2026年8月 ミサ説教
8/2(日)10:00- 年間第18主日 サトルニノ・オチョア 神父
8/9(日)10:00- 年間第19主日 ニティン・リズボン コエリョ助祭(説教)
8/15(土)10:00- 聖母の被昇天の祭日 ハビエル・ガラルダ 神父
8/16(日)10:00- 年間第20主日 作道 宗三 神父
年間第20主日
作道 宗三 神父
今お聞きになった福音の冒頭に「カナン」という言葉が出てまいりました。カナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と言ったとあります。このカナンという言葉は、イスラエルの民が約束の地に定着する前に住んでいた住民たち、いろいろな民族があったんでしょうが、そうした人々を総称して言う言葉のようです。そしてイスラエルの民は、神様から特別に選ばれた民として、自分たちは他の民族とは違う、唯一の神を知っている。そのことからいつの間にか、他の民族に対する一種の優越感を持つようになった。あるいは、そうでない人に対しての軽蔑を持つようになった。カナンという言葉には、多少そんなニュアンスがあるのではないかと思われます。
この女性が、自分の娘を癒してほしいという願いをイエスのもとに伝えますけれども、その時に「主よ」と3回呼びかけています。しかし、最初にイエスは何をなさったか。黙って、何もなさらない。沈黙を守られた。そして再度お願いに出た時に、イエスは何を言われたか。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃった。そして、さらに女がもう一度頼んだ時におっしゃったことは、「子供のパンを子犬にやってはいけない」。
まず子供にパンを与えなければいけない。そこには子供と子犬という対比がなされています。子供はもちろんイスラエルの人たち、ユダヤ人のことでしょう。子犬といえば、少々軽蔑された異民族のことでしょう。子供のパンを子犬にやってはいけない。それに対してこの女性は何を言ったか。「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。自らを小さな存在、子犬として認め、さらにいただくパン、恵みをパン屑とまで卑下しています。その女の咄嗟の機転、またユーモアのセンスにイエスは感銘をお受けになったでしょう。そして「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言い、娘を癒された。
このお話を聞かれてどのようにお感じになるでしょうか。イエスはご自分の宣教活動を始められるにあたって、まずご自分自身もユダヤ人であります。選ばれたイスラエルの民の一員として、まずはやはりユダヤ人、イスラエルの民に対して神の恵みを伝える。そして弟子たちにも同じようなことをおっしゃいます。「異邦人の道に行ってはならない。サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と弟子たちに言われた。ですから、今日の出来事のように、イスラエルではない異邦人の世界の女性と出会うということは、ある意味で例外的なことだったかもしれない。実際に、このユダヤ人ではない、あるいはユダヤ人の世界を越えて異邦人に福音を告げ知らせるということは、イエスが復活なさった後、弟子たちが初めて、公にそのような道に歩むことになります。
今日の第二朗読で、パウロは「ローマの教会への手紙」の中で記しています。彼自身、本来はユダヤ人でした。しかし、彼は自らを「異邦人の使徒」と称しています。あるいは異邦人に福音を告げるために選ばれた、異邦人のための使徒である。そして異邦人に向かって、つまりローマの教会の人々に向かっておっしゃるんです。しかし、同時に彼の心には、同胞であるイスラエルに対する深い思いがあります。どうしてあのイスラエルの民、神に選ばれた民が、おいでになったメシアを受け入れられないのか。イエスを受け入れられないのか。しかし、いつの日か必ず回心して、イエスをメシアとして受け入れる時が来る。そんな思いを持ってローマの手紙を最後に記しています。
イエスは神様の計画をよくご存知であったんでしょう。特別にユダヤ人、イスラエルの民をお選びになった。しかし、同時に順序があって、イスラエルの民を通して福音を告げ知らせる。それは、もっと広い世界に向けて宣べ伝えられるべきものであるということを悟っていらしたに違いない。今日の第一朗読で読まれたイザヤの預言の中に、そうしたことが暗示されています。当時、紀元前数世紀前ですけれども、イスラエルが国を滅ぼされて、バビロン、外国に連れて行かれた。そこで辛い思いをした。その中でその経験をもとにして、他の民族との接触を持った上でイザヤのこの部分が書かれたとされていますが、今日お聞きになったように、「主のもとに集ってきた(ユダヤ人でない)異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を守るなら、わたしは彼らを聖なる山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」。そして最後にあの有名な言葉「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。すべての民の祈りの家、決してイスラエルだけではない。
そしてそれは、この第一朗読の後に歌われた答唱詩編の中にも繰り返し出てきます。すべての民、すべての国。それは全世界、現在の全世界の人々。どれほど言葉が違っても、国が違っていても、文化が違っていても、すべての人がこの神をたたえる。そして祈りの家に集う。私たちこの聖イグナチオ教会に集う者は、やはり大きな恵みをいただいていると思います。多くの外国から来られた方々がこの一つの教会で一緒にミサを捧げます。いろいろな国の言葉でミサが捧げられます。そして今までもたくさんの国から来られた神父様方によって、この教会は成長、発展させられてきました。それは素晴らしいことです。しかし、はたして私たち一人ひとりはそのような開かれた心を持っているでしょうか。心のどこかで「あの人たち」「あそこの人たち」「あの国の人たち」、何かそのような心の中に区別を設けている、あるいは壁を作っている。無意識のうちに持っているかもしれない。意識したときに、それを取り払う努力をしているでしょうか。
それは外国から来られた方、言葉の違う方たちに対してだけではなくて、同じ日本人でありながら、同じ教会で同じ主を信じながらも、お互いの間にはたして壁がないでしょうか。普段見かけない方、初めて教会に来られた方、あるいは障害を持っていらっしゃる方、高齢の方。私たちの多くも高齢になっておりますが、そうした方に対して、はたして心を開いて声をかけることがあるでしょうか。
先日の長崎での平和記念式典の中で、長崎の鈴木市長は、子供の時に被爆され、そしてつらい人生を送った上、晩年語り部として尽くされた吉田さんの残された言葉を引用して言われました。「平和の原点は、人間(ひと)の痛みが分かる心を持つことです」。平和の原点。人の痛みが分かる心を持つこと、そこが出発点だと。何か大きなことをしなくてもいい。でも人の心の痛み、苦しみ、寂しさ、そうしたことが分かること。それこそが平和の原点である。広島での平和式典の時に、小学生はこう言いました。「平和とは、誰かから与えられるものではない。世界中の人々でつくりあげるものです」。それは私たちも含まれている。私たちがそのつもりでなければ、平和は決してやってこない。
残念ながら、私たちの生きる現実の中には様々な壁があります。国と国を隔てる国境の壁。米国で、さらにはヨーロッパで、国境を越えて入国しようとする人に対して壁を作っている。そして日本でも、入国審査をより厳しくしようとする動きもあります。そうした政策を批判することは簡単です。しかし、はたして私たち自身の中にあるそうした壁を取り除こうと努力しているでしょうか。
今日からでも始めることがあります。それは今まで声をかけたことのない方のお一人にでも声をかける。何か親しい接し方をする。あるいは微笑みを返す。そうしたことでもいいです。一つでもそうしたことを通して新しい仲間を作る。そして増やしていく。そのようなことによって、本当の平和が少しずつ実現していくと思います。そして今日のイザヤの預言に言われたような、「すべての人の祈りの家」が私たちのうちにも実現していくと思います。そのような恵みを祈りながら、今日のミサを続けてまいりましょう。
聖母の被昇天の祭日
ハビエル・ガラルダ 神父
まず、平和について一言ですが、主の平和が私たちと一緒にあります。主の平和が私たちのうちにあるように。主の平和は世界の平和とは違う。世間の平和は力による平和です。キリストの平和は愛と話し合いによる平和。この平和を願い求めましょう。
今日は被昇天の日、そしてお盆の日です。これについて話しますけれども、難しい。よくわからないので、自分で説明するのは良くないでしょうけれども、ポイントはこれだと思います。マリア様のからだは、天に上げられた。「からだ」って何ですか。非常に大事ですね。これからミサのご聖体の時に、「これはわたしのからだです」と言います。そして私たちはまた使徒信条で唱えるでしょう。「わたしたちはからだの復活を信じます」。何を信じてるんですか。からだということはその人です。その人間そのものです。
例で言いますと、例えば80歳の人と話しているとしますね。その人と話していて、写真を見せてくださる。成人式の時の彼の写真。これを見ると、全然違いますね。ちょっと似てるんですけれども全然違う。でも同じ人間ですね。さらにその人は、自分の幼稚園の卒業式の記念写真を見せてくれるんです。この子か、隣の子と同じで、全然似てない。でも同じ人間です。さらに、この80歳の人がいつか亡くなるとしますね。火葬場から出てくる時にはまた全然違う。でも同じ人間です。では、同じ人間ということは「からだ」です。その人、いろんな変化があってもその人が「からだ」です。からだは天に上げられる。キリストのからだもマリア様のからだも。今日はお盆ですから、私たちの愛しい方々のからだも天国にありますという意味ですね。そして私たちもいつかそうなると信じております。
今日はお盆の日です。マリア様と私たちの愛しい方々は、一体今、天国で何をしていらっしゃるでしょうか。ご想像に任せますけれども、神学者たちがこの言葉をまとめたんです。「見て、愛する。愛して喜ぶ。とこしえに」。これは天国です。「見て」、つまり深く、明るく深く、全部見る。全部わかる。今までは神秘が多いでしょう。全部見て、神を見て、愛する。愛して喜ぶ。幸せになる。とこしえに。これは天国で、そして私たちの愛しい方々が味わっていることだと思います。
今度はもっと分かりやすいことについて考えましょう。今日の福音のマリア様の挨拶について考えましょう。素晴らしいことですね。エリサベトが挨拶を聞いた時、「胎内の子が喜んで踊りました」と書いてありますね。いいですね。挨拶するだけで人が嬉しくなる。いいですね、マリア様。相田みつをの言葉が浮かんできますね。「あなたはそこにいるだけで、その場所が明るくなる。あなたがただそこにいるだけで、みんなの心が安らぐ。こんなあなたに私もなりたい」という言葉がありますね。綺麗な言葉。マリア様に当てはまります。マリア様がただ挨拶しただけでみんな喜ぶ。素晴らしいですね。
私たちもこのマリア様のようになりたい。でも、どうすればいいのか。マリア様の生き方をすればいい。ここに出てくるマリア様の生き方にはこの3点があります。まず信仰、それから謙遜。それからキリストに満たされている。この3つのことを考えましょう。マリア様は信じました。神からの愛を信じました。人からの愛をも信じました。これは素晴らしいことです。私たちもそうしましょう。神様からの愛を信じるのは時々難しいけれども、これを深く信じる恵みを願い求めましょう。そして人間からの愛。すべての人間が愛してくださるとは残念ながら言えませんけれども、大切な人が私たちを十分愛しているのに、私たちはそれを信じない時もあります。では素直になって、人からの愛を信じるようにしましょう。
それからマリア様の2番目は謙遜でした。確かに「わたしは祝福された女と言われるでしょう」と、なんか威張っているように見える時もありますけども違います。事実を認めるんです。自分が選ばれた方です。神のお母さんになります。これはすごい恵みです。でも、自分の実力ではなくて、神様からいただいたことです。感謝していただくことです。それは謙遜。事実を認めて、でも感謝していただく。この意味でマリア様は謙遜でした。
それから3番目は、キリストに満たされていました。イエス・キリストが自分の体内に住んでいましたね。私たちもそういうふうに生きていればいい。聖パウロがガラテヤ2章20節で「わたしは生きる。しかしわたしよりも、キリストがわたしの内に生きる」という言葉を言うんですね。素晴らしいですね。私は生きるけれども、それよりもキリストが私の内に生きる。こういうふうに生きていればいいですね。私はキリストに従って生きるということよりも、キリストが私を連れていく。キリストが話してくださる。愛を信じる。謙遜である。謙遜と感謝。そしてイエス・キリストに満たされる。
こういうふうにすれば、マリアのように幸せになるし、神様が喜んでくださるし、周りの人たちも喜んでくださるし、私たちにも生きる余裕と生きる喜びがあると思います。これを願い求めましょう。
年間第19主日
司式: 髙祖 敏明 神父/説教: ニティン・リズボン コエリョ助祭
8/9(日)10:00- 年間第19主日
兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。
昔、ある小さな町で、家が火事になりました。ご両親は子どもたちを外の雪の中へ助け出しました。しかし、お父さんは5歳の息子がいないことに気づきました。見上げると、2階の窓から煙に囲まれた男の子が泣いていました。階段は使えませんでした。お父さんは叫びました。「飛び降りなさい!受け止めるから!」。男の子は泣きながら言いました。「お父さん、見えないよ!」。お父さんは力強く答えました。「分かっている!お前からは見えなくても、私からは見えている!飛び降りなさい!」。男の子は息をのんで、聞き慣れたお父さんの声を信じました。そして暗い煙の中へ飛び降り、お父さんの腕の中に無事に受け止められました。
今日の聖書の朗読でも、似たようなことが起きています。第一朗読で、エリヤは恐れながら洞窟に隠れていました。彼は、強い風や、地震や、火の中に神様を探しました。しかし、神様はその中にはいませんでした。神様は「静かなささやき」の中でご自身を示されました。火事の男の子のように、エリヤも未来は分かりませんでしたが、暗闇の中で安心を与える神様の声を聞いて信じたのです。
男の子がお父さんの声を聞いて飛び降りたように、今日の福音のペトロも一歩を踏み出しました。イエス様から「来なさい」と言われた時、ペトロはすぐに舟から出て、イエス様を見つめながら水の上を歩き始めました。しかし、強い風と波を見た瞬間、恐ろしくなってイエス様から目をそらしてしまいました。その結果ペトロは沈み始めました。
しかし、この後に起きることが、今日の「素晴らしい知らせ」です。ペトロは長いお祈りをしたわけではありません。彼はただ、心から叫びました。「主よ、助けてください!」。するとすぐに、イエス様は手を伸ばして、彼をつかまえられました。イエス様が「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われたのは、冷たいお小言ではありません。それは愛にあふれたイエス様の「なぜ嵐ばかりを見たのか。私がずっとそばにいたのに」という温かい声なのです。
兄弟姉妹の皆さん、皆さんは今日の物語のどこにいますか。エリヤのように、不安や疲れの暗い洞窟の中で、神様の声を待っていますか。窓の前の男の子のように、前が見えなくて一歩を踏み出せませんか。それともペトロのように、勇気を出して進んだものの、生活の悩みや病気の波に飲み込まれそうになっていますか。
今日の福音のメッセージは「私たちの神様は、手を伸ばしてくださる神様です」ということだと思います。人生の煙の中で神様が見えない時も、神様は私たちを見ておられます。嵐の音で自分の声が消えそうな時も、神様は私たちのささやきを聞いておられます。
今日、ご拝領に進む時、皆さんの心にある嵐も一緒に連れてきてください。言えない恐れや、沈みそうな思いを神様に捧げましょう。イエス様の御体を受けるために手を伸ばす時、ペトロの短くて強い祈りを思い出しましょう。
「主よ、助けてください!」。アーメン。
2026年9月12日(土)に司祭叙階式を迎えらえれる二ティン助祭のためにお祈りください
年間第18主日
サトルニノ・オチョア 神父
ただいま耳にしたマタイの福音の箇所は、みんな何回も聞いたことがあるでしょう。私たちが聖書を読んで、この箇所になると、「イエス・キリストはパンを増やす」という言葉を使うんです。パンを増やす奇跡はマタイの福音だけじゃなくて、新約聖書で4回ほど出てきます。非常に大切で深い意味のある箇所であるはずですが、いろんなことで私たちは本当の意味を掴むことができないことがあります。例えば先ほど申し上げたように、パンを増やす奇跡。その「増やす」という言葉は一度も福音に出てこない。「パンを増やす」だったら、なんか手品みたいに帽子からいろんなものを出す、いくら出してもパンはいくつもありますということで、とんでもないことです。その意味のパンを増やすということじゃなくて、「あなたがみんなにパンを与えてください」ということ。
それからもう一つ、場所はエルサレムじゃないんです。あるいはカファルナウムでもない。場所は寂しいところで、人里離れたところ。それからパンと魚、どんな意味ですか。彼らにとってパンは命です。そのパンがないと命がない。死ぬしかない。魚、どんな意味でしょうか。それは湖の辺りです。その湖は、あの人たちにとっては命です。別の意味で仕事です。弟子たちも、魚を取る仕事を持っていたんです。パンと魚は物質的にじゃなくて、彼らにとっては命、それがないと生きることができない。魚はギリシャ語でイクテュスという。その文字はイエス・キリストと同じことです。パンと魚、私たちにとってはお米とみそ汁のようなものですね。命の意味です。それがないと豊かな命は持つことができない。
最後に時期。典礼では8月に入ったという時にこのような箇所が出てくるのは意味があります。今、皆さんがヨーロッパ、フランスやスペイン、イタリアに行けば、そしてイスラエルは収穫の時なんです。その畑を見ると本当に黄金の海です。そこで8月の初めには収穫があるわけです。そして収穫を収めてお祭り。そのような地理的な場所でのこのようなことを、私たちは今、ミサで祝っています。
弟子たちの目で見れば、イエス・キリストが寂しそうなところへ行って、群衆は追ってきたんですから、イエスは彼らを見て深く憐れんだ。腹が痛くなるぐらいというその言葉です。深く憐れんでいるんですね。食べるものがないんですから、弟子たちは対策として「いや、解散させてください。解散すればみんなどこかへ行って買うでしょう」。イエス様は「とんでもないことです。あなた方が彼らに食べ物を与えてください」。こちらはこの5つのパンと魚しかない。5つのパンは多分意味があります。その5と50と500と5000はですね、いつも聖書で、それから聖書だけじゃなくて、ギリシャ文化にもこれは「みんな」という意味があります。旧約聖書の初めの5つの本は律法です。アメリカへ行けばペンタゴンがあります。ペンタはですね、5つのラインで一番大きな面積を取ることができます。「みんな」という意味です。だから5000人ということです。人間は「すべて」という意味で書かれているわけです。
イエス・キリストはその5つのパンを取って何をするんですか。パンを1つお取りになる。お祈りを唱える。あるところで賛美の祈り、他のところで感謝の祈りを唱える。裂く。切るんじゃない。これを裂いて出す。それで弟子たちに「みんなに与えてください」と。なお、このミサの中で今私たちがやっていることは同じことです。一番ミサの中心になっていることは、イエス様は最後の晩餐の時はパンをお取りになり、それを祝福して祈って、それを裂いて、それで弟子たちに与えた。こちらには、この今日の箇所の意味があります。私たちは信者として日曜日、あるいはいつもミサに与る時にはこれなんです。最後の晩餐だけじゃなくて、これのイメージです。
それから昔の出エジプトの時は、何にもないところには天からパンが、マナが出てきた。それ以前にも、預言者の時も似ていることがいつもあります。パンを取り、命のない人たちを生かす。命を与える。このようなことを見ると、やはり弟子たちはすごく深いミッションを与えられているんです。そのミッションはですね、持っているパン、持っている命、その信仰の命をみんなに与える。みんなと一緒に分ける。その時は、ただ私たちのミサの時だけじゃなくて、日常生活の中で朝から晩まで、私たちはみんなに、私たちの命を与えることができますように。
それから最後に、今胸に浮かんでくるのは1971年のことです。1971年は私たちのイエズス会の叙階式がありました。その叙階式にはなんと遠藤周作という有名な人がいらしたわけです。遠藤周作には「イエスの生涯」という本があります。そこで彼が、このようなパンを増やすということについて書いているのは、イエス・キリストが「あなた方がこの人たちに食べ物を与えてください」と言うのを聞いて、みんな自分の荷物から弁当箱を出して、持っていない人たちに分けたということです。このような解釈もしているんですよ。本当かどうか知らないけれども、非常にきれい。私たちは持っているもの、この信仰によってこのイエス・キリストの命をみんなと一緒に与えることができますように。
聖パウロの言葉は、どんな問題があっても、どんな苦しみがあっても、どんな病気があっても、私は本当に神様、イエス様の愛に入っているんです。その愛からどんな問題があっても私を引き離すことはできない。この確信をもって、私たちも夏の時、新しい友達とか、あるいはあんまり出会いの少ない人たちに、私たちの信仰のパンを分けていきましょう。