2026年8月 ミサ説教
8/2(日)10:00- 年間第18主日 サトルニノ・オチョア 神父
年間第18主日
サトルニノ・オチョア 神父
ただいま耳にしたマタイの福音の箇所は、みんな何回も聞いたことがあるでしょう。私たちが聖書を読んで、この箇所になると、「イエス・キリストはパンを増やす」という言葉を使うんです。パンを増やす奇跡はマタイの福音だけじゃなくて、新約聖書で4回ほど出てきます。非常に大切で深い意味のある箇所であるはずですが、いろんなことで私たちは本当の意味を掴むことができないことがあります。例えば先ほど申し上げたように、パンを増やす奇跡。その「増やす」という言葉は一度も福音に出てこない。「パンを増やす」だったら、なんか手品みたいに帽子からいろんなものを出す、いくら出してもパンはいくつもありますということで、とんでもないことです。その意味のパンを増やすということじゃなくて、「あなたがみんなにパンを与えてください」ということ。
それからもう一つ、場所はエルサレムじゃないんです。あるいはカファルナウムでもない。場所は寂しいところで、人里離れたところ。それからパンと魚、どんな意味ですか。彼らにとってパンは命です。そのパンがないと命がない。死ぬしかない。魚、どんな意味でしょうか。それは湖の辺りです。その湖は、あの人たちにとっては命です。別の意味で仕事です。弟子たちも、魚を取る仕事を持っていたんです。パンと魚は物質的にじゃなくて、彼らにとっては命、それがないと生きることができない。魚はギリシャ語でイクテュスという。その文字はイエス・キリストと同じことです。パンと魚、私たちにとってはお米とみそ汁のようなものですね。命の意味です。それがないと豊かな命は持つことができない。
最後に時期。典礼では8月に入ったという時にこのような箇所が出てくるのは意味があります。今、皆さんがヨーロッパ、フランスやスペイン、イタリアに行けば、そしてイスラエルは収穫の時なんです。その畑を見ると本当に黄金の海です。そこで8月の初めには収穫があるわけです。そして収穫を収めてお祭り。そのような地理的な場所でのこのようなことを、私たちは今、ミサで祝っています。
弟子たちの目で見れば、イエス・キリストが寂しそうなところへ行って、群衆は追ってきたんですから、イエスは彼らを見て深く憐れんだ。腹が痛くなるぐらいというその言葉です。深く憐れんでいるんですね。食べるものがないんですから、弟子たちは対策として「いや、解散させてください。解散すればみんなどこかへ行って買うでしょう」。イエス様は「とんでもないことです。あなた方が彼らに食べ物を与えてください」。こちらはこの5つのパンと魚しかない。5つのパンは多分意味があります。その5と50と500と5000はですね、いつも聖書で、それから聖書だけじゃなくて、ギリシャ文化にもこれは「みんな」という意味があります。旧約聖書の初めの5つの本は律法です。アメリカへ行けばペンタゴンがあります。ペンタはですね、5つのラインで一番大きな面積を取ることができます。「みんな」という意味です。だから5000人ということです。人間は「すべて」という意味で書かれているわけです。
イエス・キリストはその5つのパンを取って何をするんですか。パンを1つお取りになる。お祈りを唱える。あるところで賛美の祈り、他のところで感謝の祈りを唱える。裂く。切るんじゃない。これを裂いて出す。それで弟子たちに「みんなに与えてください」と。なお、このミサの中で今私たちがやっていることは同じことです。一番ミサの中心になっていることは、イエス様は最後の晩餐の時はパンをお取りになり、それを祝福して祈って、それを裂いて、それで弟子たちに与えた。こちらには、この今日の箇所の意味があります。私たちは信者として日曜日、あるいはいつもミサに与る時にはこれなんです。最後の晩餐だけじゃなくて、これのイメージです。
それから昔の出エジプトの時は、何にもないところには天からパンが、マナが出てきた。それ以前にも、預言者の時も似ていることがいつもあります。パンを取り、命のない人たちを生かす。命を与える。このようなことを見ると、やはり弟子たちはすごく深いミッションを与えられているんです。そのミッションはですね、持っているパン、持っている命、その信仰の命をみんなに与える。みんなと一緒に分ける。その時は、ただ私たちのミサの時だけじゃなくて、日常生活の中で朝から晩まで、私たちはみんなに、私たちの命を与えることができますように。
それから最後に、今胸に浮かんでくるのは1971年のことです。1971年は私たちのイエズス会の叙階式がありました。その叙階式にはなんと遠藤周作という有名な人がいらしたわけです。遠藤周作には「イエスの生涯」という本があります。そこで彼が、このようなパンを増やすということについて書いているのは、イエス・キリストが「あなた方がこの人たちに食べ物を与えてください」と言うのを聞いて、みんな自分の荷物から弁当箱を出して、持っていない人たちに分けたということです。このような解釈もしているんですよ。本当かどうか知らないけれども、非常にきれい。私たちは持っているもの、この信仰によってこのイエス・キリストの命をみんなと一緒に与えることができますように。
聖パウロの言葉は、どんな問題があっても、どんな苦しみがあっても、どんな病気があっても、私は本当に神様、イエス様の愛に入っているんです。その愛からどんな問題があっても私を引き離すことはできない。この確信をもって、私たちも夏の時、新しい友達とか、あるいはあんまり出会いの少ない人たちに、私たちの信仰のパンを分けていきましょう。