トップページ おしらせ ミサライブ配信とお説教2026年4月の説教

2026年4月 ミサ説教

2026年3月 | 2026年5月


復活節第4主日

酒井 陽介 神父

4/26(日)10:00- 復活節第4主日


4/26(日)10:00- 復活節第4主日 主司式の酒井神父

 4月も1ヶ月が経とうとしています。私が働いている大学でもさまざまな行事が終わり、そろそろキャンパスに落ち着きを取り戻す時期となりました。とはいえ、春はやはり芽吹く季節だと思います。なかなかうまく言葉で表現できないのですが、何かが動いている、そんな気がします。良い動きもあれば、そうでない動きもある。前者をたとえば聖霊の息吹と呼びましょうか。そして後者を悪い霊の働きと呼びましょうか。若い人たちが集まる大学のような場所では、何かこうした力が拮抗し、渦巻いている様子がよくわかります。正確に言えば、そういうことが少しばかり分かるようになってきた、気づくようになってきたと言った方がいいのかもしれません。


 今日の第一朗読で、ペトロの話を聞いた人々は「大いに心を打たれ、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」とありました。その時、彼らの中で何かが動いていたのだと思います。彼らは求めていました。心は動くけれども、何をしたらいいのかと迷っているわけです。そこで聞いたんです。「どうしたらいいんですか」と。ペトロは「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧め、それを聞いて人々は回心した。洗礼を受け、その日になんと3000人ほどの人が仲間に加わったという、そういった記録が第一朗読で読まれました。


 さて、少し大学の話に戻りましょう。私の関わっている、ある意味とても狭い世界での話ですが、この学生たちの中にもいろいろな動きがあるわけです。特に今日は、この聖霊の働きかけについて少し考えてみたい、分かち合ってみたいと思います。


 彼らも初めての大学生活ということもあってか、また新年度になって新しい雰囲気が大学の中に満ち溢れますから、いろいろな期待に胸を膨らませたり、新しいことに挑戦しようと、そんな学生たちが大勢います。私はもう一人の仲間の神父と一緒にキリスト教の入門講座を持っていますが、そこに第1回目8名の学生が来てくれました。どうしてここに来たんですかと聞くと、いろいろ迷った末、洗礼を考えている人もいれば、そこまではっきりした気持ちはないけれども、卒業までに一度向き合いたいとか、もうすでに信仰者だけれども、自分は幼児洗礼だったし、果たして本当に自分の信仰ということをしっかりと考えたことがあったのかなと、自分に問うた時にあまり自信がない。そうだ、今だと思ってこの講座に参加したい、学び直したいと言ってくれました。


4/26(日)10:00- 復活節第4主日 左から髙祖神父、酒井神父、作道神父

 そうしたいろんな意見を持っている8名の学生たちが集まったわけです。きっとここにいらっしゃる皆さんにもそんな時があったのではないでしょうか。何かのきっかけでキリスト教に関心を持ったり、洗礼を受けようかと悩んだり、入門講座の門を叩いたり。私はその時彼らの話を聞きながら、ああ、今彼らの上を、彼らの中を聖霊が動いているな、聖霊が働いているなと、そう思ったんです。慰めと励ましを非常に強く感じました。さっき話したように逆の力も働いていることを感じているので、なおさらこのような動きがとても嬉しく思いました。


 一人の学生の話がとても印象に残っています。その学生は地方のプロテスタント系の高校を出ています。東京に来て大学に入り、信者の友人を得、人生について、また自分自身のいろんな問題や関心事についてたくさん分かち合いができるようになってきた。そんな分かち合い、友情をとても大切に思っている。そんな中で、自分に親しみのあるこのキリスト教の教会で洗礼を受けたいと思うようになって、その友達と一緒に、まずその学生が住んでいる場所の近くの教会をいくつか、毎月1回一緒に回っていくという、巡礼に近いことをしたんです。そしてこの春、始まる前に「先生、自分は洗礼を受けたいです」、そんなことを表明してくれました。


 2年間、その学生はずっと迷っていたようです。そして、こう言っていました。「自分は門の前を行ったり来たり、ずっとしてきました。そしてやっと今、門を叩き、くぐることができました」。さりげなくその肩を押してくれたのは、きっとその友人であり、また確かに言えるのは、イエスがその人の名前を呼んだ。そしてその呼ばれている方を、その人は自分なりに感じ取ったということだと思います。この学生の心に、魂に呼びかけ、神の霊が息吹いたわけです。


 今日の福音に「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とイエスは言われます。その学生がくぐったのは、誰々先生のとか、誰かの入門講座ではなく、イエスという門なんです。そしてもう少し進んでいけば、きっと自分のために準備された牧場(まきば)を見つけてくれたらと思います。それはイエスしか与えることのできない、命の輝きを体験できる場です。


4/26(日)10:00- 復活節第4主日 10時ミサ 祭壇の司祭。

これからの人生、まだ若いですからいろんなことがあるでしょう。それでも、どんなことがあっても、イエスご自身が必ず導いてくださる。それは私たちも同じような気がします。これからその人が、今日の詩編にあるように「神はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水辺に伴われる。神はわたしを生き返らせ、いつくしみによって正しい道に導かれる」と心から歌うことができるように、これからも私たちはみんなで分かち合って、学び合っていきたいと思います。


 私たちは洗礼を受けてから何年経っているのか、門を叩いてからどれぐらい経っているのか、人それぞれだと思います。今一度立ち戻って、味わい直してみたいと思います。「主はわれらの牧者。わたしは乏しいことがない」と。実際私たちは、現実を見渡せばいろいろと乏しいと思うことだらけかもしれないし、何かに欠けていることを痛いほど実感しているかもしれません。それでも、それでもです。主が慈しみ深く目を離さず、一番いい形で、いい時にかなう形で、この私を生き返らせてくださるんだと。焦らずに、そんな時を待ってみたいと思います。入門講座に集まった、いろいろな気持ちや動機や背景を持った学生たちは、私にこんなことを思い出させてくれました。


復活節第3主日(改宗式)

ハビエル・ガラルダ 神父

4/19(日)10:00- 復活節第3主日(改宗式)


 ご復活おめでとうございます。そして今日改宗してカトリックになってくださる方、おめでとうございます。ようこそ、よろしくお願いします。


4/19(日)10:00- 復活節第3主日(改宗式)

 イエス・キリストが復活してから、40日間にわたっていろいろと弟子たちに現れましたけれども、何のためにそのことをしたかと言いますと、1つは自分が生きているということを知らせるためです。復活して生きている。しかもどういう意味で、どういう形で生きているかというと、ラザロのような形ではない。ラザロは復活してこの世に戻りました。イエス・キリストは違う。復活して御父にお帰りになる。だから現れる時には様子が全然違う。でもまさしく同じ人間が生きる。全然違う様子ですが、まさしく同じイエス・キリストが生きる。そしてまた弟子たちを集めるために現れるんです。キリストが死んで、みんながっかりしてバラバラになったので、もう一度集めるために現れました。そして彼らに使命を与えるために、派遣するためにみんなに会いたかったんです。


 ではこの40日間、イエス・キリストがなさったことは歴史的なことですか。難しい問題です。歴史的な事実はキリストが葬られる時までのことだけです。イエス・キリストが葬られる時までは、そのナレーションは全部歴史的な事実、タキトゥスとかフラウィウス・ヨセフスという、カトリック、クリスチャンではない歴史の専門家たちも認めることです。歴史的な事実。ところが復活してから現れる時には、超自然的な事実です。自然を超えるような事実です。目には見えない。口で表し得ない。想像さえもできない。その意味で自然を超える事実です。嘘ではない。事実ですけれども、超自然的な事実。すなわち、弟子たちが深く経験したことを私たちみんなに伝えるんです。


 ところが、どうやって伝えることができますか。目には見えない、口で表し得ないことをどうやって伝えることができるでしょうか。アニメーションの形です。ですから、書いてあることは全部その通りに信じなければならないことではないけれども、根本は事実です。超自然的な事実です。難しいことですけど、そういうことです。あとはこの福音を、きれいですから、自分でゆっくりと読んで黙想すればいいと思います。今の箇所には学ぶことが多い。私が指摘したいのは「一緒にお泊まりください」ということです。一緒に泊まってください。無理に引き止めたんですね。私たちもそうしましょう。私たちはイエスを、無理に一緒にいてくださいと引き止める。それをキリストが望んでいます。もう1つ、彼らがひらめきを受けてから、時を移さず出発した。これも学びましょう。私たちはいろいろとひらめきを受けるんですね。それはすぐ、速やかに実行、出発することにしましょう。


4/19(日)10:00- 復活節第3主日(改宗式)

 さて、今度は改宗について一言申し上げたいと思いますが、プロテスタントからカトリックに移ります。それは決して、カトリックの方が優れているのでここに来るということではないんです。上下関係ではない。両方とも素晴らしい。もちろん気まぐれではないんです。軽い理由で改宗するのではない。深い理由です。要するに、自分の信仰を表現するために典礼ですね、ミサ、そしてまた自分の信仰を深めるためにも、自分にはカトリックの方が合っていると思っているので改宗します。信仰を表すためにも、信仰を深めるためにもカトリックの方が合っているのではないかと思って、聖霊の光を何回も願って、プロテスタントの牧師さんと相談して、その牧師さんはこちらに手紙を書いて、こちらも返事して、よろしくお願いしますと言いました。仲良くすることです。


 ところが、なぜプロテスタントとカトリックが一緒にならないんですか。なればいいかもしれませんけれども、多分無理でしょう。しかもタカ派のカトリックがいますので、こういう人がいるんです。「一緒になるためにはプロテスタントがこちらに戻ればいいじゃないですか。離れたのは彼らですから。ローマ(カトリック)に戻ればいいじゃないですか」。それなら絶対戻らないんですね。ですからこうしましょうよ。プロテスタントもカトリックも、両方とも自分の根本であるイエス・キリストに戻りましょう。それです。イエス・キリストに戻って、そこで出会う。そこで一致する。本当にイエス・キリストに戻るように。


4/19(日)10:00- 復活節第3主日(改宗式)

 そうすればどういうことになるかというと、カトリックとプロテスタントの間は仲良くなるんですね。すなわち、尊敬と協力。尊敬と言いますのは、褒め合うこと、悪口を言わないこと、学ぶ精神。私たちカトリックはプロテスタントから学ぶことがいっぱいあります。学ぶ精神、その意味の尊敬ですね。そして協力体制というのは、できれば一緒に祈る時を設けることです。例えばこの教会で金曜日の7時半から、アルペホールで朝祷会があるんです。朝食を一緒に食べて、祈って、歌って、聖書を読んで1時間ぐらい過ごす。プロテスタントとカトリック、そのようなことがいいと思います。一緒に祈る。そして一緒に働く。例えば釜ヶ崎ではプロテスタントとカトリックは一緒に働いています。


 では、私たちはイエス・キリストに戻って、本当に仲良く生きることにしましょう。今日はおめでとうございます。


復活節第2主日(初聖体)

柴田 潔 神父

4/12(日)10:00- 復活節第2主日(初聖体)


 今日、初聖体を受けるお友達に2つ質問をします。1つ目、初聖体を「自分で受けたい」と思った人。いやいや、そうじゃなくて、「お父さん、お母さんに言われたから仕方がなく受ける」人。ちょっと考えてみましょうね。自分なのかな?お父さん、お母さんなのかな?おじいちゃん、おばあちゃんなのかな?


 では、自分で受けたいと思った人。はい、手を下ろしてください。拍手が起きたっていうことは、こっちが正解かもしれないね。じゃあ、お父さん、お母さんに言われて、ちょっと仕方がないけど、っていうお友達。拍手が起きましたね。やっぱりお父さんお母さんの言われることは大事だからね。反抗はできないしね。


4/12(日)10:00- 復活節第2主日(初聖体) お説教でメロンパンを見せる柴田神父

 じゃあ、2つ目。こっちの方が難しいです。これからいただくパンはどちらでしょう。1つ目、「焦がしメロンパン」。大人気なので、神父さん、昨日並んで買ってきました。今日はこのパンを拝領するのか、それとも「イエス様の体のパン」を拝領するのか、これもよく考えてみようね。大人気のこの焦がしメロンパンなのか、イエス様の体なのかね。


 じゃあ、今日はこの焦がしメロンパンをいただきに来たというお友達いますか?いないの?あ、そうか、いないんだね。はい。じゃあ、今日はこのイエス様の体、命のパンをいただきに来た人。はい、よかった、よかった。リーダーたちに「引っかからないように」って教えてもらったかもしれないけれども、みんな合格できました。


 では、このイエス様の体をいただくってことは、このメロンパンをいただくこととどう違うのかちょっと考えてみましょう。メロンパンをいただいたら、みんなはだんだんメロンパンに近づいていきますか?ならないね。じゃあ、このイエス様の体をいただいたら、だんだんイエス様に近づいていけると思う人、いますか?素晴らしい。拍手が起きましたけれども、この話はアウグスチヌスという昔の神学者が話したんですね。ご聖体はイエス様の体に近づける。でもこういう食べ物はね、美味しいんだけれども、消化されたらそれで終わり。体の成長の助けになるけれども、魂の助け、生きる助けになるのはこのご聖体です。


 じゃあ、生きる助けになるというのはどういうことなのか、ちょっと考えてみたんだけれども、みんながね、例えば「ちょっと心細いな」とか「不安だな」とか、そういう時にご聖体をいただけると力が出ます。「イエス様が私の体に入ってくださったんだ。だからもう大丈夫」と思います。それから誰か困っている人がいた時に「ちょっとめんどくさいなぁ、もう時間はないし」じゃなくて、「イエス様が私たちに大事な命まで与えてくださったから、私も何かお手伝いができる」。そういう勇気が持てたりします。


4/12(日)10:00- 復活節第2主日(初聖体) 祭壇を囲む初聖体を受ける子どもたちと柴田神父

 それは、今日ご聖体いただいたからすぐにそうなれるわけじゃないんだけれども、毎回毎回ね、「キリストの御体」って言ったらみんな何て言うんだったっけ?「アーメン」と言って拝領しますね。拝領するたびにちょっとずつ、ちょっとずつイエス様に近づいて、イエス様みたいに「すべてを差し上げます、私はそれでも大丈夫です。神様、どうかこれからも私たちのことを見守っていてください」。そういう気持ちにさせてくれる。そういう力がご聖体にはあります。


 2つ目のお話はね、トマス。「見ないと信じない」と言ってね、「イエス様の手と脇腹に指を入れなければ信じない」と言っていた。じゃあ、信じるとはどういうことなのかをちょっと考えてみます。


 先週の日曜日、復活の主日に、ヴィタリ神父さんというイタリアから来られた、こちらの教会でも主任司祭をされた神父様が亡くなられました。天に帰られました。山口の頃からすごくお世話になった信者さんが、何かヴィタリ神父様にお礼をしたい、お返しをしたいと考えました。(写真を見せて)そしてこのイースターチョコ。イースターって卵と、それからうさぎがシンボルなんだけれども、卵は、死んで殻を破ってまた新しい命に戻る、生き返る。そういうシンボル。うさぎさんはたくさん子どもを産む。そういう嬉しいシンボルなんだけれども、このチョコレートをぜひヴィタリ神父さんに食べてもらいたいと思って用意をしました。こちらがヴィタリ神父様の棺なんだけれども、信者さんの思いがかなって、棺の中にこっそりチョコレートが入りました。


 じゃあ、ヴィタリ神父さんはそのチョコレートをどうしただろうか。ここからは信じるか、信じないかの話なんだけれども、ヴィタリ神父さんはね、「ああ、優しい人がいるな。美味しいチョコレートを食べられて、日本に来てよかったな。これで天の国に安心して入れる。最後の最後まで信者さんに愛されて、幸せだった」と信じられる人いますか?あんまり信じていただけないんですかね。私は信じてもらえるかなと思ったんですけれども。はい、ありがとうございます。


4/12(日)10:00- 復活節第2主日(初聖体) 髙祖神父から初聖体を受ける女の子

 人生の最後まで用意してくださる優しい信者さんに囲まれて、日本に来て、50年、60年頑張ってよかった。そういうふうに信じるのは聖書に書いてないんですよね。聖書にはヴィタリ神父様が最後に天に召される時に、イースターチョコを食べられて天に召されたと書いていません。でも私たちは、そうなんだと信じて「ヴィタリ神父さんありがとう」、そういう気持ちを持つことができる。そこが信仰の素晴らしいところじゃないかなと思います。聖書に書いてあることじゃなくて、私たちの生活の中で、「これは信じられる。力になる。嬉しい」とかね。誰かを喜ばせるとか、そういう体験を、これから特に初聖体を受けるお友達は積み重ねてほしいなと思います。


 大人の私たちも、初聖体を受ける子どもたちの新鮮な表情、喜びを今日間近に見ることができますけれども、自分の初聖体の時はどうだったのか、そして聖書には書いていないけれども、信じられることが身の回りにないのか振り返りながら、初聖体をお祝いいたしましょう。



聖イグナチオ教会の主任司祭をつとめてくださったドメニコ・ヴィタリ神父様が2026年4月5日(日)にご帰天されました。ヴィタリ神父様のためにお祈りください。

4月10日(金)に執り行いました葬儀ミサ・告別式はYouTubeでアーカイブ配信をしています。

ドメニコ・ヴィタリ神父葬儀ミサ

復活の主日

髙祖 敏明 神父

4/5(日)10:00- 復活の主日


 改めて皆様、主のご復活おめでとうございます。そして今日のこの日に聖体奉仕者となられる方々、新しく任命される方、再任される方々、おめでとうございます。そして今日、聖体奉仕者として最後のお務めをしておられる方もおられます 6年間のご奉仕、どうもお疲れ様でした。ありがとうございました。


 皆様、私たちのこの聖堂はご復活をお祝いする聖堂です。ご存じのように、正面の十字架像もご復活のイエス様のイメージです。そしてこの教会も卵の形をしています。今日は復活の卵をおもてで売っていますので、皆さんどうぞ後で購入してください。そしてミサの始めに大自然のことを申し上げましたが、12のステンドグラスは、聖書から取られた大自然の姿がみな描かれています。私たちに命のよみがえりをこの聖堂全体でお祝いしているようです。ですから、特に今日は私たちの喜びといいますか、この聖堂に集う者としての大きな希望を新たにする日でもあります。


4/5(日)10:00- 復活の主日 司式の髙祖神父のお説教

 主イエスの神秘、十字架と復活の神秘の頂点が、この聖金曜日から聖土曜日、ご復活の日です。先ほど聞きましたペトロの証言、「人々は(神から聖霊と力によって油注がれた者とされた)イエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを3日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証するようにと、わたしたちにお命じになりました。この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受け入られる」。私たちも喜びと感謝をもって、そして希望を新たにしながら、今日のこのご復活のミサに与り、参加し、お祈りをさげたいと思います。


 「教会は決定的な歴史の出来事、つまり、イエスの復活を世に証しするために存在しています」。これは世界代表司教会議の第16回通常総会、シノドスと言われているその最終文書の中に出てくる言葉です。教会は決定的な歴史の出来事、イエスの復活を世に証しするために存在しています。私たちの希望の根拠、生きる力の源がここにあります。それに感謝しながら祝う日に、聖体奉仕者に選任される皆様、おめでとうございます。皆さんは、生きる力を人々に配り、共に歩む教会の姿、その希望を証しする人です。今日集まった私たちも、私たちの生きる力の源、希望の根拠がどこにあるかということをさらに理解し、理解を強めていただくために、今日の福音を改めて読み直してみたいと思います。


 今日の福音は、先ほどお聞きになりました通り3人の人物が登場してまいります。マグダラのマリアとシモン・ペトロ、そしてイエスが愛しておられたもう一人の弟子。そしてこの3人はイエスが葬られた墓を前に、三者三様にイエスを探し求めています。ここでいう墓は岩を掘った横穴で、入り口は石で塞ぎ、死者の世界、つまり腐敗と消えていく消滅の世界と生きている私たちの世界を閉じるという、その境界を閉ざす、それが墓です。ラザロが葬られた墓も同じように石で塞がれていました。そしてラザロの場合は4日も経っていて、もう腐敗が始まってその匂いがします、という場面が描かれていました。


 ご復活の朝早く、墓に来たマグダラのマリアは、その墓から生きている者と死んでいる者との間を分かつ墓の石が取り去られている、なくなっているということを発見して、大急ぎでペトロともう一人の弟子に知らせる。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」。知らせを受けた2人は墓へ急ぎ中に入るんですけれども、空になった墓を発見する。イエスの十字架上の死を見たり、聞いたりしている。そして葬った。死者の世界に葬ったという、自分たちとの断絶があるということを頭の中に残しながら、こういう遺体がなくなったということを聞いて驚き、悲しみ慌てる3人。


4/5(日)10:00- 復活の主日 聖体奉仕者任命式 祭壇を囲む聖体奉仕者

 マグダラのマリアは、ルカの福音書によりますと、かつてイエスによって大きな癒しを体験した人。7つの悪霊を追い出していただいた人だというふうに言われていますが、そのマグダラのマリアにとっては人生の支えが奪われた。信頼していた主イエスが取り去られたという悲しみ、苦しみ、痛みを心に感じているでしょう。ペトロは、「私は主を知りません」というふうに主を否んだ心の痛み、良心の過酌を覚えながらも、慕っていたのにその望みをかけたイエス様がいなくなった。望みがなくなったという思いにとらわれていたでしょう。もう一人の弟子、イエスの母を「これがあなたの母です」と託された。しかしその愛する主が命を奪われ、ご遺体も奪われてしまっている。主にかけていた望みが大きく揺らいでいる姿がそこから浮かんでまいります。


 この3人とも、十字架という極刑による死、腐敗と消滅の死者の世界に葬ったというこの体験の中で、自分の思いも視野もその世界に閉じ込められています。実はこの3人は、それぞれ私たちの姿を代表しています。私たちの中にも、予期せぬことが起こって生きる柱としていたものが奪い去られたという経験をお持ちの方、いろいろいらっしゃるでしょう。罪悪感、良心の過酌に苛まれて、悪いことした、何とかこれを癒してほしいという、そういう思いにとらわれている方。しかし、どうしたらいいか分からないという、そういう方もいるでしょう。イエスに、人生に希望を持っていても、何かのことでそれが大きく揺らいでいる、という経験をしている方もいるでしょう。今日のこのマグダラのマリアとシモン・ペトロ、イエスの愛されたもう一人の弟子は、私たちが人生の中で経験するいろんな場面も代表しているように思います。


 しかし今日の福音は、ただ単にこれが失望とか悲痛とか、希望がなくなるという、そういうことでは終わらないというヒントを与えています。イエスによって生き返らされたラザロは顔を覆いで包まれ、手と足を布で巻かれたまま墓から出てきました。イエス様の「ラザロ、出てこい」という声に応えてですね。それに対して今日のこの場面では、イエスの体を包んでいた亜麻布にイエスの遺体はない。頭を包んでいた覆いは、亜麻布とは別のところに丸めて置いてある。ラザロの場合の生き返りとは確かに違っているんだということを、このヨハネ福音書は私たちにヒントとして与えようとしています。


 そして、それを今日の朗読箇所で決定的に言っているのが一番最後のところ、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」。第二朗読のパウロの言葉を使いますと、「わたしたちの過越の子羊として屠られる」ことになっていることを理解していなかった。私たちは信仰を持っていますけれども、私自身も含めて、まだこの十字架と復活の神秘を深く味わい、理解するところまでは言っていない方が多い。今日はそのことを改めて自覚して、神様からのこの神秘を理解する。そして理解したことを自分の生きる力にし、それを希望として生きていく。そういうこのメッセージが込められているようです。「二人はまだ理解していなかった」と言いましたけれども、マグダラのマリアも同じだったでしょう。しかしご復活後、主イエスの方からそれぞれに出現をされるということを通して、固まっていた思いと視野から一人ひとりを解放して癒していかれます。そして、神との交わり、救いへと引っ張っていかれます。


 今日のこの朗読、明日、明後日、一週間後、毎日の福音に耳を傾けてみてください。イエス様が一人ひとりに近寄っていって、一人ひとりの心のとらわれから解放していく姿が描かれていきますから。それを通して、私たちが復活ということが持っている意味を改めて味わい直していく。そして自分の力にしていくという、そういうプロセスといいますか、そういう道に私たちは招かれているようです。ある人は自分の名を呼ばれて、マグダラのマリアは「マリア」と呼ばれてはっと気づく。ある人は対話によって罪が赦される。ペトロはイエスとの対話を繰り返すことによって癒されていく。そしてある人は、もう一人の弟子でしょうけれど、自分たちが出会う人の中にイエス様がいらっしゃるということに気づく恵みをいただいている。


4/5(日)10:00- 復活の主日 聖体奉仕者に任命書の授与をする髙祖神父

 そしてこの3人に共通していますのは、そういう視野が開かれると共に、何らかの使命、派遣されるということをそこで受けていることです。マグダラのマリアは弟子たちに、主が生きているということを伝えに行きました。ペトロは羊を世話すること、養うことを託されました。もう一人の弟子も、マリア様の後に教会がありますけども、それを育てていくようにという使命をいただいています。私たちの信仰は自分の満足で終わるのではなくて、この喜びを他の人々に伝えていくという、そういう必ず「派遣される」使命と結びついています。今日聖体奉仕者として任命される方は、非常にそういう意味でこの使命と重なっているように思います。


 先ほど集会祈願で、今私が申し上げているような祈りを実は捧げています。「全能の神よ、あなたは、きょう御ひとり子によって死を打ち砕き」、私たちの思いとか視野とかの狭さを打ち砕き「永遠のいのちの門を開いてくださいました」。私たちは限界しか知りませんけれども、永遠の命の門を開いてくださいました。「主イエスの復活を記念し、この神秘にあずかるわたしたちを、あなたの霊によって新たにし、永遠のいのちに復活させてください」。私たちの希望を強めていただき、生きる力と喜びを改めて神様から恵みとしていただきましょう。そしてこの恵みが私たちの関わっている人々に、家庭に職場に学校に、そして日本全体、地球全体にこの喜びと生きる力が伝えられますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。



復活の聖なる徹夜祭(聖土曜日)

柴田 潔 神父

4/4(土)19:00- 復活の聖なる徹夜祭(聖土曜日)


 福音書の中では、マグダラのマリアと婦人たちがイエス様がお墓にいないことが分かり、何をしたかというと、走って弟子たちに伝えに行くことでした。「走って伝える」、それによって福音は徐々に広がっていきました。


4/4(土)19:00- 復活の聖なる徹夜祭(聖土曜日) 主司式の柴田神父

 では、復活の出来事を典礼ではどのように表現したでしょうか。聖なる復活徹夜祭、暗い聖堂に「キリストの光」が広がりました。復活ろうそくからの火が分けられて、一人ひとりが持つろうそくに広がりました。暗かった聖堂は、分けられたろうそくの光に照らされて輝きました。闇は光に変わり、闇の力が消えました。


 復活の賛歌が歌われました。40日ぶりにアレルヤ唱が力強く響き、鐘の音も鳴りました。私たちは、キリストが死に打ち勝って、復活し、今も私たちと共におられることを感じています。2000年前に死に、復活されたイエス様を体験しています。脈々と受け継がれている、伝統の重みを復活徹夜祭で感じています。


 私たちは四旬節の間、祈り、節制に取り組んできました。今年、心がけたことの1つは「ひざまずいて祈る」ことです。ゲッセマネの園でイエス様は「ひざまずいて祈られた」。あの時代は、立って祈るのが普通でした。ひざまずいて祈るのは、特別に厳しい、追い詰められてどうにもならなくなった状態です。イエス様は、ひざまずいてこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。


 イエス様が「ひざまずいて」「御心のままに」と祈られた。その実りが、この復活徹夜祭です。もしイエス様が「立って祈っていたら」「自分の思いを優先させたら」復活徹夜祭はありませんでした。


 自分の弱さ、至らなさ、罪深さを思い知ることがあります。「自分ではもう無理」だから、神様に赦しを「ひざまずいて」「主よ、憐みたまえ」と願う。時を超えて、ゲッセマネの園で祈るイエス様とつながります。そして「ひざまずいて祈る」うちに、十字架上のイエス様からの赦しを感じます。イエス様が私たちを起き上がらせてくださる。その体験が小さな復活。私たちも今、復活を体験しています。


4/4(土)19:00- 復活の聖なる徹夜祭(聖土曜日) 跪いて祭壇に香をささげる柴田神父 と周りを囲む司祭団

 マタイ受難曲のアリアにこうあります。「愛ゆえに 愛ゆえに 私の救い主は死のうとされます。 罪を知らない清い方でおられますのに。 永遠の滅びと審判の刑罰から私の魂を守るための身代わりに。 愛ゆえに 愛ゆえに 私の救い主は死のうとされます。 罪を知らない清い方でおられますのに」。


 愛ゆえに、愛ゆえに、死んでくださったイエス様が、私たちを起き上がらせてくださる。「ひざまずいて祈りながら」そう感じました。私たちは思い悩みがあっても、一人ではない。教会の伝統に組み入れられて、立ち上がれる。一人だと無力。でも、教会の伝統に入ることができれば前に進める。


 この復活徹夜祭で7名の方が洗礼を受けられます。明日は65人の方が受洗されます。復活ろうそくから、一人ひとりにろうそくが広がって明るくなるように、信仰の恵みが広がります。


 ある方は、信者さんではない同僚の方から観想修道会のガレットをお土産にいただきました。一口食べて、「こんな美味しいお菓子を作るところに行ってみなきゃ」と思い立ちました。修道会に泊まって、祈りの体験をされました。観想修道会は「祈り働け」をモットーとする生活です。祈りを込めて作るガレットが洗礼のきっかけになりました。神への賛美、神に捧げる生活が、信仰へと案内しました。


 明日洗礼を受けるある小学生の女の子は、カトリックの幼稚園でイエス様のことを知りました。「幼稚園の頃からずっとイエス様のお話が心に残っていて、今はこれぐらいだけど、洗礼を受けたら、もっと神様に近づけるから、洗礼を受けたい」と望みました。カトリックの幼稚園の熱心さが洗礼に導かれました。


4/4(土)19:00- 復活の聖なる徹夜祭(聖土曜日) ご聖体をかかげる柴田神父と司祭団

 イグナチオ教会は受洗者が多いように受け止められがちですが、まかれた種の実りです。修道会が、学校が、また様々な場所で、たくさんの種をまいてくださり、洗礼につながっています。そして信仰講座で学び、教会共同体が祈りで支え、今日の洗礼、明日の洗礼に至ります。


 洗礼は「古い自分に死んで、新しい自分に生きる」とき。そして復活されたイエス様が私たちを起き上がらせてくださる体験です。それぞれが洗礼式のことを思い出しながら、7名の洗礼式に入りましょう。



主の受難(聖金曜日)

サトルニノ・オチョア 神父

4/3(金)19:00- 主の受難(聖金曜日)


 皆さん、この聖なる日、イエス・キリストのご受難を今耳にしたんですが、このご受難はヨハネの福音のご受難であって、マタイ、マルコとルカのご受難もあります。似ているところはたくさんありますが、観点が違います。今、私がこの3つの観点からイエス・キリストのご受難を皆さんと一緒に考えて、心の中で祈りながら、感謝しながら、この言葉を話させていただきたいと思います。


4/3(金)19:00- 主の受難(聖金曜日) 司式のオチョア神父

 第1の観点は体のご受難です。これは明らかに出てきます。私たちはそのような残酷な言葉を聞くと本当に震えるようなことですが、イエス・キリストは鞭打たれる。ローマの法律によると30回受ける。それは非常に残酷な受難です。残酷な拷問といえますが、いろんな人たちの話によると、そのような鞭で打たれた後はすぐ亡くなってしまいます。それから茨の冠もあります。そして十字架です。十字架を見ると、私たちは本当に見るだけで痛くなるぐらいです。


 十字架だけじゃなくて、私にとっては今、胸に浮かんでくる経験があります。これは81年前、ちょうど聖金曜日の朝だったんです。母と教会へ行って、教会に入ると右の方には大きな十字架があったんです。子どもの私は、いくら見ても十字架につけられているイエス・キリストの膝までしか見えなかったわけです。でも、その膝は本当に血まみれの膝であって、見るのは痛くて、母に「痛い」と言いました。そのようなイエス・キリストの痛みは、本当に私の体にも感じられたような気がしたんです。子どもの見方でのイエス・キリストのご受難で一番残酷なことは、その体の受難です。また、「渇く」と言われました。


 大人になってもその子どもの時のことは残るんですが、やはり体の痛みよりももっと大きな苦しみがあります。これは第2の観点で、心のご受難です。心のご受難を見ると、私たちにとって体の受難は少し小さく感じられます。医学的にも、人間には体の痛みの限界を超えるともう神経は働かない。ここまでです。でも、心が痛い、心のご受難だったら違います。イエス・キリストの心のご受難を見ると、まず第一に裏切られる。彼に一番近い人たちに裏切られる。12人に裏切られる。ユダだけじゃないんです。ユダはお金でイエスを裏切るんです。おまけに接吻で彼を裏切る。けれどもペトロは、ユダに負けないぐらい、1回、2回、3回、何回も「私はその男を知らない」と言うんです。知らないと。


 残っている10人はみんな1人も残らず逃げてしまいます。誰も残らない。イエス・キリストのそばにいるヨハネのことですが、「母」と「愛される弟子」、「母」も名前のない母です。「愛される弟子」も名前がない。私たちは勝手にヨハネだと決めたんですが、そうではないんです。イエス様の友達に裏切られ、孤独にされる。それは心の痛みです。それから彼はあざけりを受ける。軽蔑される。嘲笑の的になります。この人はみんなに馬鹿にされる。そればかりか、イエス・キリストは自分の町ナザレから追い出されるんです。村八分になります。自分の教会、その会堂やエルサレムから追い出される。それから司祭たちに破門される。これは心のご受難です。彼は異邦人のように渡されて、十字架につけられます。


4/3(金)19:00- 主の受難(聖金曜日) 十字架を迎える司祭団

 多分、私たちは少し成長して、若い時にその痛みの経験をしたことがあるかもしれない。一番いい友達に裏切られる。もしかしたら学校でいじめられる。ある先生から偏見の目で見られる。自分のクラブの人たちに馬鹿にされる。これは膝の傷よりも痛いことです。それで私たちはこういうふうに、本当に愛される人に裏切られる時、好きな人に振られる時、一番いい友達に裏切られる時、心の傷は治らないぐらいです。


 もう1つの観点から見れば、信仰のご受難もあります。体の受難があって、心の受難があって、信仰ですよ。今、頭に浮かんでくるのは、私たちの日本の長崎の殉教者です。長崎の殉教者も十字架にも縛られていたわけです。その長崎の殉教者は自分の国の人たちから異邦人のようにされた。捕まえられて殺されたわけです。自分の同胞、自分の国の人たちから軽蔑されたんです。けれども、長崎の殉教者はみんな十字架に縛られている間に聖歌を歌いながら死んだんです。だから、彼らにとっては自分の死に意味があったんです。主イエス・キリストを信じているんだから、主キリストのためなら死のうではないか、ということです。


 多分、イエス様の一番深い受難はこれですね。十字架につけられた時、イエスは突然、もう信仰の光が消えたような感じで叫んでいるんです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。私の神、私の神、どうして私を見捨てられたのか。自分の体、自分の心の中で残っているのは信仰です。けれどもその時、イエス・キリストは自分の御父から捨てられたような痛み、大きな大きな孤独を感じます。彼は赦しながら、いろんなことをしながら、ヨハネ福音書には出てこないけれども一番最後に、マルコとマタイには「叫びながら息を引き取られる」とあります。失望のような感じでしょうか。このようなイエス・キリストの死を見ると、本当に恐ろしいです。身も心も信仰も。


4/3(金)19:00- 主の受難(聖金曜日)

 私たちも多分、そのような受難の経験があるんです。洗礼を受けて本当に喜びと、いろんなことを経験したんです。いろんな素晴らしいことを受けた。見ることができて感じることもできたんですが、ある時、問題があって、突然私たちの信仰の意味がなくなるような感じがします。見えなくなってしまいます。その時、私たちもイエス・キリストのように、イエス・キリストと共に、信じながら叫んで「成し遂げられる」と。


 アグスティヌスはこれについてこのような言葉を書くんです。「信じられない時、信仰をもってイエス・キリストと共に信じる」。先ほどの第二の朗読、ヘブライ人への手紙には宝物のような言葉があります。このようなことを読んで、このようなことを見て、私たちは信仰の導き手であるイエス・キリストと一緒に歩もうではありませんか。私たちは本当に難しい時に、自分の信仰よりもキリストと共に信じることになります。キリストと共に信じる。キリストと共に愛する。キリストと共に苦しむ。キリストと共に自分の与えられた道を最後の最後まで歩んで、最後に「成し遂げられる」と叫びましょう。


 実は神秘家たち、十字架の聖ヨハネ、聖テレジア、あるいはマザー・テレサもですね。このような信仰の受難を自分の心でよく感じたんです。彼らは「暗い夜」と言うんです。けれども、「暗い夜」の中に私たちが飛び込んでいる時には、多分その時、父である神様と一番結ばれているのです。それでその時、私たちは信仰の悟りを得るわけです。私たちは今日、聖金曜日で、信仰の導き手であるイエス・キリストと信じることができますように。



4/2(木)19:00- 主の晩さんの夕べ(聖木曜日)

佐久間 勤 神父(イエズス会日本管区長)

4/2(木)19:00- 主の晩さんの夕べ(聖木曜日)


 「わたしがしたように、あなたがたもお互いにそうしなさい」。今日のヨハネ福音書の言葉、 これはキリストがなさったことの意味を深く悟るために鍵になる言葉です。イエスはペトロに向かって「今は分からないが、後で分かるようになる」、そしてみんなの足を洗った後で「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」と改めて聞かれます。最初はペトロに、そして次に「あなたがた」、キリストの弟子である私たちに向かって「分かるか」とイエスは問いかけます。一体何を、私たちはこのイエスの行いからわかるんでしょうか。表面的な受け止め方をすると「イエスが人々を愛されたから、そのように私たちも互いに愛し合いましょう。おしまい」ということになる。そうではなくて、この最後の晩餐の時に、イエスが弟子たちをとことん愛された。その時にこのことを行われた。では、何が分かるのでしょうか。そこにどんな意味が隠れているのでしょうか。


4/2(木)19:00- 主の晩さんの夕べ(聖木曜日) 司式の佐久間神父 お説教

 ペトロはイエスが何をしているか、先生が何をしているか分かりません。だから最初に「先生が私の足など洗うんでしょうか」と言います。ペトロにとってイエスはあくまでも先生です。目上です。教える者。そしてペトロは弟子として従う者。上と下、はっきりしています。だから「先生が私の足を洗うなんて」。イエスは「あなたは本当のことがわからない」。ペトロは慌てて「いやいや、そのようになさる意味はこうじゃないですか。私の頭から足の先まで全部洗ってください」と。頭の先から体全体を洗うということは、どういうことを連想するかですね。すぐに連想するのは洗礼者ヨハネが授けた洗礼ですね。これは水の中に沈んで体を洗います。あるいは、ナアマンの物語を思い出す人もいるでしょう。重い皮膚病にかかって、預言者エリシャのところに来て治してもらおうとします。エリシャは「ヨルダン川に行って体を洗いなさい」と言う。ですから、ペトロはとってイエスは先生であって、あるいは洗礼者ヨハネのような、あるいはエリシャのような預言者であって、やはりどこまでも従う者、聞き従う者。イエスは上ですね。


 しかし、イエスがなさったこと、これはもう明らかに奴隷の仕事です。主人が奴隷に向かって命令して「やりなさい」と言う。最も身分の低い者、力を持たない者、何の権利も持たない者ですね。そのような人に、主であり先生であるイエスがなった。それは一体どういうことなんでしょうか。イエス様は私たちに「あなたたちは分かったか」とおっしゃる。私たちも一人ひとり、何が分かったか答えなければいけません。何が分かったでしょうか。イエス様が私たちをとことん愛された時に、私たちにとことん仕える者になった。そこのところがヒントだろうと思います。愛するということは仕えることですね。力によって抑え込む、そこには暴力もあるでしょうし、知識とか才能とか、そのようなものを使って人々を抑え込む。あるいは最近だと、マネーとか石油とかですね。そのようなもので抑え込む。それとちょうど反対です。何も持たない、ただ仕える。マルコ福音書の中に出てくる言葉を思い出します。「この世の偉い人は権力をふるっているが、あなたたちの中ではそうではない」とはっきり言われます。イエス様と同じように私たちは生きる。そしてそこに命の源があり、喜びの源があります。


4/2(木)19:00- 主の晩さんの夕べ(聖木曜日) 洗足式 足を洗う佐久間神父

 私たちはともすると、思い通りになれば幸せだと思います。そして人のために何かをして、それはある意味損する。自分のしたことが消えてしまう。誰も思い出さない。ただ自分が何か人のためにした。それだけですね。そのような、いわばコスパの悪いことをするよりは、もっと力をふるって幸せを築きたい。そのように思うのが私たちです。しかし、キリストが歩まれた道、私たちに命を与える道、そしてそこを通って私たちが命へと行く道は、ちょうどその反対なんですね。自分を虚しくする、あるいは仕えるために、人のためにあらゆることをする。そしてそれが損であるか得であるかという判断どころか、下手すると自分を失うかもしれない。今、世界のあちらこちらで多くの人の血が流され、そしてそれをまるで当たり前のことのように、雨が降って雨が上がり、雪が降ってまた雪が溶け、本当にそのようなありふれたことのように受け止めている私たちの現実があります。でも、イエス様はその人々のために共に苦しみ、共に歩まれた。そこにこの足を洗うという行いの深いところがあります。


 もうだいぶ前に亡くなられたネメシェギ神父さんを覚えている方はここでは少ないかもしれません。ネメシェギ神父さんを覚えている方は、もうそれでかなりシルバー世代ということになりますが、ネメシェギ神父さんはよく、まだハンガリーが信心深い国であった頃のエピソードを話してくださいました。王様が葬られる墓地、それを修道者が守っているんですね。王が亡くなると棺がその墓所に運ばれてきます。最初に墓地の門を開く前に、修道者は尋ねるんですね。「お前は何をしに来たか」。棺を運んできた人が「この人は立派な王様で、このようなことをしました」「そのような者はここには入れない」。そこで改めて聞くんですね。「お前は何者か」。第2の答えは「私は儚い罪人でしかありません」「それならば通れ」と言って、その墓地に葬られ、これが古き良き時代のハンガリーの習慣だったそうです。力をふるう者たちではなくて、小さい者として、何も持たない者として、しかし持っているものを最大限差し出すことができる。そこに私たちの命の源があります。


4/2(木)19:00- 主の晩さんの夕べ(聖木曜日)

 キリストのように生きる。それはキリストのように人々に仕え、時には自分を失うほどにも人を愛し、そして命へと至る。ですので、弟子たちに向かって「わたしがしたようにあなたたちもしなさい」というのは、イエスと同じように生きなさいということ。それ以外のことはすべて消え去る。虚しいことです。しかし、イエスと同じように生きたならば、イエスと同じように愛し、仕えたら、それがたとえどんな小さなことであっても永遠の価値を持っています。たとえ私たちが体で死んでも生きる、しかも永遠に生きるとヨハネは私たちに断言します。永遠に生きる、それは神様の前に永遠に価値のあるものを私たちが成し遂げるということです。それはタレントの問題ではありません。イエスのように、あるいは私たちがイエスと同じものになる。全く同じものになれないかもしれません。おそらくほんの一部でしょう。たった1つ、1杯の冷たい水を喉が渇いている人に飲ませる。それだけのことかもしれません。でも、それがイエスと共に生きる、イエスを私たちのうちに共にいただく。そういうことです。


 今日の最後の晩餐の記念はご聖体が定められたその時です。イエス様の体をいただきます。これは象徴的な行いですが、イエス様の体は私たちの栄養となって私たちをつくっていきます。私たちがイエスと同じものになれるように、近づいていけるように、その大きな恵みを今日は特に願いましょう。




PAGE TOP