2026年6月 ミサ説教
6/7(日)10:00- キリストの聖体の祭日 サトルニノ・オチョア 神父
6/14(日)10:00- 年間第11主日 山中 大樹 神父
6/21(日)10:00- 年間第12主日 作道 宗三 神父
年間第13主日
山内 豊 神父
6/28(日)10:00- 年間第13主日
突然ですが、皆さんは誰のことを一番愛しているでしょうか?愛している人と言って、今皆さんの頭の中に一番最初に思い浮かんだのはどんな人でしょうか。ある人は夫や妻、または父や母、兄弟がいるなら兄弟、そして自分の子ども、他にも友人を思い出した人もいるかもしれません。恋人かもしれませんし、最近はやっている「推し活」とかもあるので、自分の「推し」が一番大好きだっていう人、もしかしたら他人じゃなくて、自分のことを一番愛しているっていう人もいらっしゃるかもしれません。その愛しているものは人だとは限りません。物の可能性もあります。物と言っては悪いですけど、ペットとか。私は自分の犬が好き、猫が好きだと。あるいは私は日本が大好きだ、国歌が好きだっていう人もいるかもしれません。他にも仕事、車が好きな人、私は何よりもお金が大好きだっていう人もいらっしゃるかもしれません。
実に人々は様々な価値観を持って生きています。少し前の時代まで、50年ぐらい前の世界であったら、みんな何か共通する価値観があったはずです。例えば、江戸時代には将軍が頂点にいて、日本の全てが将軍のためにあったという状況があったわけです。そこでみんな同じ価値観を共有して、こういう時はこうするんだ、これが道徳だっていうものがはっきりしていました。明治維新が起きて、天皇陛下を中心にした国家が築かれた時には、天皇陛下が全ての価値の中心にいました。また、日本という国家が中心にありました。そして私たちは敗戦をして、その後空白ができたわけですね。今までは天皇陛下が一番だって思っていたんですけど、それが人間宣言をして、本当はそうじゃなかったっていうことを突きつけられたわけです。
そこで、戦後の日本人たちは会社にその価値を見出そうとしました。私はNHKオンデマンドに入っているんですが、「映像の世紀」っていうドキュメンタリー番組があって、戦後の日本の特集を観ると、その時本当に皆さん信じられないぐらい働いている。本当に「24時間働けますか」みたいな世界で、会社が大きくなればそれでいい、大声出して「はい!」というような、そういう世界。軍隊を会社に持ってきたみたいな、そういう価値観の中で生きてきました。しかし、私たちはバブル崩壊とともにそういう価値観がどんどん薄らいでいって、今があると言えます。それで皆さんそれぞれ違う価値観を持って生きているわけです。
そういう意味で、現代は相対主義的な世界に生きていると言えます。相対主義とは、絶対に正しい価値観や真理があるというより、正しさや良さは人、文化、時代、立場によって変わるっていうことです。皆さんも多分、相対主義的なこの社会にあって、その価値観を身につけているんじゃないかなと思います。それはそれ、あなたはあなた、私は私みたいな、そういうところがあるかもしれません。相対主義的な世界において、何か一つの価値観を押し付けられるっていうことがなくなってすごく自由になったという反面で、何が正しいか、何が正しくないかっていうのもどんどん曖昧になってきている社会だと思います。そして深い対話が難しくなります。議論も「あなたはそう思ってるんですね。でも私は違います」っていう形で終わっちゃうわけです。なので、何というか議論の深まりがない。そんな時代になっているんじゃないかなと思います。
それではキリスト教は絶対主義的な価値観を持っているのか、それとも相対主義的でしょうか。絶対主義的でありながらも相対主義があるっていうのが、私が思うキリスト教なわけです。絶対的なものとは、神様は絶対なわけです。神様が絶対的なもので、他のものが全部相対化されるっていうのがキリスト教のあり方だと思います。なので、社会で一番大事とされているものは、キリストの前、神様の前では相対化されるということです。神様以外のものを神様ぐらい一番に置くっていうことは、このユダヤ、キリスト教の中で偶像礼拝っていうことになってしまいます。私は何よりもお金が好きだということなら、それは神様の位置にお金を据えているっていうことになるので、私たちはある意味偶像崇拝をしてしまうっていうことになります。神を絶対的なものにすると、他のものは相対化されます。
私は今、大学院でも勉強していて、一回り半ぐらい若い人たちと一緒に勉強しているんですけど、大学生っていうと社会に出る一歩前なので、社会ではこうとか、社会人としてはこうっていう話が結構出てくるんですね。先生方も「社会人ではこういうことは通用しないよ」というようなことを言うわけです。その社会人の掟みたいなものを、この日本社会では結構重要にされているんじゃないかなと思います。社会人としてああしなさい、社会人としてこうしなさいみたいなことは、誰でもってわけじゃないと思いますけど、多くの人が会社に入ったらまず言われる。そういう学生気分じゃダメですよ、社会の掟を身につけてルールを守りましょう、みたいな感じになるわけです。
しかし、その社会人の掟や尺度っていうものは決して絶対的なものではありません。神の掟にかなったものは絶対的になる可能性はありますけれども、それは人間が決めたことなんですね。誰かが決めて、代々伝わってきて、それで私たちはありがたがって、それを大切にするわけです。そして、その社会の掟に合わない人はどうなるか。それは弱い人間、ダメな人間とされてしまいます。最近大学生がよく言うのは「しごでき」っていう言葉があって、仕事のできる人、その人は尊敬されるわけです。「あの人は『しごでき』だね」って。でも、その時に「しごでき」じゃない人は、ある意味周辺化されてしまうわけです。私たちはそうやってレッテルを貼られて、苦しんでいる人がたくさんいるっていうことはあります。
私は病院などの実習に行くと、本当に社会でうまくいかない人たちをよく見ます。そこで適応障害とかそういう診断を受けるわけです。ある意味、私たちはそういう人たちを温かい目で見るというよりも、あの人は社会不適応者だっていう形で見てしまいます。キリスト者はそうであってはなりません。私たちは違う視点を持っていなきゃならないんです。だから今日の福音で、イエス様が生きていた家族を大切にする社会の中で、それよりも神様を大事にしなさいと言ったわけです。だから私たちも神様が第一、神様の掟、そして神様が見る愛の目を一番大切にしなければならないということです。
私たちは、ここに集まっている人もそうですし、私もそうなんですけれども、片方は神様の領域に足を踏み入れながらも、片一方はこの社会で生きていかなきゃならないわけです。でも、私たちがある意味社会からダメだっていう烙印を押されたんだったら、私たちは開き直ることができるんです。私たちにはその社会のルールよりも大切なルールがあって、そっちに従ってますよと。もうそんなのは私にとって大切なものではないって言い切れるのがキリスト者のいいところであります。
私たちはそういう見方を自分にする必要もあるし、周りの人にもそういう目、温かい目、神様の愛する目でこの社会を見ていく必要があります。私たちがそのような神様の尺度というか、神様を大切にするがゆえに、この世界を違う視点で見るっていうことが必要です。なので、この恵みがなければこのようなことはできないと思います。私たちが意識するところもあるし、恵みによるところもあります。私たちが神様を一番にすることができるように、そして社会からダメと言われた人に味方ができるように、私たちは神様に祈る必要があると思います。
年間第12主日
作道 宗三 神父
6/21(日)10:00- 年間第12主日
年間の季節に入り、主日のミサではマタイが読まれている。今日の箇所は、先週に続いて10章から、弟子に向けられたイエスの励ましの言葉。繰り返し出てきたのは、「恐れるな」という呼びかけ。
今の時代、「恐れ」というと、とかく戦争の脅威や、地震や津波等の自然災害のこと。人間誰もが抱く本能的な恐れ、これは簡単に否定することはできない。しかし、そうしたことの他にも、人間が恐れているものは無数にある。何か失敗したり、間違いを犯して評価を落とすこと、そんなことをきっかけに、人間関係がうまくゆかなくなり孤独に陥ること、自分はもちろん、家族、特に、子供や老親の行く末のこと、自分が過去に犯した過ちに対する捨てきれない悔悟の念、そして、イエスが弟子たちに直接戒められた迫害するものへの恐れ等。
これだけ社会が豊かになり、物があふれ、楽しみが増し、情報や娯楽が満ち溢れている時代に生きながら、人は恐れから解放されず、どこかで、どこからとも言えない不安や恐れを抱いて生きている。イエスに従う決意をしたキリスト者にとっても、そうした恐れが完全に取り去られるということはない。イエスご自身、受難に向かう前に、一回ならず「心を騒がせられた」、とヨハネ福音書は記している。しかし、その上で、晩餐の席では弟子たちに向かって、「心を騒がせるな」と言われた。果たして、人間は、一切の恐れから自由になることができるのだろうか。わたしたちが生きている限り、恐れの原因となるものをすべて取り除くことはできない。イエスの弟子たちも、イエスの復活後、ユダヤ教の教えを固く守る人々から迫害され、会堂から追い出される羽目になります。それでも、イエスは、「恐れるな」と言われる。むしろ、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れよ」とイエスは言われる。唯一恐るべきお方への恐れ、それは、もはや恐怖ではなく、むしろ、「畏怖」、すべてを造り治め、生かし続ける神を神として敬い、愛することではないか。イエスの後に従い、イエスのように、敢然と縄目を受け、十字架の道を歩み、すべてを御父にゆだねられたあまたの殉教者の心にあったのは、そうした神への愛ではないか。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」とヨハネは手紙で書く。
第二次世界大戦の末期、ユダヤ人を迫害するナチスドイツの政策に抗議ヒットラー暗殺計画に加担した罪で、とらえられ、収容所に送られ犠牲となった、ボンヘッファーという牧師は『キリストに従う』(Nachforge)という本を残した。そこには、弟子ととしての歩みにも二通りがある、一つは、安価な道、もう一つは高価な道。安価な道とは、信仰者としての掟を守り、祈りをし、儀式に与り、務めを果たすことで、事足れりとする道。もう一つの高価な道は、キリストが生きられたように、苦しむ人々のことを心にかけ、自らも貧しく、小さなものとされることを甘んじ受け、苦しみを恐れることなく捧げ、すべてを父なる神にゆだねて生きる道。果たして、自分はどちらの道を歩んでいるのか、はじめて読んだときに、大きな衝撃を受けたことを忘れることができない。ボンヘッファー牧師は、そうした考えを言葉として記しただけでなく、文字通り生きて、自らを犠牲として捧げられた。
今、わたしたちは彼が生きた時代とは全く違う平和な時代に生きている。確かに、世界の一部には、戦争状態が続き、悲惨な目に遭っている人々が少なくない。自然災害の犠牲となって、突然襲った悲惨に打ちひしがれている人もたくさんおられる。わたしたちが生きる日本も、そうした現実と決して無縁ではない。いつ、そうした状況、自然からのもの、人為的なもの、いずれにしても、そんな状況の中で、小さな群れであるキリスト者として、何ができるか、何をなすべきか、主はわたしたちに、そして、わたしに、何を望み、期待しておれられるか、果たして考えているだろうか。考え、聖霊の導きと感じたことを実行に移す勇気をもっているだろうか。そうでなければ、わたしたちも、結局、時代の大きな流れの中で、人々と同じ思いを抱き、何の抵抗もなく、流され続けているのではないか。すぐに、導き出せる答えはないかもしれない。しかし、そうした思い、疑問、願いを抱き続けるなら、いつか、聖霊は、わたしたちに歩むべき道、進むべき方向を示してくださるに違いない。
かつて、預言者エレミヤは、時代の大きな変化の中で、神の招きに応え、自分の身に何が起きるかも知らず、自らの無力を意識しながら、一人立ち上がって為政者に語りかけました。エレミヤは苦しみの中でこう言います、「私には聞こえています、多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』」と彼らは言う。『共に彼を弾劾しよう』と。わたしの味方だったものも皆、わたしがつまずくのを待ち構えている。『彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう』と。しかし、主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます」と。このような預言者、そして、新約の使徒、聖人たちの勇気ある行動によって、教会が今日まで存続し、その恩恵にあずかっていることを思い、わたしたちも一人一人聖霊の語りかけに耳を傾け、勇気をもって応えてゆけるよう祈りましょう。
年間第11主日
山中 大樹 神父
6/14(日)10:00- 年間第11主日
私、先週は7時のミサだったんですね。今日は10時で、10時のミサって年に1回ぐらいしか当たらないんですけれども、これだけ人がたくさんおられるのと、侍者がずらっといらっしゃる。しかも、久しぶりに今日侍者に戻ったという、1年以上ぶりかな?戻ってきた侍者さんもいらっしゃるので、こういういろんな人に支えられてというか、みんなでミサをつくって、教会をつくっている。それが教会らしさだと思うんですね。だから、皆さんそれぞれいろいろな働きをされていると思います。ぜひともまたこの教会を、キリストの体をつくっていくために、それぞれ小さなこと、あるいは大きなこと、それで教会を共につくっていきましょう。
今日の福音朗読ですけれども、イエス様が人々の様子を見て、感じて弟子たちを派遣する理由、あるいはきっかけとなる感情がここに書かれています。何と書かれていたか。それは「深く憐れまれる」という言葉で表されています。この元々のギリシャ語というのは、スプランクニゾマイという言葉なんですね。舌が絡まるような言葉ですけど、腸がねじれる思いをするほどに他の人に共感をする言葉、それがこの言葉です。その元々はというと、スプランクノン、内蔵を意味する言葉なんです。確かに私たちも一人で喜んだり、一人で悲しんだりする時ではなくて、他の人と一緒に共感して喜び合ったり、あるいは苦しんだりする時に、体全体で喜んだり悲しんだりしませんか。こういう表現があるんです。お腹がよじれるほど面白いとか、あるいは腹がねじれるほどに痛みを感じる、断腸の思い。あるいは、はらわたが煮えくり返る。つまりね、私たちはここ(お腹)で感じてるんですよ。他の人との関係というのをお腹で感じている。
このスプランクニゾマイと同じ心の様子を、イエス様の母語というのはアラマイ語だという人もいますが、ヘブライ語ではラーハムという言葉で表します。ラーハム、これは慈しむ愛、あるいは憐れむ愛を表します。単なる愛情ではないんですね。もともとはレヘムという言葉で、それは内臓、あるいは「受胎する」の胎を表す言葉から出ている。そういった愛なんです。ここ、お腹で感じる愛。
今日の福音書でイエス様は、人々あるいは私たちの日々の様子、特にしんどいさま、あるいは病気や痛みを負っているさまを見て、イエス様ご自身が体の奥底から突き動かされるほどの愛情を人々に、私たちに持ったと書かれているんです。そしてその愛情のゆえに突き動かされて弟子たちを派遣する。いやしのために、悪霊を追い出すために、天の国の到来を告げるために派遣したと書かれている。天の国の到来とはまさしく、神が私たちを愛するから、あなたを救いたい。あなたたちを救いたい。この世界を造ったからには救いたい、と手を伸ばして救おうとする。それほど私たち一人ひとりを愛しているよと告げるために、かけがえのないあなただと伝えるために弟子たちを派遣された、と描いているわけです。
この言葉を前にして、私たちが問うべきことというのは一体何でしょうか。まず第一に、私はこのようなイエス様の私への愛、深い慈しみ、憐れみを感じたことがあるのか、あるいは感じているのかと問うことだと思います。皆さん、イエス様の愛を感じていますか。そして私はこのようなイエス様の愛の感覚をもってこの世界を見ているのか、という問いです。周りの人、横の人を、あるいは見ず知らずの人を、あるいは家族をこのイエス様の愛でもって見ているのか。そして神の目から見た自分自身、周りの人々、この世界にイエス様の愛こそが一人ひとりに届くようにという願いを持って生きているのか、と問うことも大切なのだと思います。
日々の中で、私たちは自分が中心になります。あるいは自分の仲間が中心になります。でも、神の愛は全ての人に注がれている。他の人が神から愛されている。私が神から愛されている他の人々とともに私の人生の中心になれば、私の生き方は変わると思います。日々の中でこのイエス様の深い思いに包まれながら生きる恵みと、私たちもイエスとともに同じ感覚に突き動かされながら、心と手を、目を広げて人々とともに歩み、神の国を築いていく恵みを願ってまいりたいと思います。
キリストの聖体の祭日
サトルニノ・オチョア 神父
皆さんはどうかわからないけれども、私にとって今日は特別な日です。ちょうど81年前のこの日、7歳の私の初聖体だったんです。戦争がヨーロッパで終わったばかりです。今、どこで、いつ、何を着ていたか、どこでひざまずいていたかということは忘れられない。命です。このパンを食べることによって私たちは生きる。その命は医学的な命だけじゃなくて、心の命、精神の命、魂の命、死を知らない命です。永遠に生きる。これはイエス・キリスト。
イエス・キリストは私たちに、この命を、パンとぶどう酒のしるしとして私たちに与えて「私はあなたのパンです。あなたの毎日のパンです。あなたを本当に生かしている命です。血です」とおっしゃる。血液ではなく、血です。血を流すというのはもっと意味がある言葉です。血液を流すと言ったらちょっとピンとこないですね。けれども、人のために血を流すということは命を与えるということ。「私は命を、私の命をあなたのために与える」。それです。それは聖体です。だから私たちは御聖体と言っているんですが、ラテン語でコルプス・クリスティと言うんです。コルプスは「体」、クリスティは「キリストの」。今日の祝日は「キリストの体」という意味です。そういえば、今でも米国のテキサス州では大きな街があり、その街の名前はコルプスクリスティです。
私たちにとっては、体と言ったら仕事によって鍛えられて、本当に毎日毎日生きている。それによって私たちを愛するものを生かしているのです。血というんだったら、ただ先ほど申し上げたように医学的なことじゃなくて、血によって私たちも悩みを受けて、犠牲をして、血を流して、愛している兄弟のために私たちはそれを捧げる。命を捧げる。生かす。生きる。有名な戦後の映画があります。「生きる」ということですね。それで本当に死にかかっている人は、残っている命を最後まで子どもたちのために捧げる。私たちはこの意味で今日の祝日を祝います。
それから、今日の朗読の中では、この聖パウロの言葉があったんです。「私たちはこのパンを」、このパンと言ったらイエス・キリストです。生きているキリストです。「このパンを割いて」、私のパン、あなたのパンじゃなくて「このパンを割いて」それを分かち合って、一緒に食べる。それによって私たちはイエス・キリストに生かされているのです。私たちは今日、この10時のミサではこの食卓を囲んで、私たちはそのホスチア、イエス・キリストのパンを裂いてそのパンをいただく。それによって私たちは、いろんな文化、いろんな民族、いろんな国からの人たちであっても、この同じパンを食べることによって1つになる。「ひとつになろう」という歌があります。1つになる。これによってです。このパンと、このぶどう酒によって、いわばイエス・キリストを信じることによって、私たちはイエス・キリストとともに結ばれて、父である神様の子になる。1つの体になります。
忘れられないことですが、これは81年前じゃなくて、54年前のことです。私はこの隣の大学で神学の勉強、大学院が終わっていました。皆さん、お手元に聖歌集がありますが、その聖歌集の40番は「キリストのように考え」という歌ですね。その40番の右の方にはTSと書いてあります。TSはその作曲者の名前です。高田三郎さん。高田三郎、芸大の偉大な先生だった熱心なカトリック信者で、この歌の作曲をしたんですが、彼の歌詞ではないんです。パウロの書簡からの歌詞です。聖書朗読みたいなことで。ある時に何か特別なミサがあって、私は勝手にこのような高田三郎のメロディを、ちっぽけな伴奏を流してやっていたんです。けれどもその時、運が悪くて彼がいたんです。それで後で私を呼んで、ものすごく厳しく叱ったんです。「私の作曲したことは私の書いたように弾きなさい。失礼です」と。私は何も言わないですね。後でまた彼が来て、「1つのことを言っておきたい。私はひざまずいてそれを作曲した」。ひざまずいて高田三郎の書いたことは一体どんなことですか。見てください。「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう」。キリストの体、キリストの命を受けた私たちが、キリストになろうということです。
「キリストのように、キリストの体になる」他の歌があります。今の時代、このキリストの手になる、キリストの足になる、キリストの悩みになるのは私たちです。それで教会は世間に対して、キリストの姿を今、私たちは見せているのです。信じることによって、私たちはキリストの命を受けて、みなさんにとって今日生きているキリストは、キリストを信じる私たちです。1つの体、手があって、足があって、目があるんですけれども、1つの体です。これは私たちです。これは今日の祝日の本当の意味です。1つになろう、キリストのうちに。