2024年9月 ミサ説教
年間第23主日
柴田 潔 助祭
9/8(日)10:00- 年間第23主日
今日の福音ではイエス様が、耳が聞こえない、お口がうまく使えない人を癒すお話がありました。この人はどういった人だったのか考えてみました。まず、お口が上手に使えない。モゴモゴって言ってるから何を話しているのか、周りの人たちはちょっと分かりませんでした。その人にイエス様は、すぐにお話ができるようにしてあげましょうと言って癒しはしませんでした。その人とイエス様2人だけになってね、あなたのことが大事ですよ、お話できるようになるといいですね、耳が聞こえるようになるといいですね、と思って耳に指を入れたり、それから手を伸ばしてお口に唾で舌を潤したり。唾で潤すって珍しいよね。みんなしたことある?ないよね。特別な愛情をイエス様は示されました。そして最後に深く息をついて神様にね、「エッファタ」「開け!」というふうにお祈りをされます。
この「エッファタ」「開け」というのは昔の教会で、大人の人の洗礼式の時にこういうお祈りをしていました。「神の栄光と賛美のためにあなたの信仰を告白できますように。エッファタ、開け!」とお祈りをしていたそうです。だから、洗礼式の時にね、この「エッファタ」「開け」、神様の言葉を心を開いて受け止めて、神様の良いお知らせをお口で話せるように、そういう信仰宣言をしていました。
今日のこの「エッファタ」「開け」のお話を読んだ時にね、神父様はある絵本の話を思い出します。「ほんのすこしの勇気から 難民 オレアちゃんが教えてくれたこと」という絵本です。読んでみますね。
遠い海の向こうのオレアちゃんの国では、戦争が続いていました。戦争ってわかる?爆弾が飛んできたりね。兵隊さんが来て、殺しに来たりとか大変な状態でした。ですので、お父さんとお母さんと小学1年か2年のオレアちゃんは、この国、例えば日本に逃げてきました。学校の先生は「みんな仲良くね」と言います。
でもオレアちゃんはずっと黙って、教科書を見ているけど、みんなとは同じようにお話ができない、日本語が使えないので、じーっと静かにしていました。そして休み時間になると海の方ばっかり見ていました。窓の外には海がある。そういう学校だったのね。お友達は、オレアちゃんがお話できるようになればいいなと思っていました。
ある日、音楽の授業がありました。先生が弾くピアノに合わせて大好きなお歌をみんなで歌います。すると隣から小さな泣き声が聞こえました。見るとオレアちゃんが1人でしくしく泣いています。オレアちゃんも一緒に歌えるといいなと思いました。
日本に来てすぐのお友達に、さっき歌った「アレルヤ、アレルヤ、心をひらいて」って歌えると思う?日本に来てすぐのお友達に歌えない。歌えないね。じゃあ、歌えるためにはどうしたらいいでしょうか?アレルヤは歌えるかもしれないね。アレルヤはね、世界共通って言うかね。アレルヤって言ってるから。心を開いてって、すぐに言えないよね。それをどういうふうにしたら、オレアちゃんも一緒に歌えるでしょうか?はい、誰かいないかな?昨日土曜学校でお話したんだけど、ちょっと覚えてるかな?そう、「ラララで歌おう」って言うんだよね。ラララで歌う。アレルヤ、アレルヤ、ラララ~だったら日本に来てすぐのお友達にも歌えると思います。
勇気を出して隣のお友達は「ラララで歌おう」と言いました。すると先生がピアノをやめてオレアちゃんのところに来て、肩を抱いて一緒に、ラララで歌おうっていう言葉もまあ分からないかもしれないけど、ラララララって先生も歌い始めたので、オレアちゃんもラララで歌い始めました。すると、クラスのお友達みんなが日本語で歌うのをやめて、ラララで歌い始めました。普段はね、1番目で終わる曲を2番目も3番目もラララで歌いました。
歌い終わるとみんながオレアちゃんのところに来て、「オレアちゃん、歌うまいね」、「うれしいね」と言いました。するとオレアちゃんは「うれしいね」と言いました。「オレアちゃん、楽しかったね」と言うと「たのしい」と言いました。先生が「よく勇気を出したね」と言ったら、オレアちゃんも「ゆうき」と言いました。みんなが笑顔になって、オレアちゃんはその日3つの言葉を覚えました。
その日からオレアちゃんは日本語をどんどん覚えていきます。お友達の名前とかいただきますとか、おはようございますとか、挨拶もできるようになりました。
「ラララで歌おう」って声をかけたお友達がオレアちゃんの心を開いたように、口を開いたように神父さんは思いました。みんなもそう思いますか?そうだね。リーダーはうなずいていましたね。言葉ができないお友達にどうやったら一緒に歌えるようになるか考えて、ラララとか、ハミングっていうのもあるよね。フフフンとかね、ハミングで歌う方法もあります。先ほどの「アレルヤ、こころを開き」を一生懸命手話でしてたお友達もいたけど、手話もお口が使えない方にとってはとても大切なコミュニケーションの方法です。日本語がわからないとか、お耳が聞こえないとか、それから口が上手に使えないとか、そういう人がいてもなんとかお話しできる、コミュニケーションできる方法がないのか考えられる、そんな素敵な教会学校にしていきましょう。また大人の私たちも何か方法がないか探していく。
「エッファタ」「開け」イエス様の言葉が私たちの生活の中にも起こるようにお祈りをいたしましょう。
年間第22主日
山内 豊 助祭
今日の聖書箇所は、イエスの弟子たちが手を洗って食事をしていないということをファリサイ派の人々が非難している場面です。今でも食事の前は手を洗って食事をしましょうって言いますね。私が今実習で通っている本郷教会の信徒会館にあるカリタス翼っていう施設があるんですね。それは放課後等デイサービスっていって、発達障害の子どもやダウン症候群の子どもが放課後に来て遊んだりしている施設です。そこでもおやつとか食事の前には、ちゃんと手を洗った?って聞くわけです。その時手を洗うっていうのは、手にばい菌とか細菌がついているのを洗い流すためにやるわけですけど、今日の福音箇所に出てきたファリサイ派の人々は、ちゃんと手を洗って食べないとその汚い菌が口の中に入っちゃうよっていう話ではありません。これはそういう側面もあるかもしれませんが、宗教的な意味合いがあります。手を洗うっていうことは一つ、汚れ(けがれ)を清めるという意味があります。手を洗わずに食事をするっていうことが、その人が汚れてしまう、外から食べたものでその人を汚してしまうと考えられたからです。ファリサイ派の人たちの指摘に周りの人も、その通りだ、手を洗って食事をしなければいけないと思ったことでしょう。ここに、宗教的に熱心な人が陥りやすい罠が潜んでいると思われます。それは様々な律法を分析的に考える、還元的に考えるっていうことです。
例えば私たちは断食をします。灰の水曜日だとか聖金曜日に、私たちは大斎、小斎というものをしますね。大斎は1日に1回十分な食事をとること、朝か夕方に軽食をとることを禁じないという、そういうものを大斎と言います。小斎は食物の種類の規制ですね。鳥獣の肉や、司教が定める他の食物を控えることを言います。その断食の意味は、回心、償い、キリストへの霊的な集中という意味合いがあります。そこは宗教的に熱心な分析的な人がこう考えるわけです。十分な食事ってどのくらいですか?お腹いっぱい食べていいんですか?それとも腹八分目ですか?とか、例えば小斎だったら肉を食べないということですよね。鶏や牛や豚の肉を食べないようにするんですけど、じゃあ、寿司は大丈夫ですか?魚だから大丈夫ですよね?っていうことになるわけです。そういうことではないんですね。そうやって一つ一つのおきてを分析的に考えていくというものは、全体的な意味を失いやすくしてしまいます。私たちの回心の気持ち、それが断食する時にとても重要なものなんですけど、他の小さなことや、その気持ちじゃなくて、この規定の意味は何だろう?って探求していく。そうすると少しずつ間違った方向に進んでしまう可能性もあるわけです。
当時のファリサイ派や律法学者、そのような方々がたくさんいました。それゆえ、私たちは何かおきてというものを目の前にした時に、その心、その真意、全体的な意味を考える必要があると思います。当時ファリサイ派の人々は正義の人でした。あの人は清廉潔白で、律法を守って素晴らしい人だとファリサイ派の人々は思われていました。つまり正義の人です。律法を忠実に守り、人に、あなたもちゃんと守りなさいっていう行動をしていました。彼らの考え方は、どこからどこまでが律法的にオーケーで、どこからどこがアウトなんだろうっていうところがすごく気になるところでした。一方、イエス様は正義の人でありながらも、愛を基礎として生きていました。時々、正義と愛は対立します。愛を欠いている正義は暴走しがちです。秩序こそ最高の価値となっていってしまいます。そもそも私たち一人ひとりは正義を他人に求める権利があるんでしょうか。私たちは、もし神様が私たち一人ひとりに正義を求めたらどうなると思いますか。やはり、私たちは罪人になってしまうわけです。神の正義にかなう人間は、おそらく私が知っている限りではいないはずです。
マタイ18章21節に、仲間を赦さない家来のたとえってあるのを皆さんご存じだと思います。一人の家来が王様から借金をしていて、なんとその値段は1万タラントン、一生をすべてお金に捧げても返せないぐらいの大きな値段ですね。それを「返せません、どうか赦してください」って言って、王様はそれを帳消しにしてあげたんですね。でもその家来はなんと、自分に100デナリオン借金している人に、「払うまで牢屋に入れとくぞ、そうしないと返すまで絶対出さない」っていう態度を取ったわけです。そこで王様はその借金を帳消しにした人に対して「お前は何をやっているのか。私が憐れみを見せたように、あなたも人に対して憐れみを見せなきゃいけないだろう」とおっしゃっています。私たちは正義によって人を裁ける。確かに裁こうと思えば裁けるのかもしれませんが、そういう人間ではないということを心に留めなければいけません。最近の日本では、正義を主張して人を吊るし上げるっていう社会があります。だから誰一人間違いを犯すことができない。ちょっと何か間違ったらみんなで叩き上げ、吊るし上げる。特にSNSを見るとそんな感じがします。私はSNSはLINEしかやってないんですけど、ネットニュースとかを見ているとそのような感じがします。一つ間違ったらみんなで吊るし上げる。自分は正義だ、これは良いことだと思って。でも私たちはそれをする権利があるのでしょうか。
神の愛によって、神の愛の慈しみによって私たちは赦されました。それゆえ、私たちも赦さなければならないということを心に留めていきましょう。不正を働いている人がいても神の慈しみを思い起こして、その人のために、不正を働く人のために祈るということが私たちキリスト者の姿勢なんだと思います。