2026年7月 ミサ説教
7/5(日)10:00- 年間第14主日 ハビエル・ガラルダ 神父
7/19(日)10:00- 年間第16主日 髙祖 敏明 神父
7/26(日)10:00- 年間第17主日 髙祖 敏明 神父
年間第17主日 聖イグナチオ記念ミサ
髙祖 敏明 神父
7/26(日)10:00- 年間第17主日
ロヨラのイグナチオの祝日は7月31日なんですけれども、31日が平日にあたりますので、その直前の日曜日にこうして皆様と一緒に、私たちの教会の保護の聖人の記念のミサを捧げております。今日の朗読を読みながら、イグナチオの生きてきた人生と重なるところが結構あるなという印象を持ちました。それを少し皆様にご紹介申し上げたいと思います。
第一朗読は、ここはいつ読んでも感動する場所でもあるんですけれども、ダビデ王を継いだ若きソロモン王が主なる神から「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われて、一般に私たちは、このような時、自分や家族あるいは一族の安心立命、富や名誉、栄華発展を願うというのは普通かもしれません。一般に初詣の時の祈りを考えればそうかもしれません。でもソロモンは、自分は王として立てられた。神の民を正しく裁くために、善と悪を判断することができる、その聞き分ける心を求めた。これを主なる神が喜ばれて「自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命を求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない」と応じられた。
この言葉だけに終わらずに、皆様ご存知でしょう。この後に二人のお母さんが赤ちゃんを育てていましたけれども、一方の赤ちゃんが死んでしまう。そして残っている赤ちゃんを2人の母親が奪い合います。ソロモンの前に訴え出た時に「分かりました。じゃあ、赤ちゃんを上から真っ二つに切って二人に分けなさい」という。そうすると「いいえ、赤ちゃんの命だけは助けてください」と一人の女性が叫ぶ。それでソロモンは、そういう声を上げた女性こそ、この赤ちゃんの母親だということで赤ちゃんを返す。そういうストーリーが続くんですね。つまり、神様から与えられた「聞き分ける力」がどういうふうに実現しているかということをそこで聖書は語っています。
この聞き分ける力、ロヨラの聖イグナチオも、自分自身がどういうふうに生きるかということを決める、この基本的なことを選ぶ時、自分たちのミッションの何を優先的にやっていくかということを選ぶ時、またイエズス会の憲法である会憲という、これをどういうふうな文言と方向で書いていくかということを決める時など、神のお望みを知る恵みを求めて識別をしていきました。そのように行うことができるこのプロセスといいますか、その歩みを今日の福音から少し読み取ることができるように思います。
先ほど一緒に聞きました福音は、畑に隠されている宝を見つけた人と、高価な真珠を見つけた商人、これがその天の国のたとえとして語られていました。さっと読むと、隠されていた宝、高価な真珠が天の国を意味しているようにも読むことができますけれども、皆さんのお手元の聖書と典礼の説明には「天の国とはいわゆる(天国、地獄で考えるような)『天国』のようなものではなく、神との交わりそのもの」と説明されています。交わりということを考えますと、交わりは固定的なもの、固まったものではない。一度できればもうできたということは終わるものではない。むしろ動きがあって、ついたり離れたり深くなったりという、そういう動きがあるのが交わりです。ということを考えると、今日のこの天の国のたとえは宝とか真珠を指しているよりも、それを見つけた人、宝を見つけた人、高価な真珠を見つけた商人がどういうプロセスを歩んでいるかというところに天の国のたとえの意味があるようです。
畑の宝の場合、聖書の注釈書を読んでみると、畑に宝が隠されているってなんだかちょっとできすぎた話だと思いますけれども、この時代、自分の持っている宝を一番安全に保つのはどこか。土の中に隠すことだったそうです。そうして隠したものを、誰にもそこにあるということを告げないで人が亡くなってしまう。そうすると埋まったものになっている。そういうことは決してこの時代、珍しいことではなかったそうです。ですから、こういうたとえの中でも使われていく。
しかし、今日のこの畑に隠されている宝を見つけた人を見ると、通りがかりに偶然宝を見つけたというわけじゃないんですね。また、その畑を所有している人が見つけたわけでもない。「畑の中に隠された」って言うんですから、畑の作業をしている人、つまり畑を耕していた子作人が見つけたんでしょう。だから、見つけた宝を「そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。この子作人は、他人に雇われていた身から土地の所有者となって、その土地と宝を自分のものにする。他人からの借り物ではない信仰を持つに至っている。神と出会う、これが宝を見つけたということでしょう。神様と出会い、持ち物をすっかり売り払って宝の隠されている畑を買う。神との交わりを第一にする、優先する生き方へと変えていったということが、この最初の方の隠された畑に宝を見つけた人のプロセスがそうなっているように読めます。
ロヨラのイグナチオの回心も、プロセスがかなりこれに似ています。ご存知の方も多いでしょう。ロヨラのイグナチオは、スペイン北部のバスクの貴族の息子でした。そして若い頃から、自分は騎士になって身分の高い貴婦人に仕えることを夢見ていました。しかし、スペインとフランスの戦争の時に膝に大きな砲弾を受けて怪我をします。怪我をしてその傷が癒えるまでベッドに横になっているんですけれども、その家の人に何か読みたいから本を持ってくれと言ったら、聖人伝しかなかったんですよね。それでイグナチオはベッドに横になりながら、自分がかつて騎士になって貴婦人に仕えて、ということを思い浮かべる。疲れたら本を読んで、聖人伝を読んでいましたら、聖ドミニコがこんなことをした、聖フランシスコはこんなことをしたと書いてある。こういうことを何度も繰り返しているうちに、この人は宝を見つけるんです。
どういう宝かというと、どちらも想像を持っている時は、本当に心が和んで嬉しいんです。頑張ろうというような気持ちになる。でも、騎士になるというような方向で考えていたことは、それをやめた後、なんかやる気がダウンするような、心の中に非常に虚しい気持ちに襲われる。ところが、ドミニコがやったようなことを自分がやったらどうか、フランシスコがやったようなことを自分がやったらどうかということを考えると、考えている時も楽しいし、それをやめた後もやる気というか、生きる気力というのを強く感じる。この心の動きの違いは一体何だろうか。これがロヨラのイグナチオが信仰の霊的なものに目覚めた始まりです。識別ということのその始まりです。そこでイグナチオはその気づいたこと、隠された宝に気づいた、それをもっと極めたいということで、自分の人生をそちらの方に切り替えていきます。自分のそれまでの持ち物を本当に捨て去る。ですから、騎士になる夢を捨ててそちらの自分の心の中で働いている、この神の働きというか、そちらの方に自分の人生を振り向けていく。
真珠の場合を読んでみますと、畑の宝の場合は畑で作業をしていて、偶然宝を見つけた。イグナチオも偶然それに気づいた。偶然といっても、神様の計らいで気づいたんでしょう。しかし、この真珠の場合は、商人が良い真珠、本物の信仰を探し求めており、本当に高価な真珠を見つけて持ち物をすっかり売り払い、それを買う。主イエスの本物の弟子になりたい、とマンレサで霊的な修行を行います。そこで、単なる熱意だけではキリストの弟子になることはできない、熱意はともすれば自分の体を壊し、精神を痛めてしまうということに気づき、第一朗読で言っているような、神の望みが何であるかということを識別しながら、神の心を聞き分けるということを恵みで願いながら、神様と深く交わっていく生き方に目覚めさせていただきます。そのプロセスを誰もがたどることができるようにまとめられたものが、ロヨラのイグナチオの「霊操」です。その霊操で謳われていることを、今日このミサの結びで「自己を捧げる祈り」としてご一緒に捧げます。そこにロヨラのイグナチオの「霊操」に描かれていることのエキスがまとめられておりますので、後ほどご一緒に歌いながらこの祈りを捧げたいと思います。
主イエスと出会っていよいよ深く神を知り、ますます本物の信仰を得、本物の弟子となるように招かれていますし、イグナチオの例は私たちに、こういう生き方もあるんだよということを教えているようです。ロヨラのイグナチオの取りなしを願いながら、私たちがますます深く神を知り、イエス様を知り、神を知り、ますます本物の弟子となることができるようにご一緒にお祈りをいたしましょう。
年間第16主日 幼児洗礼式
髙祖 敏明 神父
今日は7人の子どもたちに幼児洗礼を授けますけれども、皆様お気づきのように、子どもたちは子どもたちなりに、言葉にならないうめきと声によって祈りを捧げています。私たちもその家族としてこの子どもたちを迎えるということでございますので、本当に一緒に賛美しているという子どもたちの心を大事にしたいと思います。
今日の3つの聖書をただいま聞きましたけれども、私から見ますと、今日の幼児洗礼式を祝う私たちへの祝福と励ましの言葉に満ちているように思います。今日の福音の一番最初は「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた」。良い種を畑に蒔くというのは、まさに幼児に洗礼を授けること、また良い種を畑に蒔くことと結びつけて読むことができると思います。知恵の書はそれと関連づけるような言葉で、「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたは御民に教えられた」という一節がありました。神に従う親にとって、我が子に洗礼を授ける、洗礼を授けてもらうというのは、まさしく「人間への愛を」実行することであります。
今日は朗読しませんでしたけれども、福音の後段の方には、今日のたとえをイエス様ご自身が説明されて「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら」と説明されます。洗礼によって良い種が蒔かれ、芽が出て成長し、実りをつけていきますけれども、その背後に人の子、主イエスがいらっしゃって、御国の子らを育てておられることを明らかにしておられます。これと呼応して知恵の書も「主よ、すべてに心を配る神はあなた以外におられない」と言っています。ご両親・ご家族また代父代母の心遣いの背後に、主なる神のご配慮、心配りが働いていることを暗示しています。
今日の朗読の一番最後に、からし種のたとえのところをつけて読んだんですけれども、「これを畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」というたとえでした。今日洗礼を受ける子どもたちが、このからし種のように、神様の祝福と導きのもと、代父代母、また教会共同体に支えられて、ご両親とご家族の中で大きく育ち、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの大きな木になるように、心を合わせてお祈りしたいと思います。
一方、今日の福音の中では「人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」という一節もありました。世界という畑には悪魔、悪霊の蒔く毒麦の種も現にある。そして子どもたちの心にも、あるいは蒔かれ、成長していくこともあり得るでしょう。洗礼を受ける子どもたちへの継続的な世話、見守り、育てていくことの重要性を私たちが自覚するようにと教えているように思います。
しかし同時に、私たちは自分の弱さもよく知っています。今日の第二朗読ローマ書の中に「聖霊は弱い私たちを助けてくださいます」という言葉があります。私たちは確かに弱いです。信仰者、信仰を持っていても、キリスト者と言われても、親も子どもも、代父母も司祭も信徒も、教会共同体も、その構成員も皆、弱さを持ちますけれども、今日のパウロが言うように、「聖霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださいます」と教え、励ましています。
皆様、今日のミサの一番初めに集会祈願でこう祈ったことを覚えておりますでしょうか。「恵み豊かな神よ、あなたを仰ぎ見る民に、聖霊を惜しみなくお与えください。信仰、希望、愛に燃えて、いつもあなたのことばに従うことができますように」。この集会祈願の祈りは、幼児洗礼式を祝う私たちの祈りでもあります。神の御心、主イエスの恵み、聖霊の導きに改めて信頼を置いてご一緒に祈りましょう。今日受洗する子どもたちのためにも、そのご家族のためにも、そして私たち自分自身のためにも、私たちの教会共同体のためにも、そして全世界の教会と心を合わせて、今日のこの喜びの日をご一緒に祈りたいと思います。
後ほど共同祈願で唱えますが、例えばこういう祈りです。「信仰の種が蒔かれたわたしたちに聖霊を注いでください。神のことばを黙想し、祈りと行いを通して、成長することができますように」。今日のこの喜ばしい幼児洗礼をご一緒にお祝いしながら、子どもたち一人ひとりが神様の祝福の中ですくすくと育ちますように、ご一緒にあわせてお祈りしたいと思います。
年間第15主日 新侍者祝福式
柴田 潔 神父
7/12(日)10:00- 年間第15主日 新侍者祝福式
イエス様は多くのたとえを用いてお話をされました。イエス様の時代には種まきをしてお米とか麦とか育てる、そういう畑を耕す人がたくさんいました。神父さんは「種」にはあまり縁がないんだけど、「卵」には縁があります。この卵は何の卵でしょうか?そう、カブトムシだね。
カブトムシの卵も、お米ぐらいにとても小さい白い粒です。この白い粒がだんだん膨らんで幼虫になります。幼虫、知ってる?この幼虫はおいしい土をたくさん食べるとどんどん大きくなります。岐部下の駐車場で300匹、毎年飼っています。小さいお米ぐらいだった白い粒が大きくなると、(写真を見せて)何グラムって書いてある?38グラムになります。こんな小さかった卵が38グラムになります。幼虫はこの後どうなるか、みんな知ってる?幼虫はこの後、サナギになります。サナギになると、オスかメスかツノが出てくるから分かります。1ヶ月ぐらいのサナギの後にはどうですか?成虫になります。この成虫になると飛ぶんだけど、1秒の間にパタパタパタって羽ばたくのを30往復するんだって。みんなできる?できないよね。多分1秒間に3回できるかなぐらいだけども、カブトムシは30往復ね。30往復して飛びます。とてもかっこいいね、カブトムシ。
カブトムシはかっこいいだけではなくて、実は困っている人のお手伝いをしてくれます。今シリアとかね、ウクライナで戦争があるけれども、爆弾落とされてお家がなくなってしまった、困っている人を助けるための「募金」になります。船で逃げる人もいますね。途中でね、食べ物がなくなってしまって死んでしまう人もおられます。日本に来る「難民」の人もおられます。そういう人の中には、住むところがなかったり、お父さんとお母さんと離れ離れになってしまう人もいます。そんな人のために、難民支援協会さんというね、日本に来た難民のお手伝いをする団体があって、カブトムシの募金はそちらに送られます。ジョディさんのお父さん、お母さん、お子さんと離れてたけれども、やっと会えました。とても幸せそうな顔をしています。
カブトムシはかっこいいだけじゃなくて、世界で困っている人のためのお手伝いをしてくれます。最初は小さい白いお米ぐらいの粒が、世界中で困っている人のお手伝いをする。小さいことから始まって、だんだん広がって大きくなるのが神様の国なんだね。ここまでは神父さんは「卵」の話をしたけれども、今度は「種」の話をシスター重田さんにしていただきます。5月31日に終生誓願をマリア聖堂で立てられました。シスターはどういうふうに種を育ててこられたのか、今からお話をしてもらいますので聞いてください。
皆さん、こんにちは。初めまして。援助修道会のシスター重田と申します。小学生会を手伝っています。子どもたちからは「たかちゃん」と呼ばれています。神父様、今日はお時間ありがとうございます。まず、新侍者の皆さん、おめでとうございます。実は私も中学生の頃なんですけれども、広島の幟町教会でちょっとだけ侍者をしていました。なので、本当に侍者の子どもたちが頑張っているのを見ると、なんか私もすごく懐かしい気持ちになるし、「頑張れ!」って応援したくなります。
さて、今、神父様が、神様の国を作るための「小さな種」のお話しをしてくださいました。神父様からお時間いただいて、私のちょっと小さい分かち合いなんですけれども、私もこれまで生きていながら、神様からいろんな「小さな種」をいただいてきたなと思います。その中の「小さな種」の1つっていうのは「お手伝いをする喜び」です。私は子供の頃、お家の手伝いをよく母親から頼まれていました。お米を研いだり、洗濯物をたたんだり、何かちょっとお使いに行ったりとかです。本当にそれはちっちゃいお仕事なんですけれども、時にはめんどくさいなって思うこともあったんですけれども、でもちょっと頑張ったら家族が喜んでくれるっていうことが、本当に嬉しいなって思った思い出です。
そういう「自分の小さい働きかもしれないけれども、誰かのためになる、誰かが喜んでくれる」っていう、その「小さな種」がどんどん膨らんで、私をすごく元気にしてくれてるなと思います。どんどん膨らんだその「小さな種」が、イエス様のように、イエス様のような生き方をしたいとか、本当に神様と人々のために喜んでくれるように働きたいとか、愛せるようになりたいなっていう思いになって、またこうやってシスターになる道をいただきました。シスターになるっていうことも、やっぱり「小さな種」だと思っています。もっともっと私はこの「小さな種」を育てていきたいと思うので、この種を枯らさないように、それには皆さんのお祈りとご支援とか本当にお支えが必要なので、どうぞよろしくお願いいたします。以上で私の話を終わります。神父様ありがとうございました。
それでは続いて侍者祝福式をいたします。侍者は神様の近くで神父様のお手伝いをします。イグナチオ教会では、初聖体を終えた小学3年生から高校3年生までが侍者をしてくれますが、子どもたちが侍者をする教会というのはとても珍しい、素晴らしい伝統だと思います。 これまでリーダーたちと香部屋の使い方、ミサの流れ、侍者服の着方、ミサの後片付け、一生懸命学んできました。新しい侍者のお友達にも成長する「種」があります。「卵」があります。ミサの中で神様のために喜んで働けるように、これから侍者を代表して決意表明をしてもらいます。今年は小学生にプラス中学生のお姉さんも加わっています。元気よく決意を表明してもらいましょう。
年間第14主日
ハビエル・ガラルダ 神父
この福音の言葉がいいですね。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。いいですね。休みたい。みんな、いろいろと疲れているでしょう。昔の学生の言葉で言えば、「ちかれたびー」と言ってたんですね。本当に疲れているんです。体も心も疲れています。体の疲れは、主に忙しさとストレスが原因ですね。忙しすぎる。そしてストレス。東京のストレスはきついですね。それで疲れています。心も疲れています。何事もうまくいかない時もありますし、いじめられている時もありますし、そして何よりも自分の中からの高慢ですか、人の目を意識しすぎます。どう思われているのか評判を必要以上に思っているので、非常に疲れるのです。
そこでイエス様が言うんです。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。いいですね。では行きましょう。イエス様、どういうふうに休ませてくださるんですか?「じゃあ、ここに座って。かわいそうですね。よく働きますね。疲れたんですね」。そういうことは決してないんですね。あるいは「請求書を天国に送って、2泊3日温泉に行ってきなさい」ということも言われませんね。どういう休みですか?「わたしの軛を負いなさい」。これは休みになりますか?軛は分かりますね。軛は馬か牛の首にかけるカラーですね。そのカラーにぶら下げている鋤が土に入って、馬が歩くと土を耕すのが軛ですね。あれは疲れるんですよ。だから、私は休んでいるのに「軛を負いなさい」と言われるのは、それは泣きっ面に蜂になります。本当にスパルタ教育ですね、イエス様は。
いいえ、違います。軛には他の意味もあります。それは「先生の教え」。先生の教えを守るのは「軛を負う」ということです。なるほど、あの当時のユダヤ人たち全体の軛は律法。律法は大変な軛でした。イエス様の軛は「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟、これがわたしの軛」。ということは、疲れから休むためには、愛するということが本当の解決です。他の方法は睡眠薬みたいなものです。外から出てくる一時的な休みになるけれども、イエス・キリストのいやしは、本当に心から生まれる本物の安らぎです。
「愛し合いなさい」。ということは、人間の心は愛したい自分ですね。愛したい自分は心です。ですから、人間が愛する時には心が落ち着きます。心がしたいことをしていれば落ち着きます。恨みとか妬みなどでは嫌がる。落ち着かないんです。結局、アウグスティヌスが言った言葉ですね。「主よ、人間の心は、愛である神に憩わない限り落ち着かないものです」。愛さないと落ち着かない。愛することによって落ち着くということです。しかし、この安らぎ、この休み、この安心感を目的にしてはいけない。この安心感を得るために人を大切にするということはうまくいかないんです。結果です。目的はその人です。その結果として自分が安心感を得られるということですね。
しかも、その安心感はあまり感じられません。潜在的に感じられる。つまり意識しない。例えば、ある赤ちゃんがお母さんの胸に休んでいる。起きているけれども、いろんなことを見ている。すごい安心感を抱いているけれども、気にしないですね。気がつかないです。安心だということは知らない。でもすごく安心です。これは潜在的な安心感。私たちもそういうふうにすることになると思います。
では、具体的な2つの提案です。休みの方法は愛すること。ですから、愛する姿勢で生きることにしましょう。人が助かるために人に仕えるという姿勢で生きていればいいと思います。そして何かを、ある問題か、あるいはある人との問題を解決しなければならない、辛いことしなければならない時もありますね。その時には愛を込めて、心を込めてできるだけのことをして、それから全部神様に委ねるということです。その結果と自分自身を全部神様に委ねる。そうすれば心の安らぎを得られると思います。
主よ、私たちに本当の休みを与えてください。