2026年3月 ミサ説教
3/8(日)10:00- 四旬節第3主日(子ミサ) 柴田 潔 神父
3/15(日)10:00- 四旬節第4主日 ハビエル・ガラルダ 神父
3/22(日)10:00- 四旬節第5主日 ムカディ・イルンガ 神父
3/29(日)10:00- 受難の主日(枝の主日) 髙祖 敏明 神父
受難の主日(枝の主日)
髙祖 敏明 神父
皆様、今日の受難の主日から聖なる8日間、聖週間が始まりました。この教会に来られる時にご覧になっていると思いますけれども、大自然は若葉がどんどん芽を出し、土手の桜も主の復活を待ちきれないかのように、あるいは主の復活を準備するかのように、今満開です。
今日の受難の主日と聖金曜日に主イエスの受難の朗読が読まれます。聖金曜日はヨハネの受難の朗読が読まれますし、受難の主日、今日の枝の主日の時には、マタイ、マルコ、ルカの順番で読まれますが、今年はマタイから読まれています。十字架の神秘を理解する恵みをいただいて深く味わい、私たちがいただいた信仰の恵みに生かされて、喜びの知らせを世に告げる人になることができますように、ご一緒に祈り合いたいと思います。
今日私は、皆様がお手元に持っていらっしゃる聖書と典礼の表紙の絵、これを1つの材料にしながら今日の話を進めたいと思います。ここに書いてございますように、ギリシャのオシオス・ルカス修道院の聖堂にある11世紀に描かれたモザイクですね。全体の構図は、天井の方に幾何学模様の天蓋といいますか、それがあって、十字架のキリストを中心に2人の人物が右と左に配置されているという構図になっています。十字架のキリストをじっと見ますと、目は閉じられており、苦しみに顔も歪み、身体も悶えているように歪んでいます。両手両足からは血が太く流れ、脇腹からも威勢よく血がほとばしり出ています。十字架刑という、奴隷しかされなかったむごい処刑方法です。
イエスがかけられた十字架の縦木の下の方を見ていくと、血が流れている足の下に何か丸いものがあって、顔のようなものが描かれています。これは「されこうべ」、頭蓋骨です。十字架刑が行われたのは、先ほどの福音にありましたようにゴルゴタという場所である。ゴルゴタは「されこうべ」という意味です。ですから、イエス様の十字架が描かれる時にはこういう小高い丘、これがゴルコタの丘で、そしてそれが「されこうべ」を意味しているそうですので、頭蓋骨の顔が描かれていることが多いです。
身体的な苦痛に加えて、精神的な苦痛と誘惑がイエスに投げかけられます。人々は頭を振りながら罵ります。「神殿を打ち倒し、3日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。そんな無惨な死に方をしないで降りて来い。祭司たちや律法学者たち、長老たちも「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『私は神の子だ』と言っていたのだから」。荒れ野での誘惑のこの言葉、この同じような誘惑がここに響いています。
福音書によりますと、「昼の12時に全地は暗くなり、それが3時まで続いた」と先ほど読まれました。そして改めてこのイエス様の十字架の上の方、頭の右上、左上を見ると、丸い円が2つ描かれています。向かって左側は太陽、右は月です。預言者ヨエルが「恐るべき主の日、太陽も月も暗くなる」ということを言っている。それが描かれているんですけれども、よく見ると、太陽にも月にも顔が描かれています。しかもその顔の目線はどちらを向いているかというと、十字架から顔を背けるような、そういう形です。むごい十字架刑から顔を背ける。太陽も月もそれを背ける。
イエスがそこで「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ。これは詩編22の冒頭の言葉です。先ほど答唱詩編でも歌いましたし、私が読み上げた福音書の中にも詩編22との関連がいろいろとはめ込まれています。聖書と典礼の下の方の説明に書いてございますので、それもいろいろとお読みになるといいと思います。そしてパウロは、先ほど十字架の賛歌のところを朗読していただきましたけれども、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした」というところに、パウロ自身が「それも十字架の死に至るまで」という言葉を付け加えたと、聖書と典礼は説明を加えています。
改めて十字架にかかったイエスの右と左の人物に注目してみますと、左は皆さんもすぐおわかりになるように、母マリア様ですね。胸の前に両手を組み、右手をイエスの方に向けています。むごたらしい姿に悲しみの目を向けているようにも言えますけれども、同時に、十字架上のイエスを見なさい、というふうに私たちを招いているようにも見ることができます。右の若い男性はヨハネです。右手で顎の方を頬杖しているような形ですけれども、調べてみますと、頬や顎に手を当てる姿は、古代以来死者を悼み、悲しみを表明する身振りなんだそうです。日本的な文化ではなかなかそう結びつかないんですけれども、こういうポーズが悲しみのポーズ、死を悼むという、そういう身振りなんだそうです。そうしますと、イエス様の右手、左手のすぐ下、マリア様と、ヨハネの上に書いてあるこのギリシャ語の意味もすぐ察しがつきますね。マリア様の手が描かれているところを見ますと、「御覧なさい。あなたの子です」、ヨハネの方には「見なさい。あなたの母です」というイエス様の言葉がギリシャ語で書かれている。
十字架のキリストの頭の上をずっと見てみると、福音書では罪状書きが書かれていて、マタイの福音書は「これはユダヤ人の王イエスである」と書いてあると言いますが、今日の聖書と典礼の表紙に書かれているのはIとC、XとCですね。これはギリシャ語で「イエスース クリストゥース」、救い主イエス・キリストということをこの言葉で表している。ですから、「ユダヤ人の王イエスである」という聖書の言葉から、この絵はイエス・キリストが救い主であるということをこれによって示しています。下の十字架像のこのむごたらしい姿から見ると、えっと思うでしょうけれども、こういう十字架の刑で命を捧げることを通して復活が実現していく。
この全体の絵の中にはいろいろな意味を読み取ることができますが、3つほど紹介しましょう。1つは、新しい契約が成就した。最後の晩餐で、イエス様は杯を取って感謝の祈りを唱えて彼らに渡して、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。ミサの聖別の時に、「これはわたしの新しい契約の血、わたしの記念としてこれを行いなさい」と言いますが、新しい契約がこのイエス様の十字架上の死を通して実現しているということがまず1つの大事な点だと思います。
それから2つ目は、脇腹から血が吹き出ています。脇腹から何か生まれるというと、アダムの脇腹から神様が骨を抜いて、それからエバを作ったというふうなことが創世記に書かれていますけれども、新しいエバがイエス様から生まれてきている。この新しいエバとは新しい教会、私たちの教会のことです。そして面白い一種の言葉遊びかもしれませんが、エバというのはEvaですね。これ逆に読むとAveになるんです。アヴェマリアのアヴェです。エバがアヴェマリアになっていくという、この新しい教会の誕生が2つ目。
それからヨハネの福音書の中では、この兵士が「槍でわき腹を刺すと、すぐ水と血が流れ出た」と書いていますけども、この水は洗礼のことを意味している。血は御聖体のことを意味していると言われます。私たちの信仰生活の中心的な秘跡がこのイエス様から生まれてきている 先ほどの教会ということと、これも全部つながっているものです そういうふうな信仰の要になるところを、私たちは今日のこの聖書と典礼の十字架のイエス様から読み取ることができます。
今日の福音の最後の言葉は、百人隊長とその仲間たちが、「この人は本当に神の子だった」と言った。そしてパウロはそれをさらに発展させて、「十字架に至るまで従順であった。だから神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を与えて、すべての存在が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」。イエスをたたえるだけではなくて、父である神をたたえる。三位一体の神をたたえると言います。
今日の聖書の朗読と、この絵に描かれたいろんな意味を私たちも深めたいと思います。そして救いの恵みがすべての人、私たちの家、地球に住むすべての兄弟姉妹、特に紛争とか争い、戦争、そういう地にいるすべての兄弟姉妹に届きますようにお祈りしたいと思います。
四旬節第5主日
ムカディ・イルンガ 神父
3/22(日)10:00- 四旬節第5主日
本日は四旬節第5主日となります。四旬節の間、特に第3主日から第5主日にわたり、ミサの中で読まれる福音箇所は3つのテーマが中心となっています。それは水、光、そして命という、この3つのテーマです。
四旬節第3主日では、イエスとサマリアの女との対話の中で、サマリアの女はイエス・キリストこそが「命の水」であるということに気づきました。そして「主よ、渇くことのないように、その水をください」ということを私たちは聞きました。第4主日では、イエスは生まれつきの盲人の目をいやしました。ですから、イエスは光であるということに私たちは気づいてきました。つまり、イエスは「世の光」であるということを信じることができると思います。本日の第5主日では、このラザロの物語を通して、イエスは「復活であり、命」であるということを見出すことができると思います。水、光、命であるキリスト。この3つのしるしというのは洗礼と深く関わっています。そのために四旬節の最後の3つの主日なんですけれども、洗礼志願式が行われています。教会共同体と共に、洗礼志願者は生ける水であるキリストと共に葬られ、その光に与り、また新しい命をいただくことに向かって真剣に準備するということとなっています。
それでは今日の福音箇所をもっと深く見てみましょう。第一朗読では復活というテーマが出てきます。神様が預言者エゼキエルを通して次のように述べています。「わたしはお前たちの墓を開き、イスラエルの土地へ連れて行く。お前たちを墓から引き上げ、お前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」。この預言者エゼキエルの宣言がされた時はバビロン捕囚の時代でした。つまり、イスラエルの人々がエルサレムという故郷から離れて、捕囚の中に置かれていました。ですから彼らは死者、この捕囚の時に亡くなった人々を神が引き上げ、その人々を都まで連れていくという確信がありました。ですからその確信というのは、私たちが信じる復活と異なる信仰だと思います。
しかしその復活、神が先祖と共におられるということが、もうすでにこの旧約聖書の時代に見出すことができると思います。それは先祖と共に葬られたいという望みを表しています。地上の旅を経て私たちを迎えてくれる都への憧れと、捕囚の中、厳しい状態に置かれている人々が、私たちを都まで神様が連れてくださるだろうという信仰が表されているのではないかなと思います。しかし、エゼキエルが述べるこの都への憧れという概念は、死からの復活と異なるものです。それゆえに死からの復活とは、旧約聖書の終わりの頃から見られるものだと思います。特にダニエル書ですね。あるいはダニエルの時代から見出すことができると思います。しかし、死と復活という概念、信仰は、イエスの時代でもこの信仰を認めていた人々が少ないそうです。聖書を読むと、特にサドカイ派の人々は復活を信じないですね。つまり、死んでそれですべてが終わりという考え方なんです。
しかし、今日読まれた福音箇所は新しさが現れていると思います。その新しさというのは、イエス・キリストがもたらす復活ということです。その新しさは、イエスとマルタとの対話の中で現れてくるものです。イエスはマルタに「あなたの兄弟は復活する」と言います。マルタは「終わりの日に復活する」ということを考えています。しかしイエスは、「そうではない。わたしが命であり、復活である」ということ言います。そして「わたしを信じる者は、たとえ死んでいても生きる」と。マルタが理解するか、理解しないかのように言っておられるんですけれども、このイエス・キリストがもたらす新しさというのは、私たちの理解を超える事実であると思います。しかし、私たちの理解を超えるといっても、信仰があればそのイエス・キリストがもたらされる命を味わう、経験することができるのではないかなと思います。ですから、イエスは「ラザロの墓から石を取りのけなさい」と言います。つまり、墓にいるラザロ、不信仰に置かれているマリア、マルタの「石を取りのけなさい」ということです。
様々な形で私たちも墓に置かれています。不信仰であったり、罪であったり、その状況が墓を表しているのではないかなと思います。その不信仰、罪から引き上げてくださるのは神様です。その神様に耳を傾けて、その力をいただいて、私たちをますます変容してくださる存在です。ここでイエス・キリストが語る復活というのは、肉体的な復活だけでなく、霊的な復活でもあると思います。だから、特に福音箇所で読まれた物語は、徐々に徐々に、マリアが不信仰から信仰に、「あなたが信じるなら、神様の栄光を見ることができる」ようになったということなんですね。それぞれの形で私たちはこの墓に置かれている状況にいるんですけれども、その神様の恵みですね。イエス・キリストがもたらされる新しさ、その復活を経験するためにこの信仰が必要であると思います。この世界を見ると、暴力であったり、戦争であったり、不正義であったり、差別であったり、様々な形で墓のように置かれている私たちなんですね。この状況から救ってくださるのが神様であるということです。まことの平和、まことの幸せ、まことの復活をもたらされるのは私たちの努力ではなく、力ではなく、武器ではなく、神様であるということです。
この四旬節にあたり、私たちは回心ということを願っていると思います。そして神様と共に復活することができるようにということを願っているんですけれども、単なる個人的な次元ではなく、社会的な次元も復活がありますように、このミサを捧げたいと思っています。
四旬節第4主日
ハビエル・ガラルダ 神父
この福音は綺麗ですし、第二朗読の聖パウロの「光の子として歩みなさい」ということも美しい。でも私はあまのじゃくですので、第一の朗読についてご一緒に考えてみたいと思います。第一朗読のサムエルの7節、神の目で深く物事を見るようにしましょうということについて考えてみたい。
書いてあることですが、主は人間が見るように見ない。人間は容姿や背の高さを見る。神は心を見る。綺麗ですね。人間は外側を見るんですね。容姿、恰好、肩書き、財産、それを見る。神様、イエス様は心を見る。思い出しましょう。1つの例ですけれども、やもめの出来事がありますね。あの人は20円ぐらいしか入れなかった。前の人は5万円ぐらい入れていた。でも、イエスは額を見ない。心を見る。その未亡人の心を見て、前のみんなより入れました。他の人は有り余る中から、褒められるためにしていた。この人は持っているもの全部でした。心を見る。額を見ない。
ちょっと脱線ですけれども、私たちは数字を見すぎるんです。リルケ、ご存じですね。あの思想家で詩人であるリルケがこのような言葉を書きました。「本当に大切なことの価値を評価するためには、数字を基準にしないでください」。いいですね。似たようなことは星の王子さまが言いましたね。「私は大人になりたくない。大人は数字しか何も分かってない。大人に向かって、『私たちは友達で、昨日遊びに行ったんです』『何人でしたか』。いつも数。それはどうでもいいじゃないですか。『すごく綺麗な家を見たんです』『どのくらい大きいですか』。そして『美しい絵を見たんです』『いくらですか』。いつも数字ですね。大人になりたくない。数字よりも価値のあるものがあるんです」。
確かにこれに対してみんな考えてらっしゃるでしょうか。数字がなければ何もできないんですね。銀行はどうしますか。建築の会社はどうしますか。すべては数字で、私たちの日常生活も数がなければ生きていられない。でも、イエス様が言った言葉です。本当に大切なことは神の国を求めることです。まず、神の国を求めなさい。あとのことは、つまり数字で評価されることは何とかなります。いっぱい働けば何とかなりますけれども、本当に大切なことは、みんな愛し合って生きるという神の国を求めることです。
脱線しましたけど戻ります。ですから、まず心を見るんです。そして神様は隠れた行いを見るんです。隠れた良い行いを見ます。施しをする時には見られないようにしなさい。隠れたところを見ている神様が、あなたの隠れた行いを見て報いを与えてくださる。断食する時にも見られないようにしなさい。神様が隠れたことを見るので。そして祈る時には部屋に入って誰もいないところで祈りなさい。神が深いところを見るので、報いを与えてくださるであろうというんですね。ですから、神様は心を見る。そして隠れたことを見る。私たちも神の目で物事を深く見ることにしましょう。
「カラマーゾフの兄弟」というドストエフスキーの作品がありますね。その中にはゾシマという老人、長老が出てきます。彼が言った言葉ですが、「あなた方は人間と自然を深く見れば、自分なりに神を感じるでしょう」。私たちもこういうふうにしましょう。神の目で、人間と自然を深く見ることにしましょう。ところが人間を見るときには、その人があまり好きじゃないとしますね。あるいはその人の欠点が頭に来ているとします。でも、その人の隠れた良い行いを想像してください。その人の立場から物事を見るようにしなさい。そしてその人は、ただ港を探している小舟にすぎないということも考えてください。威張っているように見えるけども、結局は小さな港を探している小舟にすぎない。そしてその人の心の涙を見るようにしなさい。こういうふうに人間を深く見る。自然を深く見る。
ところが深く見るということは、一生懸命に見るということではないんですね。緊張して「よし、見るぞ」ということではない。力を抜いて、力を緩めて見なさい。どういうふうに見ればいいのでしょうか。心を込めて感謝しながら、喜んで見るんです。こういうふうに見ればいい。心を込めて、つまりその自然を、あるいはその人を愛して、大切にして、感謝しながら。喜んで、心の喜び、心が望む喜び、心を満たす喜び、心から湧き出る喜び、奪われない喜びで見るんです。そういうふうに神を感じるでしょう。
これを確認する美しい物語があります。ご存じのことと思いますが、昔々その昔、ある村があった。その村には弓の形の浜、弓ヶ浜があって、その中に小さな島があって、その島の上に綺麗な神殿があったんです。その神殿にはたくさんの鈴、小さな鐘、ベルがたくさんあって、海の風が吹いてくる時には綺麗な音を出していた鈴です。この神殿はその村の喜びと誇りであったのです。ところがある日、突然すごい地震が起きて、その島が海の中に沈んでしまって、神殿もそうです。それで鈴の音が聞こえなくなりまして、村人は非常に悲しんでいました。しかし長老たちは、じっとして聞こうとすれば、海の中から鈴の音が聞こえてきますと言っていました。
その伝説を聞いて、ある外国人の青年が遠いところからわざわざ来て砂浜に座って、「よし、見よう、聞こう」と、じっとして見ようとしたんですが、なかなか聞こえなかったんですね。いろんな邪魔があったんです。波の音は邪魔になって、雑音になって聞こえなくなった。そしてまた木の葉っぱの音も邪魔になりまして、近所の小学校の子どもたちの笑い声も雑音になってなかなか聞こえない。もう1週間ぐらいいたのに聞こえないので、諦めて帰りましょうと言った。でも最後の日には、今度は聞こうと思わないで、思う存分にただ自然を味わうことにしました。浜辺に座って、ああ、波の音は美しいですね。いいですね。そして葉っぱの音が綺麗ですね。明るくて。ああ、いいですね。そして子どもたちの声がかわいいですね。明るくていいですねと感じているうちに、静かに鈴の音が聞こえてきましたという話です。
ですから、一生懸命に深く見るのではなくて、心を込めて、感謝しながら喜んで見ることにしましょう。そうすれば自分なりに、神が私たちと一緒にいらっしゃる、抱きしめてくださることを信じて明るく生きることができるでしょう。これを願い求めましょう。
四旬節第3主日
柴田 潔 神父
3/8(日)10:00- 四旬節第3主日 子どもとともにささげるミサ
教会学校のお友達は、井戸って知ってますか?知ってる?井戸は地面を深いところまで掘って、底の方にお水が湧き出るところです。
今日読まれた聖書の井戸は、ヤコブが一番かわいがっていたヨセフに与えた、とても有名な井戸です。イエス様はサマリアの熱い中をてくてく歩いて、喉がカラカラになっていました。みんなは喉が渇くと何が欲しいですか?そう、水ね。水が欲しくなりますね。サマリアの女の人もね、水を汲みに来ました。その女性は心も渇いていました。心が渇くってわかる?どういう時に心が渇くかな。リーダーだったら、失恋した時とか心が渇くかもしれないね。みんなはどうだろうね。お友達と喧嘩した時、お母さんに叱られた時かな。欲しいものがもらえなかった時かな。この女性はね、お家の人と喧嘩をして心が渇いていました。じゃあ、心が渇いた時にどうしたら「命の水」をいただけるか。今日はね、その話をしています。
まず、そのためのヒント。これ知ってますか?どこにありますか?そうね、聖堂に入るところにありますね。聖水盤って言います。聖堂に入る時に、この上の方のお水にちょんと指を浸して、「父と子と聖霊のみ名によって」と言って聖堂に入っている方はどれくらいいますか?大人の皆さんも含めて。ああ、割と少ないですね。これからはね、この聖水盤でちょっと水をつけてからお御堂に入りましょう。そうすると心が整えられるんです。「これから神様とお話しします。神様に感謝します」とか、「今、ちょっと辛いんです」とか。そういう神様とお話しをする時の準備です。この聖水というのは、神父様が特別にお祈りをして、祝別して聖水になるんだけれども、このお水を額にかけてもらう時があります。「父と子と聖霊のみ名によって」3回、額にかけてもらう時があります。それは何の時でしょうか。そう、洗礼の時ね。その洗礼の時を思い出すためにも、この聖水を指でつけて「父と子と聖霊のみ名によって」とお祈りをします。
じゃあ、この聖水盤で「父と子と聖霊のみ名によって」とお祈りしたら「命の水」がいただけるかというと、やっぱりね、もう少しやることがあります。復活祭に洗礼を受ける小学2年生のお友達に「どうして洗礼を受けたいの?」と聞いてみました。少し考えてから、「いつも神様が一緒にいてくださると分かったから」と言われました。「神様がいつも一緒だから大丈夫。安心」というのも「命の水」なんだね。昔、アウグスティヌスという偉い神学者がこうお話ししていました。「人間は神様に出会わないと心が渇いたままです。神様と出会って幸せになれるように人間はつくられています」。神様と出会ってお話しをして、「命の水」を私たちはいただきます。女の子はそのことに気づいて、洗礼を受けたいという気持ちになりました。
では、大人の私たちはどんな時に心が渇くでしょうか。株が下がったとか、そういう時でしょうかね。そういう時かもしれませんけれども、もうちょっと生きる根源と言いますか、深いところで「どうして人間は生きているのか」「人生これでいいんだろうか」、そういう不安があった時、心が渇いてきます。そんな時にペットボトルの水をごくごく飲んだら心の渇きが癒されますか?癒されませんね。お水を飲んでも、お酒を飲んでも渇きが癒されません。 神父さんの場合は、「主よ、憐れみたまえ」「キリスト、憐れみみたまえ」というお祈りを何回も何回も繰り返します。「イエスのみ名を唱える祈り」って言うんだけれども、昨日発刊されたマジスの3月号に「聖年とみことば」のシリーズがあります。この6番目に神父さんのお話が載っています。絶えず祈るにはどうしたらいいか、というお話なんだけれども、「主よ、憐みたまえ」「キリスト、憐れみたまえ」と、お仕事をしている時も、ベッドに入っている時も繰り返し繰り返し唱えているうちに、神父さんも弱いなとか、あれもできてないなとか、自信がなくなった神父さんをイエス様は助けてくださいます。
「命の水」。みんなは「命の水」をもらっている?なかなかね、どこでもらうのか難しいんだけれども、聖堂に入る時に聖水盤に「父と子と聖霊のみ名によって」とお祈りして、まず聖堂に入って心静かにして神様に感謝する。そして「主よ、憐れみたまえ」「キリスト、憐れみたまえ」そういうお祈りをする。すると「命の水」がみんなの心の中に湧き出てきます。それは一人だけではなくて、今ね、600人、700人の人たちがお祈りしているけれども、一人ひとりがお祈りすると、教会全体の中でも「命の水」が湧き出てきます。そんな気持ちでね、これからミサに来てほしいし、みんなそれぞれ「命の水」をいただいていきましょう。
四旬節第2主日
髙祖 敏明 神父
今、3つの聖書の朗読を一緒に聞きました。第一朗読のアブラハムへの祝福が福音書のイエス様のお姿が変わるということで、こういう形の祝福になるんですよという、第一朗読と福音とを読み合わせるような、そういう組み合わせになっているかと思います。先ほど唱えました集会祈願「聖なる父よ、あなたは『愛する子に聞け』とお命じになりました。みことばによって私たちを養ってください。信仰の目が清められてあなたの顔を仰ぎ見ることができますように」という祈りですので、今日このみことばを味わうということを試みてみたいと思います。
第二朗読のテモテへの手紙ですけれども、その中に「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくだったのは、わたしたちの行いによるのではない」。自分が何かいいことをしたから神様がこういう恵みをくださっているのではない、神ご自身の計画と恵みによるのです。ご計画も恵みも神ご自身から賜るものだと。その神ご自身の計画と恵みは何ですか。「永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた」。どういうことかというと、最後に書いてありますように「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現わしてくださった」。そこに神様の計画と恵みがある。ですからこのパウロの説明によりますと、救い主イエス・キリストの出現の前と後の2つの段階で神様の計画、恵みが実現しているというふうに読むことができます。
では、イエス様が登場する前、今日はアブラハムのところに集中して第一朗読は書かれていますけれども、アブラハムが主の招きに応えて生まれ故郷、父の家を離れ、主の言葉に従って主が示される地に向けて旅立ったことから始まる。救いの歴史がそこから大きく動き始める。そして、アブラハムが神の民の先祖になるということ。主の計画としては「わたしは主である。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し…祝福の源となるようにする。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。皆様のお手元の聖書と典礼には、「アブラハムとその子孫を選んだ神の救いの計画の目的はすべての人に祝福をもたらすこと」だという説明が書かれています。アブラハムのこの選びは、そういう神様の計画が大きく動き始めたということを私たちに伝えています。
でも、アブラハム以降のイスラエルの歴史を見てみますと、大いなる国民にする、祝福を与えるという意味内容をどう捉えていたか、3つの点から説明できるかと思います。1つは、血のつながった子孫が増え、それが選ばれた民となり、大いなる国民へと育ち繁栄するということ。2つ目は、主が示される乳と蜜の流れる約束の地を得て、国として発展し繁栄すること。具体的な場所を持ってそこが発展の根拠地になるということ。3つ目、今日のところに出てきませんけれども、割礼を受け律法を授けられた選ばれた民になっていく。その選ばれた民を通して、他の民・異邦人が神の祝福に与るということ。ただ、イスラエルの歴史、旧約聖書を読んでみますと、自分たちは選ばれた民だというこの選民意識が強くなりすぎたこともあって、異邦人、割礼を受けていない民、律法を知らない民は哀れな奴だという、そういう言葉で差別するようなことが旧約聖書の中ではたびたび出てきますし、福音書の中でもそういう選民意識と異邦人差別というか、これを読み取ることができます。
今日の福音で読まれた主イエスのご変容は、そういうものを完成させる姿を描いています。「モーセは律法を、エリヤは預言者を代表し、『律法と預言者』で旧約聖書全体を表す」と聖書と典礼に書いてありますし、主のご変容は、十字架を通って栄光に至るイエスの道に弟子たちを招くもの。ですから、祝福ということは、十字架を通って栄光に至るイエスの道、そこに弟子たちを招いていくことだというふうに見ることができます。
では、アブラハムと一体これはどう関係しているんですか。主イエスが復活した後、聖霊降臨がありました。その後、使徒行録によればペトロが説教していますけども、その中でペトロがこういうふうに説明しています。「あなた方(イスラエルの民)は預言者の子孫であり、神があなた方の先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われた。それで神はご自分の僕、血のつながりになって流れてくるイエスを立て、まずあなた方のもとに遣わしてくださった。 それはあなた方一人ひとりを悪から離れさせ、その祝福に与らせるためでありました」というふうにペトロが説教しています。
実際に新約のメッセージの基本といいますか、土台になっていることは、地上のすべての民がアブラハムを通して祝福されるという約束、希望は、アブラハムの子孫イエス・キリストをもって実現されたというのがこの新約のメッセージですし、福音はそれを私たちに告げています。ペトロはそれを受けて私たちに説教をしているわけです。
では、救い主キリスト・イエスが出現した後の時代、先ほどの祝福の意味がどのように変わり深められたのでしょうか。1点目の「血のつながり」ということに対しては、水と聖霊による洗礼によって新しく生まれ、神のみ旨を行う兄弟姉妹、血のつながりを超えて、水と聖霊による洗礼を受けること、そして神のみ旨に従って生きていこうという、それがイエスにとっての兄弟姉妹であり仲間なんだ。それが祝福を受ける大事な要素になっている。
2つ目の「選ばれた民、約束の地を得て国として発展し、繁栄する」ということに対しては、私たちはこの世のどこかで生まれていきます。しかし、この世に生まれた人間が場所だとか時間を超えた神の国、父と子と聖霊の交わりであるこの新しい命である神の国に入っていくということ。この国のどこかの場所に限定されない、時間的にも限定を受けない、それを「永遠の」という言葉で言っていますけれども、新しい神様の命に与る仲間ができていく。
3つ目、「割礼を受け、律法を授けられて選ばれた民」ということに対して、アブラハムの子孫イエス・キリストの救いのわざによって、人種や国籍の違い、性差や社会的身分に関係なく、万民・すべての人が神の祝福に与る道が開かれた。誰も排除されない、全ての人が招かれているというメッセージ。
その祝福に与るためには、イエス・キリストを救い主として認め、悔い改めて福音を信じること、そして洗礼を受けてキリストの死と復活の神秘に与ること、それが求められていますけれども、それは義務というよりも招きです。それに応えるか応えないかはその人たちの自由に神様は任せておられます。しかし、そういうことを思いながら、今日の福音で言われたご変容の時に天から声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」というこの言葉が、今ずっと私が話してきたことから言うと、だからこそ「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」というふうにおっしゃっているんだなということが分かるように思います。
信仰の目が清められて、神様の顔、父の顔を仰ぎ見ることができるよう、今日のこのみことばによって私たちも養っていただきましょう。みことばとご聖体によって養っていただくというのが、このミサの大きな私たちへの恵みになっています。みことばに養っていただきながら、その味わいをもってパンとぶどう酒の感謝の祭儀に移りたいと思います。
献血にご協力をありがとうございました