2026年4月 ミサ説教
4/2(木)19:00- 主の晩さんの夕べ 佐久間 勤 神父
4/3(金)19:00- 主の受難 サトルニノ・オチョア 神父
4/4(土)19:00- 復活の聖なる徹夜祭 柴田 潔 神父
復活の聖なる徹夜祭(聖土曜日)
柴田 潔 神父
福音書の中では、マグダラのマリアと婦人たちがイエス様がお墓にいないことが分かり、何をしたかというと、走って弟子たちに伝えに行くことでした。「走って伝える」、それによって福音は徐々に広がっていきました。
では、復活の出来事を典礼ではどのように表現したでしょうか。聖なる復活徹夜祭、暗い聖堂に「キリストの光」が広がりました。復活ろうそくからの火が分けられて、一人ひとりが持つろうそくに広がりました。暗かった聖堂は、分けられたろうそくの光に照らされて輝きました。闇は光に変わり、闇の力が消えました。
復活の賛歌が歌われました。40日ぶりにアレルヤ唱が力強く響き、鐘の音も鳴りました。私たちは、キリストが死に打ち勝って、復活し、今も私たちと共におられることを感じています。2000年前に死に、復活されたイエス様を体験しています。脈々と受け継がれている、伝統の重みを復活徹夜祭で感じています。
私たちは四旬節の間、祈り、節制に取り組んできました。今年、心がけたことの1つは「ひざまずいて祈る」ことです。ゲッセマネの園でイエス様は「ひざまずいて祈られた」。あの時代は、立って祈るのが普通でした。ひざまずいて祈るのは、特別に厳しい、追い詰められてどうにもならなくなった状態です。イエス様は、ひざまずいてこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。
イエス様が「ひざまずいて」「御心のままに」と祈られた。その実りが、この復活徹夜祭です。もしイエス様が「立って祈っていたら」「自分の思いを優先させたら」復活徹夜祭はありませんでした。
自分の弱さ、至らなさ、罪深さを思い知ることがあります。「自分ではもう無理」だから、神様に赦しを「ひざまずいて」「主よ、憐みたまえ」と願う。時を超えて、ゲッセマネの園で祈るイエス様とつながります。そして「ひざまずいて祈る」うちに、十字架上のイエス様からの赦しを感じます。イエス様が私たちを起き上がらせてくださる。その体験が小さな復活。私たちも今、復活を体験しています。
マタイ受難曲のアリアにこうあります。「愛ゆえに 愛ゆえに 私の救い主は死のうとされます。 罪を知らない清い方でおられますのに。 永遠の滅びと審判の刑罰から私の魂を守るための身代わりに。 愛ゆえに 愛ゆえに 私の救い主は死のうとされます。 罪を知らない清い方でおられますのに」。
愛ゆえに、愛ゆえに、死んでくださったイエス様が、私たちを起き上がらせてくださる。「ひざまずいて祈りながら」そう感じました。私たちは思い悩みがあっても、一人ではない。教会の伝統に組み入れられて、立ち上がれる。一人だと無力。でも、教会の伝統に入ることができれば前に進める。
この復活徹夜祭で7名の方が洗礼を受けられます。明日は65人の方が受洗されます。復活ろうそくから、一人ひとりにろうそくが広がって明るくなるように、信仰の恵みが広がります。
ある方は、信者さんではない同僚の方から観想修道会のガレットをお土産にいただきました。一口食べて、「こんな美味しいお菓子を作るところに行ってみなきゃ」と思い立ちました。修道会に泊まって、祈りの体験をされました。観想修道会は「祈り働け」をモットーとする生活です。祈りを込めて作るガレットが洗礼のきっかけになりました。神への賛美、神に捧げる生活が、信仰へと案内しました。
明日洗礼を受けるある小学生の女の子は、カトリックの幼稚園でイエス様のことを知りました。「幼稚園の頃からずっとイエス様のお話が心に残っていて、今はこれぐらいだけど、洗礼を受けたら、もっと神様に近づけるから、洗礼を受けたい」と望みました。カトリックの幼稚園の熱心さが洗礼に導かれました。
イグナチオ教会は受洗者が多いように受け止められがちですが、まかれた種の実りです。修道会が、学校が、また様々な場所で、たくさんの種をまいてくださり、洗礼につながっています。そして信仰講座で学び、教会共同体が祈りで支え、今日の洗礼、明日の洗礼に至ります。
洗礼は「古い自分に死んで、新しい自分に生きる」とき。そして復活されたイエス様が私たちを起き上がらせてくださる体験です。それぞれが洗礼式のことを思い出しながら、7名の洗礼式に入りましょう。
主の受難(聖金曜日)
サトルニノ・オチョア 神父
皆さん、この聖なる日、イエス・キリストのご受難を今耳にしたんですが、このご受難はヨハネの福音のご受難であって、マタイ、マルコとルカのご受難もあります。似ているところはたくさんありますが、観点が違います。今、私がこの3つの観点からイエス・キリストのご受難を皆さんと一緒に考えて、心の中で祈りながら、感謝しながら、この言葉を話させていただきたいと思います。
第1の観点は体のご受難です。これは明らかに出てきます。私たちはそのような残酷な言葉を聞くと本当に震えるようなことですが、イエス・キリストは鞭打たれる。ローマの法律によると30回受ける。それは非常に残酷な受難です。残酷な拷問といえますが、いろんな人たちの話によると、そのような鞭で打たれた後はすぐ亡くなってしまいます。それから茨の冠もあります。そして十字架です。十字架を見ると、私たちは本当に見るだけで痛くなるぐらいです。
十字架だけじゃなくて、私にとっては今、胸に浮かんでくる経験があります。これは81年前、ちょうど聖金曜日の朝だったんです。母と教会へ行って、教会に入ると右の方には大きな十字架があったんです。子どもの私は、いくら見ても十字架につけられているイエス・キリストの膝までしか見えなかったわけです。でも、その膝は本当に血まみれの膝であって、見るのは痛くて、母に「痛い」と言いました。そのようなイエス・キリストの痛みは、本当に私の体にも感じられたような気がしたんです。子どもの見方でのイエス・キリストのご受難で一番残酷なことは、その体の受難です。また、「渇く」と言われました。
大人になってもその子どもの時のことは残るんですが、やはり体の痛みよりももっと大きな苦しみがあります。これは第2の観点で、心のご受難です。心のご受難を見ると、私たちにとって体の受難は少し小さく感じられます。医学的にも、人間には体の痛みの限界を超えるともう神経は働かない。ここまでです。でも、心が痛い、心のご受難だったら違います。イエス・キリストの心のご受難を見ると、まず第一に裏切られる。彼に一番近い人たちに裏切られる。12人に裏切られる。ユダだけじゃないんです。ユダはお金でイエスを裏切るんです。おまけに接吻で彼を裏切る。けれどもペトロは、ユダに負けないぐらい、1回、2回、3回、何回も「私はその男を知らない」と言うんです。知らないと。
残っている10人はみんな1人も残らず逃げてしまいます。誰も残らない。イエス・キリストのそばにいるヨハネのことですが、「母」と「愛される弟子」、「母」も名前のない母です。「愛される弟子」も名前がない。私たちは勝手にヨハネだと決めたんですが、そうではないんです。イエス様の友達に裏切られ、孤独にされる。それは心の痛みです。それから彼はあざけりを受ける。軽蔑される。嘲笑の的になります。この人はみんなに馬鹿にされる。そればかりか、イエス・キリストは自分の町ナザレから追い出されるんです。村八分になります。自分の教会、その会堂やエルサレムから追い出される。それから司祭たちに破門される。これは心のご受難です。彼は異邦人のように渡されて、十字架につけられます。
多分、私たちは少し成長して、若い時にその痛みの経験をしたことがあるかもしれない。一番いい友達に裏切られる。もしかしたら学校でいじめられる。ある先生から偏見の目で見られる。自分のクラブの人たちに馬鹿にされる。これは膝の傷よりも痛いことです。それで私たちはこういうふうに、本当に愛される人に裏切られる時、好きな人に振られる時、一番いい友達に裏切られる時、心の傷は治らないぐらいです。
もう1つの観点から見れば、信仰のご受難もあります。体の受難があって、心の受難があって、信仰ですよ。今、頭に浮かんでくるのは、私たちの日本の長崎の殉教者です。長崎の殉教者も十字架にも縛られていたわけです。その長崎の殉教者は自分の国の人たちから異邦人のようにされた。捕まえられて殺されたわけです。自分の同胞、自分の国の人たちから軽蔑されたんです。けれども、長崎の殉教者はみんな十字架に縛られている間に聖歌を歌いながら死んだんです。だから、彼らにとっては自分の死に意味があったんです。主イエス・キリストを信じているんだから、主キリストのためなら死のうではないか、ということです。
多分、イエス様の一番深い受難はこれですね。十字架につけられた時、イエスは突然、もう信仰の光が消えたような感じで叫んでいるんです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。私の神、私の神、どうして私を見捨てられたのか。自分の体、自分の心の中で残っているのは信仰です。けれどもその時、イエス・キリストは自分の御父から捨てられたような痛み、大きな大きな孤独を感じます。彼は赦しながら、いろんなことをしながら、ヨハネ福音書には出てこないけれども一番最後に、マルコとマタイには「叫びながら息を引き取られる」とあります。失望のような感じでしょうか。このようなイエス・キリストの死を見ると、本当に恐ろしいです。身も心も信仰も。
私たちも多分、そのような受難の経験があるんです。洗礼を受けて本当に喜びと、いろんなことを経験したんです。いろんな素晴らしいことを受けた。見ることができて感じることもできたんですが、ある時、問題があって、突然私たちの信仰の意味がなくなるような感じがします。見えなくなってしまいます。その時、私たちもイエス・キリストのように、イエス・キリストと共に、信じながら叫んで「成し遂げられる」と。
アグスティヌスはこれについてこのような言葉を書くんです。「信じられない時、信仰をもってイエス・キリストと共に信じる」。先ほどの第二の朗読、ヘブライ人への手紙には宝物のような言葉があります。このようなことを読んで、このようなことを見て、私たちは信仰の導き手であるイエス・キリストと一緒に歩もうではありませんか。私たちは本当に難しい時に、自分の信仰よりもキリストと共に信じることになります。キリストと共に信じる。キリストと共に愛する。キリストと共に苦しむ。キリストと共に自分の与えられた道を最後の最後まで歩んで、最後に「成し遂げられる」と叫びましょう。
実は神秘家たち、十字架の聖ヨハネ、聖テレジア、あるいはマザー・テレサもですね。このような信仰の受難を自分の心でよく感じたんです。彼らは「暗い夜」と言うんです。けれども、「暗い夜」の中に私たちが飛び込んでいる時には、多分その時、父である神様と一番結ばれているのです。それでその時、私たちは信仰の悟りを得るわけです。私たちは今日、聖金曜日で、信仰の導き手であるイエス・キリストと信じることができますように。
4/2(木)19:00- 主の晩さんの夕べ(聖木曜日)
佐久間 勤 神父(イエズス会日本管区長)
「わたしがしたように、あなたがたもお互いにそうしなさい」。今日のヨハネ福音書の言葉、 これはキリストがなさったことの意味を深く悟るために鍵になる言葉です。イエスはペトロに向かって「今は分からないが、後で分かるようになる」、そしてみんなの足を洗った後で「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」と改めて聞かれます。最初はペトロに、そして次に「あなたがた」、キリストの弟子である私たちに向かって「分かるか」とイエスは問いかけます。一体何を、私たちはこのイエスの行いからわかるんでしょうか。表面的な受け止め方をすると「イエスが人々を愛されたから、そのように私たちも互いに愛し合いましょう。おしまい」ということになる。そうではなくて、この最後の晩餐の時に、イエスが弟子たちをとことん愛された。その時にこのことを行われた。では、何が分かるのでしょうか。そこにどんな意味が隠れているのでしょうか。
ペトロはイエスが何をしているか、先生が何をしているか分かりません。だから最初に「先生が私の足など洗うんでしょうか」と言います。ペトロにとってイエスはあくまでも先生です。目上です。教える者。そしてペトロは弟子として従う者。上と下、はっきりしています。だから「先生が私の足を洗うなんて」。イエスは「あなたは本当のことがわからない」。ペトロは慌てて「いやいや、そのようになさる意味はこうじゃないですか。私の頭から足の先まで全部洗ってください」と。頭の先から体全体を洗うということは、どういうことを連想するかですね。すぐに連想するのは洗礼者ヨハネが授けた洗礼ですね。これは水の中に沈んで体を洗います。あるいは、ナアマンの物語を思い出す人もいるでしょう。重い皮膚病にかかって、預言者エリシャのところに来て治してもらおうとします。エリシャは「ヨルダン川に行って体を洗いなさい」と言う。ですから、ペトロはとってイエスは先生であって、あるいは洗礼者ヨハネのような、あるいはエリシャのような預言者であって、やはりどこまでも従う者、聞き従う者。イエスは上ですね。
しかし、イエスがなさったこと、これはもう明らかに奴隷の仕事です。主人が奴隷に向かって命令して「やりなさい」と言う。最も身分の低い者、力を持たない者、何の権利も持たない者ですね。そのような人に、主であり先生であるイエスがなった。それは一体どういうことなんでしょうか。イエス様は私たちに「あなたたちは分かったか」とおっしゃる。私たちも一人ひとり、何が分かったか答えなければいけません。何が分かったでしょうか。イエス様が私たちをとことん愛された時に、私たちにとことん仕える者になった。そこのところがヒントだろうと思います。愛するということは仕えることですね。力によって抑え込む、そこには暴力もあるでしょうし、知識とか才能とか、そのようなものを使って人々を抑え込む。あるいは最近だと、マネーとか石油とかですね。そのようなもので抑え込む。それとちょうど反対です。何も持たない、ただ仕える。マルコ福音書の中に出てくる言葉を思い出します。「この世の偉い人は権力をふるっているが、あなたたちの中ではそうではない」とはっきり言われます。イエス様と同じように私たちは生きる。そしてそこに命の源があり、喜びの源があります。
私たちはともすると、思い通りになれば幸せだと思います。そして人のために何かをして、それはある意味損する。自分のしたことが消えてしまう。誰も思い出さない。ただ自分が何か人のためにした。それだけですね。そのような、いわばコスパの悪いことをするよりは、もっと力をふるって幸せを築きたい。そのように思うのが私たちです。しかし、キリストが歩まれた道、私たちに命を与える道、そしてそこを通って私たちが命へと行く道は、ちょうどその反対なんですね。自分を虚しくする、あるいは仕えるために、人のためにあらゆることをする。そしてそれが損であるか得であるかという判断どころか、下手すると自分を失うかもしれない。今、世界のあちらこちらで多くの人の血が流され、そしてそれをまるで当たり前のことのように、雨が降って雨が上がり、雪が降ってまた雪が溶け、本当にそのようなありふれたことのように受け止めている私たちの現実があります。でも、イエス様はその人々のために共に苦しみ、共に歩まれた。そこにこの足を洗うという行いの深いところがあります。
もうだいぶ前に亡くなられたネメシェギ神父さんを覚えている方はここでは少ないかもしれません。ネメシェギ神父さんを覚えている方は、もうそれでかなりシルバー世代ということになりますが、ネメシェギ神父さんはよく、まだハンガリーが信心深い国であった頃のエピソードを話してくださいました。王様が葬られる墓地、それを修道者が守っているんですね。王が亡くなると棺がその墓所に運ばれてきます。最初に墓地の門を開く前に、修道者は尋ねるんですね。「お前は何をしに来たか」。棺を運んできた人が「この人は立派な王様で、このようなことをしました」「そのような者はここには入れない」。そこで改めて聞くんですね。「お前は何者か」。第2の答えは「私は儚い罪人でしかありません」「それならば通れ」と言って、その墓地に葬られ、これが古き良き時代のハンガリーの習慣だったそうです。力をふるう者たちではなくて、小さい者として、何も持たない者として、しかし持っているものを最大限差し出すことができる。そこに私たちの命の源があります。
キリストのように生きる。それはキリストのように人々に仕え、時には自分を失うほどにも人を愛し、そして命へと至る。ですので、弟子たちに向かって「わたしがしたようにあなたたちもしなさい」というのは、イエスと同じように生きなさいということ。それ以外のことはすべて消え去る。虚しいことです。しかし、イエスと同じように生きたならば、イエスと同じように愛し、仕えたら、それがたとえどんな小さなことであっても永遠の価値を持っています。たとえ私たちが体で死んでも生きる、しかも永遠に生きるとヨハネは私たちに断言します。永遠に生きる、それは神様の前に永遠に価値のあるものを私たちが成し遂げるということです。それはタレントの問題ではありません。イエスのように、あるいは私たちがイエスと同じものになる。全く同じものになれないかもしれません。おそらくほんの一部でしょう。たった1つ、1杯の冷たい水を喉が渇いている人に飲ませる。それだけのことかもしれません。でも、それがイエスと共に生きる、イエスを私たちのうちに共にいただく。そういうことです。
今日の最後の晩餐の記念はご聖体が定められたその時です。イエス様の体をいただきます。これは象徴的な行いですが、イエス様の体は私たちの栄養となって私たちをつくっていきます。私たちがイエスと同じものになれるように、近づいていけるように、その大きな恵みを今日は特に願いましょう。