2024年10月 ミサ説教
10/6(日)10:00- 年間第27主日 ムカディ・イルンガ 神父
10/13(日)12:00- 現聖堂献堂25周年記念国際ミサ アンドレア・レンボ補佐司教
10/20(日)10:00- 年間第29主日 髙祖 敏明 神父
10/27(日)10:00- 年間第30主日 サトルニノ・オチョア 神父
年間第30主日 結婚感謝ミサ
サトルニノ・オチョア 神父
10/27(日)10:00- 結婚感謝ミサ
今日のマルコの福音の箇所でございますが、マルコらしいですね。こちらはこの盲人の名前さえも知っています。福音ではいろんな人たちがいやされたり、いろんなことをしてもらっているんですけれども、その人たちはいつも無名です。こちらは、この人はバルティマイですね。それだけではなくて、この男は盲人で、働くこともできず、何もできないので物乞いをしているんですが、どこですか。エリコです。多分皆さんの中では、聖地を訪れた人たちがいらっしゃると思いますが、エリコは本当に砂漠のど真ん中で、オアシスです。本当に茂るぐらい緑があります。そのエリコで彼は物乞いをして暮らしていたわけですけれども、イエスが通ると「誰ですか」と尋ねます。目が見えないので。あの人はナザレのイエスです。
でも、彼が叫んでいるのは「ナザレのイエス」ではないんです。彼の叫びは「ダビデの子」という信仰の告白です。そのナザレのイエスはダビデの子、私たちの待っている人、私たちのメシアです。ダビデの子。これによって、この叫びだけで彼は信仰の告白をしています。だからイエス様は後で、「私じゃなくて、あなたの信仰があなたを救った」と言います。彼は初めに何を求めているんですか。「私を憐れんでください」ということです。多分、私たちの祈り方もそうであればいいんじゃないかなと思います。私が祈る時には、これとこれ、ではなくて、まず第一に「私を憐れんでください」「私を憐れんでください、ダビデの子、主である私のイエス」。それでイエス様は私たちを憐れんでくださるし、それから私たちを救うということです。
これは非常に可愛らしいマルコの今日の福音ですが、今日は銀婚と金婚感謝の日ですので、1つのことを言いたい。このバルティマイは「目で見えるようにしてください」と願いました。それで特に今日の銀婚・金婚の感謝の時も、この長い25年50年の間、一緒にしてこの祈りをお勧めします。目で見えるように、けれどもこの目じゃなくて、心の目で見えるように、そのような大きな恵みをいただきましょう。どうしてこれを言うのでしょうか。多分初めはそうではないんですけれども、結婚の生活に入って時間が経つにつれて、一緒にたくさんの悩み、たくさんの問題も味わって、たくさんの喜び、たくさん一緒に恵みもいただいたということですので、その目、結婚の目で見ると、多くの心理学者が言うように「私はあなたを見ることができて、私はあなたを知ることができる」ということももちろん言えるんですけれども、もっと深いことがあります。あなたがいるから「私の知らない私」を見えるようになったんです。
だから結婚の相手は私たちの鏡です。結婚の相手のおかげで私たちは「隠れた私」を見ることができた。良いことも悪いことも。それによって25年経って、50年経って一緒にぶどう酒を一杯味わいながら。確かに長かったんです。確かに一緒にいろんな問題を味わったことも、悩みも喜びもあったんですけれども、今は本当に心の目で見えるようになっているんです。あなたは本当に「私の骨の骨。私の肉の肉」です。別の言葉で言えば、25年かかった、50年かかったんですけれども、「あなたは私」です。「私のもの」ではない。「あなたは私」です。あなたのおかげで「私は私」です。そのことを知ることができた。その時あなた方の結婚生活はですね、大きな恵みになっているに違いありません。
年間第29主日 幼児洗礼式
髙祖 敏明 神父
今、一緒に聞きました福音に「洗礼」という言葉が出てまいりました。幼児洗礼を受けるこの日に福音で洗礼が話題になっているというのも、神様からの祝福の現れかなというふうに思うことができます。子どもたちがこの教会にやってきて慣れないところに座っていますので、子どもは子どもなりに泣き声を上げながら賛美の声を上げていますけれども、皆様、それは神様をたたえている声だというふうに受け止めて、一緒にたたえていただきたいと思います。
先ほど読み上げました福音でイエス様は弟子たちに問われます。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」。そして弟子たちの答えを受けて「確かにあなた方はわたしが受ける洗礼を受けることになる」と確認されます。第二朗読のヘブライ書では、一番最後のところに、「恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座(恵み深い神)に近づこうではありませんか」と呼びかけています。本日の聖書朗読は、こうして「洗礼」というふうに言われているこの言葉の意味をよりよく知り、よりよく深めるように私たちを招いているように思います。
イエス様は「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼」と、飲む杯と洗礼を同じものとして見ておられます。第一朗読のイザヤ書は「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負い、自らを償いの献げ物とした。これは主なる神の望みであり、彼は自らの苦しみの実りを見、子孫が末永く続くのを見る」というふうに言っています。そして皆様のお手持ちの「聖書と典礼」には、この「『わたしの僕』とはイエスの受難と栄光を思わせる」というふうに解説が加えられています。それに呼応するかのように、福音書では一番最後のところに「人の子は、多くの人の身代金として(つまり、あがないとなる身代金として)自分の命を献げるために来た」というふうに、この第一朗読、イザヤ書と呼応しています。「自分の命を献げる」とは十字架上で自らの命を献げるということを意味してますけれども、同時に「神の恵みによって神のいのちにあずかる」道を私たちに開かれたということも意味しています。
今日は世界宣教の日です。教皇フランシスコは、毎年世界宣教の日に向けたメッセージを発しておられます。今年もメッセージをされておられますけれども、その中にこういうふうな言葉があります。宣教、宣教って言うんですけれども、福音を告げるに際しては「新たな義務を人に課すようなものではなく、喜びを分かち合い、美しい地平(ホリゾント)を示し、誰もが望む宴に招くようなもの」として告げるよう注意を促している。洗礼を受けるということは、何か義務を背負うというふうなイメージで捉えることが日本の社会でもありますけれども、それよりも喜びの宴にあずかっていく、そのことなんだ。それを福音を告げるように、というふうに言っています。そういう面から見ますと、洗礼を受けるということも義務を負わせるものというよりも、喜びの宴、キリストがもたらされた神のいのちにあずかる、婚礼の宴に加わるものに他ならない。今年の世界宣教の日に向けられた教皇フランシスコは「婚宴の宴」ということをイメージしながら、私たちに宣教ということを考えるように勧めています。
そして教皇はさらに言葉を続けられます。神を知らない世は「消費主義、利己的な幸福、蓄財、財産をため込むこと、個人主義といった様々な『婚宴』を示す中で」、ここにみんないらっしゃいという形で招いている中で、「福音はすべての人を、神との、そして人間相互の交わりにおいて、喜び、分かち合い、正義、友愛が支配する、神の宴へと招いています」。その神の宴は「主がご自分の言葉と、御からだと御血をもって養ってくださる聖体の食卓、(ミサ)への招きに結ばれて」います。つまり「神の宴」とは、死んで復活させられた主キリストを記念して祝う聖体の宴に先取りされているんです。神の宴、聖体の宴にあずかるための基礎資格が、キリストの死と復活にあずかる洗礼を受けることであります。
幼児洗礼の場合、こうした神の宴、聖体の宴にあずかることの意味と価値を知り、理解し、信じた両親の信仰と代父母の信仰、そして私たち共同体の信仰に基づいて洗礼が授けられます。ですから、ご両親、代父母、共同体が洗礼を受ける子どもたちを、その神の宴へと育てていくという、そういうこの責任も持つことになります。その意味で、第二朗読の最後の「大胆に恵みの座(恵み深い神)に近づこうではありませんか」というこの呼びかけに、洗礼を受けることによってそれを実行していく、実現していくというふうに言うことができると思います。この信仰告白に基づく営みを、私たち共同体としても大きな喜びを持って受け入れたいと思いますし、神の宴、聖体の宴にあずかる兄弟姉妹として共に成長していくことができますよう、皆さんでお祈りを交わしながら祈り合いたいと思います。そして、聖体祭儀をお祝いするたびに聖変化の後に唱える言葉ですけども、「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます。再び来られるときまで」というこの言葉を、聖体祭儀を行うたびに繰り返して、私たちの信仰を深めていただきますように祈り合いたいと思います。
それではこれからご一緒に共同祈願を唱えまして、洗礼の儀式に移りたいと思います。
現聖堂献堂25周年記念国際ミサ
アンドレア・レンボ補佐司教
10/13(日)12:00- 現聖堂献堂25周年記念国際ミサ
本日は聖イグナチオ教会の再建から25年という大きな節目を迎え、この場で皆様と共に感謝の祈りを捧げることができることを心から喜ばしく思います。おめでとうございます。
この記念すべき日に、私たちは福音書の中の1つの物語に目を向けたいと思います。マルコによる福音書10章17節から30節に記された、イエスと金持ちの青年との出会いです。この物語から私たちがどのように神の呼びかけに応え、信仰の道を歩むべきかを共に考えましょう。
福音書の中で金持ちの青年はイエスに、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます。この問いは、青年が何かを求めていること、そして自分の人生に欠けているものを感じていることを示しています。イエスは彼の問いに答え、十戒を守るように教えます。しかし青年はそれを守ってきたと答えます。そこで「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。』」
ここでイエスが示されたのは、物質的な富を超えた、本当の富である神への献身です。私たちもこの呼びかけを聞き、自分の人生に何が欠けているか、何が本当に大切なのかを再確認する機会とするべきだと思います。聖マルコは「イエスは彼を見つめ、慈しんで言った」と強調しています。この眼差しは全ての人々に向けられた愛の眼差しです。イエスは私たち一人ひとりを愛し、私たちがどんな時でもその愛に応えることを望んでいます。イエスの愛に満ちた眼差しを通して、私たちは自分の人生の意味と目的を満たすことができるのです。
こちらの教会の名前はイエズス会の創立者である聖イグナチオ・デ・ロヨラに由来しており、その名前を掲げることで彼の遺産を今に伝えています。1549年にキリスト教を初めて日本にもたらした聖フランシスコ・ザビエルは、聖イグナチオによって日本に派遣されたのです。この教会の歴史は長く1936年に「幼いイエズスの聖テレジア教会」として設立され、第二次世界大戦中に全焼した後、再建されました。1999年に完成した現在の教会は楕円形をした構造が特徴で、それは命と復活の象徴である卵の形を模したものです。このデザインは単なる建設的な選択ではなく、キリストの復活への私たちの信仰を示しています。教会の中心にある両腕を広げたイエス像は、訪れる全ての人々を温かく迎え入れ、希望と平和を提供しています。このイエスの姿は文化や背景に関係なく、全ての人に向けられた普遍的な愛を象徴しています。
ここ聖イグナチオ教会は東京の中心に位置し、特別な使命を持つ教会だと思います。それは様々な国籍、文化、言語を持つ人々を1つの信仰の家族として迎え入れ、共に歩むことです。私たちの教会は国際的なコミュニティとして多くの人々が集い、多様なバックグラウンドを持つ人々が互いに理解し合い、支え合う場所です。このような多様性は、私たちが1つの体としてキリストの愛と和解の精神で結ばれていることを象徴しています。聖イグナチオ教会は東京の社会的現実にも目を向け、都市における様々な話題に取り組んでいます。貧困、不公正、孤立などの問題に対して教会として応答を模索し、愛と奉仕をもってこれらの課題に取り組んでいます。私たちは互いの違いを尊重しながらも、共通の信仰と希望のうちに一致することを目指しています。まさにこの精神こそが聖イグナチオ教会の持つ特別な使命であり、この教会が東京の中心で果たしている重要な役割だと思っています。
本日、私たちは聖イグナチオ教会の再建25周年に迎え、共に集うことができました。この教会が再び建てられたように、私たちもそれぞれの心の中に信仰の家を築いていくように招かれています。イエスの愛と眼差しを感じ、神の呼びかけに応える生活を送りましょう。私たちもまたこの教会とその歴史に触れ、奉仕と愛、そして希望に満ちた信仰を生きることができますように、共に祈ってまいりましょう。
改めまして、おめでとうございます。
現聖堂献堂25周年をたくさんの方とお祝いしました!
年間第27主日
ムカディ・イルンガ 神父
10/6(日)10:00- 年間第27主日
新司祭に対して一番期待されているのは説教だそうです。今日の福音箇所は私がコメントできるかどうか、自信がなくてどうしようと思っていました。でも1つ言うことができるのは、神様が結婚という秘跡、結婚という神秘がとても重要であると言われているのではないかなと思います。
私たち一人ひとり、ある結婚から、あるいは家庭から生まれてきたのです。ですからこの家庭というのは、結婚を通して私たちの生涯、私たちの人生の源泉となっていくのですね。ですから、第一朗読では創世記の言葉が次のように書かれているんです。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。つまり夫婦関係というのは、助け合うということです。助け合う。助け手として一緒に歩む。一緒にそれぞれのチャレンジ、それぞれの信念に対して歩んでいく。しかし、この助け合うということは、単なる自分の努力ではなく、神様に信頼して一緒に歩んでいくということです。それは神様のみ旨であると書かれています。助け合っていくというのはなぜかというと、2人が一体となる、1つの体だからです。ですから、結婚というのはキリスト教において、単なる2人の人が一緒に生活するということではなく、神秘である。2人の人が1つになるというのは、一体となるということ。この絆というのは神様に基づいていくということです。
もちろん結婚といっても、私たちの世界ではそれぞれのチャレンジ、あるいは結婚がいろいろな危機に置かれているかなと思います。単なる幸せな生活を送っているというのではなく、いろいろな難しさ、問題があります。その結婚における問題というのは、我々が自分の力で解決することは無理です。神様の力、神様の恵みによってそれぞれの問題を解決していく、歩んでいくということです。ですからよく言われているのは、カトリック教会では離婚を認めないということですね。しかし、教会はみ言葉に従って「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはいけない」と書いてあります。ですから、教会が結婚生活、あるいは2人の夫婦の同伴者として、いろいろな道、あるいはいろいろな試練を通して一緒に歩んでいくんですけれども、その結婚生活の源泉というのは神様であるのです。おそらく現代社会では、それぞれの問題とか、離婚の問題があって、そういうようなそれぞれの問題があるんですね。ですからもともとよく見ると、本当にその2人の愛とか、2人の関係というのは、神様の場所があるでしょうか。単なる2人がワイワイしながら一緒に行くというではなく、神様を源泉として、基盤として家庭生活を送っていくということです。
今日の御ミサでは、特にこの結婚生活の中でいろいろなチャレンジに対面している人々のために祈りたいなと思っています。一緒に幸せな生活を送ろうと頑張っている人々、そして様々な状態、様々な問題で本当に難しい、あるいは難しい状態に直面している人々のために祈りたいと思っています。神様の恵み、そして神様の助けが与えられますように。そして私たちが教会共同体として心を合わせて、その人々のために祈りながらこのミサを続けたいと思っています。