2024年9月 ミサ説教
9/15(日)10:00- 年間第24主日 髙祖 敏明 神父
9/29(日)10:00- 年間第26主日 ハビエル・ガラルダ 神父
年間第26主日
ハビエル・ガラルダ 神父
9/29(日)10:00- 年間第26主日
今日の福音などには説明しなければならないことがいろいろありますけれども、時間の関係で1つだけのポイントについてご一緒に考えてみたいと思います。結論から言えばこの問題です。純粋な愛が求めるのは、私が人を助けることよりも、人が助かるということです。これはポイントですね。言葉の遊びのように聞こえるんですけれども違います。もう1回言いますけれども、純粋な愛が求めるのは、私が人を助けることよりも、人が助かるということです。と言いますのは、私が助けると言えば主語は「私」ですね。感謝されたり評判が良くなったり、得したりするので、自分が主人公になります。そうではなくて、私はどうでもいい。人が助かるんだったら、人が助かりさえすればそれでいいと思っている人は、本当の愛に恵まれていると思います。
このことの模範は、今日の典礼のモーセとイエス・キリストになります。まず、モーセのことを考えましょう。第一の朗読、民数記の話ですね。面白い話ですね。まず分かるには、預言者とは何かということを確認した方がいいと思います。預言者というのは、もちろん将来のことを前から言う人ですけれども、それよりも、将来を見るよりも、今の状態を深く見る人です。今の状況を深く見て、そして神様の、この状況に対する神様の御心を深く見る人です。その深さで将来が見える。この神の御旨と今の状況は合わないと分かるので、預言者は叫ぶ。合わせましょう、と言うんですね。ところが、その悪い状況によって権力者、強い人が儲かっているんですね。だからその不正な状態を守りたいんです。ところが預言者は、神様はそれを望まないので、それをやめさせようというので、預言者は邪魔になっていたんです。だから殺されたんです。イエス・キリストは大預言者で殺されたんです。ちなみに言いますけれども、私たちは洗礼を受ける時には、キリストとともに預言者になると言われるんですね。授ける時に、あなた、預言者になっています。この意味の預言者になることにしましょう。
預言者はこういうことです。そうするとモーセに戻ります。モーセが預言するための霊をいただいていました。ところが主が、モーセのための霊の一部を取って他の人たちに与えたんです。それでモーセの友達、弟子は怒って、やめさせてくださいよ、だって、彼らが預言状態になって預言をしているので、本当の預言者はモーセだけでしょう。その人たちではない。やめさせてくださいと言うんですね。それに対するモーセの答えは立派ですね。あなたは私のためを思ってねたむ心を起こしているのか、みんな預言者になればいい。なぜかというと、預言者は非常に大切な存在で、預言者によって民が助かりますので、民すべてが預言者になることを私は切望しています、と言ったんですね。素晴らしい。私が人を、つまり、私が人を助けることよりも、人が助かるということを望んでいたわけです。
では、今度はイエス・キリストのことを考えましょう。福音の時にはヨハネが近寄って、またちなみにこのヨハネのことですけれども、ヤコブの兄弟で、若い人で、多分「イエス・キリストの愛された弟子」だと言われています。確実ではない、いろんな意見がありますけれども、この意見は一番強いです。ヨハネは愛する弟子でした。ところが、イエス・キリストはこの愛する弟子を厳しくする時もあります。今みたいに何か頼む、やめさせようと思ったら、だめですよと却下する。他の時もそうだったんですね。新世界になったら、私の兄と私は右左に座るようにしてください。却下、だめですと言うんですね。あるいはもう1回、ヨハネは、サマリア人たちは自分たちを受け入れてくれなかったので、怒ってイエス様に頼むんです。天からの火を落とそうじゃないか。それに対してイエス・キリストは、却下、だめですよ。言いたいのは、イエス・キリストは、特別に愛する人を甘やかすことではない。愛することと甘やかすこととは違います。
イエス・キリストに戻ります。このヨハネはやめさせようとしました。イエス・キリストは、やめさせてはいけませんと。モーセと同じ言葉ですね。やめさせてはいけません。私たちに逆らわない人はみんな味方です。この人たちは何をしてるんですか。人を癒したり、悪霊を追い出したりしてるでしょう。それによって人々が助かってるんじゃないんですか。悩んでる人が助かってるんじゃないんですか。やらせてくださいよ。私たちがしない、それでもいいですよ。あなたが求めてるのは、私たちが人を癒す、私たちが人の悪霊を追い出す。私たちが、私たちが。そうではないんですよ。中心は私たちではなくて、悩んでる人ですよ。悩んでる人が多い。悩んでる1人でも多くの人間が癒されるということは私たちの目的です。私たちの名誉と評判と感謝されるということではない。主語は、中心は悩んでる人たちです。ですから私たちの人生は、人が助かるために人に仕えるという姿勢で生きていればいい。人が助かるために人に仕える。
では、イエス・キリストのように、モーセのように本当の愛を願い求めましょう。純粋な愛が願い求めるのは、私が人を助けることよりも、人が助かることです。この愛を願い求めましょう。
年間第25主日
李 聖一 神父
9/22(日)10:00- 年間第25主日
さて今日の福音書、そしてイエス様の姿を少し思い浮かべながら、聖書の言葉について考えてみたいと思います。途中で弟子たちが議論し合っていたことは、誰が一番偉いかということだったと書いてありますが、弟子たちにとってイエスというのは、世俗的な意味でイスラエルという国を復興してくれる、ローマの支配から独立して、そしてイスラエルの国を再興する、そういう方だと思っていたということがよくわかります。そしてこのことは、イエスが天に昇られる時まで、弟子たちはそう思っていました。そのような考え方が違うということをイエスはいろんな形で語るんですけれども、その中の一番、そうではないということを示すのが、人々の手に渡されて殺され、そして3日の後に復活するという予告だったわけです。そのことが何を意味するのか、そして弟子たちにとっては、どうも自分たちが思っていることとは違う故に、怖くてその言葉の真意を聞くことができなかったというのが実際のところだったのでしょう。そして、その弟子たちが次第に変えられていくということは、使徒言行録を読んでいくとわかるわけですが、そのような弟子のイエスに対する理解というもの、その理解の仕方というところから、次第にイエスが十字架の道を歩んでいく時に弟子は一人ひとり去っていきました。それと同時に、イエスがそうしたことを通して弟子たちに教えたのは、仕える者になりなさい。誰が一番か、誰が偉いのかではなくて、私に従う者は仕える者になることだと諭されたわけです。
私はずっと学校で働いてきた人間ですが、最近、リーダーシップということが盛んに話題になっています。イエズス会の教育の中で、リーダーシップのあり方は何かという時に、やはり仕える者であること、仕えるリーダーとなる、そういった話はよくしますけれども、今日の福音書に由来する言葉です。
そしてこの仕えるリーダーの1つの姿が、子どもを受け入れる、そのことにつながっていきます。預言者は、イスラエルの王の使命として、弱い者を助けること、弱い者を支えること、そういうことが必ず言われました。その中で、未亡人と親のない子どもを守ること、これを大切にするように語っています。逆に言えば、そういった人々が常に疎外の対象になり、虐待の対象になり、差別される対象であったということです。
そして私たちの時代、実は子どもっていうのについて色々と眺めたり、あるいはまたニュースを聞いたりする時に、悲惨な出来事が常にあるいうことを、知らないわけではありません。幼い子どもの命が奪われる、幼い子どもが虐待される。それは生活の面だけではなくて、最近は教育虐待っていう言葉もあるように、親が子どもに対してこういう勉強をして、こういうことをしなければうちの子ではない、うちの子として認めないっていうようなことだってないわけではない。そういう中で子どもたちは日々生活を送っている。虐待っていうものがただ単に身体的なものだけではなくて、心の虐待、精神的な虐待、そうしたものも私たちの世界にたくさんあるということを日々のニュースを通して我々は知っていることでもあります。子どもの命を大切にするというごくごく当たり前のことだと私たち思いますけど、それができていない状況があることを知らなければならないと思います。
ミサの始めに、今月は「すべてのいのちを守る月間」と定められていると言いました。全ての命を守るという時に、私たちは特にこうした子ども、力のない者、声を上げられない者、そうした人々の命を守る、このことをしっかりと心に留めておく必要があるだろうと思います。5年前に教皇様が日本に来られた時のテーマを皆さん覚えていらっしゃるでしょうか。”protect all of life”「プロテクト オール オブ ライフ」でした。「すべてのいのちを守る」ためにそのメッセージを、教皇様は日本のいろんなところで何か具体的に語られたかというと、決してそうではなかったかもしれません。しかし今、カトリック教会が一番大事にしていることは、「すべてのいのちを守る」こと。教会は大きな大きな過ちを犯してきた。そのことを認めながら、特に幼い命、子どもの命、そうした弱い命、これを守るということ。このことをしっかりと心に留めなければなりません。私たちみんな子どもの時代を経てきました。それであるが故にこうした幼い命を守るということ、もっともっと意識しなければならない状況がある。それを忘れないようにしたいと思います。どうか私たちが仕える者であり、そしてまたこのような幼い命を守る者でありますように、今日はそうしたことを心に留めながら共にお祈りいたしましょう。
年間第24主日
髙祖 敏明 神父
9/15(日)10:00- 年間第24主日
ミサの初めに申し上げましたように、今日は祖父母、おじいさま、おばあさま、そして高齢の方々のために世界的に祈る日であります。この9月が「すべてのいのちを守るための月」というふうに、教皇様がそういう意向でもっておられます。その1つの流れかと思います。私たちもこのミサで、自分自身がここに生まれているには、おじいさん、おばあさんがいたおかげもあるということも思い起こしながら、その感謝を捧げたいと思います。
今日の3つの朗読を読みながら、特にペトロの姿が私の心に残ります。「聖者にもサタンにもなる、それが人間」という言葉が頭に浮かんでまいります。今お聞きになったように、イエスの「私を何者だと言うのか」という問いに対して、ペトロが「あなたはメシアです」、古い時代から約束されてきた救い主です、と信仰告白をする。今日のマルコの福音書には書いてありませんが、同じこの箇所のマタイの福音書を読みますと、ペトロのこの信仰告白に続いてイエス様が「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、私の父なのだ」。神からの示しによってあなたはこう宣言できたんですよ、ということを教えておられます。ところが、この告白を受けてイエス様が「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」と、そういうふうにご自分が預言者イザヤの伝える「苦しむメシア」、今日の第一朗読につながるところですが、その「苦しむメシア」であることを教え始めると、ペトロは自分のお師匠様のイエス様を道のわきに引っ張り込んで、そしていさめ始める。それに対してイエス様が振り返ってペトロを叱って「サタン引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」というふうに叱られる。天の父から示されたという恵みの栄誉から、人間のことを思うサタンへと転落しているというふうに見ることができます。ですから、「聖者(聖なる者)にも、サタン(誘惑者)にもなる、それが人間」。この言葉は、人生を重ねてこられた高齢の方々をはじめ、私たち一人ひとりの人生にも当てはまる言葉であろうと思います。
ちょっと視点は違いますけれども、私たちの人生にも山あり谷あり、毀誉褒貶の人生だということはよく言われます。「聖者にもサタンにもなる、それが人間」、私たちがそういう存在であるということを認めるところから、私たちの信仰は始まっていくようです。他方で苦しむメシアの、今日の第一朗読にありましたような姿を読むと、人間としてちょっと距離を持ちたいというふうに駆られる。その意味ではペトロの反応は私たち人間としてよくわかりますし、ペトロの動きも共感できます。しかしイエス様は振り向いて、それは父なる神の思い、私の思いとは違うんですよ、ということをおっしゃる。では、私たちはどうすれば父なる神の思い、イエスの思いを様々な思いの中から識別して知ることができるのでしょうか。今日の典礼の中からヒントになるものを3つ、私なりに見つけました。
1つは先ほどここで答唱詩編を歌っていただきましたけれども、その詩編の中の言葉に「死が迫り、苦悩の中にあったとき、『神よ、私を助けてください』と叫んだ。その声を神様が聞いてくださった」というふうに詩編が言っています。他方で私たちが住んでいる日本の社会は、少なからずの人が「宗教は心の弱い者がすがるもの」なんだと見ている。そして、自分の人生の成功は自分の力で成し遂げてきたんだという自負心が非常に強い文化であり、そういう社会に生きています。それだけ他の人に助けてください、ましてや神様に助けてくださいなんて言うのは、自分の弱さを認める、自分が築いてきたものを壊してしまうと思い込むものですから、なかなかそこから抜け出せない。しかし、自分が聖なる者にもサタンにもなり得る、そういう弱い存在でもあるということを認めるところから神様の働きが私たちに自覚される、また気づくことができるようです。「神様、私を助けてください」という祈りは、私たちの人間の存在から見れば、ある意味で心からの叫びとして出てくる祈りだろうと思います。
2つ目のヒント。今日の第一朗読のイザヤの預言の冒頭句に、「主なる神は私の耳を開かれた」と書いてあります。そして今日のイザヤの朗読のずっと後は、主なる神が私の耳を開かれて、神様の言葉が自分の中にあるから、あざけりだとか、どうだこうだって普通の世界から見ると本当に失敗で惨めだと思われることが、そう自分は感じないという部分になる。先週の日曜日のミサでは「エッファタ、耳を開け」というイエス様がおっしゃった。そのこととここを繋いで読んでいきますと、私たちが神様から耳を開いていただく、心の耳を開けていただく、神様の言葉が自分の心の中に染み通るようにしていただく。それができるからこそ「打とうとする者には背中を任せた」。通常ですと、打とうとする者を避けようとしてそこから逃げるし、それに対抗しようとします。でも、打とうとする者には背中を任せた。ある意味で自然体でいるということができるかもしれない。そして、第一朗読の後半を読んでいきますと、裁かれるのは自分ではなくて、神様が裁いてくださるんだ。何らかの復讐が必要だとするならば、復讐も私が相手を打ちのめして復讐するというのではなくて、神様が復讐してくださる。裁きと復讐は神様に任せるという、そういうヒントがここにあるように思います。
3つ目のヒント。イエス様が「サタン、引き下がれ」と仰っています。このサタンとの関わりということを思いますと、荒れ野でのイエス様が誘惑を受けた、このことが自然に思い浮かんでいきます。その時にイエス様がサタン、誘惑者の誘惑の声に対してどういうふうに対応していたか、していったか、これもヒントになるようです。3つありました。断食してひどい空腹になっている。お腹が減ったと思っている時に誘惑者が、あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように言ったらいいじゃない、というふうにそそのかす。それに対してイエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」というふうに答えてそれを退ける。そうするとサタンは神殿に連れて行って、神殿の屋根から飛び降りて天使たちが助けるという、皆が驚くような、人々から注目されるようなことをやったらどうだ。今日の詩編にありました、足がつまずかないように支えられたという聖書の言葉もあるじゃないということでそそのかす。そうするとイエス様は「あなたの神である主を試みてはならない」という言葉で切り返される。そうするとサタンは、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、私つまりサタンを拝むならこれをあなたに皆あげますよ、というふうに誘う。そうするとイエス様は「退けサタン」、今日の朗読は「引き下がれ、サタン」でしたが、同じようなことですね。「退けサタン、あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある」というふうにお答えになる。皆様もこの3つのイエス様の対応、誘惑者とイエス様のやり取りをお聞きになってお気づきになっていらっしゃるでしょうけれども、3つとも神に従い神に仕えるよりも、神を自分の道具として、神を自分のしもべとして自分の欲求や望み、名誉欲、権勢欲に神を利用しようとしている、ということが読み取れると思います。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある。イエス様も今日の福音の中で「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とおっしゃっています。ここに「聖者にもサタンにもなる人間」の、その1つの生き方の分かれ目があるということを私たちに今日教えていらっしゃるようですし、私たちを導いていらっしゃるようです。それは若い人にとっても、年を重ねた人にとっても同じだと思います。
そして私たちの教会は、自分の思い違い、思い込みは叱ってくださって、正してくださる。仮につまずいても、赦しと癒しを与え、再び立ち上がる力を与えてくださいます。そして耳を開いてくださり、主の導きに従うよう御言葉を聞き、ご聖体に養われる。この言葉の典礼と感謝の典礼からなるミサ聖祭に与って、私たちが神によって心の耳を開かれ、心を養っていただけるように、そういう機会を作ってくださっている。今日の主日のミサはそういうことを思い起こしながら祝うようにというふうに進められているようです。これから改めて私たちの信仰を宣言いたしまして、共同の祈りをご一緒に唱えましょう。
年間第23主日
柴田 潔 神父
9/8(日)10:00- 年間第23主日
今日の福音ではイエス様が、耳が聞こえない、お口がうまく使えない人を癒すお話がありました。この人はどういった人だったのか考えてみました。まず、お口が上手に使えない。モゴモゴって言ってるから何を話しているのか、周りの人たちはちょっと分かりませんでした。その人にイエス様は、すぐにお話ができるようにしてあげましょうと言って癒しはしませんでした。その人とイエス様2人だけになってね、あなたのことが大事ですよ、お話できるようになるといいですね、耳が聞こえるようになるといいですね、と思って耳に指を入れたり、それから手を伸ばしてお口に唾で舌を潤したり。唾で潤すって珍しいよね。みんなしたことある?ないよね。特別な愛情をイエス様は示されました。そして最後に深く息をついて神様にね、「エッファタ」「開け!」というふうにお祈りをされます。
この「エッファタ」「開け」というのは昔の教会で、大人の人の洗礼式の時にこういうお祈りをしていました。「神の栄光と賛美のためにあなたの信仰を告白できますように。エッファタ、開け!」とお祈りをしていたそうです。だから、洗礼式の時にね、この「エッファタ」「開け」、神様の言葉を心を開いて受け止めて、神様の良いお知らせをお口で話せるように、そういう信仰宣言をしていました。
今日のこの「エッファタ」「開け」のお話を読んだ時にね、神父様はある絵本の話を思い出します。「ほんのすこしの勇気から 難民 オレアちゃんが教えてくれたこと」という絵本です。読んでみますね。
遠い海の向こうのオレアちゃんの国では、戦争が続いていました。戦争ってわかる?爆弾が飛んできたりね。兵隊さんが来て、殺しに来たりとか大変な状態でした。ですので、お父さんとお母さんと小学1年か2年のオレアちゃんは、この国、例えば日本に逃げてきました。学校の先生は「みんな仲良くね」と言います。
でもオレアちゃんはずっと黙って、教科書を見ているけど、みんなとは同じようにお話ができない、日本語が使えないので、じーっと静かにしていました。そして休み時間になると海の方ばっかり見ていました。窓の外には海がある。そういう学校だったのね。お友達は、オレアちゃんがお話できるようになればいいなと思っていました。
ある日、音楽の授業がありました。先生が弾くピアノに合わせて大好きなお歌をみんなで歌います。すると隣から小さな泣き声が聞こえました。見るとオレアちゃんが1人でしくしく泣いています。オレアちゃんも一緒に歌えるといいなと思いました。
日本に来てすぐのお友達に、さっき歌った「アレルヤ、アレルヤ、心をひらいて」って歌えると思う?日本に来てすぐのお友達に歌えない。歌えないね。じゃあ、歌えるためにはどうしたらいいでしょうか?アレルヤは歌えるかもしれないね。アレルヤはね、世界共通って言うかね。アレルヤって言ってるから。心を開いてって、すぐに言えないよね。それをどういうふうにしたら、オレアちゃんも一緒に歌えるでしょうか?はい、誰かいないかな?昨日土曜学校でお話したんだけど、ちょっと覚えてるかな?そう、「ラララで歌おう」って言うんだよね。ラララで歌う。アレルヤ、アレルヤ、ラララ~だったら日本に来てすぐのお友達にも歌えると思います。
勇気を出して隣のお友達は「ラララで歌おう」と言いました。すると先生がピアノをやめてオレアちゃんのところに来て、肩を抱いて一緒に、ラララで歌おうっていう言葉もまあ分からないかもしれないけど、ラララララって先生も歌い始めたので、オレアちゃんもラララで歌い始めました。すると、クラスのお友達みんなが日本語で歌うのをやめて、ラララで歌い始めました。普段はね、1番目で終わる曲を2番目も3番目もラララで歌いました。
歌い終わるとみんながオレアちゃんのところに来て、「オレアちゃん、歌うまいね」、「うれしいね」と言いました。するとオレアちゃんは「うれしいね」と言いました。「オレアちゃん、楽しかったね」と言うと「たのしい」と言いました。先生が「よく勇気を出したね」と言ったら、オレアちゃんも「ゆうき」と言いました。みんなが笑顔になって、オレアちゃんはその日3つの言葉を覚えました。
その日からオレアちゃんは日本語をどんどん覚えていきます。お友達の名前とかいただきますとか、おはようございますとか、挨拶もできるようになりました。
「ラララで歌おう」って声をかけたお友達がオレアちゃんの心を開いたように、口を開いたように神父さんは思いました。みんなもそう思いますか?そうだね。リーダーはうなずいていましたね。言葉ができないお友達にどうやったら一緒に歌えるようになるか考えて、ラララとか、ハミングっていうのもあるよね。フフフンとかね、ハミングで歌う方法もあります。先ほどの「アレルヤ、こころを開き」を一生懸命手話でしてたお友達もいたけど、手話もお口が使えない方にとってはとても大切なコミュニケーションの方法です。日本語がわからないとか、お耳が聞こえないとか、それから口が上手に使えないとか、そういう人がいてもなんとかお話しできる、コミュニケーションできる方法がないのか考えられる、そんな素敵な教会学校にしていきましょう。また大人の私たちも何か方法がないか探していく。
「エッファタ」「開け」イエス様の言葉が私たちの生活の中にも起こるようにお祈りをいたしましょう。
年間第22主日
山内 豊 助祭
今日の聖書箇所は、イエスの弟子たちが手を洗って食事をしていないということをファリサイ派の人々が非難している場面です。今でも食事の前は手を洗って食事をしましょうって言いますね。私が今実習で通っている本郷教会の信徒会館にあるカリタス翼っていう施設があるんですね。それは放課後等デイサービスっていって、発達障害の子どもやダウン症候群の子どもが放課後に来て遊んだりしている施設です。そこでもおやつとか食事の前には、ちゃんと手を洗った?って聞くわけです。その時手を洗うっていうのは、手にばい菌とか細菌がついているのを洗い流すためにやるわけですけど、今日の福音箇所に出てきたファリサイ派の人々は、ちゃんと手を洗って食べないとその汚い菌が口の中に入っちゃうよっていう話ではありません。これはそういう側面もあるかもしれませんが、宗教的な意味合いがあります。手を洗うっていうことは一つ、汚れ(けがれ)を清めるという意味があります。手を洗わずに食事をするっていうことが、その人が汚れてしまう、外から食べたものでその人を汚してしまうと考えられたからです。ファリサイ派の人たちの指摘に周りの人も、その通りだ、手を洗って食事をしなければいけないと思ったことでしょう。ここに、宗教的に熱心な人が陥りやすい罠が潜んでいると思われます。それは様々な律法を分析的に考える、還元的に考えるっていうことです。
例えば私たちは断食をします。灰の水曜日だとか聖金曜日に、私たちは大斎、小斎というものをしますね。大斎は1日に1回十分な食事をとること、朝か夕方に軽食をとることを禁じないという、そういうものを大斎と言います。小斎は食物の種類の規制ですね。鳥獣の肉や、司教が定める他の食物を控えることを言います。その断食の意味は、回心、償い、キリストへの霊的な集中という意味合いがあります。そこは宗教的に熱心な分析的な人がこう考えるわけです。十分な食事ってどのくらいですか?お腹いっぱい食べていいんですか?それとも腹八分目ですか?とか、例えば小斎だったら肉を食べないということですよね。鶏や牛や豚の肉を食べないようにするんですけど、じゃあ、寿司は大丈夫ですか?魚だから大丈夫ですよね?っていうことになるわけです。そういうことではないんですね。そうやって一つ一つのおきてを分析的に考えていくというものは、全体的な意味を失いやすくしてしまいます。私たちの回心の気持ち、それが断食する時にとても重要なものなんですけど、他の小さなことや、その気持ちじゃなくて、この規定の意味は何だろう?って探求していく。そうすると少しずつ間違った方向に進んでしまう可能性もあるわけです。
当時のファリサイ派や律法学者、そのような方々がたくさんいました。それゆえ、私たちは何かおきてというものを目の前にした時に、その心、その真意、全体的な意味を考える必要があると思います。当時ファリサイ派の人々は正義の人でした。あの人は清廉潔白で、律法を守って素晴らしい人だとファリサイ派の人々は思われていました。つまり正義の人です。律法を忠実に守り、人に、あなたもちゃんと守りなさいっていう行動をしていました。彼らの考え方は、どこからどこまでが律法的にオーケーで、どこからどこがアウトなんだろうっていうところがすごく気になるところでした。一方、イエス様は正義の人でありながらも、愛を基礎として生きていました。時々、正義と愛は対立します。愛を欠いている正義は暴走しがちです。秩序こそ最高の価値となっていってしまいます。そもそも私たち一人ひとりは正義を他人に求める権利があるんでしょうか。私たちは、もし神様が私たち一人ひとりに正義を求めたらどうなると思いますか。やはり、私たちは罪人になってしまうわけです。神の正義にかなう人間は、おそらく私が知っている限りではいないはずです。
マタイ18章21節に、仲間を赦さない家来のたとえってあるのを皆さんご存じだと思います。一人の家来が王様から借金をしていて、なんとその値段は1万タラントン、一生をすべてお金に捧げても返せないぐらいの大きな値段ですね。それを「返せません、どうか赦してください」って言って、王様はそれを帳消しにしてあげたんですね。でもその家来はなんと、自分に100デナリオン借金している人に、「払うまで牢屋に入れとくぞ、そうしないと返すまで絶対出さない」っていう態度を取ったわけです。そこで王様はその借金を帳消しにした人に対して「お前は何をやっているのか。私が憐れみを見せたように、あなたも人に対して憐れみを見せなきゃいけないだろう」とおっしゃっています。私たちは正義によって人を裁ける。確かに裁こうと思えば裁けるのかもしれませんが、そういう人間ではないということを心に留めなければいけません。最近の日本では、正義を主張して人を吊るし上げるっていう社会があります。だから誰一人間違いを犯すことができない。ちょっと何か間違ったらみんなで叩き上げ、吊るし上げる。特にSNSを見るとそんな感じがします。私はSNSはLINEしかやってないんですけど、ネットニュースとかを見ているとそのような感じがします。一つ間違ったらみんなで吊るし上げる。自分は正義だ、これは良いことだと思って。でも私たちはそれをする権利があるのでしょうか。
神の愛によって、神の愛の慈しみによって私たちは赦されました。それゆえ、私たちも赦さなければならないということを心に留めていきましょう。不正を働いている人がいても神の慈しみを思い起こして、その人のために、不正を働く人のために祈るということが私たちキリスト者の姿勢なんだと思います。