2024年11月 ミサ説教
11/3(日)10:00- 年間第31主日 ハビエル・ガラルダ 神父
11/10(日)10:00- 年間第32主日 ボニー・ジェームス 神父
11/17(日)10:00- 年間第33主日 関根 悦雄 神父
11/23(土)12:00- 教会黙想会 アンドレア・レンボ司教
11/24(日)10:00- 王であるキリストの祭日 サトルニノ・オチョア 神父
王であるキリストの祭日
サトルニノ・オチョア 神父
11/24(日)10:00- 王であるキリストの祭日
「王であるキリスト」。典礼としては、この祝日はそれほど古くない。200年にもなっていないんです。
これについてイメージとして描かれたことは、イエス様は本当に王のような素晴らしい黄金の冠をかぶっていらっしゃるし、素晴らしい長い赤いマントを着けているし、そして手には、権限があるような印として笏杖を握っている。ヨーロッパやアメリカでよく見る絵とイメージがありますが、逆のこともあります。冠があるんですけど茨の冠。マントがあるんですけれども汚いきれ。それから、笏杖があるんですけれども壊れている。それを見せてピラトはみんなに「この人です」と言ったんです。王であるということとどういうふうに合わせたらいいんですか。これもやはり教会の芸術の中で私はまだ覚えています。ヨーロッパの大学で哲学の勉強をしていた時に、お御堂にかかっている十字架があったんですが、その十字架は非常に綺麗な十字架で、そこにイエス・キリストは本当につけられているわけですが、血のことが出てこないんです。茨の冠がない。王様の冠、黄金の冠があります。それで苦しんでいることもなく、本当に治めている十字架のイエス・キリストです。
ピラトとの話し合いは、「お前は本当に王ですか」。やはりそこにはですね、基本的な考え方の間違いがありますので、「それはあなたの言うことです」とイエス様はおっしゃる。けれども、そのような訳は非常に長い歴史があります。私が子どもの時はですね、そのピラトに対するイエス・キリストの言葉は「はい、おっしゃるように私は王だ」という意味だったんですが、ちょうど50年前、有名なミュージカルがあったんです。「ジーザス・クライスト=スーパースター」、その時この場面が出てきます。ピラトは、「お前は本当に王ですか」。それでこのミュージカルですけれども、正しい訳が出てきたんです。「それはあなたの言葉だけです。私の言葉ではない」。イエス様は王であるということを否定していない。ただ、あなたの考えと全く違うということです。それで「私の国は、こちらのあなたの世界に属していないんです」。これもですね、いろんな問題を招いているんですね。イエス・キリストの言葉で、「天の国はあなた方の間にすでにある」。だから、この世に属していないんですが、こちらにもうすでにあります。
それからイエス様の教えの特徴があるとすれば、たとえ話でしょう。たとえ話はほとんど「天の国はどういうふうにたとえましょうか」で始まっている。そのようなたとえ話の中でイエス・キリストの考えている自分の国はどんな国ですか、ということですね。それで政治的なことではなくて、天の国は本当にみんなのために種が蒔かれる。天の国では、放蕩息子は受け入れられる。天の国では迷った羊は探されている。それが本当の天の国です。
それでイエス・キリストの国はこれです。私たちの中で憐れみ、赦し、心を配る、愛。そういえばこのイエス・キリストの天の国の憲法のようなことは一体何だろうか。「幸いです。貧しい人たちは幸いである。義を行う人たちは幸いである。平和をもたらす人たちは幸いである」。この国です。この国はもうすでに私たちの中であるのではないか。まだ小さいかもしれない。まだ長い道が残っていますが、私たちは一緒に祈りながら、一緒に働きながら、教会としてその国の種を実らせたいのです。今日の典礼ではこの言葉があります。真理と生命の国、聖性と恩恵の国、正義と愛と平和の国です。私たちはこの国に属しているので、その国を造るために働きましょう。
ミサ後クリスマスバザーが開催されました
教会黙想会
アンドレア・レンボ司教
今日は「王であるキリスト」の荘厳な祝日を祝います。この特別な日、私たちはイエス・キリストを、私たちの心と全世界の主であり、至高の王として認め、崇めます。この祝日は教会の歴史の中では比較的新しいもので、1925年、教皇ピオ十一世によって制定されました。当時は政治的・社会的な混乱が多かった時代です。ピオ十一世は信徒と全ての人々に、地上の王国や権力の上に永遠の王国があり、それは愛と奉仕によって私たちを導くキリストによって支配されていることを思い出させたいと願いました。
本日の福音では、イエスが地上での使命の頂点に立ち、ローマ総督ピラトの前に立つ場面が描かれています。ピラトはイエスに「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねます。この質問には誤解が含まれています。ピラトは自分が知る権力の枠組みの中でイエスを理解しようとしていますが、イエスが語る王国は、国境によって定められることなく、政治的な構図も超越しています。イエスは「私の国はこの世のものではない」と答えます。この言葉は、イエスが王であることを否定しているのではなく、その王国の霊的な性質を明らかにしているのです。
この王国は、外面的な支配や地上的な権力の力学に基づくものではありません。それは軍隊によって支えられるのでもなく、力によって押し付けられるものでもありません。それは愛、真実、そして奉仕によって建てられる王国です。このような王国は、この世のものとはあまりにも異なっているため、長い間、ローマからの解放とイスラエルの政治的な王国の樹立を想像していた弟子たちでさえも理解できませんでした。
キリストはまさに仕える者となり、自分自身を犠牲にすることで私たちを導くからこそ、王であるのです。これこそが彼のメッセージの偉大な革命です。キリストの王国の力は、キリストの柔和と正義を通じて表現される真実の力です。「真理に属している者は皆、私の声を聞く」とイエスは言いました。イエスは私たちを真実の道へ導き招きます。その真実とは、単なる概念ではなく、一人の人格、すなわち「私が道であり、真理であり、命である」と語られる主ご自身です。
イエスは私たちに、この真理の王国に属するよう招いています。それでは、真理に属するとはどういうことでしょうか。それは、主の声を聞き、彼が教えてくださったように生きることを、すなわち、貧しい人々、孤独な人々、苦しんでいる人々に心を向けることです。彼の王国は、正義の行い、慈悲の行い、真理の言葉、そして愛による犠牲によって築かれていきます。王であるキリストに従うことによって、私たちも「他者に仕える者」となり、彼のように隣人の善と尊厳のために生きる決意をします。
これから私たちは、2025年の聖年「希望の巡礼者」を目指して歩みます。キリスト教の希望は受け身の期待ではなく、主への積極的な信頼です。この希望こそが、キリストの王国を受け入れる力となります。その王国は、私たちの心と人間関係において、真実、愛、正義が勝利するたびにすでに私たちの中にあります。
ピラトの前に立つイエスは、一見すると無力な囚人のように見えましたが、実際にはあらゆる不正と暴力に勝利していました。彼の王国は永遠であり、境界を持ちません。私たちもまた、霊的な歩みと日常生活の中でイエスを私たちの王として認め、その愛によって変えられるよう呼ばれています。そして、どこに住んでいようとも、彼の王国を広げる使命を帯びています。
この祝日が私たちを神の国の真の子として生きるよう鼓舞し、兄弟姉妹に仕え、聖年に向けた希望の中で主と出会うための歩みを進める助けとなりますように、このミサの中で祈ってまいりましょう。
年間第33主日
関根 悦雄 神父
典礼歴の中で第32、33主日、そして来週の「王であるキリスト」の主日は「終末主日」と呼ばれています。この終末主日には、世の終わりの救いの完成に目を向ける、このようなことがテーマになっているわけです。
今日の福音、皆さんどう思いますか。最初の部分「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」。このような私たちが想像し難いような出来事が起こる。私たちは終末というと、この天変地異ということを思うでしょうね。それがいつ起こるのか、それは分からないんです。そういう時に「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と言っています。この「人の子」というのはもともと人間一般を指す言葉でしたが、神が最終的に遣わす審判者、そして私たちキリスト教の信仰によると、栄光のうちに再び来られるキリストのことを指す。これが人の子です。これがいつ起こるのか私たちには分かりません。キリスト教を信じた人たち、キリストからそれほど遠くない時代に生きた人たちは、間もなく世の終わりが来るのではないか、このように期待もしたということです。しかし、それから2000年経ってもまだ世の終わりではない。ではいつまでも続くのか、これもわからない。世の終わりをどのように知ることができるのか、これは私たちには予測不可能だと言ってもいいかもしれません。
しかし、私たちにとってこの終末、終わりというのは私個々人の終末。私たちの終わりはいつかある、ということは皆さんも分かっていると思います。その時、どのような終わり方をするのか、これも分からないんです。ある人は長寿を得て90歳、100歳まで生きるかもしれない。しかし、それでも最終的には自分の生の終わりを迎えるわけです。ある人はまた病気か事故でか、残念ながら若くして亡くなるということもあります。そのような終わり方をする人もいるわけですね。皆さん、そのような私たちの最後をどのように迎えたいですか。私たちには希望があります。私たちはどのような終わりを迎えるとしても、最終的にはイエス・キリストに従って歩んだ者には、イエスが恵みを与えて、すべて受け入れてくださる。私たちはこのようなことに希望をもって生きているわけです。今日の福音にも、この最後にはどうなのかということが書いてあります。「人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と。これはイエスが私たちに約束してくださっていることです。イエスの言葉、これは私たちにもうだいぶ伝えられました。問題は、私たちがそのイエスの言葉に従って生きようとしているかどうか。これだと思います。私たちがどのような個人の終末、どのような死を迎えるとしても、イエスの言葉に従って生きているならば、必ずやいい終末を迎えることができるんじゃないでしょうか。
今日のこの共同祈願の意向があります。そこをちょっと見てみたいと思うんですが、「救いの完成を待ち望むわたしたちが、どんな困難に遭っても、希望を抱き続け、再び来られる主を心から迎えることができますように」とあります。私たちはこの世に生きている限り、いろいろな困難に出会います。そして死を迎える時も、いろいろな困難に直面して迎えることもあるんじゃないでしょうか。そのような時でも希望を失うことなく、これです。この希望の根拠は何ですか。イエス・キリストの言葉です。イエスは私たちを救うために、私たちに神の国のメッセージを伝えてくださったのです。私たちがそれを本当に生きていくことこそ、そのイエスに応えることだと思うんですね。
この次の意向は、「平和を望み、実現のために尽くす全世界の人々を励ましてください」。この「平和を望み、実現のために尽くす」、私たちはそうなっているでしょうか。私たちが本当に平和を願うならば、世界の平和をもちろん願わなければなりません。しかし私たちの間での平和、これを本当に願っていますか。私たち一人ひとりみんな違った考えを持ち、違った感覚を持っています。そして往々にして自分とは反対の意見を述べる人に対しては、その人を排除してしまう。そのようなことがあるかもしれない。しかし、それで本当に平和を求めていると言えるでしょうか。もちろん不正や、そのようなことに対して意見を言う。これは当たり前かもしれない。しかし、その人を徹底的に排除してしまう。自分とは無関係のものにしてしまう。これはキリストの弟子としての生き方ではないんじゃないかと思うんです。イエスは当時の社会の中で「罪人」とされている人たちのもとに行って、その人たちと交わりました。その人たちの招待を受けました。そして、その人たちに必要なものを与えました。私たちの基本的な生き方も、終末を迎えるためにそのような態度が必要なのではないでしょうか。
私たち一人ひとり、本当に意味のある終末を迎えることができるように祈りたいと思うんです。その根拠は、「わたしの言葉は決して滅びない」、このイエスの言葉に信頼をもって、最後までどのような状態にあってもイエスに従って生きるんだということだと思います。その日がどのような形で私たちに来るのか分かりません。それでもイエスは私たちをとにかく救いたいんです。これに信頼して、私たちが神の国に入るまでしっかりと生きていくことができるように、そういう恵み、導きを願いたいと思います。
年間第32主日 子どもとともにささげるミサ
ボニー・ジェームス 神父
11/10(日)10:00- 年間第32主日 子どもとともにささげるミサ
今日は、私が以前勉強のために一度滞在していたアフリカのある国での話をしたいと思います。アフリカのタンザニアという国ですね。タンザニアの教会の話です。私が少しミサをしたり手伝っていた教会で、そこのミサの様子ですけれども、たくさんの人たちが集まってミサをするんですね。子どもたちもたくさんいて、ミサというのは大きなお祝いですね。
そのミサの中でも1つの特徴というのは奉納です。皆さん、奉納というと分かりますかね。献げ物を献げる時ですね。ミサの中で献げ物を持ってきますね。私たちが今やっているミサの中でも献げ物としてパンとぶどう酒を持ってきますね。でもあちらの国では、奉納としてとても面白いものを持ってきます。見ている通り、例えばフルーツとか、そういったものを持ってきます。私もこの受け取っている中にちょっと映っています。まだ髪の毛があった時代なのでちょっと分かりにくいかもしれませんが、一番右の方に受け取っているもう一人の神父さんがいますね。その奥に私もいますけれども、こうやって人が並んで、こういうものを持ってくるわけです。
例えばこの人はレモンだと思いますけれども、自分のお家で採ったレモンかもしれない。そういうものを持ってくるんですね。もう1つ、大きな袋を持っていますね。これがだいたい小麦とか、あるいはお米とか、そういったものを持ってくるんですね。その後ろに見えるのはペットボトルですけれども、水なんですね。そしてなんとホウキまで持ってくるんです。その後ろにちょっと見えないんですけれども、野菜を持っている方もいます。生活の中で必要なすべてのものをこうやって持ってくるんですね。野菜であり、水であり、そしてそういう様々なもの。私たちが毎日使っているもの、生活の中ですぐ使えるようなものとか持ってくるわけです。こんなにものをたくさん持ってきて教会はどうするかというと、教会の裏側に大きな倉庫があって全部とっておくんですね。そしてそれをまた後で売ったり、それが教会のお金になります。
今日この話にしようと思ったのは、今日の福音なんですけれども、その中にこういう聖書の言葉が出てきます。後ろの方はちょっと読みにくいと思いますが、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」という話です。こういうふうにしてこの世のものを、私たちは何か素朴なものだと、あるいは簡単なものだと考えてしまう時がありますね。でも大切なのは、何を持ってくるかというよりも、どういう心を持って神様の前に献げるかということなんですよね。
心を献げる、心の中のその気持ちを献げるということなんですね。その中に、さっきも話したように、生活とすごく近いものを献げるわけです。要するに、私たちの人生そのものを献げるということですね。その中に喜びがあり、苦しみがあり、毎日の生活の中に出てくるすべてのことがあります。よく勉強できるように、神様助けてくださいというお祈りもあるかもしれないし、今日家の中で少し苦しんでいる、あるいは大変になっている状況にいる人たちの話もあるかもしれないし、様々なお祈りを私たちは献げ物として持ってくるわけです。その持ってくるということ、それが一番大事なんですね。
今日私たちが教会の中にこうやって集まっているその1つの目的というのは、自分の一番大事なお祈りを神様に献げる。一番大事な願い事を神様に献げるということですね。それは形は変わるかもしれません。でも、私たちがどのような気持ちでそれを献げるか、それによって神様はそれを受け入れてくださる、という話です。
今日も世界中で、私たちと同じく様々な国でミサを献げています。一人ひとりがミサに与ることによって神様の愛を感じるように、どんなに小さな愛でも神様が報いてくださる。今日の「聖書と典礼」の中にもあるように、今日のミサのテーマは「小さなものでも大切な愛」ということなんですね。小さなものを献げるとしても、それは大きな愛をもって献げる。それができるように世界中の人々のために、そして私たち一人ひとりのためにこのミサの中でお祈りしたいと思います。
年間第31主日
ハビエル・ガラルダ 神父
第一の朗読の申命記の箇所と福音は「聞け、イスラエル」という言葉を使います。「聞け、イスラエル。心を尽くし、体を尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。そして自分を愛するように隣人を愛しなさい」。この言葉は「聞け」で始まりますね。「聞け、イスラエル」。ヘブライ語で「聞け」という言葉は「シェマ」というんです。この箇所は専門的に言えば「シェマ」と言われています。これは聖書の根本です。聖書の土台です。すべての掟がここから始まります。十戒がありますね。結局、この具体的になったシェマということですね。そして律法は、もっと具体的になっているシェマ。すべてがシェマから出ていますね。神を愛し、人間を愛する。これについてご一緒に考えてみたいと思いますが、主に2点だけについて考えましょう。
1つはこの掟を定めた神様は、一見ではちょっと自己中心のように見えるんです。「私を愛しなさい。そしてすべてよりも体を尽くして、精神を尽くして私を愛しなさい。私は唯一の神ですから」。なんかちょっと自己満足みたいに聞こえるんですね。ところが決してそうではないんです。ご自分のためではなくて、私たちの幸せを求めてこの掟を定めたのです。と言いますのは、神を愛する、愛である神に近寄ることは人間の最も大切な幸せです。
逆に言えば、罪によって愛である神から離れるのは人間の不幸です。ですからご自分の自己満足のためではなくて、私たちの幸せを求めて「私のそばにいてください。それはあなたの幸せです」と言われるのです。さらに「隣人を愛しなさい」。これをすれば、やっぱりみんな仲良く公平に平等で幸せになるんじゃないんですか。愛し合いなさい。すなわち、助け合って分かち合う。赦し合って譲り合う。大切にし合って仲良く生きる。この生き方をしていれば人間は幸せになるんじゃないですか。神様の掟は私たちの幸せを求めて言っています。カントがちらっと言ったんですけども、人間が造られたのはすでに幸せな人間として造られたのではなくて、知性と知能と自由が与えられたんです。人間はその知性とその自由を正しく使って、自分の手で自分の幸せを作らなければならない。ですから、この掟、シェマという掟は幸せのためになります。ところが、人間が正しくない形で知能と自由を使ったら広島のようなことになります。戦争と貧困と不幸になります。ですから私たちのためです。
もう1点ですが、神を愛するということです。隣人を愛するということは理解しやすい。実践は極めて難しい時もありますけれども、理解しやすいです。ところが、神を愛するということはどうも分かりにくいです。私たちの感覚、人間の感覚に合わないような気がします。なぜかというと、愛し合うということはまず対等な立場が必要でしょう。友達で対等に、夫婦で対等にですね。ところが神様は超越する存在で、まったく上で神を尊敬することはできますし、賛美することはできますけれども、愛することはちょっと高すぎる。差がありすぎるのでピンとこないんですね。
それから神様は見えないんですね。手で触ることができない。スペイン語のことわざがありますが「目で見えないと心は感じない」。やっぱり友達も離れている時は見えないですね。だんだんその友情が冷たくなるに違いない。ですから、神様は見えないので、どうやって愛することができるんですか。それに神は一体何ですかということも知らない。神秘ですね。神様についてこう言われてますね。私たちはすごく信じますけれども、神は愛である。神は命である。神は創造者である。それはわかりますけれども、それは神の定義ではありませんね。神の特徴です。でも、その特徴の主体である神は一体誰ですか。わかりません。だから、わからない存在を愛してくださいと言われると、「えー」と思いますね。ところがこれは第1の掟ですよ。イエス・キリストもそれを確認する第1の掟です。
私は5人兄弟で1番下でした。みんな男でしたけども、私の母が私たちに時々言っていた。「あなた方は神を愛していませんよ。神を愛していません」。ですから愛することができるはずです。どういうふうに愛することができるでしょうか。完璧な説明にはなりませんけれども、少しヒントを。1つは、イエス・キリストがこうおっしゃった。神様、ヤハウェは御父です。それは少しピンときますね。子どもが親を見ると、御父というのは母親と父親に当てはまる。神様の場合には性別は関係ないですね。親は子どもよりすごく上ですよ。対等な立場ではないけれども、抱きしめてくださるでしょう。守ってくださる。ご飯を与えてくださる。愛してくださるということを感じる。そしてなんとなく安心して感謝する。これは愛ですね。これは私たちができる神の愛ですね。神の愛を信じて、そして御父の愛を信じて、ある程度感じて感謝する。これは愛ですね。
もう1つの愛の方法。人間同士では、仲のいい友達、あるいは夫婦。一緒にいると嬉しい、そして落ち着く。確かに退屈な時もありますけども、退屈のより深いところには嬉しさがあります。時々喧嘩するけれども、その喧嘩のより深いところにはなんとなく落ち着きが感じられる。だから愛してる人と一緒にいたい。一緒にいたい、一緒にいるということは愛の表れですね。ラビンドラナート・タゴールが言った言葉ですが、祈りです。あのインド人の神秘家が「主よ。私はここに座って待ち望んでいます。お好きな時にそっと降りてきて、私の隣に黙って座ってください」。それだけ。これは愛ですね。プレゼントが欲しい、ただお好きな時に隣に座って、黙って一緒にいてください。これだけ。これは愛の表れです。1番目が、神様は親ですから、親に感謝する。2番目の方法は一緒にいる。一緒にいたい、一緒にいるという気持ち。
それからもう1つの神への愛はマタイ25章の言葉ですね。「まことに私は言う。この困っている人たちのためにしてくれたことは、つまり私のためにしてくれたことになる」。ですから、人を大切にすることは神様を愛することになります。人を愛する、弱い立場に置かれている人、あなたを必要としている人にできるだけのことをすることは神を愛することになります。その意味で神を愛しましょう。そして、第一朗読でこのシェマの一番最後の言葉は、「今、私が言ったこれらの言葉を心に留めてそうしましょう」。
「シェマ、イスラエル」。この言葉を心に留めて、行いをもって実践することができるように願い求めましょう。