗読はこの点をじっくりと考え、味わうよう私たちを招いています。この聖週間の間、聖書、特に福音書が伝えるメッセージと問いかけを正面から受け止め、それを私たちの祈りにしながら過ごすことにいたしましょう。そして主イエス・キリストの救いのわざを今以上に深く理解し、味わうことができますよう、ご一緒にその恵みを祈り求めたいと思います。
5年ぶりに主聖堂前で主のエルサレム入城の記念を行いました。
四旬節第5主日
ハビエル・ガラルダ 神父
実は明日、60年前に私はこの教会で司祭になりました。ありがとうございます。前にそこにあった主聖堂で、12人で叙階を受けました。60年ですね。神様の忍耐力は素晴らしかった。皆さんのおかげですので、皆さんと一緒に感謝してこのミサを続けたいと思います。
さて、この福音について考えましょう。まずキーワードをちょっと説明しますけれども、「命を憎む」、この日本語はちょっと強いですね。命を恨むという、そういう意味ではなくて、後に回すという意味です。ですから、永遠の命と今の生活を比較する。今の生活の悪いところ、エゴイズムと高慢に汚されている自分は、お金を全てにする。必要以上のお金を全てにしたい。終生を評判全てにしたい。そして快楽。その3つのために生きるのはこの世の命ですね。それとは反対に永遠の命は、神と愛し合って神と仲良く生きる。人間と愛し合って人間と仲良く生きる。自然と愛し合って自然と仲良く生きる。これは永遠の命。ですから、この世の生活の命を後に回して、永遠の命を選ぶ人は幸いであるという意味です。
そしてもう1つのこと、あと2つのキーワードがありますけれども、「栄光を現す」とはどういうことでしょうか。結局、愛を現すという意味ですね。というのは、人間同士で人の栄光というのは、その人の力を現す時のことですね。たとえば、ノーベル賞をいただく人はその時の栄光ですね。自分の才能の現れ。オリンピックで金メダルを獲得する人は、それはその時の栄光ですね。では、神様の力は何ですか。軍隊力でもなければ筋肉でもないです。神の力は愛ですね。愛の現れは神の栄光。愛を示すことは神の栄光になります。神の言葉、今の神の言葉、雷となったと思われるあの言葉。栄光を現した、つまり自分の息子を世に与えた。栄光を現しました。愛を現しました。また現そう、これから死ぬまで。私の息子が悲しんで死ぬ。その意味で現す。イエス・キリストも、今までの人生とこれからの受難と死と復活によって栄光を現す。その意味ですね。
もう1つのキーワードは「時」。栄光を受ける時が来た。この時という事は時間の事だけではなくて、死と苦しみから生まれる命。その例としては、一粒の麦ですね。一粒の麦は「死ねば豊かに命を結ぶのである」。他の例をイエス・キリストが出します。お産の時の女性、その時には苦しい。苦しみの中から命が生まれる。ですから、時というのは苦しみだけではなくて、苦しみと復活と命という事です。その時が来た、です。
では、ポイントにしたいのはこれからの事です。イエス・キリストのこの時の精神状態は、もう目に見えています。どうしましょう。やっぱり心は騒ぐ、やめたい気持ちもあります。やめたい気持ちもありますけれども、この時にイエス・キリストは、何と言おうか、救ってくださいと言おうか、しかし、このために来たのです。私はまさにこのために来たのです。ですから、栄光を現してください。最後までします、ということをこの時には決めるんですね。つまり、自分の使命を知っています。そして、自分の使命を成し遂げるためには、やる気は十分。やる自信もあります。ですから、してください。現してください。
ところが、直前の時も来ました。ゲッセマネの祈りですね。もうすぐ逮捕される受難の時が。その時はやっぱり一番危ないですね。直前は怖い。試験の直前は一番ビビるんですね。演奏会の前に一番落ち着かない。その直前の時には珍しく、イエス・キリストは弱くなりました。やっぱり人間ですね、私たちと同じように。時々、イエス・キリストが強すぎるので、ついていけないと思う時がありますけれども、この時には、やっぱりやめたい。取り除けてください。この苦しみを取り除けてください、と神さまに頼むんですね。しかし、立ち直って、「私が願うことではなくて、御心にかなうことが行われますように」と言って、死ぬまで従いました。私たちもこうしましょう。本当にやめたい時も来るでしょうけれども、立ち直って、しかし、と言ってやります。要するにイエス・キリストは、しかし、と言ってから立ち直って、心から強さを引き出して決断します。その決断した時から強くなりました。私たちもそうですね。決断したらその瞬間から強くなる。そして受け入れて、「成し遂げられた。主よ、私の霊を御手にゆだねます」と言う時まで続けていきました。
私たちもこうしましょう。何回も、もうやめたいという気持ちになるかもしれません。なったかもしれません。あなたにはそれもあったかもしれません。もうダメだと、もう耐えられない。怖い、勇気がない、意味もない。そういう時もありますね。その時には、しかし、と言って立ち直るんですね。立ち直って、もう一度強さを引き出して決断する。決断すれば力が出てきます。その力をもって最後まで、キリストのように、キリストと共に生きることを願い求めましょう。
ミサの終わりに、六甲教会から当教会の協力司祭に着任された中村健三神父様のご紹介がありました。
これからよろしくお願いいたします。
四旬節第4主日
森 晃太郎 神父
3/10(日)10:00- 四旬節第4主日
おはようございます。今日はですね、子どもたちとともにお話ししたいなと思って、朗読台から降りてお話をさせていただきます。
今日のテーマ、光の方へ。朗読の聖書箇所、難しかったね。何言ってるか、さっぱりわかんないよね。リーダーもわかんないかもね。今日は、光の方へというテーマでお話をするんですけど、キリストの光。復活祭はすごくその光というのが特徴、シンボルで、ロウソクの火を灯して光というのを表現します。じゃあ、この光っていうのは何なんだろうね、っていうのをちょっと考えてみたいんですが、光っていろんなイメージがあるじゃない?たとえば何がある?いいこと、正義。あー、なるほどね。すごいね、まさかこんなワードが出てくるとは。光っていうといろんなイメージあるよね。そう、ロウソクの光、これも光です。中高生とか、他に何かあるかな?電気。そう、電気の光もあります。太陽の光。そうね。太陽もあります。
いろんな光があると思うんですけど、じゃあ、もうちょっとそれを考えてみたいんですが、例えば、昨日の夜すごく寒くなかった?昨日の夜、外はすごく寒かったんですよ。ちなみに私は昨日まで金沢の能登半島にいたので、ちょっと雪も降ってましたね。すごく寒かったです。そう、雪降って。東京も降ったみたいですけど、すごく寒かったんですね。でも今日、さっき外に出て教会に来る時、すごく暖かかったんですよね。そう、暖かかったでしょ?それって昨日すごく寒いから、あー、今日すごく暖かいなーって感じるんです。でも、夏に毎日暑い日だったら、もう暑い暑いってずっと思うけど、冬から春になる時に、寒いのがだんだん暖かくなっていくと思います。この光の方へって言った時に、何か暗い暗いこの闇から、少しずつ光の方に向かっていく。それは闇があるからすごく光がわかりやすいんです。ずっと光ってたらわかりづらいんですね。だから、ちょっとずつちょっとずつ光の方に向かっていく、何か気づくポイントがあるんだと思うんですね。
ちょっと1つ、具体的なお話をしたいと思います。多分みんなね、まだ小学生ぐらいだったら生まれてないかもしれない。13年ぐらい前ですけど、3月11日に大きな地震と津波が東北でありました。そう、東日本大震災というふうに言われますけど、まだ生まれてないよね。中高生が幼稚園ぐらいかな。それで私も被災地に行ったんですね。その時にいっぱい、みんなと同じぐらい、幼稚園ぐらいの子どもたちと一緒に遊ぶ機会があったんですけど、遊んでる時にね、小学生、中学生ぐらいのお兄ちゃんたちが木の上に登るんですよ。そう、木の上に登るの。危ない。それでね、そのお兄ちゃんたちの楽しそうな姿を見て、幼稚園の子、ちっちゃい子たちがね、自分も登るって言って登ろうとする。危ないよね。ダメ?その時にね、大人とか心配するでしょう、危ないよって。その子たちなんて言ったかというと、「津波より怖くないよ」って言ったの。それぐらい津波の恐ろしさっていうのをその時体験したんだけど、その子たちにとって、それはすごく辛い体験で、光が見えてこない体験なんですよね。すごく闇の中にあるような体験なんです。
だけど、その後ね、たまたまなんだけど、一緒に歌を歌うことになったの。「Believe」っていう歌知ってる?合唱曲。「たとえば君が~」って歌、知ってる?そう、それをね、たまたま急に一緒に歌うことになって、ギター弾いて歌い始めて。そうしたら、さっき木登りしてて遊んでたみんなが集まってきて一緒に歌ったんですけど、その時に、さっき、津波より怖いもんないよって言ってたその幼稚園の子たちが歌い終わって、「歌えてよかった」って言ってたの。なんでかっていうと、3月11日って、そのあたりの幼稚園の卒園式とか小学校の卒業式とか、ちょうどその「Believe」を歌う予定でずっと練習してたみたいです。ずっと練習してたんだけど、その地震と津波で歌えなかったって言って。そう、それでちょうどその時に一緒にみんなで歌えたから、すごく嬉しかった。
1つのエピソードなんですけど、これってそんなに大きな出来事じゃないかもしれないんですね。その子たちが闇の中にいる辛い体験がある。でもそうやって、少しずつ光の方に一歩ずつ一歩ずつ何か小さな喜びを体験しながら前に進んでいく姿を、その時に見ました。多分、ここに私たちが言う、神様からの救いの体験っていうのがあるんじゃないかなっていう。なので、それぞれ皆さん、特に中高生なんかはいろいろ背負ってるものがあると思います。大変なことね。なかなかうまくいかなかったり、変わりたいのに変われない自分がいたり。いろいろあると思うんですが、少しずつ少しずつ、ゆっくり太陽が昇ってくるように、闇の中から光の方へちょっとずつちょっとずつ、一歩ずつ進んでいけたらいいんじゃないかな、というふうに思います。はい。ありがとうございました。
四旬節第3主日
柴田 潔 神父
最近、背負うという言葉が心の中に響いています。イエス様は、また私たちは何を背負っているのか考えてみましょう。
イエス様が神殿の境内に入って商売をしている人を追い出した出来事は、4つの福音書すべてに記されています。それだけ重要な出来事でした。神殿には多くのユダヤ教徒が、ヤーウェの神様にお祈りをしていました。祈るだけでなく、神殿にお金を献げることがユダヤ教徒の神聖な義務の1つでした。当時出回っていた通貨にはローマ皇帝の像が刻んであるので、神殿に納めるには別の貨幣に両替しなければなりません。それにつけ込んで、手数料をたくさん取って儲ける商人が机をずらっと並べています。手数料で貧しい人からお金を巻き上げる商売で、神殿の経済は成り立っていました。そんな状態にイエス様は、形式主義だと怒りを奮います。イエス様が怒ったのは、一人ひとりの罪の重荷、苦しみを背負っていたからだと思います。いくら私が罪と苦しみを背負っても、さらなる重荷をかけてくる。誰も苦しみも貧しさも背負わない。それで平気でいられる。そんな神殿の姿に、イエス様は怒っていたように感じます。
2月18日、80人の方がこの10時のミサで洗礼を志願されました。80人というと、イグナチオ教会は自慢しているように取られるかもしれませんが、私は志願者お一人お一人の人生を講座の方、周りの方が担ごうとしているように感じています。 先日の夜、私の部屋をノックする人がいました。「洗礼式にこのベールを買ったのですが、レースに花柄がついていて、これは大丈夫でしょうか?」4人の方が心配そうに私に尋ねてきました。もちろん「大丈夫ですよ。かわいらしいベールですね」とお返事をしました。すると「安心しました」と言われます。安心しました、の言葉は心からのものに感じました。その後、考えました。さっきの4人の方は、志願者の人生を担っていると。もちろん、最終的に人生を担ってくださるのはイエス様です。でも、新しい命、永遠の命を得るお手伝いを精一杯されていました。
私の講座では先週、マタイ受難曲を聞いていただきました。マタイ受難曲には、イエス様の受難の悲しさ、十字架にかかる苦しさがありながらも、救いの明るさが一緒に表現されています。特にカール・リヒターのマタイ受難曲(1971年のもの)を四旬節に聞かれること、動画で見ていただくことをお勧めしました。ドイツ語と日本語の訳がついています。また、オペラ歌手の車田和寿(かずひさ)様は、このバッハの受難曲、そしてカール・リヒターのマタイ受難曲の意味を丁寧に説明されています。よろしければご覧ください。イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかる痛み、その痛みを通して私たちを救われる。神様の救いがどのようなことなのか。マタイ受難曲は私たちの祈りを深めてくれます。作曲者のバッハは、ルーテル教会の熱心な信者さんでした。バッハはすべての音楽活動を神の栄光のためにささげていました。彼の楽譜の最後に、自分の署名の代わりに〝Soli Deo gloria〟(栄光は神のみに)と書いて、自分の音楽活動をすべて神様にささげていました。マタイ受難曲はバッハの高い精神性、信仰心から生まれた素晴らしい作品です。
冒頭にもお話ししましたが、四旬節第3主日、第4主日、第5主日で、教会は洗礼志願者のために特に祈ります。信仰の道に入るには試練もあるので、共同体は清めと照らしの式によって志願者を支えます。清めと照らしの式は、自分本位の生き方から脱し、愛の交わりに生きる、神の光に包まれて生きる道を確認するためのものです。今日は清めと照らしの代わりに共同祈願でお祈りしましょう。講座のヘルパーさんたちは、神様の愛がどのようなものなのか、考えて考えて伝える。志願者は、新しい命を見つけたい、人生の節目にしたいと期待する。お互いの思いが通います。清めと照らしの時期は、洗礼志願者の人生を支える。より強い言葉で言えば、洗礼志願者の人生を背負おうとする時期だと思います。
西暦200年頃のローマの教会では、求道者の準備期間を3年と定めていました。その間に回心が生活にも表れているか、どのように心も生活も変わっていくかを確かめていたそうです。ヒッポリュトスの使徒伝承にはこうあります。「洗礼を受けるには、正しく生活していたかどうか、やもめを敬ったか、病人を見舞ったか、あらゆる良いわざを行ったかが調べられる」。信仰に入る準備、生活の改善を私たち全員でしていきましょう。洗礼を先に受けた私たちは、回心を深め、生活改善に取り組む。志願者の人生を担っていく。その思いが花柄のベールへの心配であったり、マタイ受難曲を勧めることにつながっていたように思います。
イエス様は私たち一人ひとりの罪と苦しみを背負ってくださる。そのイエス様はきっと私たちに、「怒り」ではなく「励まし」を与えてくださると思います。洗礼志願者に寄り添いながら、回心、生活改善を続けていきましょう。私たちの苦しみを背負い、救いに導いてくださるイエス様を感じながら、四旬節の後半を過ごしていきましょう。
参考動画
リヒター 1971年(ドイツ語と日本語訳 対訳)
バッハの最高傑作!マタイ受難曲を分かりやすく解説!(車田和寿‐音楽に寄せて)
絶対に聴くべき名演!カール・リヒターのマタイ受難曲!(車田和寿‐音楽に寄せて)