2026年6月 ミサ説教
6/7(日)10:00- キリストの聖体の祭日 サトルニノ・オチョア 神父
6/14(日)10:00- 年間第11主日 山中 大樹 神父
6/21(日)10:00- 年間第12主日 作道 宗三 神父
年間第12主日
作道 宗三 神父
6/21(日)10:00- 年間第12主日
年間の季節に入り、主日のミサではマタイが読まれている。今日の箇所は、先週に続いて10章から、弟子に向けられたイエスの励ましの言葉。繰り返し出てきたのは、「恐れるな」という呼びかけ。
今の時代、「恐れ」というと、とかく戦争の脅威や、地震や津波等の自然災害のこと。人間誰もが抱く本能的な恐れ、これは簡単に否定することはできない。しかし、そうしたことの他にも、人間が恐れているものは無数にある。何か失敗したり、間違いを犯して評価を落とすこと、そんなことをきっかけに、人間関係がうまくゆかなくなり孤独に陥ること、自分はもちろん、家族、特に、子供や老親の行く末のこと、自分が過去に犯した過ちに対する捨てきれない悔悟の念、そして、イエスが弟子たちに直接戒められた迫害するものへの恐れ等。
これだけ社会が豊かになり、物があふれ、楽しみが増し、情報や娯楽が満ち溢れている時代に生きながら、人は恐れから解放されず、どこかで、どこからとも言えない不安や恐れを抱いて生きている。イエスに従う決意をしたキリスト者にとっても、そうした恐れが完全に取り去られるということはない。イエスご自身、受難に向かう前に、一回ならず「心を騒がせられた」、とヨハネ福音書は記している。しかし、その上で、晩餐の席では弟子たちに向かって、「心を騒がせるな」と言われた。果たして、人間は、一切の恐れから自由になることができるのだろうか。わたしたちが生きている限り、恐れの原因となるものをすべて取り除くことはできない。イエスの弟子たちも、イエスの復活後、ユダヤ教の教えを固く守る人々から迫害され、会堂から追い出される羽目になります。それでも、イエスは、「恐れるな」と言われる。むしろ、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れよ」とイエスは言われる。唯一恐るべきお方への恐れ、それは、もはや恐怖ではなく、むしろ、「畏怖」、すべてを造り治め、生かし続ける神を神として敬い、愛することではないか。イエスの後に従い、イエスのように、敢然と縄目を受け、十字架の道を歩み、すべてを御父にゆだねられたあまたの殉教者の心にあったのは、そうした神への愛ではないか。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」とヨハネは手紙で書く。
第二次世界大戦の末期、ユダヤ人を迫害するナチスドイツの政策に抗議ヒットラー暗殺計画に加担した罪で、とらえられ、収容所に送られ犠牲となった、ボンヘッファーという牧師は『キリストに従う』(Nachforge)という本を残した。そこには、弟子ととしての歩みにも二通りがある、一つは、安価な道、もう一つは高価な道。安価な道とは、信仰者としての掟を守り、祈りをし、儀式に与り、務めを果たすことで、事足れりとする道。もう一つの高価な道は、キリストが生きられたように、苦しむ人々のことを心にかけ、自らも貧しく、小さなものとされることを甘んじ受け、苦しみを恐れることなく捧げ、すべてを父なる神にゆだねて生きる道。果たして、自分はどちらの道を歩んでいるのか、はじめて読んだときに、大きな衝撃を受けたことを忘れることができない。ボンヘッファー牧師は、そうした考えを言葉として記しただけでなく、文字通り生きて、自らを犠牲として捧げられた。
今、わたしたちは彼が生きた時代とは全く違う平和な時代に生きている。確かに、世界の一部には、戦争状態が続き、悲惨な目に遭っている人々が少なくない。自然災害の犠牲となって、突然襲った悲惨に打ちひしがれている人もたくさんおられる。わたしたちが生きる日本も、そうした現実と決して無縁ではない。いつ、そうした状況、自然からのもの、人為的なもの、いずれにしても、そんな状況の中で、小さな群れであるキリスト者として、何ができるか、何をなすべきか、主はわたしたちに、そして、わたしに、何を望み、期待しておれられるか、果たして考えているだろうか。考え、聖霊の導きと感じたことを実行に移す勇気をもっているだろうか。そうでなければ、わたしたちも、結局、時代の大きな流れの中で、人々と同じ思いを抱き、何の抵抗もなく、流され続けているのではないか。すぐに、導き出せる答えはないかもしれない。しかし、そうした思い、疑問、願いを抱き続けるなら、いつか、聖霊は、わたしたちに歩むべき道、進むべき方向を示してくださるに違いない。
かつて、預言者エレミヤは、時代の大きな変化の中で、神の招きに応え、自分の身に何が起きるかも知らず、自らの無力を意識しながら、一人立ち上がって為政者に語りかけました。エレミヤは苦しみの中でこう言います、「私には聞こえています、多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』」と彼らは言う。『共に彼を弾劾しよう』と。わたしの味方だったものも皆、わたしがつまずくのを待ち構えている。『彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう』と。しかし、主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます」と。このような預言者、そして、新約の使徒、聖人たちの勇気ある行動によって、教会が今日まで存続し、その恩恵にあずかっていることを思い、わたしたちも一人一人聖霊の語りかけに耳を傾け、勇気をもって応えてゆけるよう祈りましょう。
年間第11主日
山中 大樹 神父
6/14(日)10:00- 年間第11主日
私、先週は7時のミサだったんですね。今日は10時で、10時のミサって年に1回ぐらいしか当たらないんですけれども、これだけ人がたくさんおられるのと、侍者がずらっといらっしゃる。しかも、久しぶりに今日侍者に戻ったという、1年以上ぶりかな?戻ってきた侍者さんもいらっしゃるので、こういういろんな人に支えられてというか、みんなでミサをつくって、教会をつくっている。それが教会らしさだと思うんですね。だから、皆さんそれぞれいろいろな働きをされていると思います。ぜひともまたこの教会を、キリストの体をつくっていくために、それぞれ小さなこと、あるいは大きなこと、それで教会を共につくっていきましょう。
今日の福音朗読ですけれども、イエス様が人々の様子を見て、感じて弟子たちを派遣する理由、あるいはきっかけとなる感情がここに書かれています。何と書かれていたか。それは「深く憐れまれる」という言葉で表されています。この元々のギリシャ語というのは、スプランクニゾマイという言葉なんですね。舌が絡まるような言葉ですけど、腸がねじれる思いをするほどに他の人に共感をする言葉、それがこの言葉です。その元々はというと、スプランクノン、内蔵を意味する言葉なんです。確かに私たちも一人で喜んだり、一人で悲しんだりする時ではなくて、他の人と一緒に共感して喜び合ったり、あるいは苦しんだりする時に、体全体で喜んだり悲しんだりしませんか。こういう表現があるんです。お腹がよじれるほど面白いとか、あるいは腹がねじれるほどに痛みを感じる、断腸の思い。あるいは、はらわたが煮えくり返る。つまりね、私たちはここ(お腹)で感じてるんですよ。他の人との関係というのをお腹で感じている。
このスプランクニゾマイと同じ心の様子を、イエス様の母語というのはアラマイ語だという人もいますが、ヘブライ語ではラーハムという言葉で表します。ラーハム、これは慈しむ愛、あるいは憐れむ愛を表します。単なる愛情ではないんですね。もともとはレヘムという言葉で、それは内臓、あるいは「受胎する」の胎を表す言葉から出ている。そういった愛なんです。ここ、お腹で感じる愛。
今日の福音書でイエス様は、人々あるいは私たちの日々の様子、特にしんどいさま、あるいは病気や痛みを負っているさまを見て、イエス様ご自身が体の奥底から突き動かされるほどの愛情を人々に、私たちに持ったと書かれているんです。そしてその愛情のゆえに突き動かされて弟子たちを派遣する。いやしのために、悪霊を追い出すために、天の国の到来を告げるために派遣したと書かれている。天の国の到来とはまさしく、神が私たちを愛するから、あなたを救いたい。あなたたちを救いたい。この世界を造ったからには救いたい、と手を伸ばして救おうとする。それほど私たち一人ひとりを愛しているよと告げるために、かけがえのないあなただと伝えるために弟子たちを派遣された、と描いているわけです。
この言葉を前にして、私たちが問うべきことというのは一体何でしょうか。まず第一に、私はこのようなイエス様の私への愛、深い慈しみ、憐れみを感じたことがあるのか、あるいは感じているのかと問うことだと思います。皆さん、イエス様の愛を感じていますか。そして私はこのようなイエス様の愛の感覚をもってこの世界を見ているのか、という問いです。周りの人、横の人を、あるいは見ず知らずの人を、あるいは家族をこのイエス様の愛でもって見ているのか。そして神の目から見た自分自身、周りの人々、この世界にイエス様の愛こそが一人ひとりに届くようにという願いを持って生きているのか、と問うことも大切なのだと思います。
日々の中で、私たちは自分が中心になります。あるいは自分の仲間が中心になります。でも、神の愛は全ての人に注がれている。他の人が神から愛されている。私が神から愛されている他の人々とともに私の人生の中心になれば、私の生き方は変わると思います。日々の中でこのイエス様の深い思いに包まれながら生きる恵みと、私たちもイエスとともに同じ感覚に突き動かされながら、心と手を、目を広げて人々とともに歩み、神の国を築いていく恵みを願ってまいりたいと思います。
キリストの聖体の祭日
サトルニノ・オチョア 神父
皆さんはどうかわからないけれども、私にとって今日は特別な日です。ちょうど81年前のこの日、7歳の私の初聖体だったんです。戦争がヨーロッパで終わったばかりです。今、どこで、いつ、何を着ていたか、どこでひざまずいていたかということは忘れられない。命です。このパンを食べることによって私たちは生きる。その命は医学的な命だけじゃなくて、心の命、精神の命、魂の命、死を知らない命です。永遠に生きる。これはイエス・キリスト。
イエス・キリストは私たちに、この命を、パンとぶどう酒のしるしとして私たちに与えて「私はあなたのパンです。あなたの毎日のパンです。あなたを本当に生かしている命です。血です」とおっしゃる。血液ではなく、血です。血を流すというのはもっと意味がある言葉です。血液を流すと言ったらちょっとピンとこないですね。けれども、人のために血を流すということは命を与えるということ。「私は命を、私の命をあなたのために与える」。それです。それは聖体です。だから私たちは御聖体と言っているんですが、ラテン語でコルプス・クリスティと言うんです。コルプスは「体」、クリスティは「キリストの」。今日の祝日は「キリストの体」という意味です。そういえば、今でも米国のテキサス州では大きな街があり、その街の名前はコルプスクリスティです。
私たちにとっては、体と言ったら仕事によって鍛えられて、本当に毎日毎日生きている。それによって私たちを愛するものを生かしているのです。血というんだったら、ただ先ほど申し上げたように医学的なことじゃなくて、血によって私たちも悩みを受けて、犠牲をして、血を流して、愛している兄弟のために私たちはそれを捧げる。命を捧げる。生かす。生きる。有名な戦後の映画があります。「生きる」ということですね。それで本当に死にかかっている人は、残っている命を最後まで子どもたちのために捧げる。私たちはこの意味で今日の祝日を祝います。
それから、今日の朗読の中では、この聖パウロの言葉があったんです。「私たちはこのパンを」、このパンと言ったらイエス・キリストです。生きているキリストです。「このパンを割いて」、私のパン、あなたのパンじゃなくて「このパンを割いて」それを分かち合って、一緒に食べる。それによって私たちはイエス・キリストに生かされているのです。私たちは今日、この10時のミサではこの食卓を囲んで、私たちはそのホスチア、イエス・キリストのパンを裂いてそのパンをいただく。それによって私たちは、いろんな文化、いろんな民族、いろんな国からの人たちであっても、この同じパンを食べることによって1つになる。「ひとつになろう」という歌があります。1つになる。これによってです。このパンと、このぶどう酒によって、いわばイエス・キリストを信じることによって、私たちはイエス・キリストとともに結ばれて、父である神様の子になる。1つの体になります。
忘れられないことですが、これは81年前じゃなくて、54年前のことです。私はこの隣の大学で神学の勉強、大学院が終わっていました。皆さん、お手元に聖歌集がありますが、その聖歌集の40番は「キリストのように考え」という歌ですね。その40番の右の方にはTSと書いてあります。TSはその作曲者の名前です。高田三郎さん。高田三郎、芸大の偉大な先生だった熱心なカトリック信者で、この歌の作曲をしたんですが、彼の歌詞ではないんです。パウロの書簡からの歌詞です。聖書朗読みたいなことで。ある時に何か特別なミサがあって、私は勝手にこのような高田三郎のメロディを、ちっぽけな伴奏を流してやっていたんです。けれどもその時、運が悪くて彼がいたんです。それで後で私を呼んで、ものすごく厳しく叱ったんです。「私の作曲したことは私の書いたように弾きなさい。失礼です」と。私は何も言わないですね。後でまた彼が来て、「1つのことを言っておきたい。私はひざまずいてそれを作曲した」。ひざまずいて高田三郎の書いたことは一体どんなことですか。見てください。「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう」。キリストの体、キリストの命を受けた私たちが、キリストになろうということです。
「キリストのように、キリストの体になる」他の歌があります。今の時代、このキリストの手になる、キリストの足になる、キリストの悩みになるのは私たちです。それで教会は世間に対して、キリストの姿を今、私たちは見せているのです。信じることによって、私たちはキリストの命を受けて、みなさんにとって今日生きているキリストは、キリストを信じる私たちです。1つの体、手があって、足があって、目があるんですけれども、1つの体です。これは私たちです。これは今日の祝日の本当の意味です。1つになろう、キリストのうちに。