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2026年5月 ミサ説教

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三位一体の主日 堅信式

アンドレア・レンボ補佐司教

5/31(日)10:00- 三位一体の主日 堅信式


5/31(日)10:00- 三位一体の主日 堅信式 アンドレア・レンボ補佐司教のお説教

 本日、三位一体の祭日にあたり、私たちは堅信式を祝っています。堅信志願者の皆様、おめでとうございます。教会は今日、皆さんを神の最も深い神秘へと招いています。神は、父と子と聖霊の永遠の交わりであり、愛そのものです。すべては神の愛から始まります。今日の福音でイエスは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と語られます。


 人間は神にこの上なく大切にされている存在です。この神の愛と人間の尊厳というテーマは、私たちにとって身近なテーマ、現在、社会において立ち止まって考えるべき特別な意味を持っています。すなわち、人工知能、AIの出現によって、私たちは今、人間存在について改めて考えるよう促されているからです。AIは学び、分析、社会を形作る技術であり、人間に与えられた知性の豊かさを示しています。しかし、教皇レオ14世が最初の回勅「マニフィカ・フマニタス」で述べるように、現代の最も深い危機は、技術ではなく人間存在の危機です。危険なのは、機械が人間になることではなく、人間が自ら機械のように考え始めることです。


5/31(日)10:00- 三位一体の主日 堅信式 レンボ補佐司教による潅水

 AIは理論的な思考を得意としています。苦しみ、赦し、愛の意味を理解することはできません。情報は増えても、知恵が伴わなければ人間性は脆くなります。だからこそ、今日皆さんが受ける堅信の秘跡は重要だと思います。皆さんが受けるのは人工的な知能ではなく、生ける神の霊です。聖霊は人間の知性を清め、真理へと導きます。キリスト教の伝統において、知識と知恵は異なります。知識は何ができるか示しますが、知恵は何をすべきかを教えています。そして、知恵は神への畏敬へと導きます。私たちは神の似姿として創造され、一人ひとりがかけがえのない尊厳を持っています。


 堅信志願者の皆さん、速さに魅了された世界の中にあっても黙想することを学び、情報に満ちた世界の中で、変わることがない真理を求めてください。聖霊に導かれた知性は、奉仕、正義、美、平和の道となります。どうか聖霊が皆さんを照らし、強め、未来がまことの人間的なものであり続けるよう導いてくださいますように。



聖霊降臨の主日

髙祖 敏明 神父

5/24(日)10:00- 聖霊降臨の主日


 改めて皆様、聖霊降臨のお祝いを申し上げます。今日は第一朗読で使徒言行録が読まれ、今私が読んだところではヨハネの福音書、それぞれが聖霊の降臨、聖霊が与えられる場面を描いています。この箇所を読み、特にヨハネの箇所を読みながら、私の胸に湧いてきた疑問をまずご紹介したいと思います。復活されたイエス様が弟子たちに出現されて、平和を与えて、「聖霊を受けなさい」と言って聖霊を与えられる。しかし、続いてすぐに「罪を赦す、赦さない」という話になるのは一体なぜなんでしょう。


5/24(日)10:00- 聖霊降臨の主日 司式の髙祖神父

 少しその疑問の背景を説明いたします。先ほど聖霊の続唱を歌いました。そこで聖霊の働きがいろいろと歌われていきました。そして第二朗読でも、聖霊には様々な働き、それぞれの働きがありました。その中で、なぜ罪の赦しということが真っ先に来るんだろうかという疑問です。もうちょっとヨハネの福音書に基づいて説明すると、こういう流れになります。イエス様が弟子たちの足を洗い、最後の晩餐をとられました。その最後の晩餐に続いて長い説教、これは通常、別れる時の説教、訣別説教というそうですけれども、説教と祈りを続けられます。その中でイエス様は弟子たちに「実を言うと、私が去っていくのはあなた方のためになる。私が去っていかなければ、弁護者はあなた方のところに来ない」「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教える。この真理の霊が来ると、あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる」ということをおっしゃっている。聖霊の働き、真理を教える、真理に導くということを教えていらっしゃる。


 そして皆様よくご存じの、復活されたイエス様がマグダラのマリアに出現されて、そしてメッセージを託されます。「私の兄弟たちのところへ行ってこう言いなさい。『私の父であり、あなた方の父である方、また私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は上る』」。つまり弟子たちに、ご自分が父のもとに上っていく、いわゆる昇天ということを果たすと弟子たちに言いなさいと。このように見ていきますと、天に上られた、父のもとに帰られたイエス様が弟子たちに出現して「聖霊を受けなさい」と聖霊を与えられる展開はよくわかります。天に上られたから聖霊が来ている、弁護者が来ているということで、でも、その直後になぜ「罪を赦す、赦さない」という、このことが続くんでしょうという疑問です。


 皆さんの持っていらっしゃる聖書と典礼6ページの下に、「23だれの罪でも」というところの説明が書いてありますけれども、「罪のゆるしをもたらす使命が弟子たちに与えられるが、ゆるすことはイエスの使命の継続であり、同時に『互いに愛し合う』ことの一つの典型でもあると言えよう」という、思わせぶりな書き方をしています。少しこのラインに乗って、私なりに聖書を読み直してみて、そのことを皆様にご紹介したいと思います。ペトロが聖霊降臨、聖霊を受けて説教しますが、その後ユダヤ教の指導者たちに捕まえられて最高法院に連れ出されて、あなたたちは何の権威でこんな話をするんだということを言われた時にペトロは言いますが、その中で「私たちの先祖の神は、あなた方が木につけて殺したイエスを復活させられました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、ご自分の右に上げられました」。右に上げられたというのは昇天ということですね。「私たちはこの事実の証人ですし、聖霊もこのことを証しています」というふうに語ります。


5/24(日)10:00- 聖霊降臨の主日 祭壇の髙祖神父

 そして、今日第一朗読で読まれた聖霊降臨に続いて、聖霊降臨の風と物音に驚いて集まってきた人々にペトロが少し説教します。その後半、ペトロの説教に心を打たれた人たちが、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と尋ねる。するとペトロはこう答えます。「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にもあなた方の子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです」。「遠くにいるすべての人」の中に私たちも入っているでしょう。ですから聖霊降臨は、悔い改める者が洗礼を受けて聖霊を受けるということと直結しているということがこの説教でわかります。


 つまり、聖霊を与える、聖霊が降臨するということは、十字架の贖いと復活の神秘によってイエス様が私たちにもたらされた罪の赦しと、神の命、復活の命の交わりに入るように人々を招くこと。つまり神の慈しみを伝える務めを改めて弟子たちに与えていらっしゃる。その使命のために聖霊をいただいて強められた。その意味で、イエス様が「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉から始めたこの救いの使命といいますか、そのわざの中に私たちも加わって、それに参加するようにというイエスの使命を継続していく。私たちもそれを部分的にしろ果たしていくという、そういう招きがここにある。ですから、罪の赦しを与えるということは、イエス様がまさに救いのわざを通して与えられた実りを人々に伝えていくという、イエス様の使命を継続するということになっていく。


5/24(日)10:00- 聖霊降臨の主日 聖体拝領 ご聖体を授ける髙祖神父といただくベールの女性

 もう1つ、聖書と典礼では「新しい掟」のことが書いてありました。ご存じのように「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これがわたしの掟、新しい掟」であるということを、2度、3度おっしゃっています。イエス様は福音書の中で「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」と教え、「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」とおっしゃる。そして特に十字架上で自ら、ご自分を迫害する者のために祈り、その赦しを父なる神に祈られました。いわばご自分が語ったことをそのまま生きて模範を示された。


 イエスが愛されたように互いに愛し合う、それが新しい掟。この新しい掟の中には、そのかなり中心的な部分には、相手の罪を赦し、憐れみ深くあることが含まれています。私たちも福音書の中の主の祈りの後に「もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方の過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをお赦しにならない」とおっしゃっている。「あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」というのは、非常に重い言葉だと思います。なぜなら、現代の社会、世界を見てください。そこに起こっている様々な出来事、私たちの目から見て、えっと思うようなことは、「赦さなければ赦されないまま残る」ということの、その一つの結果だと言えるんじゃないでしょうか。


 だからこそ、今日、私たちは聖霊降臨の祝いをこうしてしながら、私たち一人ひとりが聖霊によって新たにされることを祈り求める。聖霊の息吹によって私たちが新たにされ、イエスの使命を受け継いで、現代世界に神様の慈しみがあること、神様の慈しみを生きるとはこういうことだということを証ししていく。そういう使命が私たちにあります。その恵みを、心合わせてご一緒にお祈りいたしましょう。


主の昇天の祭日

関根 悦雄 神父

5/17(日)10:00- 主の昇天の祭日


 今日、私たちは主の昇天を祝っています。ご存じのように「主は復活して40日間私たちの間に姿を現し、そして40日目に天に昇ったと」いうふうにルカの福音書は伝えています。ですから40日というと、復活から40日ですから、先週の木曜日がその主の昇天に当たっていたわけです。しかし、キリスト教国でない日本のようなところでは、その昇天の次の日曜日、今日祝うことになったわけです。


5/17(日)10:00- 主の昇天の祭日 司式の関根神父

 私はこの昇天ということについていろいろ考えてみたんですが、イエスはこの世で何をしたのか。そして最後には、自分自身の命を与えて天に戻られた。イエスが昇天した。これは考えられることですね。イエスはこの世にいる間に何をしたのか。自分の弟子たちを選んで神の国を宣べ伝えるように、そしてすべての人を神の御旨に従うように教えた。しかし、これはどこまで成功しているのか。私たちのこの現実の世界を見ると、イエスの願ったことは、残念ながらまだまだ十分に実現していないと言わなければならないと思います。イエスが今日のこの福音で何を言っているのか。まずはイエスはこのように言います。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」。弟子にするというのはどういうことなのかというと、具体的な行為としては「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。このように言うんです。


 私たちはここに今、集まっています。これは私たち一人ひとりキリストと出会い、キリストに従って歩むということを選んだ。そしてまた、こういう神の言葉を聞くために日曜日ごとに集まってミサに与り、そのイエスの教え、導きに従って生きようとその決意を新たにし、それを行っていく。しかし、これがどこまでできているでしょうか。これは皆さんを責めているわけじゃないです。まずは私自身、自分でそれがどこまでできているのか。はっきり言って、十分にできていると言い難いと思います。つまり、今の世はどのようになっているのか。今の世の中の動きは、このイエスの教えた神の国のありようとはかなり違っています。かなり違っているというだけでなく、神の国の論理に反するようなありさまではないでしょうか。そういうものを目の前にした時に、どこまでイエスの教えを伝えることができるのか。


 私たちは人間ですから、もちろんいろいろな自分にできないこともあるでしょう。限界もあります。しかしイエスは、それでもなお私たち一人ひとりに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と望んでいるんです。私たちが具体的にすることは何でしょうか。「あなた方はキリストに従っていきなさい。教会に行って洗礼を受けなさい」、そういうことでしょうか。そうではないでしょう。まずは、私たちがキリストと同じような者になる。そしてキリストのわざを行う。キリストのわざというのは何か。これは愛のわざです。イエスは、この世に天から遣わされて過ごした間に何をしたのか。それは一言でまとめると、愛のわざ。神が愛であるから、神のわざ、これは愛を行うこと。特に愛が足りない人のところに行って愛のわざをした。これだと思うんです。


5/17(日)10:00- 主の昇天の祭日 司式の関根神父と2026年度の復活のろうそく

 しかし、残念ながら現代社会は総じて自分だけが生き残るような、それでいいと。ですから、弱いものは排除していく、やっつけていく。そういうふうな社会、世界になってしまっているのではないか。そういう中にあっても、やはり私たちキリストに招かれた者、キリストに命じられた者としては、愛のわざを行い続けなければならないと思います。それは小さなことかもしれない。少ししかできないかもしれない。でもそれをしていかなければ、この世界は全くの闇になってしまうんじゃないかと思うんです。


 今の世界の動きを見ると、誰も望ましいと思う人いないでしょう。世界と言いましたけれども、日本という社会を考えてみても、私たちは何に動かされていますか。自分を動かす原動力は何ですか。自分が経済的に豊かになるために、それがモチベーションとなって動いているんでしょうか。私たちが自分自身を与えて貧しくなっても、この世がより神の国にふさわしいものになるように、互いに弱い者同士が力を合わせて、正しいものを求めて生きるような、そういう生き方をしているでしょうか。こんなことを皆さんの前で言うのは、自分自身がやっぱり恥ずかしいと思う面もあるんです。なかなかできない。だけれども、イエスはそれを望んでいるんだと。イエスは「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」。そして自分自身を永遠に与えるためにミサというものを作ってくださり、私たちを生かすために自分自身を与え続けてくださっているんです。


 イエスは今の世の中、どこにいるのか。同じマタイ福音書の18章には「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」という約束をしてくださいました。なかなか自分一人が何かをするということは難しいことです。ですから、二人、三人、キリストに結ばれた者同士が集まって共に行っている、神の国を証ししている。これが大切なことでしょう。それから、マタイ25章では最後の審判の場面でこのように言いました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。イエスの時代から今に至るまで、本当にイエスが「わたしの兄弟」という、苦しむ人、病気の人、あるいは虐げられている人、そういう一人に私たちは何をすることが求められているのか。これを今日の主の昇天の日に少し考えたいと思うんです。


5/17(日)10:00- 主の昇天の祭日 主聖堂 会衆席と天井のステンドグラス

 一般的に社会の中でキリスト者、あるいはカトリックの人は行儀の良い人だというふうに見られているかもしれません。だけれども、今の社会の現実にどう生きていくのか、その中でどう生きていくのか。これを考えた時には、ただ行儀よく、個人的に正しく生きていくということだけでは不十分なのではないかなと思うんです。というのは、世の中にあって小さい人々、自らが初めから小さいのではなくて、小さくされてしまった人々だからです。そして自分でそれに抗うこともできないで苦しむ、そういう人たち。そういう人たちのために、時には声を上げたり、そして具体的な行動をしてその人たちを助けたり、あるいはそういうものを作っているものに対して、何かはっきりと異を唱える、そういうことも必要なんじゃないかと思うんです。


 イエスはこの昇天の後、教会では来週聖霊降臨を祝います。私たちにもその聖霊が働いてくださるはずです。働いているし、これからも働いてくださるはずです。そういうことに信頼して共に手を携えながらこの社会の中、世界に生きていくことができるように、そういう導きをご一緒に願いたいと思います。


復活節第6主日 子どもとともにささげるミサ

ボニー・ジェームス 神父

5/10(日)10:00- 復活節第6主日


5/10(日)10:00- 復活節第6主日 子どもとともにささげるミサ。子どもたちに質問するボニー神父と、手を挙げるこどもたち。

 皆さん、5月になりました。5月というと、まずマリア様の月です。マリア様を通して特別にお祈りする時ですね。それから5月は、復活祭が終わって、今度は聖霊降臨という聖霊をいただくその恵みを感じる時でもありますね。聖霊降臨に向かって私たちは心の準備をしていきます。


 ところが聖霊ということを皆さん聞いたことがありますか?もちろんありますね。今日の聖書と典礼、これを持っている人は見てください。この今日の聖書と典礼、福音のテーマは「聖霊と共に」となっています。今日のいろんな祈りの中に聖霊の話が出てきます。そして先ほど読まれた聖書の中でも、何回も聖霊の話が出ていました。なので、今日は少し聖霊の話をしようと思っています。


 聖霊、聖なる霊とも言いますけれども、聖霊というのはなかなかわからないですね。「父と子と聖霊」っていつも言いますけれども、聖霊のことはなんとなくわからないですね。少し今日はそれについて説明したいと思います。聖霊のことは「神の愛」というふうに聖書には書いてあります。神の愛であると。皆さん、誰かに愛されていると思う人、手を挙げてください。はい、ありがとうございます。たくさんの人が愛されているんですね。お父さん、お母さん、あるいはリーダー、いろんな人に愛されている。


 では、愛していると思う人はいますか?愛されているよりも愛している人の方が多いですね。ありがとうございます。愛されている人と愛する人もいますけど、愛そのものを見たことがある人は?隣に座っている愛ちゃんのことじゃないですよ。愛そのものを見たことのある人、いますか?なかなか難しいね。でも、確かに愛というものがありますね。でも見えない。私も見たことはないです。でも、愛の結果は見ることができます。愛の実、愛の実りを見ることができます。例えば、お父さんお母さんは子どもを愛するから、いろんなことを面倒見たりとかしているわけなんですよね。家族同士、愛しているからお互いにつながっていくわけなんですね。


 聖霊のことも、愛のようなものであるというふうに言うことができます。見ることができないんですけれども、確かに存在しています。それが神の愛、聖霊というふうに言いますね。全部、全くわからなくてもいいですよ。愛というものがある、そして聖霊というものが神の愛であるということを分かっていればそれで十分です。


5/10(日)10:00- 復活節第6主日 子どもとともにささげるミサ。祭壇前に座るこどもたち。

 聖霊というのは愛であるという話なんですけれども、聖霊は神の愛ということなんですね。この他にも聖霊の実りを私たちは感じる時があります。見ることができないんですけれども、それを感じる時があります。例えばなんですけれども、聖霊の実ですね。愛だけじゃなくて、いくつかあります。全部で12ぐらいあると言っています。聖書の中のガラテア人への手紙に出てきますけれども、例えばもう1つ、親切であるということ。これも具体的に見ることができないんですよね。人に対して親切であるということ、それはその行動から分かるということなんですよね。


 もう1つ、例えば忍耐力。それも見ることができない。でも、確かにあります。人に対して私たちは忍耐力を持って関わるとか、そういうふうに言いますね。それからもう1つ、平和ですね。平和というものもなかなか触れることができないんですね。でも、平和という概念があって、平和があって、私たちは平和的に暮らしているわけですね。


 逆に言うと、平和の逆は戦争とか争いとか、そういうことなんですね。平和というのは聖霊の実、実りです。逆に、戦争とか争いとか、そういったものはどこから来るでしょう。聖霊は良い霊なんですよね。その反対の戦争とか争いとか、そういったものは悪霊から来ます。だから悪霊という話もある程度分かりやすくなると思います。神様は人間の平和を求めます。なので、聖霊から来るこの聖霊の実、実りなんですね。それが他にもたくさん、12ぐらいあります。後でもし時間がある時、ガラテア人への手紙5章をちょっと見ていただければと思います。


5/10(日)10:00- 復活節第6主日 子どもとともにささげるミサ。ご聖体をかかげるボニー神父

 そのようにして聖霊という話なんですけれども、私たちが見ないうちに働いてくださっている。それが聖霊なんですね。なので、そういう聖霊の実りの中で、私たち一人ひとりが生きているということを心に留めておきましょう。もちろん聖霊というのは100%分かりきれないですね。それは神秘と言いまして、分からないところがあります。でも、聖霊の結果、実りというものがあるということが分かっていればそれで十分だと思います。


 私たちはみんな、聖霊の導きによって生かされている。お父さん、お母さんが愛してくださっているように、神様が私たち一人ひとりを愛してくださっている。そして私たちを救ってくださり、私たちを導いてくださり、私たちを養ってくださっている。だから、それが聖霊の働きであるというふうに心に留めていただければと思います。


 今日はこの話はここで終わりたいと思いますが、聖霊のこの導きを願いながら、ある祈りを動画の形で皆さんに流したいと思います。なので、この聖霊の実、聖霊の実り、それを私たちは感じるように、ある動画をこれから流します。この歌は祈りの形です。本当に「聖霊、私たちを導いてください」と静かにこの場所で言って、「神様、私たちの中に来てください。私たちを導いてください」と心を込めてお祈りする。そのような歌です。神様に、本当にこの祈りの心を持って、この歌を聴きましょう。


聖霊(風)来てください (イエスのカリタス修道女会 スモールクワイア)


復活節第5主日

ハビエル・ガラルダ 神父

5/3(日)10:00- 復活節第5主日


5/3(日)10:00- 復活節第5主日

 「わたしは道であり、真理であり、命である」という言葉についてご一緒に考えてみたいと思います。これについていろいろな説明がありますが、私に一番ピンとくる、納得できるのは次のようなことです。この3つの言葉の中心は、間違いなく「道」です。道は中心、父に行く道。あとの2つの言葉は道の特徴だと思います。


 では、道とは何かと言いますと、ごく簡単に言えば生き方です。生き方、それは道です。そしてその生き方の特徴は3つある。1つは真理に満ちています。その生き方、真理というのは誠実。真に満ちる道です。それから命。永遠の命は愛ですね。イエス・キリストの言葉で言えば、永遠の命は宴会、夕食会みたいです。そこでみんな話し合って、分かち合って、仲良く、親と一緒に、神と一緒にいられる、愛し合っている場。それは永遠の命。ですから命であるというのは、愛に満ちる生き方です。繰り返してみますと、道は生き方です。2つの形容詞、誠実に満ちる生き方、そして愛に満ちる生き方です。


 もう1つ付け加えます。もう1つの特徴。イエス・キリストは道であると同時に、その道を一緒に歩いてくださる友達です。これはキリスト教の素晴らしい特徴だと思います。すべての宗教には道があるんですね。でも、私たちが信じるのは、イエス・キリストであるその道を、イエス・キリストと共に歩いている。これは大船に乗った気持ちになります。


 一番難しいことはこれです。道は生き方、つまりキリストの生き方のように、キリストのように生きるはずです。これは難しい。私は人間です。イエス・キリストは神様ですよ。私は弱い人間で、イエス・キリストは立派で強い方でした。合わない。キリストの生き方と私の状態には合わない。しかも今の日本と昔のパレスチナの状況は合わないんです。だから、キリストのように生きるということはあまりピンとこないんです。


5/3(日)10:00- 復活節第5主日 司式のガラルダ神父

 どうすればいいでしょうか。提案を申し上げます。こうすればいいのではないかと思います。イエス・キリストを心に入れ込むこと、イエス・キリストを本気で愛すること、友達にすること。よく話し合って、よく聞いて、よくコメントして、そして一緒にいてくださいと、よく願う。イエス・キリスト自身も愛して心に入れ込む。それから、イエス・キリストの根本的な言葉を心に入れ込む。「愛し合いなさい」という根本的な掟ですね。愛し合いなさいということをよく黙想して、祈って、心に深く入れ込むこと。それから、イエス・キリストの生きる根本的な姿勢。親切で、人のためにいいことをする方です。命を捨てるまで人を大切にする方です。これも心に入れ込むんです。


 もう1つあります。各々の人はご自分で、キリストの一番好きなところを心に入れ込むんです。ありますね。私に一番好きなところはこれ、それをもっと深く心に入れ込むんです。ですからイエス・キリスト自身、イエス・キリストの言葉、イエス・キリストの生き方を深く心に入れ込んで、それから自然に生きることにしましょう。自然に生きる。キリストが話してくださる。キリストが行ってくださる。キリストが人を赦してくださる。キリストは平和のために祈ってくださる。それはキリストのように生きることになります。


 では、旅の道の友なるイエスと共に、イエスのように歩き続ける恵みを願い求めましょう。ただし、「キリストについていきます」というよりも、「主よ、連れて行ってください」と願いながら、謙遜に、ご一緒にキリストと共に歩き続けましょう。


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